ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
小学校に上がったばかりの頃のお話です。
桐ヶ谷和人の職場である研究所での一日の行動はほぼパターン化されている。
同じ所員達の中には時間にルーズな者も少数派ではあるが存在していて、一見、その手のタイプに見える和人でも、意外に出勤時間にそれほど幅はない。
一度、後輩所員が「ちょっと意外ですよね」と失礼な口をきいた事があったが、その感想に対し和人は機嫌を損ねた様子もなく「家に誰も居ないのに、オレひとり居ても仕方ないだろ」としごく当たり前のような、それでも和人が言うとそんな凡人じみた答えも予想外で「なるほど」と妙に深めな納得の声が後輩の口から転がり落ちた。すると隣にいた和人と同期の松浦がすかさず足りない言葉を付け加える。
「要するにですね、最愛の奥様と息子さんが通勤、通学の為に家を出る時間が一緒なので、家に一人取り残されるのが嫌で桐ヶ谷もこの研究所にやって来る、というわけです」
「……それ聞くと、もし奥さんがずっと家に居たら、桐ヶ谷さん、在宅で仕事しそうなんですけど……」
ICT(情報通信技術)が発達している今の時代ならばそういったリモートワークタイプも珍しくない。現にこの研究所でもある程度仕事内容は限定されてしまうが地方や海外にいながらネットを通じて働いている者も存在している。
「そうしたい気持ちもゼロではないでしょうが、まぁ大丈夫ですよ。桐ヶ谷もこの研究所でやりたい事があるようですし、何より奥様がそれを望んでいますから」
「んーで、昼飯は毎日栄養満点、彩り満載、でもって想像ですけど味付けプロ並みな、その奥さんの手作り弁当を食べてる、と」
「そうです。だから桐ヶ谷は泊まりがけの仕事や出張の時、機嫌が悪いでしょう?」
「いや、機嫌が悪いなんてレベルじゃないですって、松浦さん。はっきり言って殺気だってますよっ」
「そうですか?、僕は桐ヶ谷の集中力も上がるし、周りのスタッフもつられてポテンシャルが上がるから、いいと思ってますけど」
「マジで言ってます?、あれ、つられてるんじゃないですからっ。自分の凡ミスで桐ヶ谷さんの足引っ張ったら殺さ(やら)れる、って全員ビビリまくって神経研ぎ澄ませちゃってるだけですからっ」
「そうだったんですか……でも結果的に桐ヶ谷がチームリーダーのプロジェクトって効率高いですしね」
終わりよければすべてよし、みたいな感じで締めくくられて後輩所員はガクリ、と肩を落とした。
「だから結果論ですよ、それ」
「まあ、うちの所員でも桐ヶ谷の仕事ぶりを見て自信を喪失する者と憧憬を抱く者とで極端に別れますが、毎回桐ヶ谷がメインのチーム編成で筆頭に名前が上がる君は色々な意味で有能な証拠ですよ、麻倉クン」
「オレ絶対、緩衝材役ですよねっ。なんか下僕体質の誤解を受けてるんであんま嬉しくないです。それにオレが桐ヶ谷さんに抱く感情はどっちかって言うと畏怖なんで。でも仕事を終えて家路に就く桐ヶ谷さんはもう普通の人に戻ってるから不思議ですよねぇ」
「そりゃあ家では奥様が待っていますからね」
穏やかな笑顔で言いきる松浦に麻倉が安心と呆れと尊敬する先輩の奥様への感謝の念を抱きつつ「……オレも結婚、したいですよぉ」と悲願を呟いた日から約半年後、和人は自らそのパターンを破る決意をすることになる。
昼食時、いつものように研究ブースからスタッフルームに戻って来た和人は自分のデスクに腰掛けるとルーティンとなっている携帯端末の画面チェックをする。
その隣では朝からデスクワークでずっとスタッフルームにいた松浦が特に顔も向けず飲みかけのコーヒーが入っているカップに手を伸ばしながら「お疲れさま、桐ヶ谷」と声をかけた。この研究所に就職し、研修期間に使用していたマンションの部屋割りでも「おとなりさん」だった二人はそれ以来ずっと職場で「おとなりさん」関係を続けている。
と言っても、常にべったり、というわけではない。互いに所内でも優秀な人材であるが故に同じプロジェクトに配された事はないし、第一、和人は就職してすぐに妻帯者となったのに対し、松浦は未だ独身貴族を望んで貫いているから生活スタイルもかなり違う。それでも新婚の熱が冷めれば仕事仲間との退勤後の時間の共有も多くなるかと思われたが、和人に至っては未だ熱が冷める気配すらないし、松浦は松浦で「来る者拒まず、去る者追わず」の女性関係のせいで、これまた退勤後は色々と予定のある日が多いのだ。
だから「仲が良い」二人、という言葉もしっくりこない。互いの本質を理解しているが、けれど必要以上に踏み込んではいかない距離感がなぜか出会った当初から自然とわかったのだから、どちらかと言えば「波長の合う」二人なのだろう。
現にPC画面を横目に見つつコーヒーカップを口元に運びながら自分の発した労いの言葉に何の返答がなくても松浦は気分を害したりしない。昼休憩で自分のデスクに戻ってきた和人はまず端末画面に映し出されているフリップの位置をチェックして、それから持参した弁当を大事に取り出し、蓋を開けて「いただきます」と言ってから、周囲に気を配るからだ。
しかしこの日の和人は違っていた。
端末を見つめ、画面上の地図倍率を操作し、広域へ、広域へ、広域へと表示範囲を広げ日本全土をチェックしてから画面を凝視したまま「ま……つうら」と頼りない声で「おとなりさん」の呼ぶ。そこでようやく異変に気付いた松浦は和人へと顔を向けた。
「どうしたんです?」
この数秒で一気に血の気の失せた和人の顔がゆっくりと動いて松浦と視線を合わせる……かに見えたが、その焦点は実はどこにも合っていない。
「明日奈が……」
「明日奈さんが?」
「……明日奈がどこに居るのかわからないっ」
ガバッ、と身を乗り出して愛する妻の名を口にしたら内側で真っ白になっていた思考がようやく意識や感情と直結したのか、和人の焦りと悲壮感をごちゃ混ぜにした顔が迫ってくるのを「う゛っ」と身体を仰け反らせる事でなんとか距離を確保した松浦が無言で瞬きを数回繰り返した後、静かに「桐ヶ谷」と口を開いた。
「落ち着いて下さい。いちを言っておきますが、勤務先にいる夫が妻の居場所を把握できないなんて世間一般では当たり前の事です。それをいくら十代の頃からのお付き合いだからと言って桐ヶ谷の端末への表示を今も許している明日奈さんが寛容すぎるんですよ。明日奈さんだって不可視にしたい時くらい……」
「今まで一度もなかった」
「そ、そうですか……でも、通信状況が悪い場所にいる可能性だって……」
「地下シェルターや海底トンネルはもちろん、上空は通常の旅客機が飛ぶ高度までなら受信できるよう設定してある」
「……桐ヶ谷」
「それに今の明日奈なら飛行機には乗らないはずだし」
「どうして言い切れるんです?、急な仕事で、という可能性だってゼロではないでしょう?」
「仕事は……辞めたんだ」
「え?」
予想外の答えに松浦が言葉を詰まらせると、今はそんな話をしている場合じゃない、と苛ついたように片手で髪を掻きむしった和人が握りしめていた端末に「ユイっ」と呼びかける。いつもならすぐに「はい、パパ」と返ってくる愛らしい声はいつまで経って聞けず、代わりに一通のメール着信音が響いた。短い文章を一読した和人が、スッ、と表情を引き締める。
すぐそばの松浦はそれを見て僅かに口元を緩め「ああ、起動したな」と和人の頭脳がフル稼働を開始した事を悟った。
端末を片手で高速操作しながらザッ、と立ち上がると同時に白衣を脱ぎ、椅子の背に無造作にかけた和人はデスクの横から鞄を取り上げると用が済んだ携帯端末を突っ込み、すっかり帰り支度を整えてから松浦に振り返る。
「早退するから後は任せる」
「だと思いましたよ」
手に持っていたコーヒーカップを所定の位置に戻した松浦の表情は和人がスタッフルームに戻って来た時同様、通常モードに戻っていて、唯一の違いは「早くお行きなさい」と視線も寄越さずにたなびかせている手だけだ。退勤時刻まで待てと言っても聞きはしないだろうし、強制しても今の精神状態では使い物にならないのが確実だから、それなら問題を長引かせず早期解決の道を選ぶのは当然だろう、と松浦は後を任された責任を果たすべくさも当たり前のようにチームリーダー不在の穴を埋める為、和人の下僕的後輩の呼び出しをかけたのである。
『ちゃんとママを迎えに来てくださいね、パパ』
和人が職場でユイを呼び出そうとして応答の代わりに届いたメールの文章は間違いなくその愛娘からのもので、「迎えに行って」ではなく「迎えに来て」という表現からちゃんとユイが明日奈と一緒にいるのだと読み取った和人はひとまず安心して、すぐに妻の現在地特定に思考を切り替えた。緊迫感のない文体は危機的状況に陥っているのではないと判断できるし、何より寄越したメールの発信元が明日奈の携帯からなのだ、その場所を辿るなど和人にとっては朝飯前の作業である。
きっと居場所を明かしたくない明日奈の気持ちを尊重したユイが、それでも、と考えたのだろう。
「本当にユイはできた娘だよ」
機転の利く母親(明日奈)の影響に違いない、間違っても父親である自分にこんな気の利いた真似は出来ないしなぁ、と飛び乗ったタクシーの後部座席で僅かに苦笑した和人だったが目的地に近づくにつれ、不安がじわじわと心に広がり始めた。
松浦に明かした通り、明日奈が自分の携帯の位置を不可視にするなど今回が初めてなのだ。その位、今朝のやり取りにショックを受けていたという証で、けれどその件に関しては和人も引く気はない……引く気はないが、それでより明日奈にストレスを与えてしまうのも本意ではなかった。
「ちょうど相談できる相手がいるのも助かるな」
タクシーを降りた和人は明日奈の姿を早く確認したい気持ちと同時に、朝、逃げるように家を出てしまった後味の悪さを引きずりながら彼女が居ると思われる住居のインターフォンのボタンを押す。
インターフォンからの応答はなかったが、カメラ越しに和人の存在を確認したのか、それとも既にユイがここの住人に和人の来訪を予告していたのか、カチャリ、と細く玄関ドアが開きその隙間からまさにジトッとした湿っぽい半眼がこちらを睨み付けてきた。その物言いたげな鈍い眼光に片方の頬をヒクつかせた和人はそれでも気を取り直して無理矢理笑顔を作る。
「よ、よぅ、リズ、久しぶり…………あー、アスナ……来てる…よな?」
「来てるわよ、和真と一緒に」
「和真と?……あ、そっか、今日は土曜だから学校、休みか……」
「って言うか、和真とユイちゃんがアスナを連れてきたようなもんよ」
「はっ?、和真とユイが?」
明日奈の存在に安堵した瞳が一気に見開かれる。しかしその反応に玄関扉をバンッ、と勢いよく開け、噛みつきそうな剣幕で和人の目の前に顔を突き出したのは里香だった。
「そうよっ、アンタっ、なんでアスナにあんな事、言ったわけっ?」
「と、とりあえず、中に入れてもらってもいいか」
玄関先で相応しくない音量と声量に、はたっ、と里香も気付いたのだろう素早く隣近所の様子を見回してから、はぁっ、と大きく溜め息を吐いて気を落ち着かせ、今度は静かに「どうぞ」と言って身体を横にずらし自宅内へと招き入れたのである。
久々に訪れる里香の家だったが、それこそ今日が土曜日だと認識した和人はその静寂ぶりに疑問を抱く。
「リズだけなのか?」
「ええ、旦那と子供は今日明日と泊まり込みで『親子でワクワク!ドキドキ!サムライ体験ツアー!!』に参加してるわ」
「……相変わらずだな」
「そうね。ウチはね。問題はアンタんとこよ、キリト」
リビングに通された和人がまず目にしたのは、ソファの上で丸く横たわり、すーぴー、すーぴー、と無垢な寝息を立てて寝入っている小学生の息子の姿だった。
「和真……」
「ここまで明日奈を連れて来て疲れたんでしょ。ウチの子と違って繊細そうだものね、和真は。いちを事前にユイちゃんから連絡は貰ってたけど、玄関を開けた時のアスナと和真の状態、すごかったわよ」
「すごい、って?」
「もう、アスナは半泣き状態だし、そのアスナの腕を両手でしっかり支えながら一生懸命慰めてる和真だって泣き出したいのをギリギリで我慢してて……」
「っ……そうだっ、で、今っ、アスナは?!」
「奥の和室でちゃんと布団敷いて寝てるから大丈夫」
家人に断りもなく勝手に奥へと駆け出してしまいそうになる和人を里香が「こら、待て」と飼い主のごとき言い方で引き留める。
「とにかく説明しなさい」
親友の明日奈の事となればかつてSAO最強と謳われた黒の剣士を相手でも一歩も怯む気配のない里香に視線を合わせられず、和人は和室に一番近いソファを選んで腰を落とした。とりあえず話の出来る状態になった事で里香もやれやれと一仕事終えたように肩をほぐしてキッチンに向かう。
「お茶いれるわ、アスナみたいに上手じゃないけどね。あ、それとも何か軽く食べる?、この時間にウチまで来たって事は、お昼ご飯、食べてないんでしょ?」
「お茶だけでいい。昼飯は……アスナが作ってくれたのがある」
「ああ、今回の原因ね」
すっかり客をもてなすモードに落ち着き、対面カウンターの向こうのキッチンでカチャカチャと音を立てている里香に和人は改めて「リズ」と話しかけた。
「和真のやつ、どうやってここまでアスナを連れて来たんだ?」
今までに何度か母親の明日奈に連れられて遊びに来ているのは知っているが、それでもバスや電車を何回か乗り継がなくてはたどり着けない場所だ、小学生になったばかりの和真が記憶していたとは考えにくいし、そもそも半泣き状態の明日奈を公の交通機関を使って移動させるなどユイが止めるだろう。和人の心配の内容に気付いた里香が二人分のお茶を用意して「タクシーに決まってるでしょ」とリビングにやって来る。
「ちゃんとユイちゃんが女性ドライバー指定でタクシー呼んで、ウチの住所も和真の携帯の通話口からユイちゃんが告げたそうよ。当然、ここまでの支払いは端末決済にしたそうだから」
うひひっ、とうねる里香の眉毛に反して、和人の眉は、げげっ、と中央に寄った。
和人と明日奈の家から里香の家まで、ドア・ツー・ドアなら結構な金額を支払う距離だ、加えて自分もさっき研究所からタクシーを飛ばしている。それに予定という名の確定事項だが、明日奈の目が覚めれば今度は親子三人で我が家に戻るのだ、和人としては一刻も早く明日奈を連れ帰りたいので移動手段はタクシー一択である。今日一日だけでかなりの交通費を費やすことになりそうだと脳内で計算していた和人だったが、それも今回はやむを得ないだろうと早々に加算を放棄する。明日奈が行方をくらました先が互いの実家である結城家や桐ヶ谷家だったら、これほどすんなりと敷居をまたがせて貰えないのは容易に想像がついた。怒って、拗ねて、泣いても結局は和人が探しに来やすい場所に逃げ込むのだから、意地を通そうとしていた和人も「仕方ないな」とタクシー料金と自分の気持ちの譲歩を受け入れる。
困った口ぶりのくせにその顔は嬉しそうに笑っていて、とりあえず和人の中で問題の決着が着いたのだと察した里香が「ホント、いい加減にしてよね」とわざとらしく両肩をすくめた。
「学校が休みだからって寝坊して起きてきた和真がリビングでハンカチ握りしめて鼻を啜ってるアスナを見てパニクったらしいわよ。理由聞いても首を横に振るばかりで、和真がユイちゃんに助けを求めた後は二人してアスナを慰めてたらしいんだけど、いきなりアスナが私ンとこに行くって言いだして。それからユイちゃんが『パパにメールでお知らせしておきましょう』って言った途端、アスナが自分の携帯をいじって位置情報のアプリを切ったらしいわ」
これがウチに来てから和真とユイちゃんから聞いた話ね、と一旦話を切った里香はずずっ、とお茶を啜った。
「ウチに到着したのは十一時頃だったかしら……玄関を開けて顔を合わせた瞬間、嗚咽混じりでウルウル状態のアスナの放った第一声が『キリトくんが私のお弁当、もういらないってぇー』よ。それ聞いて和真も泣き出すし。そん時、私がどれだけ大変だったかわかるっ?!」
「う゛っ……」
「一体どういう事なの?、アスナのお弁当の何が気に入らないのよ。アスナはアンタが飽きちゃったんだ、って言ってたけど」
「なわけないだろっ」
それだけは誓ってないっ、と和人は前のめりに身体を倒した。確かに十代の頃から明日奈の料理を堪能し続けているが、その腕は停滞することなく和人の好みの味付けという範囲内で常に進化し続けている。中でも体調に合わせ、季節に合わせ、細やかな気配りが凝縮されているおかずが詰まった弁当は仕事の上での和人の原動力と言っても過言ではなく、その存在にはバフ効果があるのでは?、と所内でまことしやかに噂されているほどだ。
けれど和人が説明をしようと口を開きかけた時、耳が微かな声を拾う。
「っアスナ」
素早くリビングの奥へと首を巡らせた和人は里香が制する間もなく立ち上がり、今度こそ和室へと続く障子を開け、むくり、と起き上がりかけている明日奈の元へ駆け寄った。寝起きで僅かにふらつく身体に腕を回し、未だ虚ろなはしばみ色の瞳を覗き込む。
「アスナ、気分は?、気持ち悪くないか?、吐き気は?、目眩や頭痛があれば病院へ行った方が……」
「……キ……リト……くん?」
寝起きと泣いたせいで目の腫れぼったさから霞む視界にぼんやりと黒髪が映り込む。その色の持ち主は頭で考えずとも一人しかいなくて、明日奈は至近距離にいる存在を見定めようと目を擦って、けれど意識がしっかりと覚醒する前に今朝の記憶がむくむくと蘇った。
「ううっ、キ、キリトくん、もう……もう、いらないって…………私……を、いらないって…………ふぅぇぇっっ」
「ちょっと待ったっ、アスナっっ。なんでオレがアスナをいらないって話になってるんだっ」
「いらないっ、て言ったもんっ」
「言った、『いらない』は言ったけど、それは弁当の話だろっ」
「やっぱり……もう、飽きちゃった?……飽きちゃったんだぁ……私…………を」
「飽きてないっ、飽きてないっ、飽きてないからっっ。アスナが作ってくれる弁当はもちろん、アスナに飽きるなんて一生ないっ」
あの鋼鉄の城に囚われていた時、アスナと二十二層の森の家で生活するようになってから三日目、キリトはしみじみ実感したのだ「『美人は三日で飽きる』なんて大ウソじゃないか」と。結局その言葉の「三日」は「三ヶ月」の間違いでもなかったし、「三年」の間違いでもなかった。きっと「三十年」の間違いでもないんだろう、と和人は思っている。
明日奈の口から涙と共にこぼれ落ちてくる言葉はことごとく「弁当」の文字が抜け落ちていて、和人がオロオロしながらも必死に「いらない、って言ったのは『アスナが作ってくれる弁当を』だからな」と言い聞かせている光景を見ていた里香は腕を組んで軽く障子に寄りかかったままひとつの推論に辿り着いた。
「ねえ、キリト。そこまでアスナが情緒不安定なのって……もしかして…………」
早くもぐすぐすと鼻をならし始めている明日奈の頭を抱え込み、その背中をゆるく撫でていた和人が顔を上げて少し言いづらそうに言葉を詰まらせる。
「あ、ああ……本当は来週末、アスナの口から伝えるつもりだったんだけど……」
和人が言った「来週末」というキーワードに思い当たる事と言えば、半年以上ぶりにほぼ全員の予定が合った御徒町のダイシーカフェでの集まりだろうと里香は黙って頷いた。
「七年前はオレしか参加できなかっただろ。だから今度は一緒に行けそうだって、アスナ、楽しみにしててさ。和真を身籠もってた時だと、もう今くらいの頃には入院してたからな。けど今回は体調もそれほど悪くならなくて、仕事も退職してるから家でゆっくりしてたんだけど……」
「だったら尚のことお弁当作るのに問題ないじゃない」
「それが、二、三日前あたりから気持ち悪そうにしてる回数が増えて……」
里香は自分にも覚えのある感覚に、ああ、と気の毒げに眉尻を下げ「だから作らなくていい、って言ったの?」と逆に問いかける。
「ああ。今朝だって起き抜けにトイレに行って……けど、そんな状態なのに弁当作るってきかないんだ」
責任感が強くて妙なところで意地っ張りな明日奈のことだ、仕事も辞めて家にいるのにお弁当作りすらしない自分は許せないのだろう。
「ヘンに無理して和真の時みたいに入院生活になるなら、オレが弁当を我慢すればいい話だし……」
「それ、ちゃんとアスナに伝えた?、キリト」
「朝は時間がなかったから、とりあえず『明日から弁当はいらない』って言ったら『作る』『いらない』の押し問答になって……」
「アンタね……今のアスナにそれだけで理解しろ、って、無理でしょ。それにね、アスナにとっても得意の『頑張る』を我慢しろ、って事なのよ」
「そうか……そうだよな」
いつだって他者の為に頑張る事を厭わないアスナの、その頑張りの恩恵を一番多く貰っているのはオレだったな、と自嘲気味に笑った和人は明日奈の背に触れていた手をそのまま反対側の肩まで伸ばし、ふわり、と抱きしめた後、髪に唇を押し付けて「ごめん、アスナ」と囁いた。
泣き濡れたままの顔がぎこちなく持ち上がる。
「和人くん……」
ようやく自分を包み込んでいる存在の正体をしっかりと認識した明日奈が、ぱちくり、と瞼を開閉させれば、すでに幾筋も頬に残っている跡の上を新しい涙が上滑りしていく。と、それが流れ落ちきる途中で和人の唇がそれを吸い上げた。
すぐに背後から懐かしい単語が低い声で飛んでくる。
「ちょっと、そこのバカップル。誰がウチの和室でイチャコラしていいって言ったのっ」
しかし、更に里香の背後から和真の「んーっ」とのびをする声が響いた。
「あ、悪い、リズ。和真の方、頼む」
「はぁぁっ?、ちょっとキリ……」
「う゛う゛う、リズちゃーん、どこぉー、お母さんはぁー?」
「あー、もうっ。はいはい、和真、起きたの?、なんか飲む?、アスナなら大丈夫だから、それとキリト、じゃないや、お父さん、来たわよ」
急ぎ足で遠ざかって行くリズの声に和真の声が混じる。
「リズちゃん、ほんと?、お父さん、お母さんと僕のお迎えに来てくれたの?、よかったぁ。ユイ姉が言ってたとおりになったねっ」
「そうね、和真のお父さんはアスナの事となると単純よね」
リビングから聞こえてくる容赦ない自分への批評に、ぬぬっ、と眉間に皺を寄せた和人だったが抱きしめていた明日奈の両手が、そうっと自分の背に回ってきた感触に、すぐに意識は腕の中の妻へと集中した。
「アスナ、気分は?」
「……今は大丈夫」
限定的な言い方だったが、いくら病気でないとは言え具合の悪そうにしている姿を見ているしかない身としては不調でないと聞くと幾分安堵で力が抜ける。
気の緩みが伝わったのか、今度は逆に明日奈が、キュッ、と和人を抱きしめ返してきた。
「あの……私も、ごめんね、和人くん。端末の位置、オフにしちゃって……」
「……アスナがどこにいても、ちゃんと迎えに行くけどな……」
「うん、ありがとう」
ここ数日、気分の悪さから目に見えて食欲が落ちてしまった明日奈をしっかりと支え、結うことなくシンプルにおろしたままの栗色の髪を、さらり、さらり、と撫で梳いていた和人は「アスナ」と呼びかけてから少し身体を離し、その頬に手を添えてしっかりと目を合わせる。
「弁当のことだけど……これからは出勤時間を少し遅くするから、途中まで一緒に行かないか?」
「どういう意味?」
「アスナが教えてくれた、ウチから駅に行く途中の住宅街にある一軒家のパン屋、あそこなら朝から開いてるからさ。そこで一緒に昼食用のパンを選んで、オレはそのまま駅に行く、アスナは家に戻る。…………アスナの弁当は嬉しいけど、朝起きてみて体調が悪い時だってあるだろ?。だったら今まで通りにこだわらず、今だから出来る事をしよう。もう一人家族が増えたら二人で散歩なんてなかなか出来なくなるだろうし……」
「うん…………そうだね。和人くんとお散歩、あの頃みたい」
「肩車はしないからな」
真面目ぶった口調に明日奈がクスクスと笑い声を上げた。すっかり涙の止まった瞳に明るさが戻っているのを見て、和人の目も和らぐ。
「それと、アスナの体調はもちろんだけど、気象設定も考慮するから」
「それって、暑くもなく寒くもなく?」
「ああ、陽射しも風も気持ちよくて……」
「お昼寝したくなっちゃうような?」
「そうそう」
「じゃあ、明日からはパン屋さんの前でお見送りね」
「帰りは一人にさせちゃうけど……」
「大丈夫だよ、ちゃんとユイちゃんが一緒だから」
「そうだな」
のんびり歩いても徒歩で十分足らずの場所にあるパン屋だ、それにアスナが家に辿り着くまでは自分も端末で彼女の位置をこまめに確認すればいいし、と和人は自分の提案を受け入れてもらった事に満足してから、あっ、とひとつの事実に気付く。
そうなると、いつも家を出る前にしていたアレが出来なくなるなぁ、と。アレはアスナの弁当と同じくらいその日の活力源なんだよなぁ、と。
さすがに朝の往来で人目もはばからず、は明日奈がさせてくれないだろうと和人の気分がほんの少し落ち込んだ時だ、「和人くん」と胸元で呼ばれて「ん?」と返そうとした和人の唇に柔らかな感触が押し当てられる。しっとりとしているが同時に瑞々しい弾力があり、触れているだけでは我慢が出来ず、吸い付きたい衝動に駆られる明日奈の唇もまた十代の頃から何度味わっても飽きることない触感のひとつだ。
ここはリズの家の一室だし、今、隣室にはそのリズがいる。息子の和真は今更自分達のこんな場面を見ても何とも思わないだろうが、何よりアスナの体調は万全とは言いがたいのだから、とすぐに離れていってしまった未練に悶えていると、明日奈もまた友人宅での自らの少し大胆な行動に頬を赤くしていた。
「今朝は『おはよう』のも、『いってらっしゃい』のも……出来なかったでしょ?」
いつもなら必ずどちらかのタイミングで一回は触れ合わせている行為だったが、今日の朝はそれどころではなかったのだ。今のが朝の分と言うなら今日は既に職場を退勤してきたのだから、と思わず片方の口角を上げた和人の耳に後方からリズと和真の会話が聞こえてくる。
「和真、お腹空いたでしょ?、ちょっと遅くなっちゃったけど、お昼ご飯、オムライスでいい?」
「オムライスっ、僕、大好きなんだー」
「よかった。じゃあキッチンでお手伝い、よろしくっ」
「うんっ」
更に自分達から遠のいていく二人の分の足音を確認しながら和人はニヤリと笑い、さっきの感触を追い求めた。
「オレ、もう、今日は『ただいま』なんだけど」
「えっ?」と出るはずだった明日奈の声が和人の中に吸い込まれる。改めてグッ、と腰を抱き寄せ自分と密着させて安定を図り、同じように頭部の前後も手の平と唇で挟んで固定すれば、起こしている上半身を完全に和人に委ねた状態の明日奈の感覚は否が応でも唇に集中した。
微量の吐息すら漏れ出る事を許さずに密着させて、少しでも彼女の柳眉が歪めばすぐにわかるよう細めた目で表情を観察する。しかし和人の憂慮は杞憂でしかなく、食む事で快感を引き出すと緩んだはしばみ色の瞳は徐々にふにゃふにゃに溶けていき、同様に気をよくした和人は慎重に隙間から内へゆっくりと侵入を果たした。
その間にもキッチンからリズと和真の声が和室まで流れてくる。
「昨日の夕食で多めに作っておいたチキンライスをケチャップ味にリメイクして、と。和真、冷蔵庫から卵だしてくれる?」
「はーい。いくつ使うの?」
「キリトはお弁当持ってるでしょ。アスナは……食べられるかしら?」
「リズちゃんっ、僕のお母さんね、オムライスを食べる時にナイフで真ん中を切ると中の半熟卵がとろんっ、て出てくるふんわり卵を焼くの上手なんだよ」
「う゛……あー、和真んちのオムライスってそっちのタイプなのね」
自慢げな眼差しに思わず和真からの視線を避けた里香へ期待のこもったとどめの一言が追いかけてきた。
「リズちゃんも上手?」
すぐに里香が和室に向けて叫ぶ。
「アスナーっ、起きられるー?、卵、焼いてーっっ」
未だ明日奈の唇を塞いでいる和人がこめかみをピクッ、と痙攣させた……炒飯でいいだろっ
お読みいただき、有り難うございました。
もうちょっとキスをしていたかったキリトです(苦笑)
和真は高校生の時は「リズさん」呼びでしたが、小学生の時はまだ
「リズちゃん」です(笑)
それにしても『親子でワクワク!ドキドキ!サムライ体験ツアー!!』
……楽しそうだな、おいっ。