ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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二ヶ月ぶりでございますっ(謝っ)
大変お待たせいたしました、前回の「理想と現実」の明日奈視点の
お話となっていますので、前作をふまえてお読みいただければ、と思います。


理想の現実

大宴会場専用のパウダールームの壁に取り付けられている大きな鏡を覗き込んだ明日奈は細い指二本で前髪をつまんで弄り、そのまま僅かな眉間の皺をトントンと叩いて消すと今度は両手の指先で、ぺふっ、と軽く頬を弾いて目の前の自分に語りかけた。

 

「こんな顔、ユイちゃんや和真くんに見つかったら大変ね」

 

きっと優しい娘は『どうしたんですか?、ママ』と心配するだろうし、聡い息子は『お父さんにいじめられたのっ!?』と真っ黒な瞳をまん丸にするだろう。なぜか母親である明日奈の眉がハの字になると原因は父親だと一直線に思う息子の思考回路はいまいち理解できないが、当たらずとも遠からずなので、そんな時は決まって『大丈夫だよ、ユイちゃん、和真くん』と二人を落ち着かせるのが明日奈の日常だ。

それでも今日ばかりは平気な顔で「大丈夫」と言える自信がなかったから、和真が昨日から二泊三日で和人の実家に泊まりに行っているのは幸いだった。

睡眠不足と精神状態が万全ではない為の顔色の悪さはメイクで誤魔化せているが、いつもの明日奈を知っている人間がみれば表情が固いことはすぐにわかってしまうだろう。現に事務所で待ち合わせをした所長には会った途端『大丈夫なのかい?』と気遣いの言葉を貰ってしまった。

何の説明もしていないのに、ちゃんと原因を知っているみたいに『ホント、ゴメンね』と苦笑いをされ、ひらめいたっ、と言わんばかりの表情で『来年は水嶋君に出席してもらおうっ』と口にされたら、本当にこの人は何をどこまで見通しているのか、今更ながらに所長の本質が測りきれない。

しかしすぐに『莉々花ちゃんでもいいんだけど、そしたら僕が水嶋君に怒られそうだしなぁ』と人畜無害なのんびり口調に戻ってしまうのだから本当に厄介な人だ。

交流会会場のホテルに行く前に事務所に寄ったのはミーティングルームで今回の参加者リストを確認する為だったが、そこに去年の交流会後、つきまとってきた男性達の名前が載っていなかった事を確認して明日奈が少し気を緩めると、所長が『ま、当然だね』と説明してくれた。

 

『彼らは起業家として参加してたんだから、一年経ってもまだ顔を出すならこの一年で成果を上げられなかったと言っているようなものだし』

 

聞けば主催者側もよほどの理由がない限り起業側の人間に二年連続で招待する事はないそうだ。

 

『だから今回も初対面の人ばかりだと思うけど、職種と名前だけでいいよ』

『はい、それなら覚えました』

『うん、さすがに早いね』

 

満足げに頷いた所長がリストにある若手起業家約五十名の社名や店名まで覚える必要はないと言った意味は、この交流会の参加資格を得ている者でも数年後まで生き残っている名前が半分ほどだからで、ホヤホヤとした笑顔のままの所長も、それを当たり前に受け入れている明日奈も、しっかりと現実を認識している。

 

『大手の方々も多少変動がありますね』

 

明日奈にとっては幼少から馴染みのある事業主や、次代に移った名前で、どの人達もすぐに顔が浮かぶのは昨年と変わらないが顔ぶれは少し異なっていた。単にスケジュールの都合や、毎年同じ会社では、という主催者側からの配慮かもしれないが、中には時代に合わなかったり、長年の膿の蓄積で経営が傾き始めている企業があるのかもしれない。

 

『うちみたいなコンサルティング業の人間以外にも弁護士や税理士、司法書士と多彩に呼び寄せたらしいから今年は賑やかだろうね』

 

去年は経営論を言い争う一角もあったりとかなり会場内は白熱したのだが、少々ヒートアップのきらいが強すぎて会の後半はギスギスした雰囲気がまん延していたからだろう、今年は緩衝材的な役割に期待しているのか招待者の職種が幅広くなったらしい。

 

『あとは会計士、社労士…行政書士もいたかな。うちは去年と同様に営業はしないから適当に大手側の挨拶回りをしてもらえればいいよ』

 

明日奈はその指示を聞いて、事前にそれだけの情報を収集しているなんて、もしかしてうちの所長って主催者の一人なのかしら?、とゼロではない可能性を頭の片隅で思いながら再度、挨拶の際に話題に上がる可能性のある時事問題や知っている限りの個人情報を脳内で総ざらいする。そういった下準備を済ませて所長と二人、ホテルの会場に移動した明日奈は結局去年と同様に財界の重鎮方への挨拶があらかた済んだあたりでタイミングを見計らっていたらしい若い起業家数名に一気に取り囲まれそうになってパウダールームへと逃げ込むはめになったのだ。

もう一度「ふぅっ」と肩の力を抜き、取り出したコンパクトで軽くメイクを直してから結び目が緩んでいるスカーフに手を伸ばす。

一旦ほどいて今まで隠れていた首元を鏡越しに覗き込んだ。

 

「……ほんとに…絶対に…ダメって言ったのに…………」

 

未だに鎮火し切れていない憤りの朱と昨夜の記憶を刺激した羞恥の朱が混じり合って明日奈の頬を染める。同じように和人によって刻まれた皮下出血の跡は血痕のように赤々とその存在を主張していた。ベッドの上でグズグズに溶かされ、しゃくり上げながら浅い呼吸を繰り返すのが精一杯でまともな口などきけるはずがない状態だったが、それでもそんな自分を見下ろしていた和人の口の端が僅かに吊り上がったのを明日奈はしっかりと覚えている。それから一分の隙もないほど強く抱きしめられた後、抵抗をする間もなく和人の唇が首筋にきつく吸い付いてきたのだ。

事態を理解した明日奈が息を呑み、次の瞬間、頭を振って逃れようとした時には既に事は終わった後で、軽い熱と痛みを生んでいる場所を眺めている和人は満足げに目を細め、次にその行為の意味を問おうと震えながら開いた明日奈の唇を乱暴に塞いだのである。その後は呼吸すらままならないほど求められ、押し上げられて、ついには意識を手放してしまい、明日奈がはっきりとその痕跡を視認したのは、すっかり朝日が昇りきった頃の自宅の洗面所の鏡の前だった。

今日という日を迎えるにあたり、明日奈にとって和人から贈られているアクセサリーはお守りのような意味を持っていて、それを身につける事で気の進まない仕事でも萎縮しない勇気をもらおうと思っていたのだから、それを当の本人に妨害されたと知った時の落胆と湧き上がってくる腹立たしさは堪えようがなかった。ひとつやふたつの文句では言い表せない自分の気持ちは爆発寸前まで膨張すると、それをぶつける前にどこかに小さな穴が空いて、ただ、それで萎んでしまわずに常に膨らみを維持したまま、シューッ、と勢いは衰えることなく細く鋭く感情が噴き出し続けている。その状態は数時間続き、和人にかける言葉は絶え間なく抜け続けていたから結局朝から何の言葉も交わさずに明日奈は家を出て来てしまった。

和人は和人で、触らぬ神に祟りなし、とでも言いたいのか、最初は、マズい、と後ろめたそうな表情で明日奈の様子をコソコソと窺っていたのに、口をきかないままでいると、次第に平静を装うようになり、ヘタにつついて更なる悪化を招くよりは、と消極的な選択をしたらしく、和人の方から話しかけてくる事はないままに終わっている。

交流会会場に戻れば、きっとまた起業家達の相手をせねばならないだろうし、会が無事に終わったとしても今の状態で家に帰るのも気持ちの整理がついていない。いっそ和人が出掛けていてくれれば、とも思うが、折角帰っても誰もいないとわかったら、それはそれで複雑な気分になりそうだ、と、明日奈は和人と顔を合わせたいのか、どうなのか、自分の感情すら正確に把握できないまま「はぁぁっ」と溜め息を付いてからスカーフをキレイに巻き直す。

とはいえいつまでもパウダールームに篭っているわけにもいかず、そろそろ戻らないと所長が心配し始めるかも、と最後にもう一度スカーフの具合を確認すると「よしっ」と小声で気持ちを仕切り直し会場に戻ったのであった。

 

 

 

 

 

出来るだけ壁際に寄り気配を消してひっそりと佇む。

会場の中央部分にはクロスのかかった小ぶりな丸テーブルが等間隔で並んでいて、それぞれに集まっている人間達は和やかな雰囲気の所もあれば、少々緊迫した雰囲気の所もあって千差万別だ。

そこから少し離れた場所には簡易的ではあるがより濃い対談用にテーブルとイスのセットが点在している。

一定時間、明日奈が会場から姿を消していた間に若い起業家達は自分がこの会場にいる本来の目的を思い出したようで、今はあちこちに散って明日奈に浴びせていた物とは少し違う種類の熱を瞳に宿し、頭脳をフル回転させていた。そんな姿を控えめに見やって明日奈は壁の花どころか壁の模様と化して彼らの注意を引かぬよう静かに移動する。

出来ることならこのまま物陰にでも隠れて時を過ごしてしまいたいと願っていると、ふと、少し先に自分と同じように壁を背にして立っている壮年の男性の姿が目に入った。

見覚えがないので大手企業の人間ではないのだろう。だとすれば緩衝材として呼ばれた一人か、それよりも問題はその男性のグラスを持っていない方の手だ。白いハンカチを使い口元を覆っているが、その動きが不自然に震えている。本人は談笑の揺れに合わせているつもりらしいが、その男性と会話をしている相手は気付かずとも、明日奈の目は男性の身体が僅かに揺れてスーツの背が壁を擦ったのを捉えていた。

頭で考える間もなく、素早く身体が反応する。

 

「お久しぶりです」

 

閃光の早さで男性の元へと駆け寄った明日奈は親愛の声で話しかけ、そっと腕を掴んだ。同時に男性が持っていたグラスを抜き取り、通りかかったウェイターのトレイへと返却すると、握手をする形で腕と手を支えバランスを取る。突然、距離を詰めてきた明日奈に男性は一瞬、たじろいだ様子だったが、すぐに意図するところを理解したようで、すぐに「ああ、久しぶりだね」と知人へと向ける柔和な表情を装った。

 

「少し、彼女と話をしたいんだ、いいかな?」

 

唖然とした顔を戻せないままでいるのはそれまで男性と喋っていた相手だ。了承をとるように明日奈も顔を向ければ、支えている男性と同じヒマワリをモチーフとした記章が相手の胸にも付いている。要は弁護士同士という事だろう。

明日奈と握手をしている人物よりは若く見えるが、近年弁護士事務所を起ち上げた、という雰囲気ではない。

とは言え法曹界の上下関係まではそれ程詳しくないし、どちらの男性も明らかに明日奈より年配者だったから勝手な口を挟むことなくこのまま無難に立ち去ってくれる事を願っていると、なぜか男性は驚きから表情を一転させ、明日奈に向け少し悔しげと言うか忌々しげに眉を歪ませると視線を男性に戻し「後日、連絡させていただきます」とだけ言って離れて行った。

 

「有り難う、もう大丈夫だ」

 

彼の存在が完全に視界から消えたところで男性が明日奈に向け弱く微笑む。

 

「呑むつもりはなかったのだが、どうにも断れなくてね」

「お酒を召す以前にお加減が悪いのでは?」

「……ああ、貴女に下手な隠し事は無理か……結城さん…………それとも桐ヶ谷さん、とお呼びした方がいいか?」

「え?」

 

今度は明日奈が目を見張る番だった。

明日奈は仕事ではずっと旧姓の『結城』で通している。それは既に明日奈の実家である『結城家』が業界内で名が通っている為、その娘としての認知度も高い明日奈が『桐ヶ谷』と改名する事で配偶者である和人にまで余計な負担をかけたくないからと、逆に自分のプロフを公表したくない和人が万が一にでも明日奈に迷惑のかかる可能性を危惧したからだ。

とは言えひた隠しにしているわけではないし、和人も明日奈も結婚指輪は常に装着しているので、少なくとも明日奈が名乗っている『結城』が旧姓である事は結婚前から彼女を知っている人間ならば承知している話なのだが……初対面の男性に『桐ヶ谷』の名を口にされた明日奈は声を詰まらせた。

 

「貴女を驚かす事が出来たのなら僥倖だ」

 

男性は悪戯が成功した時の和人のように無邪気に微笑んだ。明日奈が握っていた自分の手にキュッと力を込め「職業上、隠し球があると、つい使いたくなるもので」と不遜に口を歪める。しかし、そこに悪意がない事を読み取った明日奈は呆れた笑顔を男性に向けた。

 

「特に秘密にしているわけではありませんが……それより、立っているの、お辛くないですか?、座った方が……」

「いや、大丈夫。多少ふらついた程度だ。実は少し風邪気味で。どのみち今夜は早めにお暇させていただくつもりで、もう少しすれば迎えが来る手はずになっている」

「では、そのお迎えの方がみえるまでご一緒させて下さい」

「こんな老齢に近い男でも虫除けになるかね?」

「ええ、もう、十分に」

 

体調を気遣われるより、あえて明日奈側に理由をつけて傍に居る事を許す男性の言葉にのっかる。男性は明日奈の支えを辞すると、そのまま会場中心から背を向けている彼女に隠れるようにして壁に身体をもたれかけさせた。

 

「いやいや、この程度で……やはり歳かな」

 

その言葉に明日奈も目の前の男性とそう変わらない年齢であろう自分の父の姿を思い出す。最近は少し忙しくて実家から遠のいていたから、今度の休みには息子を連れて顔を見に言ってこようかしら、と考えていると、男性は今までで一番張りのない声をゆっくりと吐いた。

 

「それにしてもさっきの彼の態度は大人げない。代わって謝罪します。申し訳なかった」

「別に…気にしてませんし……」

 

明日奈の仕事は様々な人間と交流を持つ。例えこちらが見覚えのない相手であっても間接的に関わっていたのだろう、と推測するのは簡単な事だし、軽く睨まれた程度で実害はない。それに同じ職種故に親交があるというだけでこの男性が謝罪を代弁する必要はないはず、と言葉を続けようとすると、男性は見越したようにそれを遮った。

 

「若い頃、私達は同じ弁護士事務所でね。しかも彼は私が直接指導した後輩で、今は互いに自分の事務所をまとめる立場になっているのだが……」

 

二人ともこの交流会の招待状を手にしているのなら、その弁護能力と経営能力は確かな物なのだろう。最初は同業者に弱みを見せたくないから気丈にも震えを堪えていたのかと思ったが、どうやら男性は後輩弁護士に余計な心配をかけまいと平然を装っていたらしい。

 

「実は以前、彼の事務所の新人が競合に負けた企業の訴訟依頼を受けた事があって。依頼者側の言い分は、自分達が提示した内容とほぼ同じ企画なのに選ばれなかった理由はどこかに不正があったに違いない、と」

「不正、ですか」

「弁護士の方は若さゆえの少し盲目的な正義感で裁判を約束してしまったらしいのだが、採用になった企画には結城さん、貴女がアドバイザーとして関わっていた……まぁ、貴女に限った事ではないが、貴女が所属している事務所が関係している仕事にまず穴はない。加えて貴女が携わった企画ならば、一見、他と同じように見えても、その実、細かな配慮と二重三重の付加価値が内包されている事は間違いないから。経験不足の新人弁護士はまだそれを知らなかったのだろう。安易にその依頼を受けてしまい、調べてみた結果、訴訟など起こせるはずもない事実だけが判明してしまった、と……早計もいいところだ」

 

やれやれ、といった風で息を吐き出した男性に対し、明日奈は対応に困惑を浮かべた。不正だと思い込んだのも、その言い分を信じたのも完全な勇み足だが、自分が関与した仕事の延長でそんな事態になっていたと知らされては高揚感とは反対の感情が少しだけ生まれてしまう。けれど男性の話はまだ終わりではなかった。

 

「これは私が彼と懇意にしているから知り得た話だが、なぜか他の弁護士達にもこの一件が知れ渡っていて。どうやら貴女の誠実な仕事ぶりを不正扱いされた事に心底腹を立てた御仁がいたのだろう。彼としても出来るだけ公にはしたくなかったのだが、事務所内でも当の若い弁護士と所長である彼しか知らない話が、瞬く間に業界内に広がって赤っ恥を晒したというわけで」

 

そう話す男性の表情は憤っているわけでもなく、不可思議に戸惑っている様子でもなかった。明日奈の為に腹を立てた人物の正体を知っているのか、その行為を渋々肯定する苦い笑みを垂れ下がった眉と口角が表している。

 

「世はデジタル社会だ。ネットワーク内の情報を自分の思うように操れる人間を怒らせてはいけない、という事だな」

 

そこまでの説明を聞いて明日奈もまた居心地の悪さに表情を曖昧にした。これはどう考えても自分の夫の所行を指しているに違いない。もしかすると愛娘も協力しているのではないだろうか、と溜め息と文句を同時に吐きそうになった口元をすんでの所でとじ合わせる。普段、どちらかと言うと模範的な言動の多いユイなのだが、嬉々とした表情で和人の手伝いをしている時の娘は明日奈に言わせると、だいたい「ろくでもない事」に関わっている場合が多い。とは言え、人を貶めたり危害を加えるような行為ではないと確信しているから、明日奈も気付かぬ振りをするのだが、まさか自分の仕事に対する不当な認識を察知しているとは思わず、更に積極的な介入までとは想定もしていなかった。

知らなかった事とは言え居たたまれず、もごもごと唇を動かすだけで言葉を選びきれない明日奈に対し、男性は、くくっ、と軽い笑い声を漏らす。

 

「まあ、こちら側としても、良い新人研修事案になった、と言っている者もいるくらいで……あまり気にせずに。どちらかと言えば、そちらの所長が動く方がよっぽどの面倒事になる。実はさっきの彼ともそう言い合っていたんだ」

「うちの所長が、ですか?」

「あの人は本気になると『加減』という言葉の意味を忘れるから、本当に色々と面倒なのだよ」

 

観察眼には自信のある明日奈だったが、男性の言う所長の姿とは微妙に食い違っている気がして、きょとん、と目を丸くした。最近聞いた所長の本気と言えば、事務所の近くにあるイタリアンレストランの大盛りチャレンジメニューに事務所の若い子を誘っている時に聞いた「僕の本気を見せるからっ」と息巻いていた台詞くらいで……けれど明日奈の反応さえも、さも当然と言った風で男性はうんうん、と頭を軽く上下に振った。

 

「相変わらず、身内と認めた人間にはのんびり顔しか見せていないのか……結城さんのご主人と違って狡猾な人だからな」

「うちの主人の事も御存知なんですね」

「とりあえずご両人とも『怒らせてはいけないやっかない人物』として認識している」

 

そう言う割りにはどこか楽しそうな口調につられて明日奈も口元を緩める。

 

「先程、主人の名も口にされていましたけど……」

「ああ、実はお名前を存じ上げる前から、その存在は貴女を含め知っていた…………あの事件は法曹界にも激震が走ったからね」

 

抽象的な言い方だったが、それだけで明日奈は息を呑み表情を固くした。

 

「ゲーム世界での死が現実の死と直結し、直接的な死因が全て同じでもその原因究明が不可能な前代未聞の事件だった」

 

当時の状況を窺わせるような重く深い溜め息が男性から吐き出される。

 

「乱暴な言い方をすれば殺人犯は一人だった。けれど全てを背負わせるのは違う、と誰もが感じていたが、《現実世界》から切り離された場所で何が起こっているのか知る術がこちら側にはなく、大事な家族や友人に『死』がいつ訪れるかもわからないと毎日怯えて暮らす日々が二年続き、その間に約四千人近くの方々が別の世界へと旅立った。事件勃発後、当然『被害者の会』は結成されたが、それはあくまでも《仮想世界》に囚われた人達の親族や身近な人間がかの天才ゲームデザイナーを始めハードとソフトの関連企業を訴えるという単純な構図で、その後報告される死者の数が増えるにつれ、特に我々弁護士はこれはとんでもない事件なのだと再認識させられた。何せ人ひとりが亡くなってもそれが自殺なのか他殺なのか、あるいは事故なのか…加害者がいたとしてもモンスターなのかプレイヤーなのかさえ、こちらでは分からないのだから」

 

そこまでを話して男性はそれまでの重苦しい空気を僅かに緩めた。

 

「結城さん、こちら側で待つしかない者は、昨日までベッドの上で眠っていた身内や友人がある日突然死者になってしまった現実をすんなりとは受け入れがたく、大概は『自殺をするような人間ではない、無茶をするような人間ではない』と自分や周囲に言い聞かせ、『もしかしたら誰かに……』と他者に原因を求める。実は私の息子の友人もあの事件の被害者の一人で……ああ、無事に生還が確認できているので気遣いは無用だ。ただ、息子もあの二年間は、もし、その友人が逝ってしまったら絶対にその原因を突き止め、犯人がいればそいつを探しだし法の裁きを受けさせる、と断言していましたがね。そんな関わりもあって事件後、うちの事務所も事件関係の訴訟を何件が受けて私は被害者の方々に話を聞いて回ったんだが、そこで帰還した多くの人達が口にされていたのが『攻略組』と呼ばれる存在だった」

 

懐かしい単語に明日奈の胸が跳ねた。その反応を確認して更に男性の目が優しい弧を描く。

 

「とても美しく可憐で、それでいて強くて厳しい少女がいたそうだよ。『攻略組』とそれを指揮する彼女の存在があったから現実への帰還を諦めなかった人や励まされた人が数多くいた。それにもう一人、集団には属していなかったようだが『攻略組』や戦闘レベルが上位のプレイヤー達の間では有名な全身黒ずくめの少年がこれまた強く、先の少女と二人であのゲームを攻略したという噂まであった」

「それは……その……」

「私はオンラインゲームと言えば将棋くらいしかしないがね、それでも本名を使ったりはしない」

 

恥じ入るように明日奈の視線が下がった。

 

「けれどそのお陰であの事件の数年後、仕事の関係で調べた人物が貴女の結婚相手とわかり、そしてこれ以上ないくらいに納得した」

 

明日奈と男性がしっかりと目を合わせる。

 

「ああ、結ばれるべくして結ばれたお二人だ、あなた方ご夫婦は」

 

結婚する時、祝福の言葉ならたくさん貰った。ただ、自分達二人が寄り添い合う事を当たり前のように喜んでくれたのは、互いの家族と《あの世界》で知り合えた人達がほとんどで、裏では「レクト」CEOの一人娘を手に入れた和人を「うまくやった」と揶揄する声や、「あらあら」と結城の本家の人達が歪んだ笑顔で嘲りの声を上げていたのも知っている。

だからなのか、既に結婚して数年が経っていて二人の間には新しい命まで誕生しているというのに、当時、《現実世界》から傍観するしかなかった人が、法的な目で事件を検証し、事件後に自分達の存在を知り認めてくれたという事実がどうしようもなく嬉しくて、自然と明日奈の声が震えた。

 

「あ…りがとう、ございます」

「それにしても、だね。貴女のご主人も中々に厄介事を引き込む質のようだな」

「は?」

 

一転して思わず気の抜けた素の声を発してしまった明日奈は慌てて口元を手で覆う。

 

「最初は何だったか……ああ、エグゼクティブサーチファームが訴えられた案件か」

「えっと……それは、どういった?」

「とある企業の依頼で貴女のご主人がヘッドハンティングの候補者となったのだが、コンタクトが取れなくてやむを得ず違法な手段をとってね。しかし訴えたのは依頼主の企業側で……共犯と見なされる前に被害者の立場を獲得した形になった。この一件はご主人の耳まで届いてないだろうが、私はあの研究所の上層部が動いたと見ている。他には……世間一般ではご主人は実在しているのかどうかさえ疑われているから、腕利きのフリーライターがその素性を調べるよう大手出版社に依頼されたのに、その情報をライバル出版社に持ち込んだとかで裁判になった」

「主人の情報とは……」

「ところが実際の裁判直前に保存しておいたはずのデジタルデータがバックアップも含め、全て消失して裁判自体流れたがね」

 

ほっ、と息をつく明日奈に男性は「まだあるが、聞く気は?」と意地悪く微笑んだが、明日奈としてはもう十分なので「いえ、有り難うございました」と今まで知らなかった和人の周囲の出来事に軽い苦笑いで礼を述べた。察するに一部の人間には自分達の関係は知れ渡っていて、その上で極力回避されているのだろう。あまり聞こえの良い事ではないが、そのお陰で余計な騒ぎに巻き込まれずに済むのならそれにこしたことはない。

弁護士としては決して愉快な話ではないはずなのに男性は機嫌の良さそうな声で「と、こんな感じで……」と目を細めた後、そのまま明日奈に片目を瞑ってみせた。

 

「貴女の今の姓が『桐ヶ谷』である事を知っている者ならこの会場にもいるが、それがあの研究所でもトップクラスの実力の持ち主と同一人物である事までを知っているのはほんの数名といったとろこだろう。私も容姿までは把握できていないので機会があれば是非拝顔の栄に浴したいものだ…が…………」

 

突然、表情を強ばらせた男性が眉間に力をこめ、唇をギュッ、と引き結んだ。

ゆらり、と揺れた男性の身体が壁に沿って崩れ落ちていく。

頷いていた頭はそのまま糸が切れたように俯いてしまい、表情はうかがい知れない。

明日奈は周囲への配慮も後回しで咄嗟に男性の腕を掴んで転倒を回避させたが、細腕では支えきれるはずもなく、男性の身体を床に敷き詰めてある絨毯の上へ座るようゆっくりと誘導するしか出来なかった。元々の体調不良に予定外のアルコール摂取と明日奈との立ち話で徐々に酔いと高揚感が全身を巡ったのか、ついに平衡感覚を狂わせて座り込んでしまった男性は自由になるほうの手を額に添え、歪みを正すようにゆるゆると頭を動かした。

 

「申し訳…ない」

「吐き気などありませんか?」

「それは、大丈夫……少し調子に乗ってお喋りが過ぎたようだ」

「お迎えの方は?」

「ああ……あと三十分もすれば来るだろう…………なに、今度こそ水でも飲んで…大人しくイスに座っていよう」

 

さすが弁護士だけあって、このような状況でも言葉遣いが支離滅裂になる事はなく、意思の疎通にも問題はないから無闇に周囲へ助けを求める声は必要はなさそうだと明日奈はひとまず詰めていた息を吐き出す。そうは言っても自力で立ち上がるのは危ないし、明日奈一人で大の成人男性を移動させる自信もない。出来れば穏便に済ませたくて、こっそりホテルの男性従業員の手助けをお願いできないだろうか?、としゃがみ込んだまま振り返った明日奈のはしばみ色の瞳は、数名のホテルスタッフとその倍以上の数の交流会参加者達が慌てた様子で自分達めがけて駆け寄ってくる光景に大きく、丸く、見開かれた。

 

「えっ!」

 

どうやらいつの間にか自分達の存在はすっかり認知されていたらしく、それでも話し込んでいた相手が若い経営者ではないせいで声を掛けられずにいたのだと今更に男性が言った虫除け効果を実感する。そして集まってきたのは若者ばかりではなく、むしろ男性と同業の弁護士や明日奈も顔見知りの大手企業の人間の方が多いのだから、こちらは純粋に男性の身を案じての行動だとわかり、この人物の持つ人望のあつさを改めて感じ取った。

しかし元より明日奈達がいた場所は会場の隅の壁際で、そこに向かって明らかに必要以上の人員が押し寄せてきている圧迫感に緊張と恐怖で唖然としていると、次々に人がやってきて、あっと言う間に幾重もの人垣が出来上がる。

 

「ちょっ、ちょっと、待ってくださいっ」

 

人々を制そうとする明日奈の声は全く届かず、どんどん周囲との距離が狭まっていく。

男性の不調の具合を尋ねてくる人はもちろん、気遣いの言葉をくれる人、状況説明を求める人、果ては明日奈とこの男性の関係を問うてくる人の声までが重なり合い、こうなってしまうと誰に反応していいかもわからない。人だかりとなっている中心の明日奈は人々の顔と声に取り囲まれて押しつぶされそうになり、思わず助けを求めるように視線を漂わせた。

 

「アスナっ」

 

その時、大勢の人達の間を縫って、ここでは聞こえるはずのない声が耳に飛び込んでくる。

信じられないが、それでも信じたくて、声のした方を見れば、アスナしか見えていないのか少々乱暴に人の波を掻き分けながら、もどかしさに苛立ちを滲ませて和人が懸命にこっちに向かってくる姿があった。

 

「かっ」

 

思わず「和人くんっ」と呼びそうになったが、今「桐ヶ谷和人」の名前と顔をここにいる人間に知られるのは避けた方がいい、と和人の姿と声でいつもの冷静さを取り戻した明日奈は咄嗟にそう判断して口を閉じる。強引に明日奈の元までやって来た和人は息を切らしながらも「大丈夫か?」としゃがみ込んでいる妻の無事を尋ねた。

和人にしてみれば何がどうなっているのかはわからないが、明日奈は今、壁際に座り込んでいる男性の腕を支えたまま不安に瞳を揺らし、困り切ったように眉根を寄せているというのに、それでも唇を固く結んで、こくん、と頷きだけを返してきて、その反応に焦りが増長する。

 

「アスナ…」

「明日奈くんっ」

 

こんな状況になっても口を利いてくれない妻に周囲の目を忘れそうになった時、和人のすぐ後ろを付いて来ていた彼女の事務所の所長が訳知り顔でその声を遮った。

 

「所長……」

 

心の底から安心した明日奈の声が余計に和人の心を乱す。

 

「アスナっ」

「こらっ、明日奈さん、だろう?」

 

和人の肩に手を置き、動きを制した所長がいつものとぼけた口調でこちらに注目している人達への説明を口にする。

 

「お騒がせしてすみません。彼はうちの事務所の関係者で、僕がいつも結城くんの事を名前で呼んでいるものですから、うちの人間は殆ど彼女の事を下の名前で呼んでるんです……それにしても、いくら慌ててたからって呼び捨てはダメだよ」

 

こつん、とわざとらしく和人の後頭部を拳で一突きした所長は「あとは大丈夫ですから」とホテルスタッフ数名を残して他を追い払うように解散させた。スタッフ二名に両腕を担がれて立ち上がった男性は移動する前にその支えから抜け出して少しだけ微笑んでから明日奈へ一歩近づいて声を潜める。

 

「こんな時に先の願いが叶うとは……黒ずくめの少年は大人になっても貴女の傍が似合う。色々と有り難う、桐ヶ谷明日奈さん」

「あのっ……お、お大事になさって下さいね」

 

和人にも軽く会釈をした男性はそのままスタッフに誘導されて隣接している控え室へとゆっくり足を進めていき、その後ろ姿を見送っていた所長と明日奈、それに和人の三人は揃って安堵の息を吐いた。しかし、すぐに厳しい表情に転じたのは明日奈だ。

 

「所長、どうしてここに……えっと、この人がいるんですか」

 

さっき聞いた話を思い返すと、ここに桐ヶ谷和人がいると知られればこの会場に集まっている殆どの人間が何らかの興味を抱く事は間違いない。

 

「僕も今年は大丈夫だ、って言ったんだけどね。去年は、ほら、この会の後、結構苦労したから」

「結局、今年も取り囲まれてたじゃないか」

 

独り言のように無遠慮に呟いてから「ユイのあの言い方、絶対わざとだろ」と悔しさの中に恥ずかしさを内包させている和人へ所長が宥めるようにポンポン、と肩を叩いた。

 

「だから、さっきのあれはそういうのじゃなかったし。今回は主催者を通してちゃんと注意喚起してあるから。ホントにもう、僕って信用ないんだなぁ」

 

欲しい答えが得られず言葉を変えて再度明日奈が疑問を投げる。

 

「それで?、どうして二人が一緒に?」

「あー、さっき明日奈くんの元にホテルの従業員や会の参加者達がわらわら集まった時、僕も行かなきゃって思ったら、なぜかタイミングピッタリで、うちの事務所の人間が来てる、って会場入り口まで呼び出されてね。で、行ってみたら彼でさ。だからちょっと遅れちゃったけど二人で駆けつけ……そんな目で睨まないでよ、明日奈くん。だって去年の一件で彼にしこたま怒られたから、僕も断り切れなかったんだ」

 

ふえーん、と泣き真似までしてみせる所長に明日奈は殊更大きく肩を落とした。どうせこの人のことだ、入り口に呼び出された時点でその人物の正体などお見通しだったろうし、タイミングの良さの理由も大方予想をつけているだろう。

今回ばかりはユイちゃんと少しお話しなくちゃいけないわね、と決意する明日奈だったが、「ママ」であるアスナの為、そして「パパ」であるキリトの為にと健気に頑張ってくれる娘に対し、結局強くは言えずに終わるのだという未来も容易に予測できて、ふぅ、と今日何度目かになる溜め息をつく。

それをどう捉えたのか、和人は所長に否を言わせない距離まで顔を近づけた。

 

「明日奈…さん、は疲れているようなので、もう連れて帰ります」

「えっ、もう帰っちゃうの?。折角来たんだから二人でもう少し居ればいいのに。結構面白い話が聞けるよ」

 

テーマパークがアトラクション施設にでも居るように目を輝かせる所長へ明日奈も渇いた視線を投げる。

 

「そういったお話は既に伺いました。でも私はともかく、この人は……」

 

自分から遠ざけるかのような発言に和人が顔を不機嫌に歪ませるのを見た途端、逆に所長は可笑しげに、ぷっ、と噴き出した。

 

「ふふっ、明日奈くんて意外と鈍感と言うか怖い物知らずだよね」

「それはオレも認めます」

「うっ、どうしてそこで二人が意気投合するのっ」

 

不満げに頬を染め、拗ねた声で気を許した口調に今度は所長と和人が揃って大仰な息を吐く。

 

「しかも天然」

「まったく……」

 

芝居がかった仕草で両肘を軽く曲げて手の平を上にし、首をブンブンと横に振った所長は「前言撤回」と宣言した。

 

「なんか心配して損したかも。じゃあ来年もこの交流会は明日奈くんに出席してもらうって条件で、今日は帰っていいよ」

「所長!?」

「所長!?」

 

まさに息ピッタリの二つの声が同時に耳に飛び込んできた後、所長のすぐ傍に居た和人が噛みつかんばかりの勢いで詰め寄ってくる。

 

「またさっきみたいにっ」

「落ち着きたまえ」

 

今度は所長が一歩踏み込み和人の耳元まで顔を寄せた。

 

「去年、明日奈くんに言い寄っていた連中は、もうここにはいない」

「それはっ…」

 

起業家として続けてこの会に呼ばれる事はないからだろ、と昼間、所長自らが明日奈に語ったのと同じ言葉を続けようとした和人の耳に豹変した温度のない声が吹き込まれる。

 

「そうじゃない。起業家として、もうこの業界に存在していないんだよ」

 

パッ、と仰け反って顔を離した和人に所長は普段通り、ニコリ、と微笑んだ。けれど小さな声は未だ温度を取り戻してはいない。

 

「当たり前だろう?。うちのスタッフに迷惑を掛けたんだから。日本での存在は許してあげてるけどね」

「今年は大丈夫の意味って…………」

 

ゴクリ、と唾を飲み込んで、今、自分の耳に語りかけてきた声は本当にこの人だったのか?、と半信半疑の視線を送る和人に所長は纏う空気をガラリと変え温かな笑顔で心底安心したように、へにゃっ、と口元を緩めた。一方、所長の言葉を聞き取れなかった明日奈は小首をかしげるばかりだが、それを誤魔化すようにいつもの声で、いつもの口調で、巫山戯ているとしか思えない言葉が披露される。

 

「うん、よかった、よかった。明日奈くんはうちの大事な主戦力だから、そっちの彼が僕を信頼してくれないと明日奈くんもどこか心ここにあらずでポテンシャル発揮してくれないし」

 

その意見に明日奈が慌てた様子でさらに頬を染めた。

 

「しょっ、所長っ、そんな事はっ」

「そんな事あるよ。ささっ、今晩はもう帰っていいから、週明けはいつもの明日奈くんで出勤しておいで」

 

ほんの少し前までは「帰っちゃうの?」と行っていた人間と同一人物とは思えない積極性で所長がグイグイと背中を押してくるので、どこか納得のいかない顔の明日奈と胡散臭い物を見るような目つきの和人は会場の出入り口まで追いやられる。結局は諦めて、「じゃあね」とお気楽に手を振る所長に何度か頭を下げながら挨拶を済ませエレベーターホールまで辿り着いた二人は無言で大宴会場から一階のフロントロビーまでの直通エレベーターに乗り込んだ。他に乗客はおらず、二人だけの空間で並んで立ったまま気まずげに視線を逸らしている和人の様子をこっそり覗いながら、明日奈が口を開く。

 

「あ、あのね、和人くん……」

「ア…スナ……、やっと……」

「……うきゃぁっ」

 

いきなり和人が、ガバッ、としがみつく勢いで明日奈をきつく抱きしめた。

 

「ふぇ?、なに?、どうしたの!?」

「さっきの会場でも全然オレと口きいてくれないし……やっぱり、まだ怒ってるんだと」

「え?……あ、そう言えば……」

 

とにかく和人の名前を口にしないよう、そればかりに神経を使っていて、確かにあの場ではまともに会話をしていなかった事に気付いた明日奈は小さく「ごめんね」と謝った。

 

「それと、さっきは、有り難う……来てくれて」

 

明日奈の両手もゆっくりと和人の背中に回る。

 

「たくさんの人達に囲まれて、誰が何を言っているのかもわからないくらい言葉が飛び交ってる中で和人くんの声だけがハッキリ聞こえたの」

「……」

「そうしたら、すごく安心できて……」

「……」

「ちょっとビックリしたけど……嬉しかった」

「アスナ……」

 

明日奈の身体を包んでいた和人の手が片方だけ柔らかな頬に伸びて、ススッと滑るように撫でた後、上を向くよう促せば同時に互いの瞼が閉じて、当たり前のように唇が重なった。少しきつめに押し付けてふっくらとした触感を感じ、更に揉みほぐすように上下の唇をうねらせ、次に味覚を満足させようと和人の舌が紅唇を這う。次第にそれだけでは我慢できず、あわいを強請るように何度も突けば徐々に隙間が生まれ…………そうになった時「むぅーっっっ」という明日奈の籠もった声と、背中をぺしぺし、と叩く力弱い刺激に、渋々和人が顔を上げた。

 

「どうしたんだ?、アスナ」

「こ、ここっ、エレベーターのなかっ」

「それが?」

「防犯カメラとか…ほらっ、あれっっ」

 

エレベーターの天井の一角には明日奈の慌てぶりを見て、心なしか申し訳なさそうに監視角度を自動回転させているカメラがある。その存在を一瞥して「邪魔だな」と言いたげに、チッ、と舌打ちした和人はすぐさま笑顔で「大丈夫、大丈夫」と軽く明日奈を腕の中に囲って彼女の視界からそれを隠した。

 

「こういうホテルのエレベーター内じゃ、こんなの日常茶飯事だろ」

「えっ、でもっ、もう一階に着いちゃうしっ」

 

そう言われてみれば数時間ぶりに口をきいてくれた嬉しさでついがっついてしまったが、確かにエレベーターの位置表示は既に一桁代のフロアーナンバーだ。高速エレベーターの名に恥じぬ昇降速度に理不尽なイラつきを覚えてしまった和人は「だったら、続きは帰ってからだな」と告げたがエレベーターが止まるまで明日奈を離す事はなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
険悪な二人をなんとかしよう、と実は影ながらユイちゃん、
頑張ってました(苦笑)

あと本作とは全く関係ないのですが、この場をお借りしてお礼を。
(ココが一番閲覧していただける可能性が高いと思いますので)
今月上旬、この《かさ、つな》が数話、無断転載されました。
その際、色々と動いて下さった皆さん、本当に有り難うございました。
無事、解決いたしました事、心からお礼申し上げますm(_ _)m

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