ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
ぺらり、と雑誌のページをめくる小さな音は気が抜けていて、聞くだけでやる気のなさが伝わってくる。俺はグラスの手入れをしながらその音を生み出したカウンター席の少年に「おい、キリト」と話しかけた。
自分の店を構えると決まった時にこだわって選び抜いた自慢のカウンターボードへ頬杖を突いて、今時珍しい紙媒体の印刷物をおざなりに眺めている腑抜け者の名は桐ヶ谷和人。だが俺は「キリト」というキャラネームでしかヤツを呼んだことがない。
そのキリトは今、学校帰りに堂々と制服姿のまま御徒町の俺の店に寄り道をしているというわけだ。
しかも今は営業時間外だと言うのに、遠慮の欠片もない不遜な態度で当たり前のように店に入ってきてカウンタースツールに腰掛け、ボソリと「ジンジャーエール、頼む。辛口で」と注文まで投げて寄越した。おいおい、と思いつつもジンジャー・リキュールの瓶を手に取ってしまう俺はつくづくコイツに甘い。
あのデスゲームに閉じ込められた時、下層で知り合ってからいつ途切れてもおかしくない程度の関係性がなんだかんだと今も続いているのは俺がお人好しのせいなのか、女神の化身かと噂される程の美貌の持ち主であるヤツのパートナーの加護なのか、はたまたこれはもう運命なのか……むすり、とした表情は可愛げなど毛ほどもないのだが、どうにも邪険に出来ない程には気に入っているんだろう、という推測は絶対に本人には知られたくない。
雑誌に夢中で俺の声が聞こえていないのか、はたまた俺の声が聞こえているのに反応を見せないのか、……まず間違いなく後者だろうな、と当たりをつけて俺はもう一度、さっきよりも強く「キリトっ」と奴の名を呼んだ。
いかにも面倒くさそうな目がこちらを見る。
「なんだよ、エギル」
「なんだよ、じゃねえ。用がないなら帰れ。アスナと待ち合わせってわけでもないんだろ」
確信を持って言い切ればキリトは少し悔しそうに視線を逸らした。客商売の俺の目を侮るなよ、普段は飄々とした態度だが、ここでアスナと待ち合わせの時はモゾモゾ、ソワソワが止まんねぇ事をコイツ自身気付いてないんだろうが……。
言外に「こっちは夜の仕込みで忙しいんだ、お前の相手はしてられん」と軽く睨めば、諦めたような溜め息をひとつついて、雑誌をぱさっ、と閉じ、不承不承の態で「わかった」と言ってから残っていたジンジャーエールを飲み干す。
深刻な悩みならこっちが問いかけずとも口を開くはずだから、どうせここ数日、アスナが忙しくてまともに相手をしてくれない、あたりの理由で拗ねてる程度だろ、と思って、今夜、店を閉めてからALOのクエストでも一緒にやるか?、と誘いの言葉をかけようとした時だ、店の扉がまたもや開いた。
「おーっ、エギルっ、なんか冷てぇモン、くれっ」
「……クライン、お前もか……」
今日はつくづく「準備中」の札の無意味さを痛感させられる日だ。こうなってくると半ば本気で準備時間中は内から施錠すべきか?、と考えたくなってくる。
キリトと同じようにあのデスゲームきっかけで《現実世界》でも付き合いが続いている壷井遼太郎こと「クライン」がワイシャツの第一ボタンに続き、第二ボタンまで外しながら店に入ってきた。ちなみにこっちの男は歴とした社会人だ。
「久しぶりに仕事でこっちに来たら、時間も時間だからそのまま直帰していい、ってなってよ」
そしてコイツは聞かなくとも喋りたい事は喋り倒す男だ。
「なんだよ、キリトも来てたのか」
どかっ、と少々乱暴な仕草でキリトの隣のスツールに腰掛けたクラインは反対側に持っていた荷物を置くと、今、まさに立ち上がりかけていた身体を抑え込むようにして制服の肩に手を置いた。
クライン……もう少しで俺が店の仕込みに集中できるようになるところだったのに、お前という男はどうしてそういうタイミングで現れるんだ。しかもキリトの顔色など気にもせず、やれ乗ってきた電車の中でマナーの悪い乗客がいただの、やれ仕事先で出された茶が薄かっただのと口を動かし続けていて、他に客がいないせいか、その無駄にデカい声は止まる事を知らない。俺はそれを適当に聞き流し、確か奴は「冷たい物」を欲していたな、と思い出して、もう氷水で十分だな、とウォーターサーバーのコックに手を伸ばす。
しかしキリトの方はグズっていた少し前の姿が嘘のように、素っ気なく「もう帰るとこなんだ」とクラインの声を断ち切ると、広げていた雑誌を仕舞おうとカバンを手に取った。それを目聡く見つけたクラインが一段と声を高くする。
「なんの雑誌だよ、キリト……ああ?、『ソフトウェアの実用的デザイン特集』?……お前なぁ、健全な男子高校生ならもっと相応しい雑誌があんだろっ」
すぐに自分の鞄の中身を漁り始めたクラインはすぐさま一冊の紙媒体を取り出した。
「ほらよっ、会社の後輩がくれたモンだがお前に貸してやってもいいぜ、キリト」
バシッ、と勢いを付けてカウンターに置いた雑誌の表紙には見事なプロポーションを惜しげもなく晒した若い女性が二人、官能的なポーズでこちらに微笑みかけている。俺は痛み始めたこめかみをグリグリと手でほぐしながら「クライン……」と唸るようにヤツのキャラネームを呼んだ。
「なんだよ、エギルもか?、いいけどよ、嫁さんに見つかるなよ」
「そうじゃない」
誰かコイツをなんとかしてくれ……どう言えば伝わるのか、言葉に迷っている間にクラインはウキウキとページをめくり始めている。
「俺はどっちかって言うとこっちがタイプだな。このへんのラインとか、ここの丸みとか……あー、でも顔はこっちで……キリの字、お前はどうなんだよっ」
「んー……」
「気のねぇ返事だなぁ。他にもたくさん載ってるぜ、持って帰っていいからゆっくり見ろって」
「いや、別に……」
「遠慮すんなっ、十代後半なんて触りたいお年頃・揉みたいお年頃・吸い付きたいお年頃だろーがっ」
目と口がにんまり、といやらしげな三日月型になったクラインに俺は悲哀の目でヤツを一瞥した。
「クライン……お前いい加減にしろよ。いいからその雑誌、仕舞え」
「なんでエギルの旦那が怒るんだよ」
「怒ってるわけじゃない。馬鹿馬鹿しい話をこれ以上聞きたくないだけだ」
「馬鹿馬鹿しいって、随分だな……」
「よく考えてみろ、その雑誌に載ってるグラビアアイドルなんて顔負けの存在がいつもコイツのすぐ傍にはいるだろ。そんな雑誌、見せるだけ無駄だ」
そこでようやく何かに気付いた様子のクラインが「あー……」と声と共に今までのテンションまでを吐き出して、そっ、と手元の雑誌に目を落とした。多分、そこに載っている女性の柔らかく膨らんだ胸にくびれた細い腰、弾力のある肌さえ霞んでしまうだろう少女の存在を思い浮かべているのだろう。しかしその途端、キリトが、ダンッ、と音を立ててクラインの持って来た雑誌に手をつき、今日一番の生命力溢れる炎の色でヤツを睨んだ。それから鋭い一言を放つ。
「想像すんなっ」
一瞬、場が凍り付いた。
けれどその沈黙はキリトのポケットの中から鳴り響いた端末の着信音で砕かれる。
「アスナ?……ああ、まだ外だけど…………わかった。じゃあ、今夜、ログハウスで待ってる」
何事もなかったかのように、いつもの不敵な笑みを浮かべジンジャーエールの代金を寄越したキリトは「ごちそうさん、エギル」と俺に言い「じゃ、お先に」とクラインに挨拶代わりの言葉をかけ、軽い足取りで店を出て行く。
すっかり縮こまってしまったクラインが小さく「こえぇっ」と声を吐き出せたのはキリトの姿がすっかり居なくなってからだった。
お読みいただき、有り難うございました。
男性陣しかいないのでクラインの発言も下世話な感じになってました。