ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
いちを以前の作品をいくつか踏まえていますが……読んでなくても忘れていても
大丈夫だと思います(苦笑)
和人と明日奈が結婚して暮らし始めたマンションのリビングに訪問者が二人。四人掛けのダイニングテーブルを囲み、並んで座っている桐ヶ谷夫婦を前に内一人が背筋をピシッと伸ばし全身を硬直させ、唯一、唇だけを振動させている。
「お、お、お…お義兄さんっ、ア、アスナさんっ。リっ、リーファちゃんを……じゃなくてっ、リーファしゃんをっ」
緊張のあまり噛み噛みになった結果、言い直した意味があまりない結果となってしまった発言者に和人は手の平を垂直に突き出して待ったをかけた。
「ちょっとタイム。一旦落ち着け」
「リ、リ、リ、リーファさんうぉぅっ」
「勢いで乗り切ろうとするなよ……おい、スグ、コイツ止めてくれ」
「はいはーい……」
だよねぇ、と兄からの要請を苦笑いで受理した直葉が「はいっ、すとーっぷ!」と自分の隣に座っている男性の言葉を遮る。
全身に力が入りまくっていた男性はお世辞にも頼りがいがあるとは言いがたい細身の身体をプルプルと震わせていたが、直葉が「ゆっくり吐いてーっ、吸ってー」と深呼吸の音頭を取ると、素直に応じてそのプルプルを静めた。
硬直状態だった顔の筋肉が少し緩んでいつもの人の良さがにじみ出ている、ちょっと情けない角度の眉毛が蘇る。膝の上で固く握りしめられていた両手に血色が戻った事を確認した直葉がすかさず二人の目の前に並んでいる品の良いデザインのカップを勧めた。
「お茶飲んだら?、明日奈さんが煎れてくれるの、《こっち》でも美味しいよ」
義妹からの嬉しい言葉に和人の隣の明日奈が静かに微笑む。
「い、いただきますっ」
ずずぅーっ、と勢いよく飲んだせいで、すぐに「げふぉっ」とむせた青年の背中をトントンと叩く直葉の姿を見て、和人は「はぁぁっっ」と大仰な溜め息を付いた。
「それで、なんでオレ達んトコなんだよ」
「え?、お母さんから聞いてないの?」
「アレだろ?、うちの父さんが絶対に会いたくない、って頑張ってるんだろ?」
「そう、それ」
全く、困ったもんだよねー、と気楽に笑う直葉の隣では再び顔から血の気が引いた男性の手にあるカップとソーサーがカタカタと音を立て始める。
「や、やっぱり……僕では……ダメなんでしょうか……」
「そういうんじゃないから、って何度も言ってるのに」
「そうそう、オレ達が十代の頃はずっと海外赴任で家に居なかったくせに、いざスグに結婚って話が出た途端『まだ早い』の一点張りだって母さんから聞いた時はオレも驚いたよ。だから、今嫁に出さずにいつ出すんだってこの前電話で言っといたんだけどなぁ」
隣にいる自分の夫である和人の溜め息顔を見て明日奈が「だからじゃないかな?」と小さく口を挟んだ。向かい側に並んで座っている直葉と彼女の交際相手もその言葉に疑問の目で明日奈を見る。
「今まで直葉ちゃんとの時間が思うように取れなかったのにこれでお嫁に行ったら益々会えなくなるでしょう?。きっとお義父さま、寂しくなっちゃったのよ」
「いやいや、会えなくなるって、大げさだろ」
「そうでもないと思うよ。うちの父だって……」
そこまで言って笑顔のまま明日奈が言葉を切ると、今度は逆に和人がそわそわと落ち着きをなくし身体の向きを変えて明日奈と膝頭を触れ合わせた。
「え?、彰三さんから何か言われてるのか?、もしかして連絡とか頻繁に来てる?」
その慌てっぷりに少し間を置いてじらした明日奈は、いつもの癖で「んー」とおとがいに人差し指をあてた。
「流石に今は和真くんのお世話で大変なのがわかってるからそんなにメールも来ないけど、結婚したての頃は、今度はいつ帰ってくるんだー?、って割とよく聞かれてたかな」
愕然とした和人の様子に、クスッと笑った明日奈は「だからね」と再び客人達に視線を戻す。
「娘を持つ父親って、そんな感じなのよ」
明日奈が思うに、父親とは娘に対し幸せになれる結婚相手を見つけて欲しいと願うし、自立して望んだ仕事で人生を充実させて欲しいと考える反面、いつまでも自分の手元に置いておきたいとも思う我が儘で身勝手な愛情を沢山抱えていて、それを普段は中々素直に言葉や行動で表せない不器用な存在らしい。そんな父を思いやって結婚してから一ヶ月に一回は実家の結城家を訪れていた彼女だったが、早々に身籠もり、妊娠中も入院が必要となったり、退院しても桐ヶ谷家に世話になっていたりでとんと男親を頼る機会はなく、お陰で彰三氏は自身の役立たずっぷりに「家で溜め息ばかりついているわよ」と京子からの報告を聞いて苦笑したものだ。
和人にしてみれば岳父である明日奈の父、彰三とはそれこそ明日奈がSAO事件から《現実世界》に帰還するよりも先に顔を合わせ交流を持った仲なので、一般的な父親とその娘の夫という関係性よりは多少なりとも互いを理解しているつもりだったのだが、妻から聞かされた事実に「やっぱり娘を自分から奪う男って認識は共通なのか?」とさっきよりも更に深い溜め息が落ちる。
しかし、今は自分と彰三氏の事よりも直葉の結婚に対する自分の父親の態度だ、と和人も改めて前を向いた。
「とにかくオレ達に結婚の申し出をしても意味がないだろ?」
直葉から結婚について相談したいと言われ、交際相手の同行も含めて今日の訪問を受けた和人と明日奈だったが、いきなり婚姻の申込みをされた和人は改めて二人に「そういうのは親父に言えよ」と呆れ声で促す。
「だからそのお父さんがつかまらないからお兄ちゃんに言ってるのっ。変だなぁ、お母さん、ちゃんと伝えておくって言ってたのに……」
後半はぶつぶつと独り言のようになってしまった直葉をそのままにして隣の青年がオロオロと困り切った顔で和人と明日奈の交互に視線を振り動かしている。
「お、お義兄さんっ、アスナさんっ、きっ、聞いていたらけないでしょうかっ……」
「予行演習って事で、聞くだけなら構わないけど……既にちゃんと言えてないぞ」
「頑張って」
悲壮感すら漂い始めている青年に向け、ふわり、と微笑んで声援を送る明日奈とは違い既に色々と諦めたように自分のカップの中身をのんびりと飲んだ和人は改めて「ん?」と疑問符を発した。
「けど、さっきからなんでオレだけ『お義兄さん』なんだ?……それにオレ達なら構わないけど、親父相手にスグを『リーファ』呼びはマズイだろ」
「や、や、や、やっぱり…ダメでしょうかぁ……」
緊張と困惑があちこちからダダ漏れしていた所に更に哀れ気すら上乗せさせ、もう泣き出さんばかりの弱気な声がくにゃくにゃの口からあふれ出した所で携帯端末をいじっていた直葉が慣れた手つきで彼氏の肩をトントンと叩く。
「まぁ、今日は『リーファ』でいいよ。呼び慣れている方が少しは気が楽なんでしょ?…………あ、もしもし?、お母さん?」
「ありがとうっ、リーファちゃんっ」
「なんか……前途多難だな」
母親に連絡を取ろうとしていた直葉は端末で会話を始めながらも隣に「いいから、続けて」と演習再開を促し、青年は涙で滲んだ瞳を輝かせ直葉に感謝の意を表し、その二人を見ている和人の目はすっかり気力を失っていた。
「それで言うならオレは『キリトさん』じゃないのか?」
呼び慣れているなら『リーファちゃん』『アスナさん』『キリトさん』であるべきなのだ。
指摘された青年は今度はなぜか頬を薄く色づかせ恥ずかしげに和人から視線を逸らした。
「それはっ、そのっ、そうなんですけど……キ、キリトさんが僕のお、お、お、お義兄さんっ…になるんだと思ったら、う、嬉しくなって……早く呼んでみたくて……」
「そ、そっか……」
緊張と気恥ずかしさが移ったようで和人までもが詰まり気味の声となり体温が上がったらしい頬をぽりぽりと指で引っ掻いている。互いに明後日の方向を見ながらもじもじと挙動不審になっている男性二人に対しぷくり、と明日奈が頬を膨らませた。
「和人くんだけズルイっ。……ねっねっ、だったら私もお義姉さんよね?」
実際には既に『お義姉さん』と呼んでくれるはずの義妹がすぐ目の前にいるのだが、彼女はそれこそ十代の頃からの呼び方を今でも続けていて、せがんでみても「今更呼び方を変えるなんて無理ですっ」と断られてしまうのだ。明日奈に請われて「ぅえぇっ!?」と狼狽え始めた青年は助けを求めるように隣の直葉を見るが無情にも彼女は未だ母親との会話を続けていて、無邪気にコロコロと笑いながら「うん、それでね、今、お兄ちゃんトコにいるんだけど」と話を弾ませている。
頼みの綱が頼れないと判断した青年はゴクリ、と唾を飲み込みヘタれた眉のまま覚悟を決めたように明日奈へ震える唇を力を込めて動かした。
「お、お、お…おねっ、お義姉さんっ」
「きゃっ」
「なしだ」
明日奈が両手で頬を挟み嬉々とした笑顔になった途端すぐに和人から冷ややかな声で却下の判断が下される。
「スグと同じで『アスナさん』にしろ」
「えー、いいじゃない、和人くんっ」
「なに?、なに?、私がどうしたの?」
自分の呼称にちょうど通話を終えた直葉が反応すると和人は明日奈の反論を相手にせず、「お義姉さん」と呼んだ青年に釘を刺すように一瞬だけ強く睨み付け、すぐに妹へ「母さん、なんだって?」と話を振った。その際に小さく「唯一コイツだけの呼び名なんてっ」と吐き出した声はしっかりと明日奈の耳にだけは届いて、それを聞いてしまえば残念さを微苦笑に残しつつも抗う気持ちは収まっていく。
一方、現状をいまいち把握し切れていない直葉だったが、隣の青年が無意味に汗をかくのはいつものことだし、小刻みに震えているのも問題なしと片付けて、今、端末越しに交わした会話を兄に伝え始めた。
「お母さんからは『和人も人の親になったんだから少しはお父さんの気持ちがわかるでしょ?、だったら桐ヶ谷家の男として話を聞いてあげてちょうだい』だって」
「おいおい、結婚を申し込んでくるヤツの相手なんて父親歴数ヶ月のオレには早すぎだろ。それにウチにいるのは息子なんだから将来は申し込む側だ」
直葉の交際相手との対面を拒絶し続け、頑として時期尚早を主張している峰高の代わりに兄である和人が妹の結婚話を了承するなど荒唐無稽な話であるくらい母の翠もわかっているはずなのに「相変わらず無茶苦茶な屁理屈で面倒事をオレに寄越してくるんだからなぁ」と困り切った声で母親からの無茶ぶりにどう対応しようかと考えていた兄へ、向かいの妹が「そうだっ」と明るく笑った。
「だったらお兄ちゃんを参考にさせてよ」
「は?」
「だから、お兄ちゃんが明日奈さんのお父さんに挨拶に行った時っ」
「ええーっ」
何を言い出すんだっ、と思わず仰け反る和人とは反対に向かいの青年も「聞きたいですっ」と身を乗り出してくる。
直葉は記憶を掘り起こして「確か就職してすぐだったよねー」と当時の様子を口にした。
「明日奈さんちから帰宅した後もスーツ姿のまましばらく玄関に座り込んでたし」
「おまっ、見てたのかっ」
「うん、なんか声かけづらい雰囲気だったからそのままリビングに行ったけどね」
「お、お義兄さんでも、緊張するんですね……」
「……オレを一体何だと思ってるんだよ。緊張するに決まってるだろ」
少し不愉快そうに言い返せばすぐさま「すっ、すみませんっ」と謝られて、そんな自然とにじみ出る青年の変わらない素直さに和人の口元は穏やかさを取り戻す。和人としては元々直葉の結婚にも、この結婚相手にも、何の異議もないのだ。互いに十代の頃、直葉から紹介されて以来主に《仮想世界》で交流があり和人個人としてもこの青年とは短くない付き合いである。直葉に対しては現実と仮想の両世界で関わっていたこの青年はいわば直葉をすっかり理解している存在と言っていいだろう。
当然、明日奈とも知り合ってから随分経つわけだが、和人がこの青年を直葉の相手として認めている最大の理由は未だ嘗て明日奈を色を含んだ目で見た事がないからだ。
要するにこの青年は少年の頃から直葉一筋なのである。
紹介された頃は、一見、少し気の弱い少年と勝ち気な妹という取り合わせに思えて直葉が振り回しているのかと思っていたが、その実、互いを「放っておけない」相手として認識しているのだとわかり、少年はキリトに「リーファちゃんと一緒が楽しいんです」と断言し「アスナさんは綺麗すぎて緊張します」と、やっぱり眉をハの字にしていた。
明日奈の魅力が十分に伝わらないという点では複雑な思いだが妹の夫が自分の妻に懸想する可能性など、直葉の兄としても明日奈の夫としても絶対に許容できないし、確かに自分も明日奈に対して愛情を抱く理由は彼女が容姿端麗だから、が一番ではなく、純粋に一緒にいて欲しいから、なのである。
「それで?、お兄ちゃんは明日奈さんのお父さんとお母さんに何て言ったの?」
既に自分達の参考にというのは口実でしかないと断言できるほど直葉の顔は好奇心に満ちていて、逆にこうなってしまうとなかなか諦めてくれない事も承知している和人は仕方なく気乗りのしない声でボソリと短く答えた。
「……正確には彰三さんと浩一郎くんに、だ」
「どういう意味?」
「挨拶に行った時、京子さんは不在だったから」
「えーっ。確か、どっちかって言うと明日奈さんのお父さんよりお母さんの方がお兄ちゃんを見る目は厳しいんじゃなかったっけ?」
「あー……、まあ最初の頃はそうだったけど、帰還者学校に通っている間にちゃんと挨拶には行ったし」
「それでもそういう時ってご両親に挨拶するもんじゃないの?」
片方でいいなら父親を抜きにしてさっさと母親への挨拶だけで結婚の了承を得てしまおうという魂胆が見え見えの妹の顔に、和人は慌てて言葉を続ける。
「仕方ないだろ、忙しい人達なんだから。決してオレと会うのを拒絶されたわけじゃないぞ」
「でもさー、それじゃ宝箱の鍵を手に入れる為のモンスター戦闘に、モンスターを倒さないまま運良く鍵を手に入れちゃった感じだよね」
いきなりゲームのクエスト攻略になぞらえるあたりが直葉らしいのだが、その兄も負けてはいなかった。
「いいんだよっ。最終的に箱を開けてお宝を手に入れられればっ」
と言う事は宝箱は結城家で鍵の守り人……まさにキーパーソンが結城京子、箱の中の宝物は明日奈になるのだろう。その関係性をそのまま今の状況にスライドさせれば桐ヶ谷家という箱を開ける為の鍵は峰高氏が保有しており、鍵を渡してもらわないと箱の中の宝である直葉が手に入らないという意味になる。
少なからずキリトというプレイヤーに憧れを抱いている青年は自分も何とかモンスターと戦わずして鍵を入手し、宝を貰えないものか、と口を尖らせてウーンと唸っているが、その思考はあっさりと看破されて「お前は正攻法で親父から鍵をもぎ取れよ」と和人から先に念を押されてしまった。
和人とて別に奇襲作戦で箱の鍵を掠め取ったつもりはない。それこそデスゲーム内の虜囚となっていた時、既に『お嬢さんをオレに下さい、的な強制イベント』はアスナの親に発動する心づもりでいたくらいだ。それに自分と明日奈の両親とは《現実世界》に帰還した時から多少の面識は持っていたものの明日奈を《現実世界》でも自分の伴侶に望んだ時、やっぱりこういう場面では、と二人に頭を下げる覚悟はしていたのである。しかし彼女の両親の時間を合わせるのがどれ程難易度の高いミッションなのかは結婚式の日取りを決める段階になって痛感した事でもあった。
それに比べて目の前の青年と自分の父親とは未だに互いの顔すら知らないままなのだ。今現在、父は海外赴任を終えて川越の家から通勤しているのだし、母もいまだ出版社に籍はあるものの以前のように私生活も殆どなく仕事に忙殺される日々からは開放されている。
少なくとも母さんはスグの結婚を応援してくれているんだから、あとは二人で力を合わせて親父を攻略するしかないだろう、と和人が自分の話は参考にならない事を伝えようとして「とにかく……」と場を仕切り直そうとした時だ…………こてり、と小さくて軽い温もりが肩にあたり、同時にふわりと鼻を擽るのは、もう十年以上も嗅ぎ慣れた花のような甘い香り。
「明日奈?」と愛妻の名を口にしようとする寸前で肩先を見た和人はそれを飲み込んだ。
和人に倣い、対面の二人も自分の驚きや慌ての行動を押し殺す。
誰も動かず何も発しない無音に近いリビングに清楚な寝息だけが静かに流れた。
少しの間だけ様子を見て、動く気配がないことを確認した和人がそっと身を捩り、どうにか明日奈の頭を両手で受け止めてゆっくりと自分の膝の上へと落ち着かせる。無事、彼女の意識を揺り起こさず任務をやり遂げた達成感に、ふっと肩の力を抜けば、それを合図のように直葉が声を響かせぬよう口元を手でガードしつつ和人に謝った。
「ごめん、お兄ちゃん。長居しすぎちゃったね」
客人を前にして眠ってしまうなど、本来ならキリトの専売特許のはずなのだが毎日の明日奈の多忙ぶりを知っている和人としては当然の事と受け止める。午後の陽射しがゆったりと差し込んでいるリビングで、明日奈にとっては絶対的な信頼の置ける和人が隣にいて、すぐ目の前では「微笑ましい」と映る兄妹のやり取りが続いていれば、ふと気が緩むのも仕方ない事だし、向かい合っている二人もそれだけ心を許している存在という証だ。
「気にしなくていいさ。明日奈もスグ達が来てくれるのを楽しみにしてたし……ただどうしても睡眠不足の日々が続いているから……」
明日奈の顔にかかっている長い栗色の髪を慣れた手つきで耳に掛け、そのまま束の間の安らかな睡眠を手助けするように優しく頭を撫でる和人はほんの少し苦しげに眉を寄せるがすぐに笑顔に戻った。
「けど明日奈は欠伸しながらいつも笑って和真の世話をしてるんだ。大して役に立たない父親歴数ヶ月のオレより既に『母は強し』って感じだよ」
「そっかぁ。さっき寝てる和真に会わせてもらった時も、明日奈さんニコニコして『お腹が空いた時とかオムツを替えて欲しい時とか、ちゃんと教えてくれるのっ』って嬉しそうに言ってたけど、他にも色々大変なんだろうね」
頷く事で肯定を示した和人は明日奈と結婚して一年と少しで家族が増えた今をしみじみと振り返る。定時に職場から帰宅できた日や休日などは和真の風呂担当は和人だが、オムツ替えは明日奈の方が圧倒的に場数を踏んでいるし何より授乳は明日奈にしか出来ない。妊娠中にあまり食べ物を受け付けなかった彼女は出産を経て食欲が元に戻るかと思いきや、落ち着いて食事をする時間がない日常に初めての育児の迷いや不安、それに伴う睡眠不足も手伝って、未だに口に運ぶ料理の量は少なめだ。
ただ、授乳中という事もあり摂取する食材のバランスは意識しているようだが、それらはほぼ和真の栄養になっている気がする和人はまだまだ細いままの明日奈の手首をじっ、と見つめた。一時、妊娠期間中の入院で点滴のみだった頃のように骨張ってはいないものの、手首だけではなく元々細い腰つきも首元もどこもかしこも多少はふっくらとしてきた程度で、逆に豊かな膨らみを持つ胸部は授乳中だからこそさらに重量感を増しており彼女自身はアンバランスな体型が少々ご不満の様子だが、和人としては「これはこれで」とこっそり思っている。
ただ和人も出来るだけ明日奈の負担は減らしたいと考えているのに、自分と一緒に風呂に入ると途端に和真は不機嫌になるし、オムツを交換している間はずっと母親を目で探したり声のする方へ必死に顔を向けようとするのだ。極めつけは和真が意味不明で泣きわめき明日奈の注意を引こうとする時は必ず明日奈と和人が一緒に過ごしている時なのである。
最近は明日奈が抱き上げれば泣き止むとわかっているからこそ「赤ん坊は泣くのが仕事みたいもんだからな」とわざと和人が抱っこして密かに父と息子の攻防戦が繰り広げられている事は男同士の秘密だ。
「それに今日は検診日で、午前中和真と外出したから少し疲れたんだろ」
病院から戻ってきた明日奈が『そろそろ離乳食を始めなきゃ』と言った時のワクワク顔を思い出して自然と口元が緩む。離乳食作りにかつてSAOで料理スキルをコンプリートした血が騒ぐのだろう。基本、自分達が食べている料理を更にとろとろくたくたにすればいいらしいが、明日奈は自分の手料理を息子が食べるという瞬間が待ち遠しいらしい。そして『それとね』と付け足すように続けた彼女は一転して言いづらそうに下を向き、その先の言葉を探すように前身で組み合わせていた両手をこちょこちょと動かした。
『……もう、大丈夫ですよ、って』
『……何が?』
明日奈の言わんとしている事が全く思い当たらず聞き返せば、わからないこっちがいけないみたいに『もうっ』と勢いを付けて発せられた声と共に和人へとフォーカスを合わせたはしばみ色の瞳の周囲はすっかり朱に染まっていて、和人は内心『そんなに怒ることか?!』と慌てふためく。けれどうっすらと瞳を覆い始めた透明な液体が溢れ落ちる前に明日奈はその朱を広げながら消え入りそうな小さな声でこう告げたのだ。
『キリトくんと仲良くしても大丈夫って……』
明日奈が自分の事を「キリトくん」と呼ぶのがどんな時かを心得ている和人はその一瞬で彼女の朱が怒りではなく羞恥なのだと誤解に気付き、と同時に言葉の意味を理解して素早く彼女を抱き寄せまずは落ちる寸前の涙を唇で吸い上げる。
『ひゃうっ、まだっ、まだダメっ……夜まで、ダメだからっ』
和人の腕の中でジタバタともがく明日奈の言葉に「なら今夜は確定なんだな」と言質を取った和人は隣室から『ふんぎゃーっ』いきなり響き始めた和真の泣き声に、うぐっ、と小さく唸った。右も左も分からない赤子なのにどうしてこうも勘が鋭いのか、明日奈が和人とは別行動で家事をしている時はスヤスヤと寝入って手もかからないのだが、いざ二人で軽く触れ合っているだけでそれを妨害するかのようなタイミングで泣き始めるのである。
和人は急いで和真の元へと行こうとする明日奈を押しとどめ、妻の代わりにベビーベッドへ赴いて自分の息子を抱き上げた。
一方、和真は自分へと伸ばされた手が母親のものではない時点で一層『ふえぇーっ、ふえぇーっ』と泣き声を高くしている。そんな我が子と目の高さを合わせた和人は軽く揺すりながら『ほーら、和真、いい子だな……ほんっと、お前は…いい度胸してるなぁ』と微妙な笑みで顔を近づけた。
父親が自分に告げてくる言葉が分かっているのか、いないのか、和真はムッとしたように顔をしかめると母親を求めて頭を左右に振るが、和人は自分の額を和真の額に密着させてその動き制する。
『いいか、和真…明日奈はオレのものだからな』
仕事で一緒にいられない時は仕方ないとしても、今まで通り風呂にも入れるしオムツも率先して面倒見よう。だから後はなるべく早く明日奈に頼らず離乳食で栄養を摂る方法を覚えさせないと、と和人は誓い、ついでに沢山泣けば夜はぐっすり寝てくれないかな、と様々な期待を胸に抱きつつ和真をあやしたのだった。
「そうだな、明日奈は…色々、大変だな、うん」
改めて妹が発した言葉の意味の含有率を上げ、和人は労るように明日奈の頭や髪に触れる。
周囲の連中は当たり前のように思っている節があるが、和人自身は明日奈という唯一無二の宝物を手に入れる事は自分の弱さも含め「やっと」という思いがあるし、手に入れた後も正直な気持ちとしては、それこそ箱に入れて鍵でもかけておきたい心境なのだ。
ただでさえ育児で体力や気力を削がれている明日奈に対し、自分の相手も、と望むのは強欲なのだろうが検診で得た医者からの言葉を素直に伝えてくれた事が明日奈の意志でもあるととらえた和人は正面の青年に向け不敵な笑みを放つ。
「大事なのは宝物を手に入れた後もだぞ」
強制イベントを首尾よく成し遂げたとしてもその先はまだまだ続くのだから……。
お読みいただき、有り難うございました。
直葉のお相手は……まあ、あの彼を想定しているわけですが(笑)
そこまで支持が得られるのか不安だったので名前は伏せて。
明日奈さん……ますます体力と睡眠時間が削られることに……。