ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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『劇場版オーディナルスケール』のその後(半月後くらいかな?)のお話です。


〈OS〉もう少しだけ

《ダイシーカフェ》の表扉にかかっている「準備中」の札を無効化するプレイヤーが《現実世界》には数人いる。

だから夜の営業開始時間にはまだ少しあるというのに、カラン、と扉が開くベルの音を聞いて顔を向けた店主であるエギルは驚きもせずカウンター内から気安く「おうっ」と彼なりの挨拶の言葉を投げた。しかし入り口に立っている人物は店主に挨拶を返すことなく、その扉を手で押さえたまま自分のすぐ後ろにいるもう一人を招き入れる。

 

「ほら、アスナ」

 

さらり、と長い栗色の髪を揺らして静かに店内へと入って来たアスナは少し儚げな微笑みで「こんにちは、お久しぶりです。エギルさん」とカウンターの中の店主に会釈をした。

確かに、例の新国立競技場で行われたユナのライブでの事件以来、エギルはアスナと現実でも仮想でも顔を合わせていない。事件後はゴールデンウィークという客商売にとっては繁忙期だった事もあり「アスナの傍にはキリトがいるんだから大丈夫だろ」と思っていた為と、二人と同じ学校に通う少女達から、そのゴールデンウィークを利用してキリトとアスナが泊まりがけで外出したと聞いたから体調面の心配はほぼ無用なのだろうと判断し、会わない事を特に不自然とも感じていなかったからだ。

しかしゴールデンウィークが明けて一週間以上が経ってもなおエギルはアスナの顔を見る事はなく、それどころかキリトさえ「しばらく、のんびりするから」と言って周囲のプレイヤーからのクエスト等の誘いを全て断っていた。それでも二人共メッセージを送れば返信は来るし、平日はちゃんと帰還者学校に通っているようだったので、大半の人間はあの事件の疲れが癒えればまた一緒にゲームの世界を楽しめるだろうと思っていたようだが、エギルだけは少し違う。

彼にはキリトはもちろんだが、アスナも《ALO》にダイブしていたはずだという確信があった。

なぜなら時折キリトが《新生アインクラッド》にあるエギルの故買屋を訪れていたからだ……それも「絶対、コイツが使うモンじゃないな」と断言できる「おつかいメモ」持参で。

とは言え「仲間」カテゴリーに分類されるスプリガンは「黒の剣士」だった頃から店の上客でもあり、彼らの事情を根掘り葉掘り聞くような無粋な真似を生粋の江戸っ子であるエギルがするはずもなく、ただ店を出て行くキリトの背に「なんかあったら言えよ」と声をかけるだけで静観を続けていた。

だから久々に見るアスナにエギルは知らず僅かな安堵の息を漏らし、準備中のこの時間に来たのがそこにいる黒髪の少年や、かしましいバンダナ青年だけだったら絶対に見せないであろう極上の笑みで「何か飲むか?」と自らオーダーを尋ねたのである。

 

「えっと……アイスコーヒーを……あっ、やっぱりジンジャーエールにしようかな?」

 

梅雨入りにはまだ幾分早い季節だが今日の気温は例年よりも高く、求める水分も冷たい物をと望むのは自然の流れだったし、他店では滅多にお目にかかれない辛口ジンジャーエールはアスナの密かなお気に入りだった。けれど選択に迷っている隙を突いてキリトが滑り込んでくる。

 

「ホットにしとけよ。それに出来るだけカフェインレスをって言われただろ」

「一杯くらい大丈夫よ」

 

アスナのオーダーに意見するキリトも珍しいが、二人の短いやり取りから察するに好ましくない行動をとろうとしているアスナを諫めるキリトという図式も更に珍しい。

二人の様子をカウンターごしに観察していたエギルは「おいおい」と戸惑い、ほんの少しだけ目を見開いた。

ただし、この二人に関しては「なんでコイツら、こんな感じになってるんだ?」と思ったのは一度や二度ではない。

あのデスゲームの世界で初めて会った時も二人は並んで立っていたが、第一層攻略後キリトが自らを「ビーター」と名乗った後も二人は行動を共にしていて、互いに怒ったり笑ったり恥ずかしがったりと見ているこっちが驚くほど自然に振る舞っている姿にもそう思った。

そして、そんな関係がずっと続くのかと楽観視していたところに「アスナとはコンビを解消したんだ」と聞かされ、その時のキリトの表情にも頭痛と共に同じ感想を浮かべた記憶がある。

加えて言えば数日後、同じようにアスナからも同様の言葉を聞かされ、やっぱり同じ感想で頭痛を覚えた。

どう見ても互いに不本意な決断だったと悔いているのが筒向けなのに、同時に他に選択肢はない決断だと信じきっていたからだ。

そして数ヶ月後、最強ギルドのサブリーダーという役職に就いたアスナと相変わらず最強ソロプレイヤーのキリトは攻略会議おいて衝突を繰り返し、常に「なんでコイツらは……」と思いながらエギルの眉間に皺をこしらえる原因となったのである。

しかし、何がきっかけだったのか再び二人の間に生ぬるい空気が漂い始め、ラグー・ラビットを仕留めてきた後のキリトがどう見ても自分から飛び込んで来たアスナまで仕留めた時は頭を抱えながら「いいから、店の二階を使え」と自分のねぐらまで提供してやったのだ。さすがに「こりゃあ時間の問題だな」とは思っていたが「結婚しました」のメッセージを受け取った時は「おいおい」を通り越して「おおっ」と思わず歓声がでた。

そして今、懐かしくも思い慣れた感想を再びエギルは胸に抱いている。

今度は何が原因なのか、どんな理由なのか、気にならないと言えば嘘になるが問いを口にする前にキリトからオーダーが入った。

 

「アスナには暖かいミルクココアで」

「そんなもんあるか」

 

カフェバーと称しているが比重としては圧倒的に「バー」の方が重いのだ。さすがにそこまでカフェメニューの品揃えはない。妥協案としてメニューの中で一番カフェインの低い飲み物を提示する。

 

「カフェオレでいいか?」

「ミルク多めな」

「わかった」

 

勝手にオーダーを決められてしまったアスナだったが、むぅっ、と口を尖らせるだけでそれ以上は何も言わず、いつものようにカウンター席へ向かいかけて、トトッ、と何かに躓いたようにバランスを崩す……が、予期していたように素早くキリトが彼女の腕を掴んだ。

 

「危なっかしいなぁ」

「……ありがと」

 

いつもなら嬉しげに細まるはしばみ色の瞳が今日ばかりは少し不本意そうにキリトから視線を逸らす。

キリトはそのまま一番近くのテーブル席のイスを引き、少々強引にアスナを座らせると自らも隣に腰を降ろし背筋を伸ばしてカウンターの方を見遣った。

 

「エギルっ、オレにはコーヒーっ」

「おう」

 

アスナにアイスコーヒーを断念させた手前自分だけがアイスを選ぶ事はないだろうと確認は取らなかったが勝手にホットと決めつける。

手際よく二人分の飲み物を用意し、少し離れたテーブル席まで運び終えるとエギルは再びカウンター内に落ち着き、高校生のカップルが訪れる前まで睨み付けていた鍋の中身の表面を確認しつつも、ふと視線を感じて顔を上げた。

無言で何かを言いたげな目のキリトにエギルは一拍考え込んだ後すまなさそうに片手をあげて詫びの言葉を飛ばす。

 

「悪いが、今ここを離れるわけにはいかなくてな。新メニューを考案してて鍋のアク取り中なんだ」

 

だがら俺のことはNPCとでも思ってくれ、と彼らの会話が誰にも知られる事はないと約束して先程アスナがカウンター席に来ようとしたのを阻止したのはそうゆう理由か、と納得しながら再び鍋の表面に集中し始める。

一方、テーブル席のアスナは温かなカフェオレを一口ゆっくり飲み込んで、ほぅっ、と息を吐いていた。

その様子を見ていたキリトは気遣うように「大丈夫か?」と彼女の顔色を覗う。

 

「うん。いちを今日の検査で定期検診は終わりって事で色々時間かかっちゃってゴメンね、キリトくん」

「オレはただ座って待ってただけだからいいけど」

「でも、待ちくたびれたでしょ?」

「そうでもないさ。倉橋先生からメディキュボイドについて色々と話も出来たし」

 

未だにアスナはその最先端の医療機器の名前を聞くと一瞬表情が強張るがキリトはそこには触れずに「今日の検査結果、出たらちゃんとユイに伝えとけよ」と愛娘の名を出した。

 

「ほんとに、ユイちゃんの心配性は誰に似ちゃったんだろうね?」

 

アスナが《SAO》でのアカウントデータを《ALO》に移行させた為に起こった《離脱現象》の一件以来、ユイは「ママ」と位置づけているアスナの体調を常に気にしている。キリトにしてみれば学校で目を擦りながら欠伸を連発すれば、すぐに「また体重落ちたでしょ。バランスよく食べてる?」と健康を気遣ってくるアスナだって立派な心配性だ。

しかしアスナにその自覚はないのか、今度は隣にある純黒の瞳の中に映る自分を探すように顔を近づけてくる。

 

「キリトくんだって……シノノンから聞いたよ。《オーディナルスケール》で順位を上げる為に随分無茶したって……」

 

途端にキリトの表情に気まずさが広がった。

ユイにはちゃんと箝口令を敷いたのだ。嘘や隠し事はNGだから「詳しく話すとアスナが心配するだろ?」と言って単純に「パパはとっても頑張って順位を上げた」という表現をお願いしておいた。

 

「他のプレイヤーとも衝突したって……」

「まぁ、オレの評判なんて今更だし」

 

自虐的に笑えば反対にアスナが泣き出しそうに顔をしかめたのでキリトは慌てて発言を訂正する。

 

「違うな……オレの評判なんかよりアスナの記憶の方が大切だから」

 

今思い返してみてもあの時の戦い方は酷いマナー違反だと言えるが、ああしなければアスナの記憶は取り戻せていなかったという思いは少しも揺らいでいない。

 

「それに、もう《オーグマー》で戦闘系のイベントに参加する気はないから、それで勘弁してもらうしかないさ」

 

元よりARよりVRの方が肌に合うと言っていたキリトだ、今回の事件が収束した後はそれまで通り《アミュスフィア》ばかりを装着しているし、《ALO》にもプレイヤーの数が少しずつではあるが戻ってきている。

アスナはあまり飲み慣れていないカフェオレを意外にも気に入ったようで、程よい温度の液体をこくこくと美味しそうに飲んでからカップをテーブルに戻し「それでね、キリトくん」とあらたまって両手を膝の上に重ねた。

 

「そろそろお昼のお弁当を再開したいんだけど」

「まだダメだ」

「どうして?、検診だって今日でおしまいなんだよ?」

「さっきも電車の中で寝そうになってたくせに」

「それはっ、横浜の病院の往復と検診で少し疲れたからでっ」

「アスナ……そりゃオレだってアスナの料理は食べたいさ、けど今は弁当を作る為の時間を睡眠にあてて欲しいんだ」

 

一方的にこちらの気持ちを押し込めようとするなら絶対に引かない覚悟だったアスナも、キリトも本心は手料理を欲していると打ち明けられてしまえば強気には出られない。いくら中身を簡単な物にするから、と食い下がってみても二人分の弁当作りを今の起床時間で用意するとなれば、前夜に仕込みを済ませるしかなく、結局睡眠時間を削るしかないのだ。

そもそもただでさえ平時より睡魔が襲ってくるし、担当医の倉橋先生からは脳のスパインの再生の為にも睡眠をより多くとるよう言われているのだからキリトの言い分が正しい事はアスナ自身が誰よりも理解していた。それでもやはりゴールデンウィークを挟んだとは言え一ヶ月近くもキリトにお弁当を作れないのはそろそろ我慢の限界にきている。せめて週に一回、と譲歩案を提示しようとしたアスナにキリトは更に深刻そうに眉を寄せた。

 

「それに……まだ、うなされてる時、あるぞ」

 

ぽそり、と付け加えられた言葉が決め手になったようで、アスナがしゅんっ、と項垂れる。

そうなのだ、旧SAOに囚われていた時もアスナの眠りは極端に浅かった。悪夢を見て目覚めてしまったり焦燥感から眠れなかったりで、いつも四時間ほどうつらうつらした時間を睡眠と呼んでいたのだが、不思議な事に黒の剣士が傍に居てくれる時はぐっすりと眠れたのである。

しかし、今回、事件に気付いた発端が旧SAOの記憶を徐々に消失していく夢だったせいか、記憶が戻った後も眠いはずなのに眠ると悪夢を見るという症状に悩まされていたアスナがとった行動が《ALO》にログインして森の家で眠る、という方法だった。

もちろん、この方法はもう一人のログハウスの所有者であるキリトにすぐにバレてしまい、このところ毎晩彼の腕の中で眠るという状況になっている。

アスナとしてはこの方法で随分と睡眠改善はされたものの、ごくたまにあの時に見たのと同じ夢を見ていた事をキリトに気付かれていたと知っては余計に自分の意見が通しづらくなってしまう。流石に夢の内容は余計心配を掛けるだけとわかっているので打ち明けていないが、お弁当の再開を説得する材料として、そろそろログハウスで寝なくても大丈夫だと伝えるつもりだったのに、それすら口に出来ない現状には「う゛う゛ぅっ」と諦めきれない呻き声しか絞り出せない。

一方、カウンター内でアク取りに専念しているエギルは聞くともなしに耳に入ってくる二人の会話から再び「おいおい」と内心で溜め息をついていた。

どうやらキリトはアスナが記憶の一部を無くした時から一緒に病院まで付き添っているらしい。

お前はアスナの親かっ、家族かっ、とツッコミたいところだがゲームであってゲームではない世界で結婚をした二人は既に世界の有り様など関係なく互いが伴侶という存在である事に何の疑問も抱かなくなっているに違いない。それを受け入れている倉橋とかいう医師も医師だが……と思いつつもエギルは自分の勘が正しかったことに微動の範囲で頷いた。

やっぱりコイツらログハウスで一緒にいたんだな……と確証を得た今では「おつかいメモ」に書かれていた植物の肥料や稀少なスパイス、滅多に出回らない染料などの使い手は自ずと分かってくる。多分、キリトが宣言した通り、あの二人は毎晩あのログハウスで思い思いにのんびりと過ごした後、揃って眠りに付いていたのだろう。

店に入ってきた時はいつもと違う滑らかさを欠いていた二人のやり取りにクエスチョンマークを浮かべたエギルだったが、アスナの事はキリトに、キリトの事はアスナに任せるに限る、と結論付け、結局行き着く先はいつもの通り「気を揉む必要はなかったな」に落ち着いた。それでも助けが必要だと言われればいつでも手を貸す心構えだけは整えておいて、エギルは鍋に蓋をして火を落とし「何かあれば奥にいるから呼んでくれ」と告げてその場から姿を消す。

いくら絆が強くともそこはまだ年若い二人だ、まだまだこれからも「なんでコイツら、こんな感じになってるんだ?」と首を傾げたり、いかつい顔面を引き攣らせる事態も起こるだろう、けれどエギルはこの二人と出会った当初からそれを迷惑とは全く思っていないのだから。

そして、そのエギルの退場を見届けたキリトはイスごと更に近づけて改めてアスナに向き合った。

医師からもより多くの睡眠を要請され、本人も昼間でさえ眠気と戦っている節がある体調では、とにかく素直にたっぷりと寝て欲しい……出来れば自分の目が届く場所で、というのがキリトの正直な気持ちだ。

学校で昼食を一緒に食べる時も待ち合わせの場所では、先に到着しているアスナがとろんっ、とふやけた目で無防備にキリトを待っているし、さっきの電車内でも欠伸を噛み殺す「っんぁ」という声はキリトだけでなく周囲の男性乗客達の本能にも揺さぶりを掛けていた。おまけに無自覚に庇護欲をかき立てられるどこかぼんやりとした佇まいはキリトがこれ見よがしにアスナの身体を支えていなかったら、車両の震動で少しでも不自然にその華奢な体躯が傾けばすぐさま救いの手と声が集中したことだろう。

だから《ALO》でも不特定多数の目に触れないようログハウスで過ごすようにしているのだが、確かに今日は横浜までの往復と検診後という疲れもあって、ふわんふわん感が盛大に駄々漏れていただけなのかもしれない、と思い直せばキリトの意思が少しだけ欲に負けて緩む。

もともとあの事件とは関係なくキリトと一緒ならゆっくり眠れるアスナなのだ。旧SAOの森の家で過ごした二週間の間はそりゃあもう二人で場所や時間も気にせずひっついて惰眠やあれやこれやを貪っていた。

そんなキリトのほんの少しの心境の変化に気付いたアスナは、説得の糸口を逃すまいとするようにテーブルの上にあった彼の指先をそっと掴まえて、自分の記憶と見比べる。いつの間にか繋ぐことが当たり前になっている彼の手は《仮想世界》で黒の指ぬきグローブをはめて生死を賭けた戦いをしていた頃とはやっぱり少し違っていて少年から青年に変わろうとしていた。けれどその違いに気づけるのもあの時の記憶があるお陰だ。

 

「あのね、私の部屋のカレンダーにキリトくんと星を観に行く約束の日にシルシをつけてあったんだけど……」

「……うん」

 

突然話し始めたアスナに手を握られているキリトは戸惑い顔で耳を傾ける。

 

「あの二年間の記憶がない時は、そのシルシを見る度に胸が苦しくてね」

「アスナ……」

「だって折角キリトくんが約束を叶えようとしてくれているのに、私自身が約束した事を覚えてないんだもの。それにラグー・ラビットのシチューも……その味を思い出せない自分がすごく悲しくて……」

 

昼食に作ったのがパスタだけだと知って驚いたアスナがキリトに求めた手料理のリクエストに、その時は冗談半分の軽い気持ちで答えた思い出の味だ。その後は思い返す余裕もなかったせいで何の配慮も出来なかったが、あの約束もアスナにとっては心の負担になっていたのだと知って今度は逆にキリトがアスナの両手を包み込む。しかしそれに応えるアスナの声は既に記憶と共にいつもの柔らかさを取り戻していた。

 

「だから……記憶が戻ってキリトくんが喜んでくれた味とかメニューを思い出したら、早く作りたくなっちゃって……」

 

なるほど、弁当の再開を切望していた理由はそれか、とアスナの自分への想いに思わず頬が緩んだキリトは照れくさそうに俯いている彼女へと更に距離を詰める。

 

「そうだな、アスナには美味い料理をたくさん作って貰ったし」

 

だったら弁当を再開した時の最初は何がいいかなぁ、と頭の中に食べたい物リストが表示された時、近づいていたからこそ聞き取れたか細い声が、すうっ、とキリトの耳に忍び込んでくる。

 

「それに……その……あのお家で過ごした二週間も色々思い出しちゃったから……」

 

一瞬の間が空いた後にキリトの脳内から料理のリストはきれいさっぱり消えていた。

 

「ああ、確かに……色々したもんな」

 

品行方正な優等生を自負していたアスナがアイデンティティを疑うほど濃い内容の二週間を一気に思い出したのなら、今、目の前で耳まで真っ赤になっている理由はだいたい想像がつく。

誰もいない《ダイシーカフェ》のフロアで、彼女の耳元まで唇を近づけたキリトは意味深めに声を潜めて低音で囁いた。

 

「アスナ、寝なくていいなら……寝かさないけど?」

「ええっ!?……それはっ、そのっ…………もうちょっと、待って欲しいって言うか……」

 

今更動揺する自分もどうかと思うがアスナはあくまでキリトにお弁当を作りたいのであって、そういう行為をお願いしているわけではないのだと、より一層赤みを増してしまった顔を隠そうとして両手をしっかり捕まえられている事に気づく。これではもう俯く以外方法がなくて肩をすくめながら上体を逸らそうとするが、がっちりと固定されてしまった両手のせいでほとんど身動きが取れない。

 

「寝なくても、大丈夫なんだろ?」

 

幾分からかいの色が混じっているようだが目を白黒させているアスナは「そうなんだけど、そうじゃなくて」と筋の通らない言葉を並べるのに精一杯だ。

キリトとしてもアスナの言いたい事は十分わかっているのだが、時折、自分の腕の中で顔を歪ませて悪夢にうなれされている彼女を知っているだけに情に流されて安易に「もう大丈夫かもな」という判断はくだせない。どうにかこの場を収めたいアスナのあたふたとした表情を楽しんだキリトはわざとらしく、うむうむ、と頷くと嘘くさい笑みを顔に貼り付けた。

 

「二人で暮らしたあの二週間の間も、夜更かしして出掛けたりしたよな。それこそ夜空を見に散歩したり」

 

キリトの台詞から顔の朱に羞恥とは別の感情を混ぜ合わせたアスナは、キッと涙目で睨み付ける。

 

「もうっ、からかったのねっ」

「一体何を思い出してたんだ?」

 

問われたところで到底アスナの口からは説明できない。それはキリトもわかって聞いているのだから、ぷうっ、と膨らんだ抗議の頬を見て、苦笑したまま彼女のおでこに自分のそれをくっつけて今度こそ素直な声を出す。

 

「な?、オレも我慢するから、アスナももう少しだけ我慢してくれ」

 

キリトの言う「もう少しの我慢」が何を指しているのか、確認したいようなしてはいけないような複雑な気持ちを抱えたまま、今度はアスナからも唇を寄せて甘くまろやかな声で「もう少しだけ、ね」と期待を持たせる言葉を返したのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
懐かしいですねぇ。

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