ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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和人と明日奈の息子、和真が小学校四年生の時のお話です。


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小学校の「相談室」というプレートの付いている、いわゆる多目的室に通された明日奈は一般教室で使用されている物よりは座り心地の良いイスに浅く腰掛け、スッと背筋を伸ばして口元だけ微笑みの形を作り、冷めた声で「息子がお世話になっております。四年生の桐ヶ谷和真の母です」と自己紹介を終えた後、一段声を低くして対面している校長に細剣から繰り出したような鋭い視線を突き刺した。

 

「納得出来る説明を求めます。なぜうちの和真くんのお友達のユウくんが反省文を提出しなくてはいけない事態になっているのかを」

 

薄く艶めいた桜色の唇から発せられた言葉の意味を理解しなくては、と思うのに本年度から校長という役職でこの小学校に着任した中年男性は向かい合っている保護者の姿に釘付けになっている。彼とて三十年以上公立小学校という生の教育現場で懸命に働いてきたのだから、それこそ何千人という保護者に対面してきた。管理職になった年齢を考えれば小学生の保護者で自分よりも年上の者は希で、だからこそ余裕のある態度で接する自信もついていたはずなのだ。けれど今、自分の目の前にいる女性ほど圧倒的な存在感を放つ人物にはお目にかかった事がない。

綺麗な身なりの保護者、と言うならここまでの驚きはなかっただろう。

今の時代、男女問わず育児や家事、仕事と多方面での役割を担うのが当たり前で、自分の外見や内面に気を抜かず常に向上意識持ち続けている人間はいる。

しかし結城和真の母親のそれは明らかに一般人とは一線を画していた。

まず、単純に「小学生の母親」と言われて信じる人間がどれほどいるのだろう?、という若々しさは立場がなければ「一体何歳の時に産んだんですか?」と聞きたくなってしまう。よく耳にする若い頃のスタイルや肌状態を今も維持している、というある意味での年月の経過は微塵も感じられず、素直にあり得ないレベルの年齢詐称というのが一番納得できる容姿だ。それなのに彼女からは積み重ねてきた時間以上の多種多様な経験と深い知識、華奢な身体に眠っているカリスマ性と神秘性が僅かににじみ出ていて、静かな憤りの光を内包しているはしばみ色の瞳と相まって、威圧感のような重くて固い壁が押し迫ってくるのとは違う、薄くて柔らかいのに決して歪まない膜が何層にも重なり広がっては自分の身体を通り抜けていくような感覚の享受に手一杯だった校長は再び明日奈の「校長先生?」という声で我を取り戻した。

 

「し、失礼しました」

 

来客の為に用意されたお茶だったが明日奈が手を付けるよりも先に自分の分をグイッ、と飲んで喉を潤した校長は声の調子を確認するように軽くコホッと咳払いをして「申し訳ありませんが」と改めて話の詳細を求め、今度こそ意識を彼女の言葉に集中させる。

 

「隣のクラスのユウくんが反省文の作成を担任の先生から言い渡された件についてです。うちの和真くんが三日前に一緒に下校をしたそうですが、それは無理矢理ではありません。本人の意思です」

 

その言葉に校長は少し考え込んだ。親から友人関係やそれにまつわる行動理由を問われれば、本人にとっては不本意だったとしてもその感情を素直に告げる子ばかりではない。そんな例はこの三十余年現場でいくらでも見て来た。

 

「そうはおっしゃりますが……」

「校長先生は御存知でしょうか?、ユウくんの通学路は途中までうちの和真くんと一緒なんです。低学年の時は同じクラスだったので下校後、一緒に遊んだりもする仲でした」

「はあ……」

 

確かに本年度赴任した校長としては前年度以前のクラス名簿までは把握していない。しかし夏休み前までは仲良しだった子達が夏休み明けにはそれぞれ他の子と仲良くするなど当たり前の話で、低学年の頃の友情が今も続いている確証はないだろう。

校長の薄い反応で心の内を察した明日奈だったが構わずに続きを話した。

 

「確かに今はクラスが違うので息子から一緒に下校したという話は最近聞いてませんが、だからこそ三日前はたまたま昇降口で顔を合わせて久しぶりに帰ろうという事になったんです」

「なるほど」

 

そこまで話を聞いていた校長はさっきから明日奈が口にしている「反省文」という言葉が何を指しているのかに気付いて少し背筋を伸ばし彼女の言葉ひとつひとつを吟味するように目を細める。

二日前、学年主任からその前日の夕方、地域の住民から学校に通報があったとの報告が上がっていたからだ。

通報があった日…つまり今から三日前は午後から学校を不在にしていたので急を要しない連絡事項は一昨日まとめて聞いたのだが、その内のひとつに我が校の男子児童の二人が通報者の家の前を歩いていたのだと言う。それだけなら何ら気になる光景ではないのだが、内ひとりがもうひとりの荷物を全て持たされていたというのだ。しかも二人はそのまま進行方向の途中にあるコンビニに入って行ったのだと。

荷物を持っていない男子はいつもその道を通っていたから通報者も顔だけは知っていたらしく、多分三、四年生くらいだと言うので、それを元に学校側は通報者の住所前を通学路にしている児童を調べた。結果、その道を通る児童は一人しか該当せず、それが明日奈のいうユウくんだったのだ。

早速、担任教諭がそのユウくんの家へと電話をしたが連絡が取れず、翌日は彼の母親から病欠願いが出て欠席だった後、昨日登校してきた彼に事実確認をした担任の対応が「反省文を書かせる」になったのだと昨日の放課後、校長は学年主任から報告を受けていた。

すると通報者が見た男子児童のうち、二人分の荷物を持っていたのが桐ヶ谷和真だったのだろう。

確かに数年前は息子と仲良しだったはずが今は荷物を持たされるような関係になってしまったというのは親としては受け入れがたい事実だと思うが、と校長は少し気の毒そうな目で明日奈を見る。

けれどやはりこんなケースは決して珍しい事ではなく、教師側としてはむしろ多人数の荷物を一人の児童が預かるようなケースでなかった事に安堵すらしたほどだ。

二人の間でどういったやり取りがあったのかまでは確認していないが、反省文という比較的軽い対応なら荷物に関しては巫山戯半分の可能性が高く、どちらかと言えば下校中にコンビニに立ち寄った事への反省を促していると考えられる。

 

「桐ヶ谷さん、御存知と思いますが下校途中の購買行為は校則で禁止となっているんです」

 

しかも通報者の言によればコンビニで買い物をしたのは和真で、ユウくんはコンビニの前で中身を確認するように袋の中を覗き込み、うんうん、と頷いていたそうだ。そこで荷物を持たされ、買い物まで要求されたと確信した通報者は急いで学校に連絡してきたのである。

こういった場合、大半は自分の息子を被害者と捉え、学校側の指導の至らなさや生徒同士の関係性を把握しきれていなかった点への謝罪や改善を求めてくる保護者が多いのだが、桐ヶ谷和真の母親は自分の息子の為はもちろん、何より加害者と認識してもおかしくないユウくんの為に学校までやって来ているのだから校長としてはどうにも違和感を感じる。

和真への対応は担任からの口頭注意で終わっているはずで、それに関しての異論はないのだろう。

明日奈の感情を的外れの物と見くびっているような、妙に穏やかに話す校長へそれでも明日奈は瞳の鋭さを鈍らせずに真っ直ぐに返した。

 

「コンビニに寄った事が校則違反なのは和真くんもユウくんも承知の上ですから担任の先生から注意を受けた事は息子も私も当然と思っています。それでも立ち寄った理由を校長先生は御存知でしょうか?、うちの和真くんが何を購入したのかを」

 

そう問い返されて校長は言葉に詰まり眉間に皺が寄る。

なぜならそこまで詳細には事態を把握していないからだ。二人分の学校の荷物を和真一人が持っていた事とコンビニに寄った事をユウくんが認め、和真が買った商品は全てユウくんが貰った事も分かったので、ユウくんの担任は彼を加害者的な立場とみなし、とりあえず校則違反のコンビニの件を含め友人との接し方についての反省文を求めたという事だったはずだ。

答えられない校長に対し明日奈の声に怒りの刃が潜む。

 

「三日前、うちの和真くんはユウくんと一緒に下校している時、彼の様子がおかしい事に気づきました。ユウくんの顔が真っ赤でおでこが熱くてびっくりしたそうです。きっとその日は学校でも体調は良くなかったと思いますが……」

 

ここで明日奈がスッと目を細め、言葉に重みをかけた。

 

「担任の先生はお気づきにならなかったんですね」

 

校長は背筋に一滴、氷水が垂らされたような冷たい感覚に思わず身を強張らせる。

 

「だから和真くんはユウくんの荷物を持ってあげたんです。そしてそのまま分かれ道で別れる事なく彼の荷物を持ったまま家まで送りました。その途中、ユウくんはお母さんと二人暮らしで、夜にならないとお母さんが帰ってこない事を知っていた息子はユウくんにスポーツドリンクなどが必要だと考えました。そこで校則違反だとわかっていながらコンビニに寄ったんです。他にも冷却ジェルシートやゼリーを購入したそうです」

 

明日奈の口から語られる未知の事実に徐々に校長の顔から余裕が消えていった。

この「相談室」で初めて相対した時に抱いた見惚れるような浮ついた気持ちはきれいさっぱり無くなっており額にじわり、と脂汗がにじみ出てくる。

 

「そう……でしたか…………」

 

絞り出した声は果たして目の前の女性に言葉として届いたかどうか、それすら自分の耳では判断できないくらい校長の脳内は問題が山積みになっていた。表面上の報告と地域住民からの声を頭から信用して子細には疑問を持たなかった彼の浅はかさは着任早々の大失態だ。さすがにここまで聞いた全部が明日奈の作り話と疑うほど愚鈍な頭脳でなかった事は幸いだろう。現にユウくんはその翌日学校を病欠しているのだし、和真が嘘を練り上げたとしても明日奈ならそれを簡単に見破るはずだ。

これでは桐ヶ谷和真の母親の目的である「納得出来る説明」など並べられる物はひとつもない……そう焦った校長は乾ききった喉を潤そうと持ち上げた湯飲み茶碗の軽さに自分の分のお茶などとっくに飲み干していた事に気づいてそのまま茶托に戻した。

しかし本来なら説明を求めてくるのはユウくんの母親の方なのではないか?、確かに勝手に被害者扱いされた和真にも不満はあると思うが校則違反の自覚はあるそうだし担任からの注意も素直に聞き入れているのなら、と考えていた校長の思考は再び明日奈の鋭利な声に射貫かれる。

 

「ユウくんのお母さんからはその夜連絡がきてお礼の言葉を何度もいただきました。ユウくんの容態は落ち着いていたようですがそれでも大事を取って翌日は学校を欠席させるとおっしゃっていたので私も和真くんも安心していたんです。ところが今日になって学校から帰ってきた息子がすぐに私に伝えに来ました。先日のコンビニでの買い物の件が自分は先生から注意を受けただけだったが、ユウくんの担任の先生は友達との付き合い方も含めて反省しなさい、と作文で提出するよう言ってきたと」

 

校長はもう俯いて痛む頭を押さえるしかなかった。

 

「当事者である児童からは一切説明をさせず薄っぺらい事実確認だけをして反省文を書かせるなんて……私にはどうしても…納得…出来ません……」

 

努めて平静を装っていもののついに堪えきれなくなったのか明日奈の柳眉が苦しそうに歪み言葉の語尾が震えている。

 

「和真くんが言うには……ユウくんは、先生に反抗して…それでお母さんに連絡がいくと……心配を掛けるから、と……」

 

要するに不本意でも反省文を書いて事を穏便に済ませたいという彼なりの母親への気遣いなのだ。ユウくんの想いが更に追い打ちとなり校長は顔を上げられないまま今後の対応について必死に考えを巡らせていた。

一方、明日奈の震えは声だけに留まらず膝の上に重ねられていた両手までもがいつの間にか固く握り合い細かく揺れ動いている。

明日奈は大人としての振るまいよりも自身の感情が膨れあがってくのを感じながら、キュッと唇を引き締め、校長に真っ直ぐ視線を注ぎ、校長は校長でそんな視線には一切気付かず、まずはユウくんとその母親に対し今回の問題をどう理解していくべきか話を組み立てるのに夢中で、結果「相談室」にはちぐはぐな静寂が流れていた。

取り敢えずは認識を共有する為にも当事者である二人の生徒のそれぞれの担任や学年主任に話をしなければ、と顔を上げた校長は明日奈にもう一度事の詳細をきちんと確認する旨を伝えようと口を開いたまま思わず固まった。なぜならそこにはプルプルと唇までも震わせて目の縁を朱に染め上げ、懸命に自分を睨み付けている…………それは頼りなげな顔があったからだ。

 

「え?……あの、桐ヶ谷さん?」

 

歳相応の落ち着きはどこへやら、校長の声が上ずり思わず腰を浮かせて「どうかしたんですか?」と片手が伸びそうになった時、ノックもなしにいきなりガラッ、と「相談室」の扉が開いた。

 

「明日奈っ」

 

突然乱入してきた男性は校長の存在など一瞥もくれず一直線に明日奈の元へと駆け寄る。と同時に自分の名を呼ぶ声に反応した明日奈が立ち上がって驚きという感情に顔も身体も支配されていると少々乱暴とも言える仕草で頭を抱き寄せられた。

自分の胸元に明日奈の顔を押し付けた和人は、ふぅっ、と息を吐いてから小さく「間に合ったようだな」と落としてからそのままの体勢で校長に向け何でも無いような声で「桐ヶ谷和真の父です」と身分を明かす。

いきなり入室してきた男性の後を追って来たのだろう、出入り口に立っている事務の女性に視線で問えば無言で頷いているし、和真の母親が何の抵抗も見せていないのだから身元に間違いはなさそうだと校長も挨拶を交わすべく立ち上がった。

けれど一言も発する暇すら与えてもらえず明日奈の頭部を抱えている手とは反対の手が、待ったをかけるように突き出され発言権を奪われる。

 

「事の次第は把握してます。言うべき事は妻が言ったと思うので速やかに対処にあたって下さい。それともなにか、まだ他にうちの妻に用件が?」

 

漆黒の瞳に一瞬、刃物のような鋭利な光が横切り校長は発言権どころか発言の自由さえ斬りふせられた。半強制的に操り人形よろしく首を横にふる校長へ和人は表情ひとつ変えずに次の指令を出す。

 

「オレ達の事はお構いなく。妻が落ち着いたら連れて帰りますから」

 

言い終わって扉に視線を移したのは早くここから立ち去れという意味なのだろう、と察し、校長は和人の胸元に顔を押し付け僅かに肩を震わせている明日奈に頭を下げた。

 

「わざわざ足をお運びいただき有り難うございました。今回の件、早急に詳細を確認し、ユウくんと親御さんには私から直接話をしたいと思います。もちろん学級担任にも適切な指導を行い、全教職員で問題点は共有しますので」

 

続けて和人に軽く会釈をした校長は駆け足に近い速度で扉まで移動し興味津々に室内を覗いていた事務員を急かして「相談室」から去って行ったのである。

丁寧にもパタンと扉が閉められたのを確認した和人は一気に肩の力を抜き、それから少し上がっていた息を整える為、深呼吸をしようとしてちょうど心臓の辺りにくっついている小さな頭を見た。苦しくない程度の力で押さえつけているから少し耳を澄ませば明日奈の「ひっく」としゃくり上げる声が漏れて聞こえてくる。この声さえ他者には聞かせたくなくて追い立てるように校長を退出させたのだ。当然明日奈の泣き顔など自分以外の誰にも目にさせるわけにはいかない。

深呼吸は諦めて頭部に触れていた手の力を抜き、そのままゆっくりと髪を撫でながら「明日奈」と呼びかければ見上げるようにして鼻を赤くした泣き顔が現れた。

 

「っう……だって……ユウくん、とっても……ふぇっ……良い子なのにっ……」

 

「そっか」と答えてから細い背中に手を回しポンポンと軽く叩くと今度は明日奈から和人の胸元へ頭をこすりつけてくる。すん、すん、というすすり泣きはまだ止まらないようだ。

取り敢えず背中を支え、明日奈の頭を褒めるように優しく撫でつけていた和人はふと遠い記憶を思い起こした。

明日奈の涙を初めて見たのは《SAO》の第五層フロアボス《フスクス・ザ・ヴェイカントコロッサス》という巨体ゴーレムを倒した後だ。フロアで二人きりになった時、彼女はキリトの為に静かに涙を流し続けた。

明日奈はいつだって自分の為ではなく、他者の為にその綺麗な涙で頬を濡らすのだ……だから和真には随分前に告げて置いたのである。何かあったら迷わず連絡しろ、と。

その時の和真はピンときていない様子だったが、今回は「よくやったと褒めてやらないとな」と息子の判断能力に満足げに頷いた。

今日はたまたま同僚の松浦の代わりに第一分室へ出向いていたのもラッキーだったのだ。ユイ経由で連絡が来て既に帰り支度を始めていた和人は挨拶もそこそこで分室を飛び出し、移動途中で事のあらましを聞いて真っ直ぐ和真の小学校へタクシーで乗り付けたのである。

とにかくあの校長に妻の泣き顔を見られずに済んでよかった、と安堵でもう一度「ふぅ」と細く息を吐けば只管触れ続けていた明日奈の頭がおずおずと動き、それに気付いた和人も手を止めて気遣うように首を傾げた。

 

「明日奈?」

「あ、ありがと、和人くん。来てくれて…………えっと…ユイちゃんが?」

「まあ直接的にはユイだけど、ユイに頼んだのは和真だよ」

 

携帯端末の向こうの息子の声は珍しくオロオロとして『お、お父さんっ、お母さんが、お母さんがね、小学校に行ってくるね、って』……なんでもその時の明日奈の笑顔が怒っているような泣いているような、今まで見た事の無い物だったらしく和真は一瞬で今が父親に連絡をする時だと直感したらしい。そこからはユイのフォローもあり明日奈の携帯端末の場所を目当てにここまで辿り着いたというわけだ。タクシーの中で和真からそれまでの経緯は理解したが、聞けば聞くほどこれは明日奈が感情を高ぶらせるだろうと確信した和人は彼女の瞳から涙が決壊する前に抱き寄せられた事に心から安堵し、未だ頬に残る光の筋に唇を寄せる。

和人からの刺激に反応して「ンっ」と小さくあがった涙声が妙に艶めかしい。

それにしても、校長も感じたようにいくら自分の息子が訴えたとしてもここまで理不尽さに憤るとは、いつまでも純粋な輝きを持つ明日奈へ和人が少し困ったように、でも優しく微笑む。

 

「そういうところ、本当に変わらないよなぁ」

 

もちろん変わってほしいわけではなく、むしろ変わらない強さが和人の好む明日奈らしさだ。

 

「だっ…だってぅ…………ふっ…ぅンっ……」

「涙、止まったな?」

「ん」

 

仕上げにそっと抱きしめ、いつもの明日奈へと戻る時間を二人で過ごす。

少し前まで窓の外から聞こえていた児童達の元気な声はすっかり消えていた。するとその静寂も手伝って冷静さを取り戻した明日奈が「あっ」と焦りを混ぜた声を上げる。

 

「芽衣ちゃん、大丈夫かな」

「ユイと和真が面倒見てるだろ。オムツの交換は和真も出来るし、作り置きしてある芽衣用のビスケットとゼリーがあれば問題ないさ」

 

離乳食が進んでいる芽衣の為に明日奈が手作りしている間食用のビスケットとゼリーは大のお気に入りで、食べる姿が可愛いくてつい与えすぎてしまうくらいだ。

 

「そうだ、明日奈。ゼリーと言えば和真がそのユウくんとゼリーを買った時の話、知ってるか?」

 

当然興味を持った明日奈が顔を上げて涙ではなく好奇心で瞳を輝かせ話を続きをねだる。

 

「うちだと誰かが熱を出した時、ババロアを用意するだろう?」

 

それは、こくり、の無言で頷いた彼女が決めた桐ヶ谷家のルールみたいな物だ。ただその理由はまだ十代の頃、明日奈が和人に作ったお弁当のデザートや和人が熱を出したと知って持参したお見舞いでゼリーやプリン、ババロアを手渡した時、彼の反応でパパロアが一番好感触だったからだが、当の本人は気付いてないらしい。

 

「それで和真もユウくんにババロアを、と思ったらしいんだけど生憎コンビニに置いて無くて、それでゼリーを買ったらしい」

「そうだったのね」

「その時、和真がうちではババロアを食べるんだ、とユウくんに教えたら、ユウくんはババロアを食べた事がないって……」

 

そこまで言えば察しの良い明日奈のことだ「わかるだろ?」という意図を込めて和人が笑えば、はしばみ色の瞳は更に輝きを増した。

 

「そんなのっ、お鍋いっぱい作ってあげるのにっ」

 

再びぷるぷると震えだしそうな細い身体を和人は笑いながらキュッ、と腕の中に閉じ込める。

 

「まぁ、それでも喜ぶだろうけど……和真ももうババロアなら作れるし、今度ユウくんを誘ってうちで二人に作らせたらどうだ?」

 

念の為明日奈が一緒にキッチンに入れば危ない事も失敗もないだろうと提案した和人はさっきとはまた違う古い記憶を掘り起こし、自分も友と懸命にチーズケーキを作った思い出を懐かしんだ。




お読みいただき、有り難うございました。
なぜ「ユウくん」なのか……それはキリトもアスナも
「ユ」から始まる大切な友がいるので、息子の
和真もそれに倣ってみました。
(よって名字も付けられず、漢字にもできず……)

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