ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

97 / 150
前回の「想い、想われ……」の続きです。



思いの違い

「アスナ?」

「アスナさん?!」

 

隣から和人の声が、向かいから直葉の声がほぼ同時に飛んで来て、「えっ?」と驚いた明日奈は手にしていたフォークが皿の縁に当たりカチャンッと耳障りな接触音を立ててしまった。

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

咄嗟に謝ってしまったのはここが母と一緒の食卓や結城の本宅だったら絶対に許されない行為だからだ。

 

「いや、謝んなくたっていいけどさ、どうしたんだ?、大丈夫か?」

「そうですよ。今日は朝から出掛けてて疲れてるんじゃないですか?」

 

気遣われる理由がわからずに小首をかしげると正面に座っている直葉が恐る恐る、といった声で「それ」と明日奈の手元を指さしてくる。

 

「フォークですよ、アスナさん」

 

指摘されて視線を落とせばシチューを食べようと右手が握っているフォークがかろうじて人参を引っかけていた。

 

「ええっ!?」

 

自分で自分の行為に驚いている明日奈だったが、その様子に納得した上で呆れているような兄の姿に直葉は逆に安心を覚える。いつも沈着冷静な彼女がこんな状態の理由に心当たりがあるのだろう。でなければ「熱でもあるのか?」とか大騒ぎするに決まってるのだ。

今日は朝から兄と二人で少し遠くまで出かけていたようだし、そのまま桐ヶ谷家に来て夕食まで作ってくれたのだから多少疲れが出ているのも本当だろうと推測して、直葉は深く詮索はせずに「アスナさんでもぼんやりする事、あるんですねっ」と笑って彼女の得意料理の代名詞とも言えるブラウンシチューを口いっぱいに頬張ったのだった。

 

 

 

 

 

「買い物から調理までやって貰ったんだから、後片付けは私がやりますっ」と宣言された明日奈は二階へ続く階段口までギュウギュウと追い立てられるように直葉に背中を押され、戸惑いの歩みでそれでも最後には「ありがとう」と言って手すりを掴んだ。

後ろでは二本の冷えたペットボトルを持った和人が笑っている。

 

「客間にお布団も用意しておきますからっ」

 

昼間訪れた水族館でスグのお土産にと明日奈が選んだクッキー効果だろうか?、と思いながら和人も「じゃ、後は頼んだ」と妹の横を通り過ぎ二言三言、言葉を交わしてから先に上がっていった明日奈の後を追った。

水族館のお土産コーナーには水の生き物を模したクッキーが数種類あって、明日奈が迷わず選んだのが『クラゲクッキー』だったのだ。和人は内心「え、ホントにそれにするの?」と思い「なんだか原材料がクラゲか、クラゲの味がするクッキーみたいだな」とも思ったが、もちろんそんな材料でも味でもなく単にクラゲ形をしているクッキーだ。ただ、パッケージを見ないと「クラゲ」だとはわかりにくい造形になっているだけで……他にもペンギンクッキーやイルカクッキーがあって、どう見てもそれらの方が売れ行きも好調のようだったが、果たして直葉の反応は?、と思えば和人の予想に反して妹は大喜びしたのである。

 

『なんだかトンキーみたいっ』

『でしょ?、私もそう思ったのっ』

 

どうやら明日奈は兄である和人よりも直葉の好みを把握しているらしい。さすがに羽らしき物はないが角度を変えれば羽化前のキリトが表現した「象くらげ」にも見える……気がする。

とにかく妹の全面協力のもと、夕食後、二階の自室へと明日奈を招き入れた和人はドアをパタンと閉めた後、ぼんやりと部屋の真ん中で佇んでいる明日奈の手を引っ張り、並んでベッドに腰掛けた。「ほら」と言って渡したお茶のペットボトルも「うん、ありがと」と受け取ってもらえたが彼女の両手の中で握られたままだ。

少し俯いている明日奈の頭を後ろから抱えて自分の方へ傾ければ、小さなそれは簡単に和人の肩に寄りかかってくる。困っているとか迷っているといったシンプルな感情ではなく、きっと明日奈の中でも色々混ざり合っていて気持ちの整理が付いていないのだろう。だから常に頭から離れないのだ。

そういう時はいくら考えても答えは出ないのかもしれないが、とにかく彼女が落ち着くまで待とう、と和人は栗色の髪を彼女の耳にかけながら、自身もまた数時間前、明日奈の同級生との偶然の出会いを思い返した。

 

 

 

 

 

『結城、さん?』

 

それは水族館の最寄り駅から川越に向かう途中、乗り換えの駅で聞こえた小さな声が発端だった。

すぐに反応した明日奈がピタリと足を止め、声の方向にゆっくりと顔を巡らせる。声の主は自分と明日奈との間を行き交う人の流れが途切れるのを待ってゆっくりと近づいて来た。けれどそこに明日奈の笑顔はなく、それどころか声に反応した時のまま驚きで止まっている。

 

『こんな所で会うなんてね』

 

ショートボブの少女が大きな瞳をくるりと回して少々芝居がかった微笑みを明日奈に向けた。けれど彼女の目はそのまま明日奈の内面までも暴くようにジッ、と見つめたまま顔から髪、そして首元から腕や胸へと移動して足元まで下りた後、再び顔まで戻って来る。

 

『元気そうね。退院したのは知ってたんだけど……あの病院もうちの系列だし。随分強引なリハビリをしたって聞いたわ。相変わらずなのね結城さん』

 

相変わらず、と言う声が妙に冷たくて、明日奈がよろけるように一歩下がるとそれを補うように和人が一歩前に出た。

 

『あら、彼氏さんかしら?、へぇ、貴女が男の人と二人でお出かけなんて少し意外だわ。それで今度はその人の後ろに隠れるの?』

 

挑むような口調に明日奈がきゅっ、と唇を引き結んではしばみ色の瞳に意志を宿す。

 

『……三郷(みさと)さん…確かにあの頃、私はあなたの後ろにばかりいたけれど、彼はそういうんじゃないの』

 

三郷と呼ばれた少女は少し面食らったように目を瞬かせた。その間に明日奈が和人の隣に来ると寄り添う隙間ですぐに手を握られる。安心して握り返し、大丈夫だよ、と伝えるように軽く頷いてから『紹介するね』と彼女を真っ直ぐに見た。

 

『小中学校が一緒だった三郷さん。あの事件で入院していた病院も彼女のお父様が経営しているの……三郷さん、彼は桐ヶ谷くん。今は同じ学校に通ってるわ』

『と言う事はこの人も生還者なのね』

『ええ』

『貴女がゲームの世界に囚われたって聞いた時は驚いたけど……だってオンラインゲームなんて全く興味なさそうだったでしょ?』

『うっ』

 

確かに、あの頃の自分を振り返ってみると興味どころか勉強の妨げにしかならないという認識だったから三郷の驚きは最もだったろう、と言葉に詰まる。

 

『もしかしてこの彼に誘われたの?』

『違うわっ、あれはあくまで私の意志よっ。それに彼に出会ったのはあの世界に閉じ込められてからだものっ』

 

和人が悪者扱いされるのは我慢出来ないと声を荒げた明日奈の勢いに三郷が一瞬驚いた後、珍しい物を見たと言いたげに淡いピンク色の唇で弧を描いた。

 

『あら、自分をちゃんと出せるようになったんだ』

『…え?』

『だって貴女、同じ女子校だった頃、駆け引きめいた言葉のやり取りや理不尽な会話には無関心なのかと思ってたら、私の後ろで聞いている間、すっごく我慢してたじゃない』

 

気付いてたわよ、といわんばかりの優越感を滲ませた口調に明日奈はポカンと口を開ける。

 

『うちの学校の生徒って周囲からの期待とか義務感でストレス数値高めが当たり前だし、発散方法間違ってる子や溜め込む子も少なくなかったから』

『気付いてて……』

『まさか「言ってくれたらよかったのに」なんて思ってないわよね?…そういうお友達ごっこ、私、好きじゃないし』

 

バッサリ言い切ったわりになぜか三郷の頬が僅かではあるが赤く染まっていて、気のせいか視線も揺らいでいた。

確かに、あの頃の明日奈では隠していた感情に気付かれたと知ったら弱みを握られたと思い、三郷からも距離を置くようになっていたかもしれない。三郷の方も自分の性格からして明日奈に受け入れてもらえるような、穏やかで丁寧な話し方がわからなかったのだろう。結果、二人は向き合うことをせずに前後の関係が中学三年まで続いてしまったのだ。

目線をチラリ、と明日奈に戻し、けれどすぐに違う方向へ向けた三郷が唇を軽く尖らせる。

 

『全国模試の上位ランキングに時々名前があったから結城さんは変わってないのかと思ってたわ』

『三郷さんの名前は気付かなかったけど……』

『当たり前でしょ。私、医大系の模試しか受けないもの』

 

要は自分と関係ない模試結果も気にしていたらしい……それが何を意味するのか、今の明日奈なら言葉にしてもらわなくても気づけるし、それを指摘すれば「たまたまよ」と彼女がはぐらかすのもわかっていたから勝手に嬉しく受け止めて、それでも彼女の言葉に少し表情を暗くする。

 

『三郷さんは……お医者さまになる道を……変えてないのね』

 

自分の声なのに「道」が「レール」に聞こえた気がした。

彼女の家は身内から多くの医者を輩出しており、しかも父親は明日奈が入院していた一見ホテルかと見紛うハイクオリティな総合病院をいくつか運営していて、大手の事業社とも提携しているグループ病院のトップだ。

多分、三郷に限らず明日奈達の通っていた女子校の生徒は親に決められた道を進んでる子が大半だっただろう。それが最も安全で確実な道なのだと邁進できる者はいい、けれどそこに疑問を持ってしまったり、進む努力に空しさを覚えてしまったら……それでも自分で道を探す勇気を持たない者は立ち止まったまま一歩も動けず、あるいは道から外れて途方に暮れ、それとも止まる事に恐怖を覚え、重い足を懸命に動かし続けていた者もいて……明日奈もまたデスゲームに囚われた当初、あまりにもあっけなく道からつまみ出された己の身を嘆いた。

一刻も早く《現実世界》に戻らなければ今までの努力も我慢も全て無駄になるのだと……けれどそれを無駄じゃない、と教えてくれたのがキリトだ。

幼い頃より真っ直ぐに医師を目指している三郷は何を思ってその道を歩いているのだろう?、と、そぅっと伺うような仕草に勘を働かせた三雲がふんっ、は鼻を鳴らす。

 

『言っておくけど、私が医者になると決めたのも貴女と同じ、自分の意志よ』

 

悪戯が見つかった子供のように明日奈の両肩がぴょっ、と跳ねた。どうも彼女の前ではかつての自分に少し戻ってしまうらしい。無防備に驚いて、それから勝手な憶測に少し自己嫌悪をして、それでも三郷がちゃんと自分と目を合わせてくれている事に安堵していると、ふぅっ、と息を吐き出した彼女がその視線をスライドさせた。

 

『君…桐ヶ谷君って言ったっけ?』

 

今まで完全に存在を無視されていた和人が名前を確認されてこくり、と頷く。

 

『結城さんて見た目よりずっと面倒な人よ』

 

いきなりの爆弾発言に明日奈は声も出せず瞳を大きく見開いた。

 

『だいたい何でもある程度のレベルまでは出来てしまうけど変なところで不器用だし、強情だし、意地っ張りだし。そのくせ妙に責任感とか正義感が強いから一人で抱え込むし。女子校育ちのせいか対人スキルは高いのに立ち回りが上手い、とは言えないし』

『確かに……そうだな』

 

和人の同意の言葉に驚きすぎて明日奈ははむはむ、と口の開閉を繰り返すのがやっとだ。そして和人からも隣で制止や抗議の声が上がらないのをいいことに爆弾が飛び出した。

 

『それに実は泣き虫で寂しがり屋だろ』

 

さすがに黙っていられなくなった明日奈が和人に向け『そっ、それはキリトくんだってっ同じじゃないっ』と叫ぼうとした寸前、一瞬誰の声?、と迷うほど柔らかく嬉しげな言葉が耳に染みいってくる。

 

『わかってるならいいわ』

『え?』

 

振り返った時にはもう遅く、三郷はいつもの挑戦的な目と声で『じゃあ』と立ち去ろうとしていた。明日奈は考えるよりも先に一歩踏み出して『連絡先っ』と叫ぶ。

 

『……変わって、ない?』

 

思いも寄らない問いかけだったのだろう、三郷は一瞬意味を理解出来ずに動きを止めるが、すぐに明日奈から視線をはずし、やっと聞き取れるくらいの声で『同じよ』と伝える。その返答に勇気づけられたのか明日奈の声に芯が生まれた。

 

『メール、しても……ううん、するからっ。必ずするからっ』

『あのねぇ、私だってそんなに暇じゃないんだから……すぐに返信は…出来ないわよ』

『あ、ありがとうっ』

 

何に対しての礼なのかは言及せず、三郷は明日奈と和人に向け軽く手を上げたかと思えばすぐに背中を向け歩き出す。まるで自分の顔を見られまいとするかのような素早さだった。

 

 

 

 

 

「昼間会った人、三郷(みさと)、って言ったっけ、アスナの同級生」

 

明日奈の小さな頭を肩にのせたまま和人がそっ、と尋ねる。

 

「うん、彼女とはね、小学校三年生の時から私が《SAO》に囚われるまでクラスがずっと一緒で……」

「へぇ、すごい確率だな」

 

素直に感心している和人へ少し言いづらそうな声で明日奈が説明をした。

 

「そうじゃなくて……私が通ってた学校は初等部の三年生からクラス分けが偏差値順になるの」

「へ?!…てことは……あの子とアスナは……」

「うん、ずっと一番上のクラス……だからクラスメイトってライバル意識と同時に変な仲間意識みたいなのも生まれるんだけど、逆に新しい学年になってクラスが落ちた子とは口を利かなくなったり、新しくクラスに入って来た子にわざと疎外感を味あわせる人達もいて……だから私はなるべくクラスの子達とは関わらないように彼女の後ろにいるのが当たり前になってた」

 

声にならないような小ささで「ズルイよね」と呟いてから明日奈はまた話し始める。

 

「無関係、無関心を貫く事も出来なくて、三郷さんの背中に隠れるようにして、彼女が何も言ってこないのを言い訳にして自分を守ってたの」

「多分だけどさ……もしそんなアスナの態度が気に入らなかったらハッキリ言うんじゃないかな?、そんな感じの子だろ?」

 

言われてみれば、と明日奈がゆっくり顔を真っ直ぐに持ち上げた。明日奈がそうであったように、少なくとも表面上は他者に対して必要以上に関心を抱かないスタイルの人だと思っていたが、今日だって三郷は自分から声を掛けてくれた。

記憶の中にある三郷を思い出している明日奈の横顔を見つめながら和人が柔らかく笑う。

 

「もしかしたらオレと同じかもな……後ろにアスナがいる、って思うと頑張れるって言うか」

「でも私、三郷さんに何もしてあげられてなかったんだよ。それこそ《SAO》の低層でキリトくんに教えてもらってばっかりの時みたいに」

「それでもオレはアスナと一緒にいたい、って思ってたよ。だから、ずっと気にしてくれてたんだろ。アスナの模試の順位とか、駅で会った時だってすごく真剣にアスナの全身を見てたし。あれって無茶なリハビリの影響が出てないかチェックしてたんだと思う」

 

不躾な視線の意味に明日奈が驚いていると少しの躊躇いの後に和人が何気なさを装い打ち明けてきた。

 

「実はオレもアスナがリハビリしてた時は見舞いに行く度に身体のバランスとか筋肉の付き方なんかをこっそり確かめてたし」

「あっ、だからやたらとペタペタ触ってきてたのっ?!」

 

思い起こした大胆なスキンシップに明日奈の頬がうっすらと色づく。

 

「あれは……痛みがあってもアスナは素直に言わないから、が半分」

「あとの半分は?」

「……オレが触りたかったからデス」

 

頬の赤味がさらに濃くなった。

おどけた雰囲気で言ってくれているが本当は明日奈の身を案じてが半分以上だったのは、あの時の和人の真剣な瞳を思い出せば明らかで、だから「もうっ」とだけ返しておく。

随分といつもの明日奈に戻って来たと感じた和人はもうひと押しとばかりに自分の分のお茶を飲み喉を潤すと、ペットボトルを机に置いてしみじみと言った。

 

「今日の外出は色々と予想外が多かったな」

「そうだね、水族館で佐々井くんに会ったのは驚いたけど、貴雄くんや藤緒さん……それに三郷さんね」

「オレはスグがこんなに早く帰って来るのも想定外だった。予定ではもっと遅いはずだったから、アスナと二人の夕食になると思ってたし」

 

気のせいか最後の方は和人の顔つきが幾分イラついていたような気がして、明日奈は「そうなの?」と目を瞬かせた。どちらにしても三人分の夕食を作る予定だったから、明日奈としては直葉も一緒の賑やかな食卓の方が良いような気がするのだが、和人の思惑は違ったらしい。

 

「佐々のヤツ、オレ達と分かれた後アスナのクラスの茅野さんに連絡して、そこからリズ経由でスグの所まで辿り着いたらしいんだ」

「さ、さすが交渉屋さんだね」

「スグが言ってた、夕飯がアスナが特製シチューだって知って部活終わりに寄り道せずすっ飛ばして帰って来たって」

「私は晩ご飯一人で食べる事が多いから楽しかったよ」

「アスナならそう言うだろうと思ってたけど……それにしたってオレ達を二人きりにさせない為に何人巻き込むつもりだよ」

 

ここにはいない級友に向けたうんざり顔に明日奈が、ぷっ、と軽く吹き出すと、和人の顔も柔らかさを取り戻す。

 

「…やっと笑った」

 

安心したような声に今度は明日奈が驚きの表情で止まった。

振り返ってみると三郷と別れてからつい無意識に昔の自分と彼女のやり取りなどを思い出してはその意味を再確認する作業を繰り返していたような気がする。和人がずっと気に掛けつつも、何も言わずに待っていてくれたのだと知って明日奈が心からの笑顔を見せると、嬉しそうにその頬を手で触れて「そう言えば」と思い出したように付け加えた。

 

「アスナの笑顔については言ってなかったな」

「三郷さんが?……うん、小中学校ではあまり嬉しいとか楽しいとかなかったし……」

「でも今思えば女子校育ちのアスナが《SAO》でいきなりオレとコンビ組むなんてよく受け入れたと言うか……オレなんか出会った頃からアスナの笑い声が聞こえる度にフードの中覗き込みたくて、我慢するの大変だったんだぞ」

「そうだったんだ」

 

くすくすといつもの笑い声で「覗いてもよかったのに」と言っているが、当時本当に「ちょっと失礼」などと覗き込んでいたら間違いなく腐った牛乳ひと樽では済まなかったはず、と和人も微妙な顔で誤魔化す。

今なら我慢などしなくても、いくらだって笑顔はもちろんむくれ顔もすまし顔だって見放題だ。

更に言うなら、ただ見るだけではなく直接触れる権利だって得ているわけで……和人が頬に当てている手の親指で笑みをなぞるように明日奈の唇をぬぐうと、その先を強請るように隙間が生まれてゆっくりとはしばみ色の瞳が瞼で覆われる。彼女に触れている指先でほんの少し角度を調整しつつ、和人自身も僅かに首を傾げて互いの唇をピタリ、と重ねる事が造作も無くなったのはいつの頃からか……決して平面ではない個々の一部分(パーツ)なのに、パズルのピースがあるべき場所にはまった時に似た気持ち良さが口づけだけで全身を巡る。

その後、遠慮なく舌を差し入れると階下にいる直葉の存在を思い出した明日奈が慌てて「んーっ」と抗議のくぐもった声を喉奥から響かせるが、いつの間にか頬だけでなく後頭部にまで和人の手があって顔の動きを完全に封じられている状態だ。

それでもまだ理性は抵抗を主張していて這入ってきた舌を押し返そうとすれば、逆に和人の思うつぼだったのか巧みに絡め取れ、擦られ、擽るように弄ばれて次第に「んふっ」とあらがう声に色が滲み込んでくる。こうなってくると和人も目を細めて明日奈の頭を軽く固定していた手の力を緩め、「キスくらいなら大丈夫だろ」と宥めるように髪ごと撫でるものだから、うっかり「ンっ」と肯定したような鼻声が漏れて益々咥内を好き勝手に振る舞う舌に翻弄される羽目になるのだ。

唇が塞がれているせいで声が部屋の外まで漏れる心配はないが、同時に明日奈には「わざとなのっ!?」と泣きたくなるくらい舌と唾液が奏でる恥ずかしい音が身の内に響いて、両手で握りしめているペットボトルが発せない抗言の代わりにペコッと音を立てた、とその時……

 

「おにいちゃーんっ」

 

ノックと同時にドアの向こうから直葉の声がして明日奈の両肩が大きく跳ねる。

階段を上ってくる足音すら気付かなかったのは部屋の防音性能が高いのか、和人から受け取る刺激でいっぱいいっぱいだったのか……この状況を直葉ちゃんに見られるのはっ、と気持ちばかり焦っている明日奈だったが、あれだけ訴えていたのに聞き入れてくれなかった和人の方はあっさりと唇を離し落ち着いた声で「どうした?、スグ」と返事をしながら、肩で息をしている明日奈の頭を抱き寄せ胸元を貸す。落ち着かせるように背中からとん、とん、と軽く振動を与えられて明日奈も慎重に大きく息を吐いた。

 

「お風呂、アスナさんに入ってもらってっ。私はレースに参加してくるからっ」

「わかった、頑張れよ」

「うんっ」

 

直葉が隣の部屋に入る音が聞こえた後は再び何の音もしなくなる。

何の話?、と上目遣いに問いかけると、和人は少しばかり、してやったりの笑みを見せながら明日奈の瞳に溜まっていた涙を指ではらった。

 

「今夜、スプリガン領でスピードレースがあるんだ。ホームタウンの古代遺跡を含む周辺がコースになっていて、障害物となる遺跡を躱しつつ変則的な風の流れを読まなきゃいけないから……」

「リーファちゃんでもそう簡単には勝てないってことね」

「ああ、それにトーナメント方式だから優勝者が決まるまで結構時間がかかるし」

 

リーファが勝ち上がるのを確信しているところは明日奈も同意出来るのだが、要するにこれから直葉は《ALO》にログインするから、当分の間は二人だけの時間が過ごせると言いたいわけだ。

もし和人が予想していた時間に直葉が帰宅していればレース大会には間に合わなかったはずで、佐々井の所行を呆れていたわりに、この短時間で直葉にレースの参加を促す行動力だって似たようなものである。

 

「隣の部屋にスグがいるってわかってると……これ以上は、無理だろ?」

 

これ以上?……キス以上!?……言わんとしている事がわかって、首元まで真っ赤に染めながら急いで頭を上下に振ると、まるで明日奈が我が儘を言ったように肩まで落として「ふぅっ」と溜め息をついた和人が、こつり、と額を当ててくる。

 

「オレはいいんだけどさ。アスナがいつもよりちょっだけ声を我慢できれば多分バレないし」

「……むっ、無理っ」

 

我慢が出来る出来ないの問題ではなく、隣室に恋人の妹がいるのにキス以上の行為なんて、明日奈にとっては気付かれてしまうかどうか以前の話だ。

 

「うん、無理だよな。アスナって敏感だし」

「そっ、そーじゃなくてっ」

「スグがアミュスフィア装着状態でレースに夢中になってるって知ってても……」

「絶対、だめっ」

 

怒っているのか恥ずかしがっているのか、とにかく真っ赤に熟した顔で、せっかく弾いた涙を再び瞳に宿らせ必至に言いつのってくる感情全開の明日奈は和人にしてみれば何度も見ている顔で……同時に何度見てももっと高ぶらせたいと加虐心が刺激される顔でもあり、昼間に会った明日奈の女友達は見たこともないだろうな、と思えば少しの優越感に胸がすく。そして更には恋人の自分だけに晒される顔を望んで「それじゃあ」と代替案を提示した。

 

「スグも言ってたし、風呂にするか」

「え?」

「森の家のほど広くないけど二人で入れないことはないし、さすがに風呂場の声や音は二階まで届かないから」

 

自室のベッドに横になった直葉はアミュスフィアを装着する寸前、隣から響いてきた明日奈の「えーっ!?」という、彼女にしてはちょっとはしたない大声に「珍しいな、明日奈さん」と呟いた後、どうせ兄がくだらない悪戯でも仕掛けたんだろう、と深くは考えずにすぐさま「リンクスタート」と音声入力を行ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
前回に続きタイトルに「おもい」を使っていますが
個人的なイメージで「想い」は恋愛感情で、「思い」はそれ以外の
感情という区別で使っています。
今回の「思い」は三郷から明日奈へ、明日奈から三郷へ、の
気持ちです。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。