ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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キリトとアスナがそのまま《アンダーワールド》に残ると決めてから
すぐのお話です。


〈UW〉君とはじまる・前編

何に苛立っているのか、暗黒神ベクタをこの世界から退け、人界を守った英雄と呼ぶに相応しい黒髪の剣士は古代遺跡の地で彼の無事を祈っていた人界守備軍と再会を果たした後、東の大門へと移動した。最終的には計六名の整合騎士たちと合流したが内五名と共にすぐさま央都セントリアの白亜の塔《セントラル・カセドラル》へ。飛竜を必要としない彼は自らの服を翼に変形させ、その両腕で女神を抱いたまま……。

生き残った人界軍の衛士や修道士は殆どが移動に馬や馬車を使うので、キリトの後に続いたのは飛竜に乗れる者達だけだ。そして大理石が敷き詰められているセントラル・カセドラル五十階の大広間に到達した整合騎士はシュータを除くファナティオ、デュソルバート、リネル、フィゼル、そしてレンリ。

彼らを前にしてキリトは一段と声を低くして言い放った。

 

「一日二日の徹夜で解決するなら喜んでやるさ……だけどこれはどう考えても無理だろ」

 

この場に騎士長であるベルクーリが存在しない理由を問う者はおらず、多分、その事実を一番最初に受け止めただろうファナティオが落ち着いた声で「そうは言ってもね」とキリトの隣でこちらも困った顔をしている真珠色の騎士装の女性剣士に視線を移す。レンリからの説明で彼女がキリトと同じくここではない世界、リアルワールドという異世界からの来訪者というのはすぐに納得できたが、ただの人間という言葉には些か説得力が足りない。

彼女の姿はまさに神画の《創世神ステイシア》そのものであり、この世界に顕現した時には大地を割り巨大な渓谷を作り出したというからだ。

けれどその神の所行と呼ぶに相応しい御業を為した彼女が今は最初に挨拶を交わしたきり、一言も声を発せずにずっとキリトに手を繋がれたまま静かに佇んでいる。神でもこの世界に降り立った時から疲労感や虚脱感が生じるのだろうか?、と疑問が浮かぶほどにその存在は儚げで頼りなげだ。しかし彼女が腰の右側に吊っているのは一目で神器級の剣だとわかる。

どうにもちぐはぐな印象に戸惑っていると隣にいたデュソルバートも同様の心持ちだったのだろう、炎色の瞳を気遣いで揺らし、すっ、と手を伸ばして「アスナ様はどこかお身体の具合でも……」と一歩踏み出すと、すぐさまキリトの鋭い声が彼の足を阻んだ。

 

「近づかないでくれ」

 

古参の整合騎士の動きすら容易に止めるキリトの光素防壁に当のデュソルバートはもちろん、その場の全員が無意識にゴクリ、と唾を飲み込む。一瞬にして大広間の空間に広がった緊張感を唯一感じていないアスナがますます眉尻を下げ小さく窘めるように「キリトくん」と呟くと、すぐに息を吐いたキリトが「すまない」と壁を霧散させた。

 

「つい…制御が出来なかった」

「落ち着きなさい、坊や……そこまで気が立っている原因は…彼女なの?」

 

僅かな逡巡の後、ゆっくり頷くとキリトはアスナと繋いでいる手を見つめた。

 

「手が……すごく冷たくなってるんだ……早く休ませて…」

 

そこに「ごめんなさい」とアスナの声が割り込んでくる。

 

「皆さんだってかなり疲労や消耗をなさっているのにこうして今後の話し合いの場を設けているんだから、私も同席したい、ってキリトくんに我が儘を言ったんです」

 

まさに死闘と称すべきアスナの戦いぶりをレンリの口から聞いていたファナティオは、ふう、と顎に手を当てて考え込んだ。

 

「確かに、この場にいる者たちだけで勝手に話を進めるわけにはいかないわね……居住区の三十階にちょうどいい部屋があるから二人にはそこを使ってもらいましょうか」

 

ファナティオの柔軟な対応に少し驚いた様子の整合騎士たちだったが、振り返って「私が戻って来るまでに……」と各々へ指令を飛ばす姿に手加減はない。それでもまだ少し何か問いたげなデュスルバートが近づくと、発言を遮るように手の平をかざし、顔はキリトとアスナを見て「昇降盤に行っていて」と二人を促す。

軽く頭を下げたアスナを伴いキリトが支えるようにして寄り添い歩く後ろ姿を見てからファナティオは「待て」状態のデュソルバートに溜め息をついた。

 

「雄竜があんな風になる時があるでしょう?」

「雄…竜ですか?」

 

いきなりの飛竜の話題に戸惑うデュソルバートへ、まだわからないの?、と言いたげにファナティオが察しの悪い困った子を見る目になる。

 

「番をみつけた時よ」

「つが……は?……あっ、ああ…あれは威嚇、ですか」

 

ようやく納得してくれたようだが、その顔は色々と慌ただしいことになっていて、そんな紅蓮の騎士をその場に置きっ放しにしたままファナティオは二人の後を追うため昇降盤へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

ファナティオに案内されたリビングの広さを隅から隅までを大きく顔を左右に動かして確認したキリトとアスナは揃って目を見開き何も言えずに唖然とした表情で固まっていた……いや、アスナはこれまでの《現実世界》での経験上、廊下でファナティオが開けてくれたこの部屋の一枚目の扉の向こうに存在したエントランスルームの大きさを見て少し予感はしていたのだ……が、結局は二人共リビングルームに一歩足を踏み入れた状態で動きを止めている。

エントランスルームが四畳ほどあれば、その先の部屋もそれなりに広いんだろうな、くらいは思っていたアスナもさすがにこれは予想外だったようだ。しかも烈日の騎士が言うには更に奥にはキッチンや寝室があるらしい。

怖々とした声で「寝室、見てもいいかな」と口にしたキリトに手を握られたままアスナも一緒にそろそろとリビングを横切り、東側の部屋を覗いてみれば、そこにはキングサイズより一回りは大きいベッドが部屋の主を気取っていた。

 

「二人で使うには十分でしょう?」

「十分すぎだよ」

 

ここまでくると半ば呆れたような声で応えるキリトにファナティオはふふっ、と目を細める。

 

「二人で使う事に異論はないのね。言っておくけれどベッドの交換は無理よ、扉の方が小さいの」

 

この世界で二百年を過ごす覚悟をした二人だったが、だからと言って贅沢な暮らしをしたいとは思っていなかった。しかしこの場合、もっと普通サイズのベッドに、と要望すれば部屋のどこかを破壊せねばならず、それはかえって余計な手間と時間とベッドが必要になるわけで、結局既にある物を素直に受け入れるのが一番という結論に落ち着き「有り難く使わせていただきます」と頭を下げたのだった。

 

「そうそう、向こう側にはキッチンの他にバスルームもあるのよ」

 

アスナの手が冷たいと訴えていたキリトの言葉を思い出したのか、ファナティオが告げるとすぐにキリトが「入ってこいよ」と、ようやく彼女の手を離し、背中を押す。「うん」と返事はしたものの自分だけ先に入浴する事に抵抗があるのか、この場にキリトとファナティオの二人を残す事が気がかりなのか、未練を残しているアスナに古参の女性騎士は軽く微笑んだ。

 

「ゆっくり温まって疲れを取るといいわ。その間、ちょっとだけ坊やを借りて急ぎのものだけ処理をしたらすぐに返すから」

 

やはり今後の混乱を避ける為にも少なからずやらねばならない事はあるのだろう。けれどアスナの身を気遣うキリトを納得させるには先に部屋へ案内すべきと判断したファナティオは間違っていなかったようだ。明らかに先程より険の取れたキリトはアスナに向け安心させるように頷いてから「風呂の中で寝るなよ」と少しばかり意地悪な口調でからかい、それでもすぐに表情を引き締めて「行こう」とファナティオと共に部屋を出て行ったのである。

 

 

 

 

 

本当に最低限の手配を済ませ、後は主要なカセドラルの各部局長たちも集めてから、という合意に落ち着き解散となった後、キリトは飛ぶようにしてアスナが待つ三十階の部屋の前まで戻って来た。

廊下に面している扉は急いている気持ちを表すように少々乱暴に素早く開け、エントランスを駆け足で抜けてリビングへと通じるドアの前で一瞬よぎった不安から足に急制動がかかる。それはかつていつ目覚めるともわからない明日奈の病室のカーテンに手を掛けた時の感覚に似ていて、本当に彼女がアンダーワールドまでやって来てくれたのか、《果ての祭壇》でアリスと一緒にログアウトしたのではないか……さっきまで繋いでいた手さえ都合の良い幻だったのでは、と自信が無くなって、祈るような気持ちでドアを開けたその先には……

 

「……アスナ」

 

広々とした部屋の片隅、南側に面している巨大な窓の前に求める存在の後ろ姿を見つけて、ほっ、と息を吐く。

細絹の髪を真っ直ぐにおろし、ゆったりとしたシンプルなデザインのワンピースを着ているアスナはキリトが帰ってきたのも、名を呼ばれた事すら気付かないまま、一心に外を見つめていた。

真珠色のブレスト・プレートも、レイピアもないせいかその姿はどこか朧気で、キリトはその姿が今にも光の粒となって消えてしまうのではないかという不安から一時も目を離さず静かに歩み寄る。

 

「……何を見てるんだ?」

 

驚ろかさないように少し後ろから囁くように問いかけた。

窓の外は既に夜の闇に覆われていてこの高さからの眺めは一面の黒しかない。

けれどアスナにはその暗闇の中で何かが見えているのかずっと真っ直ぐ前を向いていて、不思議に思ったキリトは同じように窓の外を見ようとして、はっ、と気付く。それは窓に映ったアスナの顔だ。

彼女の瞳には外の景色は映っていなかった。

ただ、ひたすら祈るような目でガラスの向こうに意識を飛ばしている。

 

「何を、見てるんだ?」

 

アスナのはしばみ色の瞳に一体何が見えているのか、今のキリトには全くわからなくて、それが二年間という時間の長さを感じさせて同じ質問なのにどんどん息苦しくなっていく。けれど二度目のキリトの声にも反応しないのかと思われたアスナは前を向いたまま、まるでNPCのように用意してあったのかと思われる答えを淡々と返してきた。

 

「このガラスの向こうにね、キリトくんがいるの」

「…え?」

「私、ここから見ていることしか出来なくて……現代医学ではキリトくんの身体、治療不可能だって……でも」

「アスナ……」

「だから、時間がある時はこうやって会いにくるんだけど」

「今は……ここにいるよ…だから、もう、寝よう」

「眠れないよ………キリトくんが、ただいま、って言ってくれるまで……その為なら私の心も体も全部あげたって構わないのに…」

「アスナっ」

 

我慢出来ずにアスナの小さな両肩を乱暴に掴んで無理矢理振り向かせると、そこでようやく意識を取り戻したらしく、パチパチと瞬きを繰り返す長い睫毛とまん丸の瞳は驚きを表していて、それがキリトの苦しげな表情につられるように泣き出しそうな笑顔になる。

 

「あ、キリトくん……ごめんね、ちょっとぼんやりしてたみたい。おかえりなさい。今、何か話しかけてくれてた?、整合騎士の皆さんとのお話、終わったの?」

「ただいま……ただいま、アスナ」

 

あの戦場でも伝い合った言葉だが、本来なら次にキリトがアスナへその言葉を告げられるとしたら、それは二百年も先になるはずだったのだ。それを何も伝えなかったのに感じ取り、決断してくれた彼女の細い身体を抱き寄せる。こんなにも華奢な肢体の中に驚くほど強い意志を秘めていて、あの牢獄のような世界で初めて出会った時から何度もその強さに驚かされ、救われ、惹かれてきた事を思い出したキリトは例えこれまでの二年間が耐えられたからと言って、これから先の二百年が耐えられると思った自分の浅慮さを激しく後悔した。

 

「アスナ、ありがとう」

 

突然の言葉だったがアスナはふわり、と笑って「うん」と応え両腕を広げると、当たり前のようにキリトが抱きしめてくれる。アンダーワールドにダイブするまでは顔さえ見られずガラスの向こうで医療用ジェルベッドに横たわったままピクリとも動かない和人の姿を思い出したアスナの瞳から一滴の涙が落ちた。

 

「もう、大丈夫だよ……アリスはちゃんと《ラース》に保護して貰えたし、キリトくんの身体は安岐さんが責任を持って守ってくれるって言ってたから…あ、もちろん私の身体も、だけど」

「安岐さん!?」

 

そうか、と思い当たって看護師であると同時に安岐のもう一つの肩書きを明かすと、ぐったりと力の抜けたキリトの頭がアスナの肩に落ちてくる。

 

「それじゃあ今、オレとアスナの身体は伊豆諸島沖に停泊しているメガフロート内部にあって、安岐さんや菊岡さんと一緒なんだな」

「うーん、多分、だけど他の場所に移動するんじゃないかな。元々キリトくんのご家族にはちゃんと説明するって言ってたし」

 

襲撃に遭ったこともあるが、あの施設に一般人を招き入れるわけにはいなかいだろう。

 

「ってことは、オレと同じようにSTLを使用しているアスナの両親にも……」

「あ、そうだね」

 

《オーシャン・タートル》へ向かう時、核心をぼやかしたままの説明に明日奈の母である京子が納得していない事はわかっていたけれどそれでも送り出してくれたのだから、今の自分の決断もなんとなくだが理解を示してくれそうな予感がしていた。しかしキリトの方は自分の為にアスナをこの世界に引き留めてしまった責任に顔を青くしている。

 

「折角……京子さんとも普通に会話ができるくらいになったのに……」

「意外とお父さんの方が暴走してるんじゃないかなぁ」

「えぇっ!」

「でもそれはキリトくんに対してじゃないから安心して……それより、もしかして、なんだけど……」

 

少し言いづらそうに上目遣いで見つめられたキリトは「ん?」と首を傾げた。

 

「私達の意識がない所で、ご両家顔合わせ、なんて状態になってたりして……」

 

アスナの予想にキリトが更に顔色を悪くさせて「うえぇっ」と情けない声を上げる。こんな状況になってしまえばアメリカにいる父親も帰国するだろうし、手間と時間を省くために二人の親達を同時に召集するくらいむしろ率先してやりそうな人物がアリシゼーション計画を仕切っているのだ。

いずれは互いに紹介し合うことになるだろうが今じゃないだろ、とキリトは再びアスナにもたれかかる。しかも当人同士が昏睡状態のままで両家が揃う場にいるのがアノ眼鏡の役人かと思うと気が気ではない。とは言え、今の自分達に出来るのはその予想が外れる事を祈るくらいで。

 

「それは……もう少し先にして欲しかったな。せめて普通にオレ達が同席の上で」

「うん、そうだよね」

 

ポンポンとキリトの背中を慰めつつもアスナはきっと冷静に対応するのは母だろうなぁ、と確信ともいえる思いに表情を和らげた……まるで今の自分のように、と思えば今まで意識した事はなかったが意外な部分で母親似なのかもしれない、と新たな認識に遠い存在となってしまった両親や兄へちょっとだけ切なさがこみ上げてくる。

けれどそれを振り払うように軽く頭を振ったアスナはいつもの柔らかな笑顔をキリトに向けた。

 

「アリスもリアルワールドで頑張ってるんだから、今は私達もこの世界で頑張らないと」

「そうだな」

「あと《オーシャン・タートル》へ行く為に神代博士も協力してくれたの。それでごめんね、ユイちゃんに頼んで勝手にキリトくんのPCにあった凛子さんへのアドレス、使わせてもらっちゃった」

「それはいいけど……え?、ちょっと待ってくれ…オレがあの夜、ジョニー・ブラックに襲われてから何日経ってるんだ?」

 

その質問にアスナは少し苦しそうな顔で「十日くらい」と答える。

和人が倒れ、ユイに励まされながらシノンやリーファと共に《ラース》へと辿り着き、神代博士にメールを送ってから実際の大型海洋研究母船《オーシャン・タートル》に乗り込むまで一週間以上かかってしまった。そこで過ごした時間とアンダーワールドにダイブしてからの時間を足せばちょうどそのくらいになるだろう。

キリトにとっては二年分の時間と経験の重みがたった十日間に凝縮されてしまったような感覚なのか、驚愕と呼べる表情に「大丈夫だよ」と伝えたくて、包み込むように背中に回した両腕に力をこめると、それを引き剥がすようにキリトがアスナの肩を押し返した。

 

「十日…たった十日……」

「キリトくん……大切なのは時間の長さじゃないよ」

 

PoHと対峙した時、絶望的な状況でアスナに力を貸してくれたのはもう《現実世界》からは旅立ってしまった年下の女の子だ。彼女と共有した時間は決して長くはなかったが、これから先もずっと心の中から消える事はない。

しかしキリトは「違うんだ」とアスナの言葉を軽く否定すると、慈しむような仕草でその頬をゆっくりと撫でた。

 

「そうじゃないんだ。オレの事じゃなくて……たった十日で《オーシャン・タートル》の存在まで見つけて神代博士にコンタクトを取り、乗り込んだって言うのか?」

 

アスナの無言の肯定にキリトの顔がくしゃり、と歪む。

 

「自分がどけだけ無茶な真似をしたかわかってるのか、アスナ……」

「だって……私はきみのいく所ならどこにだって一緒にいくって決めてるの」

 

拗ね顔のアスナの額をとんっ、と人差し指で弾いたキリトはすぐに彼女の片方の手を掴むと少々強引に窓辺から引き剥がした。

 

「どうせまともに寝てないんだろ」

 

口をつぐんだまま大人しくキリトに手を引かれているアスナの手はすっかり体温を取り戻していたが、それでも安心は出来ない。デスゲームに囚われていた時もアスナはキリトさえ驚くほど睡眠時間が短かった。自然と目が覚めてしまうと言っていた時もあったし、『血盟騎士団』に所属していた時はギルメンと自分のレベリングに睡眠時間を削っていたのは明らかで、それでも二十二層の森の家で過ごしていた時はキリトに負けず劣らずうたた寝をするようになっていたから、精神的に不安定な時は睡眠に影響が出るタイプだと知っているのはキリトだけかもしれない。

離ればなれになってから約十日間、周囲には大丈夫と言いながら驚くべき洞察力と行動力で軍の機密施設まで追いかけてきてくれたアスナがそんな場所で安眠なんて出来るはずもなく、最終的にはこのアンダーワールドでキリトと関わった女性達と共に彼の話題で夜遅くまで語らっていたのだから「本当にもうどうしてくれようか、この女神サマは……」と、キリトはリビングを横切りながら、アスナの体調を思うと離れていた期間が十日程で済んだのはまだ幸いだったのかもしれないと考えを改めた。

 

「とにかく今日はもう横になろう」

 

寝室に連れて来たアスナは、じいいっ、とベッドを眺めているが、キリトは先にぼふんっ、とシーツの上に腰掛ける。

さっき案内された時、戸口から覗いただけでも頬が痙攣しそうになった広い寝室とその場にあって全く見劣りしない大きめのベッドは中に入って近くで見ると更に不相応に思えてきて、けれどあの森の家ではベッドは二つあったがほとんど一つしか使っていなかったので、ここで「やっぱり二つに」と提案するのも違う気がするし、アスナだって既に了承しているんだから二百年も使っていれば慣れるだろう、とキリトは自分を納得させた。

大きさ以外はシーツの触り心地もスプリングの具合も文句はない。

何かを躊躇っていた様子のアスナが、小声で「キリトくん」と呼びかけてきたので顔を上げると、自分達以外には誰も居ないのにアスナは声を潜めたまま問いかけてきた。

 

「このお部屋、昨日まで誰かが使ってた、なんて事はないわよね?」

 

きれい好きなアスナが聞きたくなるのも当然、とキリトは安心させるようにアンダーワールドではチリやホコリの類いの掃除は実に簡単なのだと説明し、ついでにこの部屋が使用されたのはかなり昔だと、さっきファナティオに確認してきた事を伝えると、やっと納得したアスナがキリトの隣に落ち着く。

 

「ホテルのベッドなら気にならないんだけど、まるで使う予定があったみたいにきちんと整えられてたから……」

 

城にいる高位の術師かそれこそ整合騎士が自分達の為にこの部屋を追い出されたのかも、と懸念して、それならこのベッドは昨日まで違う誰かが使っていたのでは?、と思い当たったらしく、それで座ることすら出来ずにいたらしい。《仮想世界》では人の痕跡が物に残るはずがないのはアスナだって分かっているはずなのに、そんな当たり前の感覚すら忘れさせてしまうほどこのアンダーワールドという世界は《現実世界》との区別がつかないのだ。

これでもう気がかりはなくなっただろうから、と就寝を促そうとしたキリトの肩に、こんっ、とアスナの頭が乗っかり、続いて細い寝息が聞こえてくる。やれやれ、と呆れつつもキリトは小さく笑いながら、そっ、とアスナの身体をベッドの上に横たえ、自分もすぐさまその隣に寝転んだのだった。

 

 

 

 

 

すっかり寝入っていたみたい、とアスナが久々に自分が熟睡していた事を自覚したのは二人でふかふかのベッドで並んで横になってから数時間後の事だ。キリトならいざ知らず、アスナにとっては十日程しか時間の距離はなかったと言うのにその存在が懐かしくてついいつものようにすり寄って眠っていたのだろう、すっ、と意識的に離れていった温もりに意識が呼び戻される。

アスナよりも先にキリトが目覚めるのが珍しくて、何かあったのかしら?、とまだぼんやりとした思考だけがもぞもぞと動き始めた時、明らかに負の感情を伴った深い溜め息が重く吐き出され、それがキリトの物だと理解した途端、アスナは身体を強張らせた。悩み事や心配事の類いではない、刺々しい苛立ちを含んだ黒い吐息なんて少なくともアスナの知るキリトが零すとは思えない荒んだ行為だ。

続いて耳が拾った微量の低音はキリトが起きていると知らなければ、彼が寝ぼけて意味のない単語を並べただけと思っただろうが……

 

「やっぱり、アスナと一緒には……眠れないな……」

 

その言葉にサーッと血の気が引いた。

まるで全身が冷たく、固く、心臓すら止まった氷像になったような感覚に陥る。

「やっぱり」と言う事は、キリトが目覚めてしまった理由は予想通りアスナが原因と言うことだろうか、それとも既にその予感があってアスナが安心しきって眠っている間、彼は一睡も出来ずにいたのだろうか?……認めたくはなかったがアスナ以外の誰かとなら一緒に眠れると言いたげなその呟きに真っ先に浮かんだ人物は金色の長い髪に蒼い瞳の女性剣士だ。キリトは彼女と一緒に半年間も二人で生活を共にしていたのだから心神喪失状態だったとは言え気を許している部分は大きいだろう。けれど、今、彼女はこの世界には存在していない。それとも誰か別の人?、とアスナはあの晩、幌馬車に集まった女性達を思い出しながら拒否感から溢れ出てしまいそうな涙を懸命に堪えた。

アンダーワールドに強制的にダイブさせられてキリトが必死に生き抜いてきた二年間、たくさんの人達と出会っただろう。閉じこもってひたすら時間が過ぎるのを静観しているような性格でないことはアスナも分かっているし、菊岡や比嘉からもその行動力や影響力は驚きや賞賛と共に語られていた。だからこそ身を以て知っているのだ……二年間という時間はキリトと関わった人の感情を大きく揺さぶるのに十分な時間である事を。




お読みいただき、有り難うございました。
アニメ版だと最終的にはステイシア・アスナにも羽が生えて
飛んでましたけど、ご本家(原作)さまでは飛べない設定なので、
そちらで。
あの羽はキリトさんの心意による物だったらしいですよ。
ほほぅ、キリトさんのイメージだと「アスナに羽を」と思った場合
天使の羽っぽいのが具現化されるんですね(笑)

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