肉を捏ね繰り回す生々しい音。馴れない者にとっては聞いているだけでも不快感が込み上げてくる。
前回の胸部切開とは違い、腹部は斜め右下に皮膚をまず切開し、腹膜を切り開いて消化器系を露見させる術式。
真正面から見れば切開部からピンク色の腸が見てくれと言わんばかりに覗かせていた。
「おぇ…ッ!」
「ひ、ひいぃ――ッ!!」
「そこ、固定を緩めるな。しっかり押さえていてくれ」
盲腸の治療は軽傷の場合での抗生物質投与、重症の場合での虫垂切除がある。
虫垂は虫の幼虫のような形をしているのが特徴であり、平均にして親指くらいの長さがある。
ちなみに、虫垂の役割は善玉菌を貯めておく機能があると学説では挙げられているが、現代社会では食料から善玉菌を摂取することが容易となり、今となってはこの機能は重要視されていないらしい。
なので、虫垂炎の患者が虫垂を切除しても後の生活にほとんど支障は起きないとされている。
ただ、術後で息む際には加減を考えておく事。医師からの注意事項だぞ!
「…手伝う人間以外は見たくなければ離れておけ。見ていて気分の良くなる物じゃないからな」
「ぅ、ぐ…だ、大丈夫だ! 俺はこのまま見学させてもらうぜ」
ピオニーは驚きの連続でいっぱいな様子だ。
当たり前だろう。屋敷の軟禁生活を過ごして来たこいつにとってはこんな体験をする事自体が初めてなんだ。
こういう素振りを見せるのは仕方がない。
傍ではレイシスさんも俺の手術光景を一瞬も見逃さないようにと集中しながら助手の役割を果たしてくれている。
さて、虫垂を探す過程で俺がしる手術方法では腸にガスを入れて膨らませるのが定常なんだが、この世界に医療用としてのガス自体があるかどうかも怪しい。
なのでガスを使う事が出来ない以上、手探りで腸をずらして地道に虫垂を探していく他ない。
「ガーゼ…いや、短く切り取った布を何枚か持ってきてくれ」
「これですか?」
さらには吸引機も存在しない。
ガーゼを使って患部から止めどなく滲み出す出血が溜まる毎に吸い出さなければ患部が見えなくなってしまう。
ちなみに、このガーゼもまたアルコール製作の過程と同じく自前で作っておいた物である。
「そこの人、そっちに瓶詰めした水があるのが分かるだろ? そこにきれいな塩を一つまみほど入れて良く溶かしてから持って来てくれ。一応言うが、スプーンとかでかき回すなよ。そのまま回すように振って溶かしてくれ」
「は、はい…」
お次は鍋とかを上手く使って少しづつ精製した蒸留水。
皆は生理食塩水と言う物を知っているか?
生物の細胞にはそれぞれ浸透圧と言う物が存在しているのは学校の授業で習っている筈だ。
塩化ナトリウム・カリウムの濃度がこれに左右し、それが細胞より高ければ内の水を奪って細胞は収縮し、逆に低ければ水を吸い取って細胞は膨張するという生物学現象が起こる。
そこで浸透圧を等張にしたのが『生理食塩水』という訳だ。
ちなみに、人の浸透圧は0.9%。
作り方の例を述べとくと、水1ℓに荒塩9gを溶かした蒸留水を基準としてくれ。
日射病における水分摂取に有効な飲料水にもなるから覚えていても損はないからな。
実際の手術でも患部を洗うために生理的食塩水――略称、生食を使っている。
今回、これを使うのは虫垂炎で溜まった濃汁や腹水を洗い落とすのに必要だからだ。
「――見えた」
炎症のためにミミズほどの細さだった物がソーセージほどの太さにまで膨れ上がっている存在。
これだ、これが虫垂だ。先ずは切除といこう。
「これより虫垂切除に入ります。その為、レイシス先生にはある事をやってもらいます」
「えッ?」
「虫垂を切除する時、患部周辺の血流を一時止めるために絹糸で結紮――いえ、縛っていてください」
「血の管を縛るって…そんな事をしたら血が溜まって破裂してしまうんじゃ――!?」
「もちろん、長い間だと動脈瘤などを引き起こしますが、一時的なら他の血管によって身体が本能的に順応して血流を分配してくれるので心配はいりません」
「そう…なのか……。そんな事は聞いた事がない」
「――それはそうでしょうね…」
「何?」
「…いえ、今は手術に集中してください。時間を掛け過ぎて余計な出血を出させるのは無駄です」
「…分かった」
先ずレイシスさんに結紮での糸結びを教えていく。
手術での糸結びは蝶結びとかそんな簡易な物なんかじゃない。
方法としては『男結び・女結び・外科結び』等と色々あるが、全部を挙げていてはキリが無い。
今回は止血や重要な部位の糸結びをしてもらう。
よし、止血が始まった所で――。
「――鋏」
本来は裁縫用の糸切鋏なんだろうが、細部を切り取るには外科鋏の代わりとしてこれ以上相応しい物はないだろう。
余分な組織を傷付けぬようにと細心の注意を払いながら俺は虫垂の切除を始めていく。
作業間、血管の結紮も結び解きと交互に繰り返すようにして作業を続けていく。
「あ、その間といっちゃなんだが…これを出来るだけ早く燃やして廃棄しといてくれ」
作業中、目に入った屋敷の使用人の一人にそう言って血で滴るガーゼの山を受け皿ごと差し出した。
「わわわ私がですかッ!?」
「火にくべるのが好ましいな。あぁ、棄てた後はよく手を洗う事。仕事が棄てるだけとはいえ、大雑把にやるんじゃないぞ、でないと…ガチで死ぬぞ……」
「はひぃッ! わ、分かりましたぁッ!!」
少しドスの効いた声で言い聞かしとく。
これで迂闊に気持ち悪いからといって人の目に付かぬ外で捨てる真似はしない筈。
でないと医療廃棄物になってどれほど恐ろしい可能性が待ち構えている事か…。
――さて、続けよう。
「ぅぅ……」
「――――ッ!?」
患者の意識が覚醒を始めている!?
まずい、思ったより麻酔の効果が薄すぎたのか!
――急がなければならない…。
俺は念のため、患者の首元に丸めた布を置いて視野を防がせる。
患者の意識を出来るだけ術野から遠ざける。気休め程度でしかないがな。
「どうするん――」
「シィッ! 静かに…患者に自分の状態がどうなっているか気付かせる真似は禁物です。そのまま患者に術野を見せずに続けましょう。まだ間に合います」
「…分かった」
…虫垂の範囲が意外と広いな。
いかん、これでは時間がいくらか超えてしまう。
「――理――長――」
おや、この患者…何か言いたがってる。
「料理――長――俺――頑――張るよ――」
「ルノッ!?」
「認めてくれる――まで――俺――頑張る――から――」
「…馬鹿野郎、そういうのは治ってからにしろってんだぁッ……」
「だから――――ぅぁッ!!」
まずい、時間がない。
「…誰か患者を押さえていてくれないか?」
小さな動きも術中に大きな影響を与えかねないからな。
すまないが、無理矢理にでも動きを拘束させてもらう。
「俺にやらせてくれ、坊主!」
「…動揺しないでやれますか?」
「ったりめぇよッ! こいつは今でも生き延びようと必死こいて頑張ってるんだ。俺もこいつのために何かしてやりたいんだ!」
「…分かりました。上半身をなるべく動かさせないようにしっかりと押さえていてください」
――俺もあんたの決意に応えてやる。
「うぁ、ぁうぁ――ッ!!!」
「ルノ…頑張れ!」
手先の作業をフルに活用し、虫垂の切除を急ぐ。
「まだ終わらないのですか!? このままだと危険です!」
あと少し、あと少しなんだ。
「ハイル――ッ!!」
徐々に湧き上がる声援と祈り。
そんな期待に応えるように、俺は鋏による最後の一太刀を繰り出した。
青年――ルノを苦しめる悪魔を殺すように“バチンッ!”と重々しい音がこの場に鳴り響くと同時、切開部から歪な肉の塊が引きずり出された。
「よし取れた!!」
「うおぁッ! 気持ち悪ッ!?」
こいつぁ見事な虫垂炎だ。
ルノを苦しめ続けてきた腹痛の原因がまさにこれだ。
「こ、これが…患者の病巣なのか?」
「えぇ、ここまで大きいのは珍しい。しかも一部は破れて膿が漏れ出している…気絶するような痛みを彼は今まで感じていた事でしょうに――」
最後の仕上げ――縫合した後は腹腔の洗浄。
「生食を――そうだ、さっきのビンに入った水の事だ」
手渡された生食を縫合部位・腹腔のあらゆる箇所に隙間なく掛ける。
同時並行してドレーンを入れての陰圧落差を使った排液を繰り返す。
「ぐごッ! がはぁッ!!!」
「もう少しだ! もう少しで終わる! 我慢してくれ!」
麻酔も限界だ。ガス欠寸前と表しても良いくらいに危い状況。
「よーし排液完了! 癒しの力よ、≪ヒール≫!!」
オールドラントだからこそ出来る新しい手術法だ。
先ずは臓器の縫合部位をヒールで癒合していく。
固定の役割を果たす糸を左手で徐々に抜糸していきながら。
「このまま閉腹します」
そのままヒールを掛けて塞いでも良いのだが、それでは切開部に新しい皮膚組織を大幅に創り上げての癒合になってしまう。
今後の生活で動きにしばらく支障をきたしまうかもしれない。
第七音素での治癒譜術とは人の元から持つ回復力を早めるのが正体だ。
皮膚が離れたままでの治癒の仕方では身体は新しい組織を創ろうとする方向に働いてしまう。
だから、縫合して密着させればその範囲は縮まり、動きにも支障はさほどきたさない。
安心しろ、縫合術は大の得意技だ。
アホらしい特訓の仕方を繰り返した記憶のおかげでどこをどうすればいいか全てが分かるんだ。
「縫合完了――癒しの力よ、≪ヒール≫!!」
最後の治癒譜術がかけられた。
「手術、完了しました」
――終わった。
患者――ルノは治癒譜術の余韻によってか随分と落ち着いた顔をしていた。
もう痛みは感じていない。それは良かった。
「病巣は完全に切除しました。後は2、3日療養していればもう大丈夫でしょう」
「…助かったのか」
「はい?」
料理長はいきなり俺へと詰め寄った。
「本当に、こいつは助かったんだな!?」
「え、あ…はい……」
「ありがとう、本当に…ありがとう。『先生』!」
「…………」
先生――か…。
長らく忘れていた気がする。
――ありがとう。
俺はその一言を聞くために医者になったんだ。
「レイシス先生、患者はベッドに移動させておいてください」
「君は?」
「――少し外へ」
屋敷の外は相変わらずの雪景色であった。
着替えずに手術着のままでいた事も忘れて半ば奇抜な姿で外に出ていた。
こうして外の空気を吸いたかったこともあるが、もう少し何かを考えていたくもあった。
「やっぱり――」
ハイル・シュヴェールという人間に生まれてから俺はずっと考えていた。
●●●●としての自分を出してはいけない。オールドラントで存在出来るのは新しい自分。
だけどこうして人と関わっていく内、俺は意識までも生まれ変わらせる必要はないと薄々感じてきた。
前世での罪、記憶、その他全てを受け継いで――ではなく、ありのまま俺でいてもいいのかもしれない。
名前に縛られつつもやり直す。そういう風に考えなくても良いんだ。
ここには俺が俺であるからこそ出来る事が沢山存在する。
「――医者である事を俺は止められない、か…」
存在意義だの償いだのとかで遠慮はもうしない。
前世も現世も纏めてこそ『俺』であると認めよう。
「けどな“ハイル”、お前の名前はこのまま使わせてくれ。これだけの我儘は許してくれないか?」
全部――全部まとめて受け止めろ。
背負っていけ。
俺はここにいるんだ。
身体が偽物であっても、魂に宿る誇りは本物だ。