「……はあ。何故俺が謝罪させられているのか、甚だ不本意ではあるが仕方あるまい」
「マッチ売りが死ぬしかなかったように、今の俺もこの上なく不自由な傀儡の身という訳だ」
「まあいい。今回もリア充兄妹の話だ。ハッ、この兄妹も、兄を庇って妹が死ぬなんて展開の一つもあれば多少は美談になりそうなものだが。あるいは、どちらも死んでしまうというのも俺好みではあるな」
「……まあ、そうはならんだろうな。ならばせいぜい醜く足掻けよ、若人ども」
ピンポーン
間の抜けた音。本来であれば、来客の到着を喜ぶためのもの。
「はい、どちら様ですか?」
「んー? ああ、慎二の妹か。いやちょっとさあ、お兄さんに用があってさあ」
けれど、間桐家にそんな凡庸な幸福が与えられることはない。聖杯戦争などなくても、元より間桐慎二の日常はほの暗く、灰色に塗り潰されているのだから。
「あ、いるじゃん慎二。お前今日の帰り何やってたんだよ」
「慎二ぃー。ちょっと付き合えよ。あ、もちろんだけど、財布は忘れんなよ?」
玄関口に立っていたのは三人組の同級生。いつも慎二を苛めているメンバーの一部だ。
……だが、彼らが家まで押しかけてきたことは今までになかった。
「わ、わかったよ……わかったから、すぐに行くから出て行ってくれ。頼むよ……」
傍らには桜がいる。彼女だけは巻き込むわけにいかない。
そう考えて、財布を取りに急いで部屋へ戻ろうとした慎二だったが、
「ちょっと待ってください。一体、兄さんに何をするつもりなんですか!」
桜が、三人組を睨んでそう叫んだ。年下の女生徒とは思えぬ気迫に一瞬怯んだ三人組だったが、むしろそれが癪に障ったのか。
「……ふうん。後輩にしちゃでかい態度取ってんじゃん」
「兄貴と一緒で調子乗ってんだな。絞めるか?」
連中から不穏な空気が放たれ始める。最も体格の大きいリーダー格が、今にも殴りかかるのではないかと思うほどの気迫で桜に迫る。
「……ちょっと待ってくれよ。俺に考えがある」
が、その横にいた男がリーダー格の肩に手を置き、何やら耳打ちし始めた。はじめはイラついた表情を見せていたリーダー格だったのだが、次第に表情が歪んでいく。
「……はっ。いいぜ、好きにしろ」
「よっし。……それじゃ、小生意気で兄想いな妹ちゃんに提案だ」
許可を得た彼はにやりと、悪意の塊のような笑顔を浮かべて、
「俺らとちょっとだけ『遊んで』くれたら、兄貴のこと、今後一切見逃してやってもいいぜ?」
そう、言い放った。
その時、彼は高揚していた。どこかのドラマや漫画でみたような安っぽい脅しの台詞だが、その効果は絶大らしい。現に間桐妹は不快そうな表情を露にしながらも自分達に何も言い返せずにいる。罠だとわかっていながらも、他に手がないから押し黙る。明らかにどうするか「迷って」いた。
もう一押しで、彼女は「堕ちる」。欲望まみれの勝負所の勝者となるべく、次の一手を考えていた、その時。
『調子に……乗るな』
世界が、凍り付いた。
その時、彼女は動揺していた。こんな奴等の相手なんか死んでもしたくない。けれど、そうすれば兄さんは解放されると言う。例えそれが嘘だとしても、どのみち自分にできることは他にはない。
それに、既に人外には穢された身だ。自分を救ってくれた兄さんのためならば、その程度――
『調子に……乗るな』
そう考えていた彼女の思考も、一時停止に陥った。
『――虫ケラ程度の価値もないお前等が、桜をどうするって?』
その場の誰もが、身動き一つ取れなくなった。彼らにとって全く理解の及ばない「何か」に、全く抗えぬ重圧を与えられている感覚。
『くっだらねぇ。冗談も大概にしろよな……』
「お、おい……慎二……お前、な、何を――」
『黙れ』
「――っ」
その一言で確信に至る。
目の前にいるこの青年は、いつも苛めている弱々しいあのクラスメイトではない。無理やりに人格を演じているとか、妹が絡んで怒りが沸点を超えたとか、そういう状況ではないのだ。
『なあ。お前等、全身を蟲に喰い散らかされるってどんな感じかイメージできるか?』
『あいにく、「俺」にはそれを体験させてあげることはできないんだけどさぁ……』
「慎二」はどす黒い笑みを顔に張り付けたまま言葉を続ける。すでにどちらが悪役なのか分からない状態になっていた。
『毒で全身を緩やかに壊死させていく、くらいならできるぜ?』
宣言と共に、右腕をゆっくりと前の三人組の方へ。彼らの喉から声にならない悲鳴が漏れた。
そしてその時、慎二の隣にいた桜もまた焦っていた。
彼は冗談を言っているわけではない。本気でそれを実行し、そして殺す気でいる。
だけど、それをしてしまったら。仮にもクラスメイトを殺してしまったら。
――もう、「兄」は戻ってこないのではないだろうか。
これまでにも何度か、慎二の「こちらの人格」は見たことがある。そしてこれまでは何とか、桜の手で止めることができた。
ああ、だけど今回は。
恐怖が打ち勝ちすぎて、声を出すことも、指一本動かすこともできない……!
『じゃあ、お前からな。……たぶん痛みなんか感じられないから安心して逝けよ』
三人組のリーダーに、慎二の手の先が向けられる。
ごぷり、という嫌な音と共に、へたり込んだ彼の足元に深い紫の泥が現れた。泥はゆっくりと床を侵食し、小さな沼を形成してゆく。
そして沼が彼の足を呑み込まんと流動し、魔手を伸ばそうとする、まさにその時。
「止めておけ」
奥から近づいてきた男が、一言で場を上書きした。
その男の声は、重厚なものでもなければ、凛としたよく通る声という訳でもなかった。
にも関わらず怪物にすら思えた「慎二」の支配を解き、そして書き換えてしまうのだから、男の異常性は十分に察せられた。
「別に敵を殺すことに反対するわけじゃない。だがな、正気を失ってるのはいかんだろう。シンジ、お前はそんな状態でしか戦えないのか?」
「……今はそいつらも見逃してやれ。お前がちゃんと戦えるようになったとき、それでも殺したいなら好きにすればいいだろうさ」
そう言って男は慎二の肩を叩いた。
慎二が静止させた世界がじわじわと氷解していく。喉下に刃を当てられているかのような緊迫感が霧散し、代わりに圧倒的な存在によるゆったりとした秩序が広がっていく。
肩を叩かれた本人はまだ静止してぴくりとも動かなくなっていたが、それを見ていた桜は彼が戻ってきたことを確信し、深い安堵のため息をついた。
三人組はようやく自分の体が動くことを思い出したかのように立ち上がり、全員が無言のままそそくさと立ち去っていった。ふらふらと間桐の敷地外まで歩き、そこで吹っ切れたように走って逃げていく後ろ姿には哀れみすら覚えてしまう。
そして彼らの姿が見えなくなった頃、ようやく「彼」が目を覚ました。目を細め、ゆっくりとここで起きたことの「記憶」を反芻して呟く。
「僕は……そうか。また、か」
「兄さん……。本当に、心配させないでください」
桜の方を向き、その表情を見て慎二はゆっくりと深く息をつき、謝罪の言葉を口にした。
「……ごめん」
「謝るな、シンジ。何にせよ、お前は家族の窮地を救ったのだろう? 確かに私がいなかったらまずかったのかもしれんが、そんな仮定には意味はない。だから、ひとまずはその事実を誇れ」
「そんなこと言われても……元々桜が危なくなったのも僕のせいだし、それにライダーだって『そんな状態じゃだめだ』って言ったじゃないか」
「あの状態で殺すことが良くない、というだけだ。……何にせよ自分を誇れぬような奴は強くはなれん。あまりネガティブな考え方ばかりしていると、お前自身が腐ってしまうぞ?」
うつむく慎二の背を、ライダーがばしり、と強く叩く。
「細かいことを気にするな。前だけを見ていろ。シンジ、お前はもっと馬鹿になった方がいい」
「僕は元から馬鹿だよ……」
ライダーの激励に対し、慎二の口から漏れるのは自虐の言葉のみ。加えてふて腐れるようにそっぽを向く慎二に流石にもう我慢ならん、と怒りに肩を震わせるライダーだった、が。
「ふふ……あはははは……あっははははははは!」
別方向からの唐突な笑い声がその怒りをかき消した。流石に驚いたのか、慎二も怪訝な顔をして笑った当人の顔を見る。
「……そうです、そうですよ! 兄さんは馬鹿なんです」
そして、笑った当人、間桐桜は微笑みを残したままに続けた。
「だから、難しいことを考えても失敗しちゃうんです。難しいことは全部忘れちゃって、思うままに好きなようにやっちゃってください」
「それが、私からのお願いです」
そして少しだけ意地悪な、けれど満面の笑みを浮かべる。慎二はしばし放心したように桜の顔を見ていたが、
「……そっか。そうだよな」
照れ臭そうにそう言ってはにかんだ。
━━彼女の言っていることは、ライダーと何も変わらない。
けれど。
結局いつだって、凝固した兄の心を甘く融かすのは妹たる彼女の言葉なのだ。