こういうのを衝撃的と言うのだろうか。背後で頑なに閉じた扉の向こう、甘ったるく媚びた声を聞きながら思った。招かれざる客とはよく言ったものだ。
何処かにいるとは知っていたが、最初の例を除けば関わることなどそうそう無いだろうと予測していた。向こうとこちらは性質としては水と油も良い所だし、そもそも何ぞあろうともまともに動きもしないこちらを、向こうがどうこうしようとも思わないはずだからだ。そしてこちらとて向こうをやたらに刺激するつもりなど毛頭なかった。
勝手にやっていればいい。それをこちらは見物させてもらう。その手筈だった。
だが、まさか過ぎた。あれが、こうなっていようとは。詳しい事情などどうでもいいが、……何故ああなったのかと、どうしてもそんな思考は拭えないのだった。
言動を分析するに、向こうがこちらに気が付いているようではなかった。気付いていたなら速攻でこちらを排除にかかっていておかしくない、それだけの障害物となり得ることを自覚している。
となれば恐らくは、こちらそのものではなく潜り込んだ鼠を値踏みしに来たか。或いはらしくもない——「気まぐれ」か。
やがて扉の向こう側、扉の内部を疑う言葉が聞こえて来た。横で冷や汗をかいている奴が肩を小さく跳ねさせ、決して広くない部屋の中を必死で見回し始める。
逃げ道を探している。あそこにいる相手を排除するのではなく、何事も無かったことに還元しようとしている。
使いようによっては兵器ともなり得る存在を所持している。そんな自覚は、一切見られなかった。いや、実際にそうだとは欠片も思っていないのだ。
更に言えば、こんな時に限ってこちらを頼ろうとしない。頼られたとて力を貸すつもりはないが、今のそいつはこちらを利用して強硬手段に出ようという、一種の保身を思いつきもしていないようだった。
思えばこいつは不可解だ。誰かを助ける為に簡単に自らを投げ出し、こちらの本性の全てを知らないにしろ頼って来るのは最後の最後。そしてどれもが自分が助かる為ではなく、誰かを助ける為を原理としている節が見られた。
本当にこいつは、会話だけの時と、全く変わらない。
心底奇妙だと思う。だけれども、
……この気持ちは、なんと呼ぶのだろうか。
元の体に、戻りたくはないか?
キミの身に何が起きたのか、真相を知りたくはないか?
そんな杏子の言葉に、アミは真剣に頷いた。デジモン・キャプチャーとテリアモンを手にした日に見て襲われた謎の白黒の存在は、何だったのか。一体今この電脳世界に何が起きようとしているのか。それを知りたいと、願っていた。
顔を引き締め真っ直ぐに見つめるアミに、杏子は満足げに笑った。
「では、決まりだな。私の助手として、ここで働きたまえ」
依頼にはEDENや電脳犯罪に関連した事件も多い、だから仕事をする中で手がかりもつかめる。そうも言ってくれた。
素質と衣食住を認めるという言葉もまた、心強くてならなかった。
この人の期待に応えよう。そんな気持ちにさせてくれた。
「キミは、たった今から私の助手兼【電脳探偵(サイバー・スルゥース)】だ」
前途を祝して、珈琲で乾杯といこうじゃないか。
……という言葉の後、アミが知っている限りのコーヒーとはどうやっても合致しない「海ぶどうつぶあん珈琲」なる代物を出され、戦慄した。
そしてそれを電脳探偵誕生を祝してと乾杯させられ、脂汗が止まらない中意を決し一気呵成に飲んで、……
「……——ん?」
ふと、ゆらゆらしていた意識が輪郭を取り戻した。重い瞼を開けると、天井が目に入った。電気が殆ど落とされているがここは、
『あー、アミってばやっと起きた』
『このまま起きなかったらどうしようかと、かなり心配だったぞ』
「半電脳体も気絶するんだな」
聞き慣れた声が三つして、アミはそちらへ顔を向けた。するとウィンドウが二つ浮かび、更に薄闇の中、正方形のガラステーブルを挟んだ向こう側に誰か一人、ソファに足を組んで腰掛けていた。
「あの探偵の出すコーヒーは劇物と同等らしいな。回避して正解だった」
『なんだっけ、ウミブドウにツブアンとか言ってたけど何それ』
『海ブドウは海草の一種、つぶあんは甘く煮詰めた豆類だな。まあはっきり言ってしまえば狂気の取り合わせだ』
ポヨモンの解説にテリアモンが『なるほどー』と感心する中、アミは口をへの字に曲げた。
「……やっぱ逃げてたんですか……Bさん」
「やることをやっていたら自然とこうなっただけだ」
とは付け加えられたものの、アミがBへ注ぐ半眼での目線は恨みがましいものになっていた。体を起こしてようやく、彼女は自分が事務所のソファに寝かされていたと気がついた。
しかしコンピューターへ逃げ込んだ後、杏子の元へ戻る直前に「確かめたいことがある」などと別行動を取るとは、全く周到なことだ。Bの謎の勘の良さに悪い意味で感嘆しそうになりつつ、口内にまだ残っている粒の感触と極度の甘さと海の香りに辟易し、アミは溜息を吐いた。
「で、結局お前ここで働くんだな。助手だか、電脳探偵だかで」
「え? はい、そうですけど、何で」
『おめおめと帰ってきてから、キョウコさんから聞いてたよ』
「おいテリアモン貴様」
『割と驚いていたかなあ。妙に戸惑った様子を見せていたが、あれについて説明を今こそして貰いたい所だ』
「……」
Bから一瞬殺気のようなものが出た。が、テリアモンもポヨモンも『わー』だの『ひゃー』だのと全く悪びれていないのだった。自身の仲間ながら鋼鉄の精神すぎるとアミは末恐ろしくなった。
「で、本当なんだな」
座った体勢になったアミに、Bは腕を組んで目を合わせてきた。表情こそ消したが、その目はまるでアミの決心を、試すか計るかしようとしているようだった。
アミは自分と全く同じ色をした眼を真っ直ぐに見て、頷く。
「うん。このまま何も分からないままなんて、嫌だから」
心からの言葉だった。知らない方が幸せなことだってあるとも言う、だけど自分はもう何事かに巻き込まれてしまっているようではないか。それを解き明かさず、ただ誰かがどうにかしてくれるのを待つばかりなんて、アミはしたくなかった。
知りたい。何が起きているのか、一体何がどこに潜んでいるのか。アミの意志はどこまでもはっきりとしていた。
「……そう、か」
Bが、うっすらと眉を寄せた。少し久々に見る表情の変化だった。だがどうしたというのかと、アミは疑問が募った。
沈黙が降りた。垂れ込める闇に紛れるBは、言葉にするのを少し迷っているようにも見えた。アミはその言葉を待つことにした。
「——ひとつ言っておく」
そして再び聞こえたBの声は、刃のように鋭かった。
「お前が近づこうとする真実には、幾重もの罠と、無数の思惑と、想像もつかないだろう程に強大な何かと——隠された秘密が絡みついている。そしてお前は知ろうとするなら、全てから逃れることは能わない」
Bの言葉の一つ一つに、途方もない重みが込められていた。アミの臓腑にずしりとのし掛かってくる。
「それでもお前は知ろうと思うか。己が身が数え切れない危機に晒されることを、耐え難い恐怖を、真実の持つ恐ろしさを、引き受けられるのか」
向けられるBの一切が、アミに試練を課していた。生半可な気持ちで真実へ向かおうとするのを、決して許さない空気だった。
Bの示した言葉の意味はまだ分からない。ただ、意地悪で言っているのではなく、どこまでも本気で語っているのだと伝わってくる。口にして貰うまでもなく、Bは少なくとも絡みついているものの一端を心得ているのだと知れた。
何を知っているのだろう。何を見たのだろう。
「……そう言われると、怖くなるかもなぁ」
アミは少し顔を伏せた。危険と分かっている暗がりへ飛び込むのは、途轍もない勇気を必要とすることだ。そしてその勇気は一歩間違えば、無謀へとすり替わる。勇気と無謀を弁えられる自信だって、アミには無い。
怖い。それも本当の気持ちだった。
「でも」
アミはもう一度顔を上げて、Bを見た。
「やっぱり私は知りたいし、このままでいられません。巻き込まれて、そして自分が何か出来るのに何もしないなんて、それはナシです」
とても勝手な見解だけれど、思い止まれる地点で警告してくるとは、もしかするとBはアミを案じたということかもしれなかった。ともすれば冷血なこの存在にしては、あまりにも珍しいことではないだろうか。
Bはアミの言葉を聞いてくれているようだった。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。
「分かった」
返されたのは、たったそれだけだった。だがそれで十分な気がアミにはしていた。
「なら、俺は何も言わない。助手だの探偵だの、好きにすればいい」
「はい」
アミは笑った。すると、ウィンドウの中でテリアモンが耳と手両方を振る。
『アミ、ボクたちもお手伝いするよ。今更いらないなんて、言わないでね』
『ああ。求められれば幾らでも手を貸そう』
「え……いいの? 二人だって、今の話聞いてたよね?」
『もっちろーん。でも前に言ったでしょ、ひとりじゃ難しいなら、ふたりでやろう、って』
『恩より何より、私たちは君を助けたいと思う。だから手伝わせておくれ』
アミの目頭が熱くなった。ぐっと感涙をこらえて、アミは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
「お前らも好きにしろ。ただ」
Bは開いた目をちらとだけアミに向け、それから口を動かした。
「俺もここを拠点にするが、今日のように常に手伝うとは限らんからな。あまり当てにするな」
「そうなんで……はい?」
アミはぎょっとして真顔になってしまった。Bはバツの悪そうな顔になった。
「仕方ないだろうが。元々俺がこうなったのはこちらの世界でも活動する必要があるからだ、電脳世界にいずっぱりでは意味がない」
再びの沈黙が降りた。
「えーと、実は拠点とか無い感じです?」
「ついでに免許だの身分証だのを逐一求めてくるとは不便だな、この世界は」
割としょっぱい理由を並べられ、アミは趣深い顔になるしかなかった。
「……ちなみにどういう立ち位置に?」
『助っ人、だそうだ。暮海杏子やアミでは難度の高い仕事を請け負うとのことで、一応は所長と立場は限りなく同等だな』
『でもメンキョとかコセキとかは貸し、とも言われてたよー。ぶっちゃけイニシアチブ握られてるよね』
「やかましい貴様ら」
かなりのこと悔しそうにするBに、アミはとうとう吹き出してしまった。じろりと睨まれたが、それでも笑いが収まらない。
あんなに一人でクールっぽく強そうに振る舞っておいて、結局こんな風になるなんて。何とも締まらない。
だけど、逆に親近感が湧く気分だった。本人に言ったらもの凄く嫌な顔をするだろうけれど。
「それじゃあ、これからもよろしく、でしょうか」
「……」
「よろしくお願いします、Bさん」
『よろしくねー、B』
『よろしく頼もう、B』
アミはもう一度笑顔を向けた。Bは、小さな溜息を吐いた。