噂は瞬く間に広まった。彼と友沢、次の帝王勝負は別の誰かの勝負によって決まる、前代未聞のことだ。帝王勝負は野球部のみならず高校全体でも有名なイベントなため、皆が興味を引いた。
そして同時に興味を引いたのは、誰が代理を務めるかだった。
「まぁあらかた予想はしてたでやんす」
久遠の投げたボールは鋭い角度で曲がりながらミットに勢い良く収まった。傍から見ていてもえげつなさが分かる。本人の感触も良かったらしい、久遠は笑顔で振り返った。しかし友沢は険しい表情で腕を組んだままだった。しゅんとしてしまう。
「まだリリースポイントが甘いな」
それでも、はい、と気持ちを立て直すと威勢のいい返事を返す。いそいそと次のボールを投げようとしたところに、焦るな、注意しなければいけないことを意識しろと言われ、また大きな返事をする。
「無視しないでほしいでやんす」
「スパイに話すことなんてない」
「スパイじゃないでやんす。ここで見たことは絶対に外には漏らさないでやんすよ」
自信満々に矢部は頬を膨らませたが余計に信用ならない。ノートを手に持っているのだから尚更だ。
「帝王勝負に向けての指導でやんすね?」
「そうでなくても久遠には昔から教えてるんだ」いつも通りさ、と言わんばかりだ。
「久遠くんも調子がいいみたいでやんすね。これはなかなか打てないでやんす」
「そうですか!」
嬉しそうに振り返った久遠にまた友沢は険しい視線を向ける。そして、またしゅんとしてしまった。
「厳しいでやんすね」
「これくらいで満足してもらっては困るからな。それに相手も手強い。少しでもスライダーを高めておかないと」
「対戦相手を知っているでやんすか?」
「予想はついてるさ」
口には出さなかったが、間違っていないだろうなと矢部は思った。
「それにしても久遠くんもよく承諾してくれたでやんすね」
「代理人ですか? だって僕は友沢先輩に帝王になってほしいですから」
「そうかもしれないでやんすけど、友沢くんの命運が掛かってるんでやんすよ? プレッシャー半端ないでやんす」
「それは」
途端に口ごもった。事の重さに気が付いていなかったのか再認識したのか、顔色が少し悪くなった。手にしていたボールを強く握り締めているのが見てとれた。
「だ、大丈夫です。勝てます」
「返事まで随分時間がかかったでやんす」
「アイツには今まで何回も勝負を挑まれてますけど全部僕が勝ってるんですよ。危ない場面すらなかった。あんな奴、目を瞑ってても勝てます」
「相手は“アイツ”じゃないかもしれないでやんすよ?」
「だ、大丈夫ですったら」
口には出せなかったが、話せば話すほど説得力に欠けるな、というのが正直な感想だった。矢部自身も久遠と何度か勝負したことがあり、その度に負けているが、もしかしたら勝てるんじゃないかという錯覚に陥ってしまう。
「久遠」友沢に肩を叩かれ、はっとする。「またお前の悪い癖が出てるぞ」
「ごめんなさい」
「自信を持って投げろ。実力はあるんだ。結果は自ずと付いてくる」
「そう、ですね。頑張ります」
だが何とも歯切れが悪い。これではまた怒られたとしても仕方がない。怒りはしなかったが、友沢は深い溜め息をついた。
「じゃあこうしよう。もし勝負に負けたら今後一切、俺は指導をしない」
みるみる内に久遠の顔から血の気が引いていった。想像だにしなかったことを聞かされたようだった。
「口もきかない。帰りも一緒に帰らない。『ホーミング娘。』のCDも貸さない」
「そんな、本気で言ってるんですか?」
「さあな。それくらい追い詰められていた方が真剣に取り組めるだろう」
「ぼ、僕はいつだって真剣ですよ」
「ならその調子で頑張ればいい」
友沢の声色は変わらない。同じトーンで、落ち着いていて、否定できないオーラを感じさせる。
「俺はお前なら勝てると信じてるんだ。だからお前も自分を信じろ」
「は、はい!」
「じゃあもう一回スライダー投げてみろ。言われたことをちゃんと意識するんだぞ」
分かりました、と久遠は深呼吸をする。そしてボールを見つめ、頭の中で何かを自分に言い聞かせた。セットポジションの体勢になり、一呼吸置くと、友沢を真似たフォームで投げ込んだ。ボールはよりキレを増した、ように見えた。
「942!……943!……944!……」
寒さが身に染みる冬の夜空の下で、猛田は元帝王の彼と素振りをしていた。気温は氷点下に達しようとしているのに袖をまくり、汗を撒き散らしていた。二人の季節感だけが辺りとあまりにも違っていた。
「猛田ぁ、スイングが崩れてるぞ」
「ウス」
「あと声が小せぇぞ」
「ウス!」
「もう少しだ、頑張れ」
「ウス!!」
全体練習が終わった後のハードな自主トレは彼が負けたあの日から日課になっていた。締めのこの素振り千回は最後のメニューだ。見る人によってはただ疲労し、怪我を誘発するだけの無茶で意味のない練習に見えるかもしれない。
999までカウントし、1000を言う前にスイングし終えると二人はその場に倒れ込んだ。息も絶え絶えでしばらく起き上がる余裕はなさそうだった。
「こっちはやっぱり猛田でやんすね」
涼しい顔、むしろ寒そうな顔をした矢部が上から覗き込む。
「だって、言いだしっぺだしな」
「言いだしっぺ、ってどういうことでやんすか?」
「この帝王勝負の方法を提案しただろ、猛田が」
目配せした先では当人が目を回していた。
「そんな理由だったんでやんすか? てっきりいつもいろいろ教えてたりつるんでたりしてるからだと思ってたでやんす」
「いや、それもあるよ。実力に関しても信頼してるしね」
少し馬鹿なところが玉に傷だが、と付け足すのを忘れない。
「だそうでやんすが自信の程はどうでやんす?」
呼ばれて猛田は瞬きを二、三回し、目の焦点を合わせた。先輩が目の前にいることに初めて気付き、身体を起こす。
「おう、バッチリだぜ」辛そうに眉間を歪ませつつも猛田は不敵な笑みを浮かべ、生意気なタメ口を飛ばした。「誰が来ようと負ける気がしねェ」
「対戦相手の想定はしてるんでやんすか?」
「勝負の方法を提案したんだから、アイツなんだろ」
やはり理由がおかしいが答えは間違えてはいない。
「勝てるんでやんすか?」
「負けるかもなんてハナから考えてねェ。これはアイツを倒す大チャンスなんだ。完全勝利して『いつか倒すリスト』から外してやる」
「そうだその意気だ」
「因みに猛田くんのこれまでの戦績は?」
「全敗ッス」
「これまでの大チャンスは全部棒に振ってるんでやんすね」
「平気平気、確変来るから」
「因みに作戦とか考えてあるんでやんすか?」
「いや? 特には」
能天気を通り越してもはや浅はかさだなと思わずにはいられなかった。さすがの矢部にも汗が流れた。
「正気でやんすか?」
「どうかな。正直、正しいアドバイスをしてやれる自信がないってのもあるんだけど。オレがアイツとやる時だっていつも必死だし、毎回ちゃんと勝ててるかどうかは微妙なところだし。だから、ああだこうだ考えさせるよりも絶対に負けないっていう自信を付けさせた方がいいかな、って思っただけだよ。その方が猛田の性にも合ってる」
猛田に聞こえないようにぼそぼそと喋る。言っていることは分からなくもない。だが結局、作戦は無いということらしい。余計に不安が煽られた。
「心配でやんす」
「大丈夫、オレは結構いけると本気で思ってるから」
根拠も説得力もない笑顔を浮かべると、ごろりと転がり身体の向きを変えて、猛田、と声を掛けた。
「とにかくバットを振れ。当てれば何か起きる。自分のスイングを信じるんだぞ」
「了解ッス。つまりいつも通りでいいんスね」
「そうだいつも通りだ。オレがやってるみたいに無心に、何にも考えないで打つんだ」
「先輩、打席で何も考えてないんスか?」
「猛田は違うのか?」
「あ、俺もそうでした」
仰向けに寝たまま間抜けな会話が続いた。今の帝王実業を引っ張っている人達のものにしては見た目も中身もレベルが低い。
矢部はもどかしくて堪らなかった。混ざってあれやこれや思っていることを指摘したい欲求をどうにかして抑え込んでいた。本人達がこれでいいと言っているのだから口を出すべきではないと、頭では分かっていても素直に納得ができなかった。
一斉にナイターの灯りが消えた。叫び声が三つ上がる。三つあった人影が暗闇に消え、自分の手すら見えない程になった。気が付けば他の人の気配はなくなっているようだった。
「もう帰るか」
「そうッスね」
何度も躓きながら、何個も物を落としながら、何十分もかけながら、部室に帰った。