前回の帝王勝負から一週間が経った。
「おい、みんなグラウンド見てみろよ! これから帝王勝負やるみたいだぜ!」
「えっ、マジ? こりゃ見に行かなくっちゃ!」
部室が騒がしくなったのは部活前のことだった。学校中に噂が駆け巡り、野球部のグラウンドへと次々と人が押し寄せてきた。あっと言う間にスタンドが満員になる。見るからにいつもより観客は多かった。
代理帝王勝負は久遠対猛田の、大方の人達が予想した通りになった。形式は従来の直接対決。久遠が十球ストライクを取る内に猛田がどれだけヒットを打つか、或いはボール球を見極めるかで稼いだ得点で勝敗を決める。ボール球がなければヒット三本で、ホームランが出ればヒットもう一本で猛田の勝ちという計算になる。
天候には恵まれた。雲一つない快晴だった。風もない。どっちが有利とも不利とも取れない対等なコンディションだ。
「おっしゃあ!!」気合い充分な声が響き渡る。「久遠、ついにこの時が来たな! 俺達の因縁に決着をつける時が!」
「因縁って。僕は元々君なんて眼中にないんだけど」
「言ったなコラァ! 思えば入部した時から散々バカにされてきたけどよ、お前だって全然大したことないんだぜ! 今から教えてやる! 全球ホームランだ!」
「いいよ、返り討ちにしてみせる」
久遠が投球練習を終えるといよいよ監督の合図が下った。猛田がバッターボックスに入り、大きく振りかぶる。真剣な面構えで二人は対峙した。
「で、結果はどうなるでやんすかね?」
「いきなり聞いちゃうか」彼は苦笑した。「まぁ落ち着いてはいるし、猛田にも勝算は充分にあるでしょ。これまで負け続けてたとは言ってもね。友沢はどう思う?」
「五分五分だな。やってみないことには分からない」
「そりゃそうなんだけどね」
久遠は一息つくとロージンバッグを放った。猛田はバットを振りたくて振りたくて堪らなさそうにしている。
「何だかオイラも緊張してきたでやんす。オイラなら我慢できずに初球セーフティバントしちゃうかもでやんす」
「分かる分かる。まぁオレだったら最初の三球は球筋をしっかり確認して、一球くらいはバットに当てておきたいところだけどね」
(シャッ!!)
(クンッ!!)
(バシィィィッ!!!)
言った傍からミットにボールが収まる音がした。それが二回、三回とテンポ良く続く。全球スライダー、全球フルスイングの空振りだった。最後の一回で猛田はバッターボックスでくるくる回ると尻餅をついていた。
「いやいや待て待て!」笑い声も上がっていたが彼にしてみれば冗談では済まされない。大慌てて声を掛けた。「お前緊張してるのか?」
「だ、大丈夫ッス。ちょっとばかり力んじゃっただけッス」
「やっぱり緊張してるんじゃないか!」
それでも何も気にしていない様子のまま立ち上がると素振りを繰り返す。威勢だけはいい。いつも通りではあるが彼は猛田を代理に選んだことを早くも少し後悔した。
よし、と一方で久遠は調子に乗って来たようだった。何てことはない、今まで通りの、自分のよく知る猛田だ。僕のスライダーは通用するんだと自信がつく。
しかしいつまでも同じ球を投げ続けるのも面白くない。ここでまたスライダーを投げたらほぼ確実に空振りを取れるだろうが、ずっと続けていったらさすがに慣れられてしまう。下手をしたら偶然ヒットにされてしまうかもしれない。やはり着実に、完璧に勝つ配球をしなければならない。四球目はインコースへストレートを投げ込んだ。
「ッしゃあぁぁ!!! 絶好球ーーー!!!!!」
ミットに収まるよりも大きなスイング音を立てて再び崩れ落ちた。誰の目にも遊ばれているようにしか見えない。勝負の結末を確信する者がぼちぼち出始める。
「久遠くん、調子いいでやんすね」
「そうかもな」
「心配でやんすか?」
「大丈夫とは言い切れない。一度崩れてしまったら不安になるのが久遠だからな。猛田も追い詰められてから突然化けるタイプだ」
「そう言えば友沢は猛田に一回してやられたことがあったな」
「あぁ、あれには驚かされた。勝負はこれからだろう」
しかし猛田は変化球、特に変化量の大きいボールを苦手としていたはず。だからスライダー主体で攻めろとアドバイスはしたし、久遠自身も分かっていた。実際のピッチング自体も悪くはない。友沢は大事なことだけは口には出さずにおく。
五球目、次はどうするか。久遠はボールを背に、指で転がした。
余裕だ、楽勝だ、落ち着いて投げれば負ける相手じゃない。久遠は自分にそう言い聞かせていた。さっきからバットにかすらせてもいない。流れも確実に自分に傾いている。思えば監督が猛田を一軍に置いている理由が僕には分からなかった。騙されているような、テンションに誤魔化されているような、そんな気がしてならなかった。だから僕がメッキを剥がしてやるんだ。悪いけど、明日からは二軍にいてもらおう。
インコースからストライクゾーンに入るスライダー。打ち急いでいるからまだ空振りは取れそうな気がした。友沢に注意されたことを思い出す。肘に意識を置いて、リリースポイントを遅らせる。大丈夫だ、落ち着いている。目を瞑ると無様に空振るイメージが湧いた。いい傾向だ。腕を思い切り振る。久遠の指に最高の感触残し、ボールは放たれた。
ボールは狙い通りに猛田の膝元へ向かった。猛田は、視線でまず捉える。肩に力を込め、肘を引き、振りだすタイミングを計る。思っていたよりも速度が遅いなという認識しかまだできない。今だ、と思った時、それはいきなり空を滑り出した。初めて変化球だと気付く。膝元から遠くへ逃げていく。真ん中低め辺りか、高さは際どいがギリギリストライクゾーンに入っている。見逃せはしない。
当てれば何か起こる。先輩に言われた言葉を思い出す余裕はなかった。だがハナからそのつもりだった。様子見でバットを振らないでいるつもりなどなかった。十球チャンスがあるのなら十球チャレンジするのみ、猛田にとっては当然のことだった。
振り始めた腕は止まらない。腰を使ってタイミングを調節する。体勢は崩されていた。無理矢理合わせにいく。腕を伸ばし、バットの芯に乗せると拾い上げた。
火花が散った。弾け飛んだボールは気が付けばライトスタンド目がけて飛んでいた。わっと歓声が上がる。まさか、といった歓声だ。だが徐々に切れていく。一塁ベースを越え、野手の頭上を越え、ポールの僅か手前でファウルラインを横切り、スタンドへ飛び込んだ。落胆の歓声に変わる。
打った本人も驚いていたが打たれた本人はより動揺を隠せないでいた。失点には繋がらなかったが安堵よりも危機感に見舞われる。友沢直伝の、自慢のスライダーを猛田にあそこまで持っていかれたのは初めてだった。かすらされたことはあっても、ヒットはもちろん、ぼてぼての当たりにすらさせたことはなかった。
「おいおいビビっちまったか!?」
ここぞとばかりに猛田が騒ぎ立てる。驚いた顔を直すのを忘れたままだった。はっと久遠は冷静を装う。安い挑発だ。分かり切っている。まさか、と強気に言い放った。
だが次の六球目、何を投げればいいのか迷いが生じた。ストレートか、スライダーか、はたまた他の球種か。
「タイミング合ってきたみたいだな」
「どうかな。まぐれかもしれない」
「多分まぐれでやんす」
「うん、まぐれだね」
「だがあれだけ綺麗に打たれた後では同じ球種は投げにくいはずでやんす」
しかし久遠が選んだのはスライダーだった。再びインコースからボールが逃げるように飛び込む。少し高めに浮いた。コースを見誤ったのか、窮屈そうなスイングになる。だがバットはボールを捕らえた。猛田はありったけの力で無理矢理押し込んだ。振り抜くと同時に身体が浮く。
打球はセンター方向へ弾き飛んだ。内野手は動かない。外野手が守備位置から駆け足で下がった。ボールの勢いは強い。全力で追った。しかしすぐに足を止めた。フェンスの遙か手前で待ち構えると、余裕を持って捕まえた。
また得点にはならなかった。しかし湧いたざわめきはしばらく収まらなかった。グラウンドのボルテージが上がっているのを誰もが感じていた。
「あぁ、惜しい」
「けど明らかに調子良くなってきたな」
「逆転いけるんじゃない?」
騒ぎ声が止まない中、誰かが話した言葉が久遠の耳にはっきりと聞こえてしまった。
次が七球目。未だヒットはない。だが追い詰められた様子を猛田は見せなかった。まるで闘争心剥き出しの獣だ。ルールを把握していないんじゃないかと思わせてしまうくらいだ。負けているはずなのに、ペースを握っているのは自分なのだと言わんばかりだった。
久遠の額を粘つく汗が伝った。スライダーを捕らえられ始められている? あり得ない。決して思い上がっているつもりではないが、変化量も、キレも、猛田が打てるレベルではない。バットに当てられるくらいのことはあるだろう。猛田だって努力はしている。だが到底ヒットにされるとは思えなかった。これまで完全に撃退してきた経験が認めさせてくれなかった。
このままスライダーを投げてもいいのだろうか。帽子をかぶり直す。大きく深呼吸をした。胸に手を当てると、心臓が高鳴っていたことに気が付いた。右の拳を押し込んで無理矢理抑え込む。落ち着け、この勝負には友沢さんの命運が掛かっているんだ。友沢さんに帝王になってもらいたくて、友沢さんの期待に応えたくて、だから代理を引き受けた。迷惑だけは絶対に掛けたくない。
様子見のストレートにしよう、唐突に思い付いた。もしかしたら最初からずっとスライダーを狙い打つつもりだったのかもしれない、と理由を後付けにした。
コースを変え、ストレートを投げた。外角の厳しい、だが見逃しても良さそうなボールゾーンへと向かった。しかしバットは飛び出していた。それも振り遅れていた。バットは今回五度目の空を切った。
「畜生、ちょっとやばくなってきたな」
台詞とは裏腹に猛田は不敵な笑みを浮かべた。だが次は八球目、現実的には全てヒットにしなければ厳しい。ほとんど久遠が勝ったも同然だ。ここから一気に追い上げられ、逆転されるだろうと予想している者はまずいない。徐々に観客が帰り始めていた。
しかし投球テンポは次第に悪くなっていた。ロージンバッグを触る時間も長くなる。表情は固く、猛田と対峙し、リズムを整えながら、心の中を覗きこむかのように、じっと様子を伺っていた。
「何か、久遠の様子がおかしくないか?」ふいに彼が呟いた。
「そんなこと分かるでやんすか?」
「いや、何となく思っただけどさ」
「お前も感じていたか」
「友沢も?」
「ああ、もしかしてアイツ」
言いかけたところで久遠がモーションに入った。ストレートだった。狙いは胸元。これを猛田はバットの根本で捉えた。ぼてぼての当たりがフェアゾーンのファースト方向へ転がるが、到達することなく野手のグラブに捕まった。
「もしかして、何でやんすか?」
「いや、まさかとは思うが、スライダーを打たれたくないんじゃないのか」
「打たれたくはないのは誰だって一緒だろ」
「そうじゃない。“スライダーを”打たれたくないんだ。猛田にただ打たれるだけならまだしも、一番自信を持っているスライダーだけは打たれたくない、と思っているのかもしれない」
「いやいや、打たせないためのスライダーだろ」
久遠の様子を伺う。二人にも違和感を感じたきっかけは分からなかった。接してきた経験上そんな予感がした、と言う他ない。
「けど、たった二球スライダーを投げなかっただけでやんすよ?」
「だからまさかと思ってるんだ。思い過ごしならいい。でも久遠はこれまで猛田に全く引けを取らなかった。それこそスライダーを投げれば100%抑えられていた。だがここにきて突然、前触れなく捕らえ始めたんだ。プライドが邪魔しているのかもしれない」
「似た者師弟だな」
「そっちこそな」
「でもどの道、もう手遅れかもしれないでやんすよ」
次が九球目。猛田にはもう、ヒットとホームランを連続で出すしか勝ち筋は残されていない。完全に追い詰められている。さすがに久遠にも余裕ができたようだった。顔の強張りが少しだけ和らいだ。
「いや、まだ分からない。猛田の爆発力ならあるいは」
まさかとは思う。彼も言ってみただけだった。願望にも近い。だが猛田にはできてしまいそうな、そんな底力があることは知っていた。だからこそ期待していたし、今回の勝負にも推したのだ。
大きく息を吸う。また心臓が高鳴っているのに久遠は気が付けないでいた。勝てる、勝てるんだと内心で叫び続ける。友沢みたいに完全に隠し切れていない、少し表情に出ていた。
間違いない、猛田はスライダーを待っている。得意球を打ってこそ完全勝利だとでも思っているのだろうか。猛田らしいと言えばらしい。もちろん、投げてやるもんか。あと二球空振りを取って終わりだ。ちょっと冷や冷やさせられてしまったが、何てことはない、結果はいつも通りだ。ボールを指で転がし、ストレートの握りで止める。狙いは無駄に大袈裟に感じる打撃フォームの膝元。あらん限りの目力を込めて定める。そして、瞬きをしてしまわない内に投げ込んだ。
少し重心移動が速まった。一息つくのも忘れていた。腕を振りながらミスしてしまったことに気付く。しかしボール自体は悪くはない。スピンも球速も充分だ。コースはずれたがストライクゾーンには入っているはずだった。
猛田はどうだ。狙いを外したか。空振りしたか。慌てて合わせにいっているか。腕を振り切った勢いで傾いた身体を起こす。帽子のつばで隠れた彼の姿が、足下から段々と露わになる。
カキン、と何かが弾かれた音が耳に飛び込んできた。続いてバットを振り切った猛田の全身が目に映る。そしてすぐにまた全身が隠れた。目の前に突如、白い球体が現れると一気に視界を覆ったからだ。
ボールは久遠の僅か右側めがけて飛んできていた。危ない、と思うより先に顔からよけた。よけつつ、よけては駄目だ、とグラブが捕らえようと追う。無理な体勢のまま身体を捻り、腕を思い切り伸ばした。しかし、僅かに届かない。グラブの先に触れただけで軌道も勢いもほとんど変わることなく飛び抜けていった。まさか、と振り返る。汗が飛び散った。セカンドとショートが喰らい付こうと走るのを祈るように見守った。ボールはセカンドベースの手前で地面に落ち、跳ねた。真っ直ぐセンター方向へと転がる。二人は懸命に追った。だが、どちらのグラブに収まることなく、ギリギリをかすめると土から芝生まで抜けていった。センターのグラブに収まり、ようやく動きを止めた。
グラウンドは今回の勝負中最大の歓声で溢れかえった。
「よっしゃあああ!!!」
猛田が吠えた。ほとんど絶叫のような、歓声の中でも一際大きな叫び声が響き渡る。土壇場でついにヒットを打ってみせた喜びがこみ上げた。
「いいぞ猛田ー! やれー! ぶちのめせー!」
「品がないでやんす」
とはいえ喜びっぱなしでもいられない。首の皮一枚繋がっただけだ。まだ絶体絶命であることには変わりはない。次の十球目でホームランを打たなければ猛田は負けるのだ。
グラウンドの興奮が居心地悪く、久遠は舌打ちをした。今更一本打ったところで、と内心で毒を吐く。しかし次第に強気な態度は弱々しくなっていった。このタイミングでホームランなど、そんな都合のいい、ドラマチックで最悪な展開などまず普通は起きない。僕と猛田との実力差が許さない。だが、あり得ない話ではない。
猛田は一体何を考えているんだ。スライダー待ちではなかったのか。気が変わったのか。さすがに気分で狙い球を変えているなんて馬鹿なことはしないだろう。ではきっかけは何だったんだ。圧倒的に優位に立っているはずの久遠だったが、焦りが余計な考えばかりを生んではまた焦らせるという悪循環に陥っていた。
ちらりとスタンドの方に目だけを向ける。久遠の目に友沢の姿が映った。そうだ、絶対に負けられないんだ。唇を強く噛んだ。落ち着きがない自分に気付く。冷静になれ、と言い聞かせ、深呼吸を挟んだ。
次がラストボール。ストレートかスライダーか。眉間に皺が寄る。最後は得意球で締めてくるに違いないと猛田なら思うだろう。それにストレートを打たれた後だからこそ、同じ球は投げにくいだろうとも考えているはずだ。ストレートを投げれば間違いなく裏はかける。だがスライダーを未だヒットにされていないのも事実だ。僕が最も自信のある球で、猛田が最も苦手にしている球だからこそ、ここぞの場面では投げ込みたい。
猛田を見据える。久遠に気付くと、口元をほころばせてバットを構え直した。調子に乗るのもそこまでだ、と呟いた。
やはりストレートの方が勝算が高い。外いっぱいに決めてみせる。あのバット振りたがりが尻餅をついてゲームセットだ。
久遠は握りを作りながら、やっぱりスライダーの方が確実かもしれない、いやストレートで問題ない、いや、でも、と散々に迷っていた。ボールは掌で忙しなく踊り続けた。間合いが今までで一番長くなる。思い切ってピタリと止めた時、ストレートの握りができていた。よし、これでいこう、と意気込む。セットポジションに入ると猛田の顔付きが険しくなった。縫い目が指に窮屈そうに食い込んだ。肩も強ばっていた。鼻で息を吸い、口から大きく吐き出す。そよ風が前髪をさすり、瞼をくすぐる。どくん、どくん、と心臓が早く鼓動していた。一つ一つの感触が鬱陶しいくらいに鮮明に感じられた。あと五秒、いや十秒経ったら投げよう。体の内側から小刻みな波を打ちつけられ、早くこの辛く苦しくもどかしい状況から逃げ出したい、終わらせたいという欲求に急かされては抑え込む。目を瞑り、まだだ、慌てるな、と心の内で言い聞かせる。一秒前で大きく息を吐く。どくん、と十秒目がカウントされ、左脚を上げた。猛田がバットを引くのが視界の右端に見える。引いた腕を上へ回し、手首を回し、前へ突き出した。
やっぱりスライダーの方がいいんじゃないのか。
ボールを離す直前、唐突に脳裏によぎった不安がフォームを崩した。身体の力が瞬時に抜けた。指先に乗ったボールが不安定な支えからずれ、中途半端な力で押し出された。
「あ」
誰が発した声だっただろうか。誰が聞いた声だっただろうか。
緩やかに、山なりの軌道を描いたボールはストライクゾーンのど真ん中へと向かっていった。