正月になり、冬休みを迎えても帝王実業高校のグラウンドの景色は普段と変わらず、選手達が汗を流しながら各々の練習に打ち込んでいた。夜になると朝から陰っていた空からぱらぱらと雪が降り始めた。全体練習を終え、自主練習中だった選手達は寒さに震え上がり、動きが鈍くなる。
シャドーピッチングを終えた久遠は友沢の姿を探していた。今日はバイトはないはずだったがグラウンドを見渡してもそれらしい姿は見えなかった。もしかしたらもう帰ってしまったのかもしれない。ブルペンを経由して静まり返った校舎へ戻り、教室、部室と廻っていく。友沢どころか人気が全く感じられなかった。
「うーん…友沢さんどこだろ? 教えて欲しいとこがあるんだけど」
独り言がよく聞こえる。ぽつりぽつりと最低限に点いた明かりでできた影が不気味に壁にへばりついていて、寒さも相まって鳥肌が立った。
廊下を真っ直ぐ進むとやがて一筋の明かりが漏れているのが見えた。辿っていくと室内練習場に着いた。もしかしたらと思い、ドアをこっそり開ける。あ、と久遠は声を上げた。
「違うって! もっとこうした方が球威も増すって!」
「だから、お前のやり方だと逆にコントロールが悪くなるんだ!」
「そこはお前の頑張り次第でなんとかなるって」
「まったく…」
友沢と現帝王の彼だった。広い練習場には二人だけだった。ずっとここで居残り練習をしていたのだろうか。つい出ていくのがはばかられ、久遠は隙間から覗いたままでいた。どうやら気付かれていないようだった。
じっと二人の様子を伺う。極端に笑ったり声が上擦んだりしている訳ではないが、久遠の目には、友沢が普段よりも楽しそうにしているように見えた。
「一回投げてみてよ。絶対効果あるから!」
「しかたないな…」
友沢は溜め息をつくと手渡されたボールを握り、ネットを見据えて構えた。小さなステップで踏み込むと、久遠とよく似たフォームで投げ込んだ。
(シュッ!!)
(ビュァアア!!!!)
ボールはネットを最大限まで押した。回転が止むまで引きちぎる勢いで宙に浮いていた。球速もノビも久遠の想像を越えていた。思わず声が出そうになる。
「ほら! ほら! 今のイイ感じだったって!」
「…確かに、やってみるものだな。ありがとう」
そして久遠は、滅多に見せない友沢の笑顔を見て、更に驚かされた。珍しいどころか、初めて見たと言い切れたかもしれない。
同時に気付かされた。友沢と彼は同じ立場、同じ目線でお互いを高めあっている。いわば二人はライバルだ。それに比べて僕は、友沢さんについていくばかりだ、と。
「じゃあ次はオレの練習につきあってもらうぞ」
「フッ…しかたないな…」
そうだ僕は友沢さんの後にばかりいちゃいけない! 僕は友沢さんと向き合いたい…!
想いがはっきりと言葉として形になった時、久遠はその場から駆け足で離れていた。まだ会話が続いていたようだったが気にせずに走る。どこへかは決まっていない。とにかく走った。
しばらくして走り疲れ、速度を落とす。自分の足音だけが廊下にこだましていた。先程のやりとりを見てしまった分、寂しいな、という気持ちが余計に溢れてきた。決して自分がこれまでしてきたことが間違っていた訳ではない。否定する必要は全くない。それは分かっていた。だが、何故今まで気付かなかったのだろうかと、もっと早く気付きたかったと、後悔が久遠を強く揺さぶっていた。
そこで、自分の足音と違う足音が混じっていることに久遠は気が付いた。一歩一歩がどかどかとやかましい。もしかして、と思ったところで角から猛田が顔を出した。
「よう」猛田が手を挙げる。
「やあ」やっぱり、と思わず久遠は苦笑した。「帰り?」
「ああ。部室に行くところだ。お前もか?」
答えに困った。どこへ行くつもりもなかったが話に合わせることにした。小さく頷く。
「友沢先輩のところに行ってきたところ。忙しそうだったから声は掛けられなかったけれどね」
「またか。よく飽きられないよな。いっつも一緒にいる気がするぜ」
「いつもじゃないよ」
僕から行かない限り友沢さんと一緒にいることはあまりないかもしれないけど、とは思ったが言わないでおく。
友沢と彼のことを考えていたところに猛田が割って入ったせいだろうか、ふいに久遠は数週間前の代理帝王勝負のことを思い出した。完璧に捕らえられたボールを見送ることしかできず、頭の中が真っ白になってしまったせいで、部分的にしか記憶に残っていなかった。バッターボックスで騒ぎ立てる猛田、お祭り騒ぎのスタンド、落胆した表情の友沢、飛ばし飛ばしの光景が蘇る。
途中、とある光景が思い出された。つい久遠は、そういえばあの後、と呟いた。ん、と猛田が反応する。何でもないよ、と返しても気にされてしまったようで、苦笑いをこぼした。
「猛田は凄いな」
照れと自嘲が半々に込められた台詞を吐いた。
「何だよ突然。気持ち悪ィ」
「僕との勝負に勝った後、すぐにその場で先輩に勝負を挑んだだろう」
ああ、と猛田が相槌を打った。
「元からそのつもりだったからな」大したことじゃないと言わんばかりにヘラヘラと笑って見せた。「まぁ、完璧に負けちまったけどな」
「でも、凄いと思う」
猛田は反応に困っているようだった。普段との態度が違い過ぎて居心地悪そうに頬を掻いている。
「悔しいけど、僕だったらできなかったと思う」
一方で久遠の声色は暗く、暗闇に溶け込んでしまいそうなか細さだった。
「僕はあの勝負を友沢先輩のためと思って引き受けたんだ。友沢先輩に帝王になってほしかったから、ふさわしいと思っていたから。勝負に負けた時なんて、罪悪感でいっぱいだったくらいだ。たとえ勝ってもそのまま立ち向かってやろうだなんて、考えもしなかった」
「なってほしいんだったら挑む必要ないだろ」
「違う、違うんだ」
慌てた声で久遠は遮る。
「友沢先輩は僕の憧れで、リトルの時から、ずっと尊敬していた。ずっと友沢先輩みたいになりたかった。いろいろ教えてもらって、真似て、友沢先輩に追いつくことばかり考えていた。でも分かったんだ。追いつくだけじゃ駄目なんだって」
話しながら久遠は最後に何が言いたいのか分からないでいた。ただただ思ったことをそのまま言葉にして紡いでいた。だが話せば話すほど言いたいことで溢れて止まらなかった。激しい頭痛がした。手も震えていた。猛田は拙い話をじっと黙って聞いていた。
「当たり前のことだろう? 追いつくだけで満足できる訳がない、追い抜きたいと思うのが普通だよ。でも僕は分かっていなかった。憧れの存在過ぎて、追い抜いてやろうだなんて考えたこともなかったんだ。思えば僕はこれまで友沢先輩に帝王勝負を挑んだこと自体がなかった。分かっていたら自然と勝負を挑もうとしていたはずなんだ。挑まなきゃいけなかったんだ。猛田のように。立ち向かおうとしなかった自分が許せなくて、だから、猛田が羨ましい」
静寂が流れ、猛田は話が終わったことを悟った。大きく息を吐く。いつの間にか二人の足は止まっていた。
久遠は、自分より少し背の高い隣の男を見上げた。熱血単純バカと周りではやし立てられる程直情的で、大袈裟で一つ一つの行動がやかましく、うるさい。自分とは正反対の性格で、好印象を持ったことはほとんどない。だが、何故皆から一目置かれるかはよく分かっていた。だからここまで本音を話してしまったのだろうか。騒いでほしい時に限って猛田は静かだった。気恥ずかしさから顔が火照り出した。
「何があったかは知らねぇけどよ」きっかけなく猛田が静かなまま切り出す。「お前がまた倒し甲斐のある奴になったってことだけは分かったぜ」
「今までは倒し甲斐なかった?」
「なかったというか、なくなったというか。そりゃ、てめぇの決め球を信じ切れない奴なんか倒し甲斐がある訳ねぇからな」
「そんな。僕のスライダーは誰にも」と言い掛けたところで勢いが止まる。続きを言いたくても言えなかった。先の勝負で一番の得意球を使うのを避け続けていた自覚があったからだ。
「出てた?」恐る恐る尋ねる。
「出てた出てた。かなり顔に出てたぞ。メチャクチャ迷ってたな」
意地悪そうに猛田が笑った。他人の感情に鈍いはずの猛田にそこまで見透かされていたとは。更に久遠の体温が増す。
「ま、それだけ闘争心が出てきたのなら決め球を出し惜しみするようなバカな真似はしねぇだろうしな」
猛田は久遠の肩に腕を回す。ずしりとした重みがのし掛かると同時に汗臭さが鼻に突き刺さる。ちゃんと汗を拭いたのだろうか。
「な、どうだ、明日にでもまた勝負するか?」
「明日? 気が早いな」
「こういうのは“思い立ったが確実”って言うだろ」
「“思い立ったが吉日”ね」
はぁ、と溜め息をつく。だが自分の胸が高鳴っていることに久遠は気付いていた。それも心地良い。猛田に悟られたくなくて、クールに振る舞った。
「いいよ、相手になる」
「おっと。言っておくけどよ、お前が挑戦者だからな。これまでずっと負け続けてたっつってもよ、最後に負けたのはお前なんだからな」
「分かってるよ。今度は手加減なしだ」
「手加減してたのか?」
「言ってみただけだよ。全力を出し切るって意味さ」
「久遠もなかなか分かりやすい奴だな」
「猛田ほどじゃないよ」
まさか僕達が似た者同士な訳がないよな、と久遠は内心で苦笑する。冗談にもなり得ない。
でも、と思う。ただ追い続けるだけだった僕にも、口喧嘩し、ぶつかり合い、本音をさらけ出し合える仲がいたんだ、いてくれたんだな、と。前ばかり向いていたせいで気付けなかった。そもそも見向きもしなかったから。僕の隣にいたのは、あまりにも粗暴で乱暴な奴だけれども、真っ向から純粋な熱意をぶつけてくれる。友沢さんと彼のように、帝王の座を争う仲になったらどれだけ楽しいだろう。
「もう今日は帰るんだろ? 飯食って行こうぜ。ネギは食ってやるからよ」
「その余裕も今日までだからね」
ずっと昔から同じ立場、同じ目線で向き合ってくれていたライバルに、親友に、心から感謝を。