黒く、禍々しく、しかしどことなく美しさを漂わせる魔王城に不釣り合いな騒々しい足音が響く。
「魔王様ッ!! 勇者がッ、勇者がすぐそこまで来ていますッ!!」
魔王の側近。魔族の中にあるピラミッド状のヒエラルキーにおいても頂点近くを占める青年が、礼儀を無視して扉を乱暴に開け放ち、そんなことを叫んだ。
続けて、側近は訴え続ける。
「既に守護者や召喚獣、それに四天王も全て殺されていますッ!! 私たちでは彼に勝てません! 今すぐ、逃亡のご準備をッ!!」
広い魔王の部屋に、側近の声は強く響いた。
側近の主張を吟味し、その正当性を理解した上で、魔王は小さく溜息を吐く。
「そんなことは分かっている。しかし、魔族の長として、その程度の理由で逃げてしまってはこれまでに死んでいった魔族に示しが付かん」
落ち着き払った声で、魔王は笑う。美を象徴するかのような顔立ちと、時に無慈悲なまでに冷静な判断から、人間からは氷の女王とさえ呼ばれている。
「しかしッ!」
「お前の危惧はよく分かる。しかし、私もただで死ぬような女ではない。最悪でも、道連れにして死んでやる」
そう冗談めかしてに笑う魔王の目を見れば、氷の女王などと言う名は付かないだろう。魔王が氷の女王と呼ばれるのは、あくまで人間側の視点なのだ。
魔族側の視点から見れば魔王は、実に効率的で、合理的で、誰も傷付けない、そんな最適解を導き出す、魔王になるべくして生まれたような魔族なのだ。
しかし、それ以前に彼女は魔王である以前に一人の女性である。
「ダメです、魔王様。私達は、貴方に頼り過ぎました。魔族の繁栄の為に、貴方個人の時間を費やしました。もう、これ以上、貴方が私達魔族に費やすものは何もありませんッ!!」
側近である彼は幼い頃から彼女を――彼女の努力を、苦労を、全てを知っている。だから、次の彼女の言葉も分かっている。分かっていても、側近は言わずにはいられなかった。
「そんな訳にはいかないさ。魔王になったあの時から、私は一個人の魔族であることを、女であることを捨てた。戴冠したあの日から死ぬまで、私は魔王だ」
彼女は背負い過ぎる。だからこそ側近は常に彼女の側にいて、彼女の仕事の一部を担って、彼女の負担を減らそうと必死に努力をしてきた。
しかし、側近が減らした負担の分だけ、いやその数倍ほどの量の仕事を彼女は引き受ける。
彼女の熱心さを、側近は全く変えられなかった。彼女は変わらず、意思を曲げず、ただひたすらに真っ直ぐだった。だから、側近はそれを諦め、補佐に回ることに徹した。
しかし。しかしだ。今回だけは、絶対に譲れなかった。
仮に彼女が魔王として死んだ時、彼女は恐らく伝説の魔王として神格化されるだろう。後の魔王達は、彼女に憧れ、彼女と同じ地位に立てたことを誇りに思い、彼女の名を汚さまいと奮起するだろう。
魔族は人間とは違う。ただひたすらに種の繁栄と、全ての魔族に幸福をもたらすことだけを考えている。
人間のように醜く、小賢しく、浅はかに、自己利益を優先し、敵を打倒し、そして最後には裏切るような、そんな種族ではないのだ。
しかし、だからと言って、どう考えても死んでしまうような相手と戦わせることはないのだ。
種の繁栄と個の犠牲を同一視することは、致命的な過ちだ。それでは、人間と何も変わらない。
「それに、逃げるのはお前の方だ。お前の戦闘能力は、勇者の足元にも及ばない。だから、お前は逃げろ」
「……嫌です。貴方が逃げるんです。私は貴方について行きます。貴方が逃げないのならば、私も逃げません」
「どうして分かってくれない。私はお前が死ぬ姿を見たくないと言っているのだ」
「…………だよ」
「何だ?」
「それは俺もだ、って言ってんだよッ!! 俺はお前に死んで欲しくねぇんだよ!! お前だけは死んで欲しくないんだよ!!」
それまで必死に堪えていた感情が決壊した。側近がそんな口調になったのは、実に十数年ぶりだ。口調の変化に魔王は一瞬だけ驚きを顔に出すが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
全てを察し、全てを悟り、全てを理解した。
「……そうか、お前はそこまで、私のことを想ってくれていたのだな」
ふぅ、と落ち着いた溜息を漏らして、柔和な笑みを漏らす。
「魔王様……」
「それが聞けてよかったよ。――今まで、ありがとう」
そんな言葉と共に、魔王は側近に手刀を食らわす。一撃で側近を気絶に追い込み、側近を優しく抱え込む。
「私も、お前が好きだったよ。ありがとう」
魔王は、側近を魔王の城から遠く離れた場所に飛ばす転移魔法陣の真上に起き、転移させる。
側近の姿が消えたのを魔王が確認すると同時に、魔法陣は消えてしまう。
もともと、この魔方陣は側近だけを転移させる為に魔王が作った、一回きりの転移ゲートだ。
魔王は最初から覚悟していた。
勇者がこの城にやってくることを、側近が共に逃げようと叫ぶこと、自分がそれを拒否し、今のように逃すこと。
全て、分かっていた。
しかし、二つだけ、魔王にも分からないことがあった。
一つは、果たして側近が、魔王のことをどう思っているのか。
魔王自身、自らが実に自己犠牲主義で、決めたことは絶対に変えない頑固者で、だからこそ一途であることを十分に理解している。
自らの為ではなく魔族全ての為に。そう決めて、だからこそ、その恋心はひた隠しにしていた。ひたすらに隠し、ゆっくりと確実に、その想いを募らせていた。
だから、もしかすれば最後になるかもしれない今、この時に、側近のその想いを確認できたのは、魔王にとってこの上ない幸せだった。
これで悔いなく死ねる。果たして向こうが一体、いつから魔王のことが好きだったのかは分からないが、少なくとも幾ばくかの間は、両想いな状態があった。
それだけで、魔王は十分だった。
魔王自身に並ぶほどの存在力を――その場にいるだけで威圧感を覚えるような、圧倒的な迫力を感じ、魔王は目の前の扉を見据える。
魔王の間の扉が、ゆっくりと開かれる。開かれた扉の真ん中には、たった一人で魔王の城に突入し、あらゆる敵をなぎ倒してきた人間が――勇者がいた。
すぅ、と大きく息を吸い込む。
「よくぞ来たな勇者よッ!! 単身で私を倒そうとするその心意気だけは認めてやるッ!! 魔族と人間、どちらがこの世界を支配するのか、私と貴様で、それらの全ての争いに蹴りを付けようじゃないかッ!!」
「魔王ッ!! お前は、お前だけは――ッ!!」
そしてもう一つ。魔王には分からないことがある。
それは、この戦いの勝者が、果たして誰なのか、だ。
魔王か、勇者か、それとも相討ちなのか、――それとも。
続くかもしれません。