IS -黄金の獣が歩く道-   作:屑霧島

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こんにちは、屑霧島と申すものです。
私の作品が皆様の暇つぶし程度になれば幸いです。
それでは、歌劇の幕を開きましょう。
よろしくお願いします。


ChapterⅠ

とある城のとある大ホールではオーケストラの演奏が行われていた。

その光景は凡庸なオーケストラのコンサートとかけ離れたものだった。

そもそもからして、コンサートが行われている城が普通ではない。まるで墓場のごとく陰湿な雰囲気が漂っているが、それと同時に相反する神々しさも兼ね備えている。

また、そんな異様な城の大ホールで演奏する者たちは異質そのものだった。ある者は半身が焼けただれ、ある片目の無い者の眼からは噴水のごとく血が溢れだし、ある者は全身が切り刻まれ、ある者は両足を失っていた。

誰もが致命傷となりうるような怪我を受けているようにしか見えない。

常人なら死んでしまうだろう。だが、にも関わらず、演奏は続いている。

ハッキリ言って異様を越え、異次元だ。

そのようなコンサートが行われている大ホールには二人の観客が居た。

一人は黄金の鬣を靡かせる百獣の王のような男。もう一人は枯れそうな年老いた蛇のような黒いローブを羽織った男だ。二人とも、眠れる獣と蛇のようなそんな存在だったが、その魂から溢れ出る存在感は常人なら呼吸さえ儘ならないほどの圧倒的なものだった。

そんな二人は静かに演奏を楽しんでいた。演奏が終わると獣のような男は拍手を送る。

 

「さすが、我が爪牙。次の演奏会も楽しみにしているよ。」

 

黄金の男は席から立ち上がり、ホールから出ていく。

それに続く形で、黒いローブを被った男がついていく。

 

「獣殿、貴方に一つ提案がある。」

「なんだ?カール。卿が私に進言することはあっても、提案とは珍しいな。」

「何、貴方が飢えているのではないかと思ってのことだ。」

「ほう、何故にだ?」

「先刻の演奏会を聴いていた貴方は退屈しておられるように見えた。察するに、聖槍十三騎士団の多くがあなたの手元から離れ、我が息子に組した。それにより、オーケストラの規模が小さくなり、若干退屈なモノへとなり下がったことが原因ではないかと読んでいるのだが」

「………。」

 

まるで、鬼の首を取ったかのような表情で蛇のような男は、獅子のような男に質問を投げかける。そんな問いに対し、獅子のような男が反論できないのは、蛇のような男の言葉が己の深層心理を獲たからであったからだ。

 

「そうだな。カール。卿の言うとおり、私は己の既知感から解放されたにもかかわらず、先ほどの演奏は、私の飢えを満たしてくれるものではなかったよ。指揮者のマキナが、コントラバスのカインが、マラカスのヴァルキュリア、トライアングルのテレジアが、カスタネットのレオンハルトが、他にもクリストフ、マレウス、バビロン。シュピーネは登城以来一度も私と顔を会わせることなく、置手紙を置いて去ってしまった。今残っている騎士団の楽員は、ザミエル、シュライバー、ベイ、イザーク。楽団も騎士団も規模が小さくなり過ぎだ。」

 

城の主は聖槍十三騎士団という魔人の軍勢を率いていた。

盟友の代替に敗北し、ある者が座に就き、己はその者の守護者となった。

だが、その者の居る黄昏の浜辺より、己の渇望が作り出した城の方が過ごしやすいため、己は城に居た。

そこで、城の主である己は臣下に、座を守護するのであれば、好きなようにしろと、暇を与えた所、城の主に対し真に忠誠を誓っている者だけが残ったが、大半が友人の代替の男の元に行ってしまった。結果、元居た十三人が大幅に減り、今では聖槍十三騎士団に所属する者は、結成時の九人よりも少ない六人へとなってしまった。

現在の聖槍十三騎士団の空席はzwei、drei、fünf、sieben、acht、zehn、elf。

日本語で言うところの二、三、五、七、八、十、十一だ。

中でも、七が抜けた穴は大きい。

七は十進法において、十三の数字の前半にも後半にも属さないことから、天秤の支点とされ騎士団の首領並び副首領は重要視していた。そのため、黒騎士と呼ばれた大隊長ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンがこの数字を背負っていた。

また、三が抜けたことも痛い。

三もまた、七と同じく、十三と所縁のある数字だからだ。七進法であろうと、八進法であろうと、十進法であろうと、十六進法であろうと、如何なる数学的概念を用いても、十三という二ケタの数字からその概念数を差し引けば、三になるからである。

そのため、この数字を与えられていたヴァレリア・トリファは首領代行という責を背負っていた。

 

楽員と騎士団が大幅に減ったのは、城の主の完全な自業自得だが、それもまた一興だと彼らを憎むことは無かった。

なぜなら、彼は全てを愛している。

己に従う者も、己に刃を向ける者も、己に対し反旗を翻す者でさえも。

それが彼のあり方だったからだ。

 

「では、獣殿。貴方の騎士団を再び十三にするために、城から降り、英雄となりうる楽員を探すのは如何だろうか?」

「それは面白そうだが、カールよ。私がこの城から降りるのであれば、スワスチカを開かねばなるまい。だが、我ら騎士団は例外なくこの城か黄昏の浜辺に居り、スワスチカを開く戦力を持たん。であるならば、私はこの城から出られるまい。違うか?」

「確かに、貴方の言う通りだ。だが、なにも貴方自身が降りる必要はない。以前貴方は己の影を城から出させることを行ったはずだ。今回はそれに近いことをするだけだ。簡略して説明するのであれば、貴方の影に新たな生を与え、城から出させる。」

「仮に、そのようなことが出来たとしても、今の座は卿の女であり、卿ではない。あの者が成した理は輪廻転生だ。であるならば、私はラインハルト・ハイドリヒという人間としてこの城から降りるわけではない。違うか?」

「おや?貴方とあろう御方が未知を恐れておられるのか?」

「いや、私は確認しただけだ。再び生を謳歌するのであれば、あの時代のラインハルト・ハイドリヒでは詰まらぬ。それでは私は再び既知に悩まされてしまうであろう。私はそれを危惧しておるんだよ。」

「ご安心召されよ。獣殿。私が友情を裏切るようなことをしてきただろうか?」

「なるほど。だが、卿の女とツァラトゥストラが私を転生することを認めるのか?」

「すでに、女神には今の座を確固たるものにするための遠征だと伝えている。そして、そのことについて女神も我が息子も納得している。」

「そうか。あのツァラトゥストラを如何様に納得させたか問わぬが、面白い。卿の提案に乗るとしよう。」

「貴方が此処まで喜ぶとは、私直々に根回しをした甲斐があったというものだ。」

「だが、それだけか?」

「それだけとはどういうことですかな?獣殿。」

「卿が行う根回しというものは、あの女とツァラトゥストラを説得させただけではあるまい。私の知る卿なら、他にも何かしらの策謀を企て、何かをしたのだろう?」

「さすがは獣殿。聡いお方だ。私は己の知識の一部をある幼子に渡した。その者がどうするのか、何を思い、何を為すか、何を見て、何を感じるのかは私には予測できない。だが、貴方や私ほどではないが大業を為すだろう。故に、貴方の生は脚本の無い三流役者による混沌としたエチュードのようなものになると思うよ。それでも良いかな?」

「問題ない。むしろ、卿が関わった碌でもない世界こそ、私が下りるに相応しい。他には?」

「と、申しますと?」

「卿は先ほど言ったな。此度の座は輪廻転生だと。であるならば、私にはこの聖餐杯以外の肉体が用意されるはずだ。だが、私の影であろうと、肉体を持つと言うならば、それが聖餐杯以外に収まるとは到底思えん。で、あるならば、こちらの対策も卿は考えておるのだろう?」

「ご明察通り、貴方の影であろうと聖餐杯以外の肉体に入れば、数秒を経たずして、砕け散るでしょう。そして、砕け散れば、再び貴方はこの城に戻ってくる。そこで、私の術をもってして、貴方が使われる凡人の肉体を聖餐杯の贋作へと昇華させましょう。本来の性能には劣りますが、ある程度成長すれば、影の貴方が本気を出しても壊れますまい。」

「そうか。では、楽しみにしているよ。カール。」

「貴方の二度目の生が有意義であることを私は願っているよ。獣殿。」

 

蛇のような男は影狼のように消えさるように、その場から立ち去る。摩訶不思議な現象に常人なら驚くだろうが、獅子のような男、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒにとってはこのようなことなど既知であり、特筆して驚くようなことではない。

 

ラインハルトはその場で立ち尽くし、熟考にふける。

考えることはカールという名の唯一無二の友人のことだ。

カール・エルンスト・クラフトは面倒な男である。彼を一言で表すならば、詐欺師。

ただ、意訳仕様のない契約は違えぬあたりが普通の詐欺師とは異なるのだが、舞台の裏で糸を引き、他者を破滅させ、自分の目的を達成させるという点では相違ない。

そのような人間が再び舞台の裏に立とうとしている。

予測しがたい天災のような展開が待っているのは誰であろうと容易想像がつくだろう。

そして、そんな男が舞台を盤ごとひっくり返すようなことをするには彼なりの目的がある。たとえ思慮の深い者であろうと、一朝一夕で見破くことはできないほど、カール・クラフトの目的というものは複雑怪奇で豪く遠回しな場合もあれば、どんな愚者であろうと打ち取ることのできるようなシンプルな直球な時もある。故に、そんな男の思慮を唯一無二の友人であるラインハルト自身も汲み取ることはできない。仮に、汲み取れたと思ったところで、その実、カール・クラフトはその裏を読んでくる。

そして、そんなカール・クラフトのことをラインハルトは気に入っている。

読めぬ。深く、暗いからこそ、面白い。

ラインハルトがカール・クラフトの友人になった理由はそんなところだ。

と、するならば、カール・クラフトが自分を城から出させる目的として、自分の率いる聖槍十三騎士団の再生というものはありえないとしか思えない。

で、あるならば、別の目的があるのか、それとも突拍子もない気まぐれなのか、それとも、実は自分の読みは当たっており、自分の動揺を誘おうとしているのか。

 

「……楽しませてくれよ、カール。願わくば、再び全霊の境地に辿り着かんことを。」

 

ラインハルトは新しい玩具を見つけた赤子のごとく胸が高鳴っていた。

このような高揚は悠久と言っても過言ではないほどの時間味わっていなかった。

そして、ラインハルトの高ぶりは肉声となって、口から溢れ出る。

 

「ハーッハッハッハッハッハッハッハ!」

 

ラインハルトは笑い声をあげながら、城の中を歩く。

城の主の声は響き渡る。ラインハルトの声は城と共鳴し、城全体が揺れる。

たとえどれだけ離れていても、ヴェヴェルスブルグ城の住人の耳へと届く。

誰もが理解した。城の主は歓喜に打ち震えていると。

 

 

 

十数年後、ドイツ。

 

一人の日本人の青年が首都ベルリンの観光名所ベルリン大聖堂の前を歩いていた。

青年は今朝ベルリン・ブランデンブルグ国際空港に到着し、空港の喫茶店で軽い朝食を済ませると、電車を乗り継ぎ、宿泊予定のホテルにチェックインし、荷物を置くと、観光に出かけていた。日本とドイツとでは八時間の時差があるにもかかわらず、青年は時差ボケを起こしておらず、足取りはしっかりしている。

 

ベルリンは日本人観光客が少ない。

西洋人にとって、ベルリンは人気のヨーロッパの都市であるが、日本人からすれば、パリのエッフェル塔や凱旋門、ロンドンの時計塔に比べて、ベルリン大聖堂などのベルリンの観光名所は知名度が低く、退屈してしまうのではないかと敬遠されがちだからだ。

そのせいなのか、空港に降り立ってから、今まで日本人を見かけたことがない。

どうやら、日本人の観光客だけではなく在住の日本人も少ないようだ。

そのためか、ベルリンは日本人が少ない都市によく起こり、たまにニュースで映し出される光景があった。どう見てもエセ和食しか出さないだろうとしか思えない看板を掲げた店がベルリンの道に軒を連ねている。だが、西洋人からすれば、日本も本場の料理からかけ離れている料理を出す店が多く存在する。一方的に、日本がベルリンに対し、腹を立てるのなら、両国共に同罪と青年は思っているため、静かにその光景を静観していた。

 

逆を言えば、そんなベルリンのドイツ人からすれば、日本人は珍しいのだ。

そのため、すれ違いざまに彼の姿を目で追うドイツ人は少なくなかった。

だが、ただ彼が日本人だからという理由で、道行く人は彼を見ていたわけではない。

その青年は耳が半分隠れるほどの長さの黒髪をしており、平均的なこの年の日本人より少し細身の長身で、とても整った顔立ちをしている。

年はまだ十代の後半にもなっていないが、大人じみた雰囲気を纏っていた。

日本でモデルや俳優をしていると彼が言っても、冗談には聞こえない。

そんな見栄えの良い容姿が人の眼を引き付けていた。

 

そんな日本人の青年が、日本人に人気があるとは言えないベルリンに何故居るのか、それにはこのベルリン郊外のデューッペラー・フォルストに建てられたIS競技用のアリーナで今日の夕刻に行われる第二回モンド・グロッソの決勝の観戦に来たからだ。

 

ISとは数年前に篠ノ之束という女性が開発したパワードスーツだ。

当初の目的は宇宙で作業を目的としたパワードスーツだったが、その圧倒的な能力から一時世界のバランスを崩そうとした兵器だ。

現在は条約により、スポーツとして扱われ、兵器転用を禁止されている。

そして、そんなISの大会の最高峰が前述の『モンド・グロッソ』である。

モンド・グロッソはオリンピックやサッカーワールドカップと同等の知名度を持つほどの有名なスポーツ大会である。世界中で放送される。

 

青年はその試合の観戦のために、日本から遠く、ベルリンへと来たのだ。

だが、此処に観戦に来たのは、彼が唯のISの熱狂的なファンだったからというわけではない。仮に、彼が唯のファンだったとしても、普通なら来られるはずがないのだ。

日本からベルリンまでの飛行機代並びに、宿泊費、そして、決勝戦のチケット代、これらの総合計は一般的なサラリーマンの月収を遥かに超える。

そんな大金を十代の後半にもならない彼が出せるはずがない。彼の年齢でこの金額を支払えるとすれば、それこそ金銭感覚の狂った大富豪の御曹司ぐらいであろう。

では、何故、彼がその決勝戦の観戦に行くことが出来るのか、それは、試合出場者の親族には特別に飛行機代、宿泊費、観戦チケットが配布されるという規則があり、彼の実姉がこのISの試合に出ており、これから行われる決勝戦に出るからである。

彼が決勝戦だけを見に来たのは、消化試合に興味が無かったからだ。実姉は優勝候補の筆頭であり、決勝戦の相手以外に彼女と試合と言えるような戦いが出来るほどの技量を持ち合わせている者が居なかったからだ。決勝戦の相手も彼の実姉と戦えることはできるが、実施相手では負けは必至と言われている。

要するに、彼の実姉の優勝は確実だと言うことだ。

故に、彼がベルリンに来た目的は、観戦しに来たと言うよりは、試合後に優勝を祝うためにベルリンに来たと言った方が正しいだろう。

だが、目的を果たすだけでは、せっかくの飛行機代や宿泊費が勿体ない。

そこで、彼は決勝が行われるまでの時間をベルリン観光に費やしている。

 

「この国も行雲流水のごとく変わってしまったか。あの時に比べ、些か落莫するが、此処で生を営む者の思想や、取り巻く時代が移り変わったのだ。仕方があるまい。」

 

青年はベルリン大聖堂と旧博物館前の広場の噴水に腰を掛け、感傷に浸っていた。

彼はこの生涯初めてベルリンに来た。だが、彼は彼である前に、このベルリンに来たことがあった。此処に居を構えていた時期があったのだから、『来た』よりも『住んでいた』という表現の方が適切であると思われる。

要するに、青年は己の前世を知っていて、前世はこのベルリンに住んでいたということだ。

故に、彼はその時のベルリンと、今のベルリンとを比較することが出来るのだ。

では、彼が彼である前は誰であったのか、それを知るのはこの世界において彼以外に誰も存在しないだろう。なぜなら、彼はそれを話す気はないからだ。

そして、誰にもそのことを話さないのは、自分は前世を知っているなどという与太話を誰も信じるとは到底思えなかったことより、彼の前世の業が深かったからだ。

彼自身、前世で間違った行いはしていないと思っているが、それを一般人に話せば、狂人を罵られ畏怖されるのが当然の反応だと知り、そんな素の自分を今は晒せ出す時ではないと心得ていたからだ。

 

彼は立ち上がると、広場から出ていく。

目的の場所はあらかた回りきり、残すところは此処から歩いて数分の名もなき広場だ。

青年はベルリン大聖堂の西を流れる川にかかる橋を渡り、目的の広場へと辿り着く。

広場は昔見た時より些か小さくなり、地面に敷かれた煉瓦の色も変わってしまっている。

だが、あの時に存在した噴水は残っており、当時と似た空気が流れていた。そのため、この時代のこの国の人間の肌に合わないのか、人通りが少ないように見える。

 

あの時とは、今よりはるか昔。1939年12月24日。

国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチスがこの国の与党であり、アドルフ・ヒトラーという人物が覇権を握り、他国がこの国を第三帝国と呼んでいた時代だ。

そして、この日、前世の青年は幾千の戦場を共に駆け抜けるに相応しい者たちと出会い、ある者から新世界への扉の鍵を渡された。それがこの場所だった。

青年は久しく感じるその空気に帰郷のようなものを感じ取った。

 

そんな時だった。

一台の黒いワンボックスカーが青年の横に留まった。

すると、黒いスーツに身を包んだ男たちが車から数人降りてきた。

男達は鍛え上げているのか、逞しい体つきをしている。その肉体と服装からどこかの国の要人のシークレットサービスをしているのかと思われた。だが、彼らからは敵意が滲み出ている。どうやら、穏やかに話をしに来たわけでもなさそうだ。それに、ワンボックスカーにナンバープレートが無いことから、どうやら、堅気の者でもないらしい。

そして、その数人の男たちは青年に掴みかかってきた。武装をしていないことから、青年は自分を殺そうとしているのではなく、自分を捕縛しようとしているのだと察した。

それほど、青年は冷静だった。

こんな非日常に対し、彼がこれほどまでに入れたのは、前世で手に入れた彼の鉄のように固く揺るぎない精神によるものだろう。

 

そして、青年は何処の手の者か分析するが、心当たりがあり過ぎるため、特定ができない。

今の自分に対するなのか、青年の前世の業によるものなのかさえも。

今の自分に対するものであるならば、第一回モンド・グロッソの覇者である実姉に関わることだろう。弟という餌で姉を釣り、自分のものにする。そんなところだろう。

一方、前世の業によるものであるなら、自分の前世が他人に知られている。誰にも話していないが、彼の知る魔術でも使えば、青年の前世を見破ることもできるかもしれない。故に、前世の業ではないとは言い切れない。

だが、いずれにしても、表世界で堂々と大手を振って歩けるような人物ではないことだけは理解できた。故に、これは久々に戯れても問題の起きない相手だ。

 

「カールよ。あの時、この場所で、卿は言ったな。無聊の慰めになれば幸いだと。」

 

青年は右手を振り上げ、自分に掴みかかってきた最初の男の左腕を払う。

ただ、それだけの簡単な動作だった。だが、その動作には常人では出しえない力が込められていた。その圧倒的な力によって、黒服の男の剛腕は小枝のように軽く折れた。

腕を折られた黒服は突如予想だに出来なかった結果に、頭が回らない。最初は腕が折れた事実を認識できず、その痛みを感じ取ることが出来なかった。彼が自分の腕が折れたことを認識したのは、折れた左腕の手の甲が自分の左頬に触れた時だった。

認識したと同時に、堰が決壊した川の水のように激痛が自分の脳に襲い掛かってきた。

立ち止まり蹲りたくなるほどの痛みだったが、任務は完遂しなければならない。腕は二本ある。そのもう一本と仲間で、目的の青年を押さえつければ、どんなに力が強くとも問題ないと黒服の男は判断した。

男がそうまでして目的を遂行する理由を青年には知る由が無かった。だが、青年にとって、黒服の事情は己にとって些事であり、この脈動を止めるほどの障害にはならない。

 

「ふむ。やはり聖餐杯に比べれば劣化しているという事実は否定できんな。だが、上々。現状の私が本気の幾分の一を出しきるには十分だ。」

 

青年は右足で地面を蹴り、左手を前に突き出す。

それだけで、黒服の男はラケットで打たれたテニスボールのごとく飛ばされ、煉瓦の地面の上を転がり、黒のワンボックスカーのボディにめり込んだ。

ワンボックスカーに衝突した拍子に脳を揺さぶられ、男はそのまま意識を手放した。

めり込んだと言っても、車が大破するほどではない。車を大破させては騒ぎになり人の眼に着いてしまう恐れが大きい。そればかりか、相手の逃走方法を奪うことになってしまう。

そうなれば、お互い目立ってしまう。極力それは避けたかった。

だが、青年は目立つのは避けたいが、それでも手を抜きすぎる理由にはならない。

なぜなら、日本の観光客が屈強な男たちを空手で撃退しているというのが、この状況を見た普通の人の感想だからだ。空手がどのようなモノか少しでも知っている日本人ならあり得ないと思うだろうが、それが尤もらしい状況であるため、日本人であろうとドイツ人であろうとそう納得せざるをえない。そして、事実はそれに近似していた。

そのため、この状況を通行人に見られて大損をするのは黒服の男であり、青年ではない。

青年はそう判断したからこそ、手を抜きすぎることは無かった。

 

青年の二撃で仲間の男が沈む光景を目の当たりにした黒服の男たちは捕縛する目的の人間が並みの人間ではないと、初撃は偶然ではなかったのだと理解した。素手で押さえつけ、クロロホルムを嗅がせて、気絶させたところ拉致する予定だったが、予定変更と判断する。

すると、残った三人の黒服の男達は特殊警棒を取り出し、構え、青年を取り囲む。

その時、黒服の男は初めてこの青年の危険性に気が付いた。

優男にしか見えないが、先ほどまで油断していたが、人間の皮を被った獅子の類だ。

初めての経験だったが、恐れることは無かった。

彼らは任務を全うすることだけを考えるために、恐怖心を捨て去ったつもりだからだ。

玉砕覚悟で当たり、ねじ伏せ、手足でも捥いで、連れて目的地へと運ぶ。そうすれば、任務は達成だ。多少怪我させても問題ないと黒服の男たちの上層部から言われている。

これから、慢心は無い。手段は選ばない。

故に、この青年を捕縛できないはずがない。黒服の男たちはそう思っていた。

だが、何故か最初の一歩が踏み出せない。

 

「どうした?その警棒を使って、掛かってこぬのか?」

 

青年はドイツ語で挑発する。そして、その瞬間、青年の気迫が膨れ上がる。

黒服の男は捨て去ったはずの恐怖心が蘇えり、心を蝕んだ。先ほど足が動かなかったのは、人間の本能の一部が警戒を鳴らしていたからだと此処で理解できた。

頭が動かなければ、脊髄反射以外の行動を人間は取ることが出来ない。

そのため、黒服の男たちは指一本動かすことが出来なかった。

目の前の青年は獅子どころではない。人の皮を被った化け物だと知った。

そして、黒服の男たちはあることに気が付いた。

深い藍色だったはずの青年の瞳が黄金に輝いていることに。

 

「ならば、私が使ってやろう。」

 

青年は一人の黒服の男の右手を左手で握り、力を込める。男の右手から木の軋むような音が聞こえ、込める力が増せば増すほど、大きくなる。

その軋む音は、やがて木の割れるような音へと変わった。

握力にものを言わせて、青年は黒服の男の拳を握り潰し、骨を折っているのだ。

青年の凄まじい握力と、握っている警棒の反発力で拳は変形してしまっている。

あり得ない光景に、その男の何もかもが青年の行動に追い付けない。

残った二人は自分の恐怖心をねじ伏せ、青年を背後から襲うが、右足の後ろ回し蹴りで蹴り伏せられた。

青年はゆっくりと左手を開けると、原型の無い手から警棒が落ちた。

 

「如何だっただろうか?警棒の新しい使い方は?相手の手を壊すという結果は相違ないが、手段を考えれば、最も利便性の低い非効率なやり方ではある。だが、相手を壊すための方法の一つとして知っておいて損はないだろう。卿も覚えておくと良い。……それで、卿は何者だ?」

 

青年は黒服の男に問いかけるが、青年に対する恐怖心に支配された彼には反応する余裕どころか、青年の姿を見る余裕さえない。

生きた心地がせず、冷や汗が滝のように湧き出る。

俯き、歯をガチガチ鳴らす以外、彼が出来る行動は無かった。

 

「ふむ、まあ、良い。卿が何者であれ、私への無聊の慰めにはなった。私はそれだけで満足し、感謝したとしておこう。逃げたくば逃げるがいい。」

 

青年は踵を返し、その場から立ち去ると、この広場を埋め尽くしていた威圧感が消えた。

 

蛇の睨みから解放された鼠のように、黒服の男は仲間をワンボックスカーに乗せると、急発進し、このベルリンから出来るだけ離れようと、車を飛ばす。

 

「冗談じゃねーぞ。なんだよ。なにが、ジャップ一匹拉致ってこいだよ。ありゃ、化けモンじゃねーか!ふざけんなよ。なんであんなのがこの世に居るんだ!」

 

恐怖心に囚われ、片手が潰れた状態では、周りが見えず、判断力にかけ、ハンドル操作が上手く行かない。まともに、高速で疾走する車の運転をこの男が出来るはずがない。

結果、ワンボックスカーはカーブで曲がりきれず、ガードレールを突き破り、車は横転する。道路わきの坂道を車は転がり、川へと落ちた。

男は車から脱出を試みるが、川の水の水圧で扉は開かず、水で故障したため自動で窓を開けることが出来ない。助手席の横に置いてある窓割りを取ろうとするが、シートベルトが邪魔をして手が届かない。冷静に判断できれば、シートベルトを外せば良いと分るのだが、恐怖し焦っている彼がそんな合理的に物事を判断できる余裕がない。

そして、そのまま、車は深い川底へと沈む。

 

その車の後部座席に置かれた一台の携帯電話のディスプレイにはあるメールが表示されていた。

 

『織斑一夏という写真の男を拉致せよ』

 

メールに添付されていた写真は先ほど彼らをねじ伏せた青年の顔写真だった。


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