「────くん! あ──さくん!」
うっすらと誰かが呼び掛ける声が聞こえる。
誰だ……僕を呼ぶのは……?
もういいよ……このままそっとしておいてくれ……。
このまま消えさせてくれ……。
しかし拒もうとする意志とは逆に意識がはっきりしてくる。
「明久君っ! しっかりしてください! 明久君!」
「……う……」
ぼんやりとした頭で目を開けると、ふわっと広がった髪が特徴的なシルエットが見えた。
これは……。
「……姫路……さん……?」
「あっ! 明久君!? よかった……! もう目を覚まさないんじゃないかと……!!」
「むぐ──っ!?」
な!? 何だこの柔らかいものは!?
こっ!? これ、姫路さんの──むっ胸!? 胸なの!?
「よかった……! 本当によかった……!」
姫路さんが僕の頭を自分の胸にぐいぐいと押し付ける。
や、柔らかいっ──! けど──く、苦しいっ!
くっ……首っ! 首っ! 絞まってるから!!
「っ──!!」
だ、ダメだっ! 声が出ない!
このままでは──死ぬっ! 殺されるっ!
窒息しそうになった僕は無意識に姫路さんの腕を叩いていた。
それはギブアップの印。いつも美波にやっていた行為。
まさかこれを姫路さんにやる日が来るとは思ってもいなかった。
「えっ? あっ……。ご、ごめんなさいっ!!」
と、慌てて手を放す姫路さん。
この地球には重力というものがある。
それは地球上のあらゆる物体に作用し、それらを地面に引き寄せる。
空中で支えるものがなくなれば物体は重力に導かれ、落下するのだ。
当然、僕の頭もその重力により地面に吸い寄せられた。
そして、
ゴチッ
という音と共に、目から火花が散った。
「っ────!!」
後頭部に激痛が走り、声にならない叫びを上げて悶絶する僕。
「きゃーっ! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
姫路さんが悲鳴を上げ、僕の頭を抱え上げる。
い、いけない。姫路さんに心配を掛けてしまう。我慢しないと……!
「だっ……大丈……夫」
なんとか声を絞り出す僕。
大丈夫と言ったものの、まだ後頭部にはズキズキと脈打つような痛みが残る。
「本当にごめんなさい……。明久君……」
「だ、大丈夫……。大丈夫だよ姫路さん」
とっても痛かったけど、我慢できないほどでもない。
これ以上痛がっていたら姫路さんに罪悪感を与えてしまいそうだ。
僕は体を起こそうと、腹に力を入れた。
「いっ──つつ……」
その瞬間、腹部に鈍い痛みを覚えた。
堪らず再び体を横たえる僕。
「まだ痛みますか……? 私、包帯持って来ましょうか?」
姫路さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。
「……いや。痛いのは頭じゃなくて──」
ここまで言い掛けて、ようやく僕は自分の状況を理解した。
体育館横の脇道。そこで座り込む姫路さん。
その姫路さんに抱えられ、膝枕状態の僕。
頬や腕、それと腹部に残るジリジリと焼け付くような痛み。
そうか。僕は雄二に負けたのか……。
「明久君、血が……」
どうやら雄二に殴られたことで口の中が切れていたようだ。
姫路さんがハンカチを僕の口に当てようとしている。
僕は姫路さんの手を押さえ、それを拒んだ。
「……いいんだ」
「えっ? でも……」
「これは僕が吹っ掛けた喧嘩なんだ。悪いのは僕なんだ」
確かに挑発してきたのは雄二だけど、先に手を出したのは僕の方だ。
まんまとあいつの作戦に乗ってしまった僕が悪い。
「どうしてですか! どうして明久君が喧嘩なんてしなくちゃいけないんですか!」
「……」
答えられなかった。
ムシャクシャしてやった。なんて言えるわけがない。
「美波ちゃんのため……ですか?」
胸に刃を突きたてられたような感覚に襲われた。
この一言は雄二の拳より……後頭部の打撲より、痛かった。
「……違うよ」
……
情けない。
美波との喧嘩を
雄二との殴り合いにも負けて……。
一体何をやってるんだろう……。
本当にどうしようもないバカだな……僕は……。
「じゃあ、どうしてこんなことをしたんですか……?」
「……」
どうしてかなんて僕にも分からない。
でも多分それは──
「僕がバカだから……かな」
「明久君……」
「姫路さんこそどうしてここが分かったの?」
「そこで坂本君に会って……。向こうで明久君が倒れているから介抱しろって言うから来てみたんです。そうしたら本当に明久君が倒れていて……」
「そうか……雄二が……」
……結局あいつには一発も当てられなかった。
かわされ、転ばされ、殴り飛ばされた。
そもそも腕っ節で雄二に
そんなこと分かりきっていたはずなのに……。
悔しい。
けど、それ以上に虚しさが胸に広がる。
何故こんなことをしてしまったんだろう。
雄二と殴り合ったところで何も解決しないのに……。
……
そういえばあいつ、『思い出させてやる』とか言ってたっけ。
あれって何だったんだろう……?
それに気を失う直前に何か言ってたような……。
えぇと……最後の方は聞き取れなかったけど、確か──
『去年俺と殴り合った時のことを思い出せ。そうすればお前のやるべきことが──』
だったかな。
……去年か。そういえばあの時も一方的にやられたっけ。
あいつ強かったな……。ぜんぜん敵わなかった。
僕だってあれから成長したつもりだったけど……。
今でも喧嘩じゃあいつには勝てないんだな……。
……
僕のやるべきこと……。
何だろう。僕のやるべきことって。
まだ僕に何かやることが残ってるんだろうか。
……
美波……。
僕はただ美波の力になりたかっただけなのに……。
「姫路さん……僕は間違ってたのかな……」
「? 何がですか?」
「僕は辛そうな美波を見ているのが嫌だったんだ……。なんとか力になってあげたかった。だから自分のやれることをやってきたつもりなんだけど……」
「……」
「美波は何も話してくれない……。僕は……間違ったことをしてきたのかな……」
これは僕と美波の問題だ。
こんなことを聞いても姫路さんを困らせてしまうだけだ。
分かっていたはずだった。
それなのに、僕は姫路さんに問い掛けてしまった。
「そんなこと……無いと思います」
返事は期待していなかった。
でも姫路さんは答えてくれた。
その優しい言葉を聞いた時、僕の中に甘えが生じた。
そして僕は──
「……僕は……恐いんだ……美波が離れていってしまうのが……」
昨日、あの時からずっと抱えていた不安を口に出してしまった。
これには姫路さんも答えなかった。
僕の頭を膝に乗せたまま、押し黙っていた。
さっきの渡り廊下での出来事やAクラス前での記憶が鮮明に甦る。
何故あの時、素直に謝れなかったのか。
久保君との関係が気になっていたのは否定しない。
でも、だからと言ってあんな言い方をしては事態が好転するわけがない。
僕はせっかくの機会を自ら潰してしまったんだ。
……もうこんなバカと一緒にいてくれるはずもない。
そう思うと、急に目の奥が熱くなってきてしまった。
悲しくて──
悔しくて──
バカな自分に腹が立って──
そして……すべてがうまく行かなくて……。
僕は腕を顔の上に乗せ、両目から滲み出るものを押さえた。
この情けない顔を姫路さんに見せたくなかった。
袖に熱い液体を染み込ませながら、必死に涙が湧き出るのを堪えた。
(……みな──ちゃん……まだ──ちゃ──メなんですか……?)
そうしていると、姫路さんの声が耳に入って来た。
でもその声はとても小さく、何を言ったのか分からなかった。
気になって彼女の様子を見てみると、
(……あ──さくん──なに……苦し──ますよ……?)
再び何かを呟いたが、これも蚊の鳴くような声で聞き取ることはできなかった。
ただ──気のせいだろうか。
この時の姫路さんの目は寂しげに潤んでいるような気がした。
僕の目に滲んでいる液体のせいでそう見えだけなのだろうか?
「姫路……さん?」
不思議に思った僕は彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
するとそれに気付いたのか、姫路さんはその顔をぱっと笑顔に変えた。
そして、
「大丈夫ですよ」
と、今度ははっきりとした口調で言った。
続けて姫路さんは言う。
「美波ちゃんは明久君から離れたりしません」
「……でも……」
「絶対にです」
僕の言葉を遮るように笑顔でそう言う姫路さん。
何故こんなにも自信を持って言えるのだろう。
女の子同士だからこそ通じ合う何かがあるのだろうか?
「私、思うんです。美波ちゃんの言う勉強って、学校の勉強じゃなくて何か別のことなんじゃないかって」
「……別のこと?」
「はい。今まで何度も一緒に勉強してきましたけど、あんな美波ちゃんは初めてなんです。だから私じゃダメな理由があると思うんです」
空を見上げながら姫路さんが言う。
学校の勉強じゃないって……数学とか英語とかの普通の科目じゃないってこと?
……そうか。習い事か。
そんなこと考えもしなかったな……。
そうだ。確かに有り得る話しだ。
もしそれが料理教室だったりすれば、確かに姫路さんに教わるのは無理だ。
姫路さんの言うことが当っているとしたら……?
僕はまったく見当違いの世話を焼いていたことになるのか……。
「本当のことは美波ちゃんに聞いてみないと分かりません。今は言ってくれないかもしれませんけど……。でも、きっと近いうちに話してくれると思うんです」
聞いてみなければ……か。
確かに姫路さんの言う通りかもしれない。
僕はあれから美波とまともに話ができていない。
すべてを諦めるにはまだ早いのかもしれない。
「……姫路さん、ありがとう」
僕は体を起こし、精一杯の笑顔を作って見せた。
「えっ? 何がですか?」
「……話を聞いてくれて、さ」
姫路さんのおかげで少し気が楽になった。
そのことに僕はお礼を言いたかった。
「……はいっ」
姫路さんは微笑みながら返事をする。
「あっ! もう授業が始まる時間ですよ! 急ぎましょう、明久君!」
直後、姫路さんは腕時計を見て慌て始めた。
もうそんな時間か。
さっきは授業なんてどうでもいいなんて思ってたけど……。
少なくとも姫路さんに迷惑を掛けるわけにはいかないな。
せっかくここまで頑張って授業を受けてきたんだ。
あと一科目。出席だけでもしよう。
「うん。急ごう姫路さん」
僕は脱ぎ捨ててあった上着を拾い、教室へと急いだ。