周囲はさっきまでの騒動が嘘のように静まり返っている。
視界には黒装束のムッツリーニが一人。
ヤツは身動きひとつせず、目の前にいるにもかかわらずその存在を感じさせない。
さすがムッツリーニ。まるで忍者のようだ。
できれば敵にしたくはなかった相手だけど……こうなったらやるしかない!
でもこういう時は先に動いたほうが負けだ。それはさっきの雄二との戦いでも経験している。
ここは雄二の戦い方のようにカウンター狙いで行く!
僕はいつでもヤツの攻撃に反応できるよう、全身を緊張させる。
「「……」」
ムッツリーニも同じように硬直し、こちらの様子を伺っている。
どうやら向こうもこちらの出方を見ているようだ。
やはりそう来るか。こうなれば我慢比べだ。
間合いを均等に保ちながら、僕はムッツリーニと睨み合う。
さぁ、どう出てくる?
さっきは催涙弾で僕の動きを止めようとしていたけど、恐らく用意している手は一つじゃない。
見た感じ周囲に変わった所は無いけど、きっと何重にも罠を張り巡らせているだろう。
まずは仕掛けられた罠を──
ぐきゅうぅぅぅ……
「「………………」」
不意に発した奇妙な音。
「えっと……」
「…………腹の虫か」
「恥ずかしながら……」
今のは僕のお腹が食料を欲する音だ。この体もそろそろエネルギー切れらしい。
昼ご飯を食べてない上に今日はずいぶん走り回ったからなぁ。お腹が空いて当然か。
しかしこの状態でムッツリーニ相手に戦うのはリスクが高すぎるな……。
それに清水さんたちが捕まっている今が絶好のチャンスなんだ。
ここは戦いを回避して、さっさと美波と合流して脱出するべきだろう。
よし、なんとか交渉してこの場は引いてもらおう。
……ムッツリーニ相手の交渉ならやっぱりアレだよね。
「ムッツリーニ、ちょっと相談があるんだけど」
「…………聞くつもりは無い」
「まぁそう言うなよ。僕の秘蔵の秀吉写真コレクションをあげるからさ」
「…………それはほとんど俺の作品」
「う……」
そうだった……。これじゃ交渉にならないか……。
「じゃ、じゃあさ、こういうのはどうかな」
「…………なんだ」
「とっておきのエロ本」
「…………話を聞こう」
よし、食いついた!
さすがムッツリーニ。こういう所は扱いやすい──って! しまった!!
あれはこの前、姉さんに見つかって捨てられたんだった!
「…………どこにある」
ガスマスクを外し、キラキラと目を輝かせるムッツリーニ。
その瞳はまるで少年のように純粋で、磨き抜かれた水晶のように澄み切っている。
だがその情熱の対象はエロ本だ。
「あ、いや……えーと……」
困った……どうしよう。せっかくムッツリーニを丸め込めるチャンスだったのに……。
「ご、ゴメン。あれ、姉さんに捨てられたんだった……」
「…………っ!?」
エロ本が失われていたことを伝えるとムッツリーニは頭を抱えて天を仰ぎ、よろめき始めた。
そしてよろよろと数歩下がると、がっくりと膝を落とし、両手を廊下に突いた。
そ、そんなにガッカリしなくても……。
「…………なぜだ! なぜ捨てた! 捨てるならなぜ俺によこさない……!」
床を拳でバンバンと叩きながら悔しがるムッツリーニ。そんなに欲しかったのか。
なんだかとっても悪いことをしたような気がしてきた……。
「えっと……。なんか、ゴメン……」
あっ……。そういえばなんで正直に言っちゃったんだろう。
家にあるから後日取りに来いとでも言っておけばこの場は逃れられただろうに。
はぁ。僕は駆け引きが下手だなぁ……。
こんな時、雄二ならサッと思いつくんだろうな。ちょっとだけ羨ましいよ。
悔しがるムッツリーニを前に僕はそんなことを考えていた。
しばらくしてムッツリーニは叩く腕を止めた。そして、
ユラァ……
という音が聞こえてきそうなくらいの、ゆっくりとした動きで立ち上がった。
「…………交渉決裂」
そう言うムッツリーニの目は、ギラリと鋭く光る、獲物を狙うような目に変わっていた。
これ以上の交渉は無理か……。
「…………覚悟」
再び腰を落として身構えるムッツリーニ。
「く……やるしかないのか……」
僕も同じように構える。
と、その時……。
《あれー? 誰かそこにいるの?》
真横にある階段の上の方から女の子らしき声が聞こえてきた。
美波や姫路さんじゃないみたいだ。霧島さんでもない。
おかしいな。今日はFクラス以外いないはずだ。一体誰だ?
なんて、こんな時に気を取られるべきじゃなかった。
僕はその声の主が気になり、不覚にも一瞬ヤツから目を離してしまった。
「…………もらった」
その隙にムッツリーニがいつの間にか手にしていたスイッチを押す。
「っ──!?」
し、しまった! これは!?
気付いた時は既に遅かった。
頭上から3メートル四方くらいの網のような物が落ちてきて、僕はそれに絡め取られてしまった。
「くっ……い、いつの間にこんな仕掛けを……!」
「…………お前が校庭を走り回っている時」
「く、くそっ! こんなもの!」
僕は網を外そうと手繰り寄せる。だが妙に絡まってきて、思うように抜け出せない。
何だ? この網、やけに服にくっついてくる。何か塗り込まれてるのか?
「…………無駄だ。それは簡単には外せない」
勝ち誇ったようにムッツリーニが言う。やはり何らかの仕掛けがあるようだ。
けど、ここで捕まるわけにはいかない! 美波に必ず追い付くって約束したんだ!!
「くっそぉぉ負けるかぁぁっ!」
焦った僕は半ば
しかし網は思ったより重く、上半身を起こすのがやっとだった。
そうして見えたムッツリーニの手にはいつの間にか一本のロープが握られていた。
ヤツは僕と目が合うと、ニヤリと口元を歪めて不気味な笑みを浮かべた。
そしてロープの両端をピシッと引っ張ってみせると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
なんか……凄くヤバそうな感じ……。
「そ、そんなもの持ち出してどうするつもりだ!」
嫌な予感がする……!
「…………緊縛アキちゃん」
「ぎゃぁぁーーっ!!」
「…………苦悶に歪む顔」
「やめてやめてやめてぇぇーっ!!」
「…………涙目で上目使い」
「いぃやあぁぁぁぁーっ!!」
ヤバイヤバイヤバイ! 何がヤバイって僕の社会的存在がヤバイ!
そんな写真を撮られたらもう生きて行けない! 美波だって軽蔑するに決まってる!
どうにかして逃げないと、このままじゃ僕の人生が終わってしまう!!
僕は重く覆いかぶさる網を外そうと必死にもがく。
だが、やはり思うように動かせず、網は腕や頭にくっついてくる。
「くっ、くそぉぉ何なんだよこれ!」
「…………暴れるな」
ムッツリーニはそう呟きながらガスマスクを装着する。
そしてさっきと同じ色の玉を僕に向かって放り投げてきた。
あれは──催涙弾!? あれで僕を完全に動けなくさせるつもりか!
「吉井君? 何してるの?」
と、すぐ横の階段からひょっこり出てきた一人の女の子。これは……工藤さん?
まずい! 催涙弾が!
「工藤さん! 危ない!!」
「えっ? ──っと。……何? これ」
工藤さんはその玉が床に落ちる前にあっさりとキャッチしてしまった。
頭を上げてその様子を見ると、彼女は手に取った玉を掲げてまじまじと眺めていた。
なんかよく分からないけど助かったみたいだ。
「…………工藤愛子、なぜお前がここにいる」
「ん、ボク? ちょっと水泳部の部室に忘れ物しちゃって取りに──って、その声はムッツリーニ君? あははっ、なんか凄い格好してるね。何してるの?」
工藤さんはムッツリーニのエイリアンのような姿を見てケラケラと笑っている。
いつも思っていたけど、ホント物怖じしない子だなぁ。
僕なんか異世界飛び込んだかと思ったのに。
「…………お前には関係ない」
「え~? 冷たいなぁ~。いいじゃない教えてくれても。見た感じキャッチボールをしていたようにも見えないけど?」
「…………答える義務は無い」
「ふ~ん……ボクには教えてくれないんだ。じゃあこのボール、吉井君にあげちゃおうかな~」
「…………や、やめろ……!」
「その様子だと大事なものみたいだね。ふふ……ほらほら、教えてくれないと落としちゃうよ~?」
工藤さんは僕の頭上でまるでお手玉をするように催涙弾を放り投げて遊んでいる。
なかなか上手いじゃないか。
って! そんな関心してる場合じゃない! 落とされたら大変だ!
「ちょ、ちょっと工藤さんっ! 僕の頭の上で遊ばないでよ!」
「えへへっ、どうしよっかな~」
工藤さんはいたずらな笑みを浮かべ、僕の言うことは聞いてくれない。
一体どうすりゃいいんだ……。
「…………分かった。教える」
頭の上に落とされるんじゃないかとヒヤヒヤしていたら、ムッツリーニが折れた。
あいつも工藤さんを巻き込みたくないのだろうか。
「最初から素直にそう言えばいいのに。それで何の遊びなの? 障害物競走の練習?」
どうやら工藤さんには僕たちが遊んでいるように見えるらしい。
「…………投網漁の練習」
「僕は川魚かよ!!」
「はぁ……あのねぇ、ムッツリーニ君。嘘をつくならもうちょっとリアリティある方がいいよ?」
まぁ、普通分かるよね。こんな嘘。
「…………本当だッ!」
「あくまでもしらを切るんだね? それじゃ、やっぱりこのボールは吉井君にプレゼントかな~」
「…………!(ブンブン)」
ガスマスクをしたままなので表情は分からないが、ムッツリーニは心底困っているようだ。
ん? そういえばこの網、よく見ると端の方はベタついてないじゃないか。
これならあそこまで辿り着けば抜け出せそうだ。
今、ムッツリーニと僕の間には工藤さんがいて、僕をそっちのけで押し問答を繰り広げている。
……抜け出すなら工藤さんに気を取られている今がチャンスだ。
僕はゆっくりと、気付かれないように静かに地を這う。
もうちょっとだ……。
網の下を身をくねらせながら進み、そしてついに網の端まで到達した。
よし!
「…………明久!」
網から抜け出すのと同時にムッツリーニが僕の動きに気付いた。
だがもう遅いっ! 網さえ抜け出せればこっちのものだ!
「ムッツリーニ、悪いけど僕は行かせてもらうよ! 美波に追い付かなくちゃいけないんでね!」
網を放り出し、僕は階段に飛び込む。
「…………逃がさん」
その僕をムッツリーニが追おうとする。だがそこへ、
「ちょっと待ってムッツリーニ君」
と、工藤さんが間に入ってきた。
「ねぇムッツリーニ君、もしかして美波ちゃんと吉井君の邪魔をしてるの?」
「…………工藤愛子、邪魔をするな」
「否定しないんだね」
なんだ? 工藤さんの感じがいつもと少し違うぞ?
違和感を感じた僕は階段を数段登ったところで思わず足を止め、振り向いた。
「吉井君、これあげるよ。何かよく分からないけど、キミを捕まえようとした道具なんでしょ?」
「…………! それを渡すな……!」
工藤さんはムッツリーニの制止に構わず、持っていた催涙弾を僕に向かって放り投げる。
──って! 投げないでよ!!
「うわわっ! おわっとっと!」
数回お手玉をしたものの、なんとかそれをキャッチする僕。
あ、危なかった……。勘弁してよもう……。
「それとね、吉井君」
「うん?」
「さっき三階で美波ちゃんに会ったんだけど、キミのこととっても心配してたよ? 早く行ってあげなよ」
「……分かった。ありがとう工藤さん!」
僕はボールを上着のポケットに押し込み、階段を駆け上がる。
『…………なぜ俺の邪魔をする』
『ムッツリーニ君、人の恋路を邪魔するなんて悪役のすることだよ? ボクそういうの……──』
『────!』
『──』
三階に着くと工藤さんとムッツリーニの会話はほとんど聞こえなくなった。
それにしても工藤さんが助けてくれるなんて思わなかったな。
とにかく助かった。急いで美波に追い付かなくちゃ。
僕は渡り廊下を疾走した。美波が待つであろう、Fクラスの教室に向かって。