八神クリニックへようこそ! 作:ナンジェイ
食事というのは、生きる上で欠かせない行為の一つだ。人体を構成する細胞達へ、必要な栄養素を届ける。足りなければ何らかの身体異状を起こしかねないし、取り過ぎてもこれまた身体異状を起こす。適度というのは難しいが、なるべく栄養の偏りがない食事を取る事をお奨めする。
しかし、食事はただ栄養を摂取するだけが目的ではない。人の三大欲求の一つに食欲というものがある通り、食欲をそそる食べ物がベストだ。料理を食すにしても、五感を用いて楽しみながら行う事が望ましい。料理の音、見た目、香り、舌触り、そして味。それらを楽しめてこそ、初めて人の食欲は満たされるものではないだろうか。
と、言う事はだ。自分で美味しい料理を作れるならばそれに越したことはない。調理スキルは生活する上で必須、高ければ高いほど自分で食欲を満たす事が出来る。料理作りが楽しめる領域までいけば、それはもう人生が楽しくて仕方が無いはず。
だからオレは調理スキルが欲しい。勿論苦労もせずに求めるような考えなどなく、失敗を繰り返しながら日々努力あるのみだ。何の努力もせずに得た力など不要、苦労の先に得た力こそが本当の実力。
「さて、それでは早速始めましょうか」
「お願いします、シャマル先生」
「もう……お兄さん、先生は付けなくていいですよ?」
目の前で少し照れくさそうに微笑むシャマルにグッと来た。あれだ、今シャマルが着ている白いエプロン効果に違いない。なんかエプロン着けてると家庭的な女性って感じがする。あとシャマル、オレ今から教えてもらう立場なんで先生と呼ばせていただきます。これは礼儀として譲れない。
騒動のあったテレビ撮影から一週間後の今日。八神家台所にて、シャマル先生発案による料理教室が始まる事となった。図書館へ本を借りに行っているはやてとヴィータ、シグナムの三人は家におらず、シャマルが用事もないので丁度いい機会だと、ロビーで退屈していたオレに先程声をかけてくれた。本当に有り難いことだ、これを機に調理スキルのアップを図ろう。家に帰ってきて美味しい料理が待っている嬉しさをはやてにも教えてあげたい。オレなんていい兄貴なんだ……!
でも何故だろう。さっきから、シャマルにだけは教わっちゃダメって聴こえてくるのは……空耳かな?
「お兄さん、食材の下ごしらえから始めますよ?」
「あ、はい。ご指導お願いします」
おっと、今から教えてもらうのに集中を欠くとは情けない。集中集中! 包丁を手に、シャマル指導の元野菜と肉、果物を適当な大きさにカットしていく。刃物の扱いは得意なので、包丁の使い方はお墨付きを貰いました。えへへ……
一通り切り終えると、目の前にはそれぞれの食材を分けて入れているボールが沢山。
「お兄さん凄いです、ここまでほぼ完璧ですよ」
「まあ、学校の調理実習とかでもここまではいいんだよな。このあとからは、何故かみんなやらせてくれなかったんだ」
「そうですか……ならここからが本番ですね!」
腕捲りをしてグッと腕を曲げるシャマル先生が頼もしいです! 先生、オレどこまでもついていくよ……!
……あれ? ついていっちゃダメってまたしても空耳が……いかんいかん。ここからは最難関の調理段階なんだ、集中しなければ!
「それではまず、お鍋に火をかけて玉葱を入れてください」
「了解しました」
シャマル先生のお言葉通り、容量の大きい鍋に火をかけて玉葱を投入する。ああ、このジューっと食材が焼けていく音が落ち着くわぁ……ハッ! 落ち着いている場合じゃないぞオレ、いつもここで食材を焦がしてしまうではないか。今日のオレはひと味違う、だってシャマル先生がいるもんね!
お肉、ジャガイモ、人参と次々鍋の中へ投入する。うーん、でもジャガイモってこんなに小さくて丸かっただろうか……まあいいや。
丁寧に焦がさないように混ぜていると、次第に台所では食材を炒めるいい匂いが……
「そろそろいいかも……お水を入れましょうか」
「はい、先生!」
鍋の中へ水を張り、蓋をして暫くコトコト煮込みます。あれ、段々変なものが浮いてきた……なにこれ?
「あれ? なんでしょうかそれ……ええっと……お、思い出しました! それはアクって言うんです、確か美味しさの証みたいなものだったかしら?」
へー、と言う事は美味しく煮えている証拠な訳か……そんな事まで知ってるなんて流石はシャマル先生だね! 何でも質問に答えれちゃうなんて凄いです。オレも見倣わないと……!
でも美味しさの証って割りには、アクって名前つけた人ネーミングセンス無いよな。もうすこし旨味、とか別の言い方すればいいのに。
鍋の中は段々アクだらけ……見た目悪いけど、想像したら美味しそう!
「この辺りでルウを入れましょうか。あと、一口大に切っておいた残りの果物も忘れないように」
「了解しました先生!」
事前に冷蔵庫から取り出していたカレーのルウを幾つか入れます。ああ、段々とええ匂いが……おっと、果物も忘れないように入れないと。
えっと……リンゴに、みかんに、梨に、ブドウに……まだまだあるぜ!
イチゴ、メロン、スイカ、イチジク、それからそれから……おい、ちょっと待てよ。
「先生! 一つ質問があります!」
「何ですか?」
「カレーに果物入ってましたでしょうか!」
そう、オレが知る限りはやてがいつも作ってくれるカレーに果物は何も入ってなかった。いや、もしかしたらオレが気付いていないだけで入れてたのかも……不味い、オレ今恥ずかしい質問しちゃった?
「ふふ、いい質問です。隠し味って聞いた事がありますか?」
「知ってます! ……まさか!」
「そういう事です。実ははやてちゃんの作ってくれていたカレーにも果物が入ってたんですよ?」
おおう、やっぱりド素人な質問しちゃってたよ。調理スキルを磨くとか豪語しておきながら、なんとも恥ずかしい……羞恥心で若干顔を赤くしながら、黙々と残りの果物を投入します。
ただこんな素人の質問にも笑顔で優しく答えてくれるシャマル先生素敵! 結婚してください!
「ええっ!? あの、その……お兄さん本気ですか?」
あ、カレーのいい匂いが──ってあれ? カレーってこんな匂いだったっけ? なんか微妙な匂いなんですけど……おまけにカレーって焦げ茶色というかそんな色してるよね? どうしてだろう……紫なんですけど。何間違えたのオレ……(震え声
心配になってシャマル先生に訊ねてみる。でも、心ここにあらずな様子で声に見向きもしてくれない。むむ……ここは教えてもらっている側として、真剣だという思いを見せなければ!
「シャマル先生!」
「は、はいっ!?」
「オレの気持ちは真剣なんです! 本気なんです! お願いします!」
「っ!? そ、そうだったんですか……分かりました。お兄さんの気持ち……私もその想いに応えます」
やった、伝わったよ! オレの料理に対する真剣な気持ちが! これでこの難関も突破できる、ここから美味しいカレーへと進化させてみせるぜ……!
そうオレが意気込んでいると、シャマル先生がいきなり鍋の火を消して手を握ってきました。あれ? 料理やらないんですか?
「それでは行きましょう、お兄さん」
「え? 行くって……何処に?」
「そんなの決まってるじゃないですか……市役所です」
あーれー……瞬く間に手を引かれて八神家を飛び出してしまったオレ達。向かう場所は市役所らしい……もしかしてそこにもっと調理スキルが磨ける場所があるんだろうか? でも、オレは一先ずあの失敗しかけているカレーを美味しく仕上げたいのですが……
「シャマル先生、先に家で終わらせませんか?」
「さ、先にって……もう、お兄さんのえっち!」
「どうしてそこで恥ずかしがるの?」
「い、言わせないでくださいよもう……!」
だから何故頬を赤らめてそっぽを向くのか……もしかしてあのカレーってそんなに恥ずかしい出来になってたの!? ヤバい、そんなもの置いたまま家出たらヤバいよ。はやてが先に帰ってきたらめちゃくちゃ怒られるじゃないか……!
それは不味い、非常に不味い。このままでは二度と台所に立たせてもらえなくなるよ!
「(ざ、ザフィーラさん……聞こえますか?)」
「(兄か、どうしましたか?)」
良かった、緊急事態でザフィーラさんにしか念話に応えてもらえなかったから助かったよ。因みにザフィーラさんはまだちょっと苦手だけど、常時犬の姿なら一先ず問題ないです。
「(料理作ったまま家出ちゃったんだ。ちょっと美味しくないかもだけど、全部食べてもらえないかな? 美味しくなかったら処分していいから!)」
「(母なる大地の恵みでもある食材を無闇に捨てられません。昼食もまだでしたので、美味しく戴きましょう)」
「(ゴメンね、この恩は絶対に返すから!)」
ふう……何とか最悪の事態は避けられそうです。これで心置き無く次の試練に挑めるぜ……! 待ってろよ食材、待ってろよ調味料、シャマル先生のお陰で進化したオレの調理スキルがお前達を至高の料理へと変貌させてやるからな!
市役所についたら、何故かシャマル先生と二人で婚姻届を受け取った。え……何だよこの展開。
そしてはやてが自宅へ戻ったら、台所でザフィーラさんが倒れていたそうです。何があったんだろザフィーラさん……でも料理は全部食べてくれたみたいで、はやてには怒られませんでした。ザフィーラさんが調理器具も全部洗って片付けてくれていたようだ……ありがとうザフィーラさん、お陰ではやてに黙って勝手に料理作った事バレなかったよ!
「お兄さん、式の日取りの調整と、知り合いの方々へ招待状を用意しないと……!」
あ、こっちの問題が残ってた……誰かシャマル先生を止めてください(懇願
ごめんねザッフィー、これからも被害を受けるかもしれない……だってはやて達には食べさせられないもん!