再臨せし神の子   作:銀紬

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お待たせしました。ギリギリ年内なのでセーフ。超セーフ。

かなり急いでてチェックも甘いので一部誤字脱字等あるかもしれませんが、ご容赦ください。


第二十ニ話 甘き日々よ、来たれ

使徒が第三新東京に残した傷跡は、これまでのものと一線を画していた。

 

それまではネルフのエヴァの活躍により大した被害もなく守られてきた第三新東京市。

ところが今回は、予想を大きく超えた使徒の実力によって壊滅的な被害を受けた。まるで大規模な空襲を受けたかのように家屋は焼け落ち、ビルからは鉄骨が剥き出しになっていた。

人々らがこれまで守り、継いできた住処、物品、そしてそれらによってもたらされる彼らの拠り所は、使徒によってその八割以上が破壊されたといってもいい。

 

だが不幸中の幸いとして、人々は生きていた。ネルフによって建てられた物理的なシェルターが彼らの命だけは守ったのだ。

 

既にモノはない。しかし人がいれば、新たに造りだせるモノはある。人々もそれを分かっていた。

目の前の惨状を見て、呆然とするもの。嗚咽を上げ泣くもの。一方で、ごく少数ながらほくそ笑むものもいる。

反応はやはり、人の数だけあることだろう。そしてそれだけに、新たな可能性もまた人の数だけあることになる。

第十三の使徒、彼が初号機に倒されてから一週間。この日も人々は明日を求めて勤しむ。

 

そして。そうして明日の日を夢見るのは一般人だけに限ったことではない。

 

 

「……生きてる?」

 

 

惣流アスカがネルフ内の病室で目覚めたのは、あの戦いから二日後のことだった。

 

あの使徒に、勇んで突撃したのは覚えている。

そして自分の中にそれまであった、まるで自分ではない何かが消え去るのを感じるとともに、意識がなくなったことまで覚えていた。

 

ところが……その記憶の一つ一つは、どうも不鮮明だった。いつ、どのタイミングで何をどうしたのかは殆ど覚えていない。ただ、事実だけをなんとなく覚えている……というのが、今のアスカの現状だった。

 

ともかく、アスカが目覚めたという情報はすぐさま医療スタッフへと回され、三十分もしない内にリツコの代理代表者であるマヤが訪れた。

 

「アスカ。調子はどう?」

「……あぁ、マヤ」

 

アスカはぶっきらぼうな態度だったが、そんな普段通りのアスカを見れたマヤは歳不相応に幼さを残した顔を綻ばせた。

 

「その様子だと、大丈夫みたいね」

「ええ。でも、おかしな点はあるわね」

「おかしな点?」

「そ。どうも、記憶が……」

「記憶が?」

「分からない。ただ、ここ一年間、戦ってきた記憶の殆どがとてもあいまい」

「記憶障害、か」

 

そしてこれは、使徒戦に限ったことではなかった。ここ一年半ほどの記憶の大半が曖昧なものだった。

厳密に言えば、エヴァ及び生身を問わず、戦闘していた時の記憶がかなり薄れているのだ。それ以外の記憶は概ね保持されているというのもまたイレギュラー性を示している。

 

「比較的覚えてるのは……例えば今こうしてマヤと話してるときとかそういう、日常的なことだけ。それも多少曖昧なところはあるけど」

「なるほど……」

「後は、ちょっと前よりも……なんというのかしらね。渇きがないわ」

「渇き?」

「ええ。少し前までの私は、心の奥底で何かを渇望していた気がするの。だけど、今はそれがない」

「何か……その心当たりは?」

「ないわね。ただ、あの使徒戦で、その不快な渇望感が消えうせたっていうのは分かるわ。まるで私ではない何かに支配されていたような感覚。それがなくなった」

「うーん……どういうことなのかしら」

 

アスカの話は、客観的に見れば大変現実離れしているといえるだろう。

渇きと言われても、一般人が連想する渇きというのは喉の渇きとかそういうものだ。アスカの感じていた「渇き」とは、そうした一般的な渇きとは明らかに異質なもの。マヤとしてもその渇きを理解することはないだろう。

しかしマヤはそれを頭ごなしに否定することはなく、時折相槌を打ちながらメモを取り続けている。

やがてアスカの話が一通り終わると、マヤは再び綻ばせた顔を上げた。

 

「よし……と。ありがとうアスカ、寝起きなのに悪かったわね」

「いいわよ、その代わり今度アイス奢ってね」

「ふふふ。あぁそうだ。マリも見舞いに来てるのよ」

「げっ……」

 

日常時の記憶があれば、当然マリの記憶も残っている。その上このマリとの記憶と来たら、戦闘時を除けば何かと身体的接触がやけに多い。突然撫でられたリ、つつかれたりは序の口で……思い出すのも恥ずかしいくらいのことも数多ある。

 

そして今も、

 

「ひぃいいいいいいいいいいいいいいいめぇぇえええええええええええええーーーーーーっ!!!!!」

「ちょ」

 

病室に入るや否や、ベッドに飛び込んだマリはぎゅううううううう、とアスカを抱きしめる。

アスカにとってこの光景にはデジャヴがあった。大分前に見たアニメで、盗みをやる主人公がまさにこのように愛しのハニーに飛びかかる、まさにそのシーンの再現と言えた。

 

アスカが何とか脱出しようと暴れるのだが、マリの力の方が強く全く外れない。頭の辺りに感じる、同い年くらいとは思えない柔らかさがやや煩わしく感じたりもしたが、数十秒もすれば呼吸器が塞がれたことによる空気の足りなさの方が苦しく感じられてきた。

一分ほど抱きしめられたところで漸く離されたと思うと、マリの先ほどまでの熱い抱擁がウソのように穏やかなテンションに戻っていた。

 

「無事だったのね、よかったよかった」

「はぁ……はぁ……アンタの所為で死にそうなんだけど」

 

アスカはなんとか呼吸を整えながら、思い切り皮肉をぶつけてやった。マリはそれにも涼しい顔だ。

 

「いや~姫がやられたって聞いてあたしゃ吃驚したよ。まさかあの姫に勝てる相手が居るとは」

「……アンタ、アタシのことなんだと思ってるのよ」

「んん~~……可愛い女の子?」

「可愛いのは否定しないけどアンタに言われるとなんかムカつくわ」

「酷いなぁ~、私は姫のことこんなにも愛してるのにっ」

「へっ? ちょ、なっなにくっついてっひきゃはははははっ!!」

「うりうりぃ~ここ最近姫の笑顔見てなかったから姫ニウムの摂取しないとなぁ~」

「ちょっとはなっ、ひっやははははははっ! 手っ放しっんひゃはははははははははっ!!!!」

「やだぁ~姫LCLのいい匂いするんだもん~」

「いっいい加減にぃぃぃっ!! んひひひひひひっ、いい加減にしなさいっ!」

 

幸い腕は自由だったので、アスカは襲い来る耐えがたい擽ったさにマリの脳天に思い切り肘鉄をかましてやる。

 

「いったぁああああ!!!」

「はーっ……はーっ……アンタさぁ、ほんっっと懲りないわよね。なんなの? 変態なのは知ってるけど」

「いや~、姫の笑顔を見れるわ熱を帯びた顔を見れるわ匂いを嗅げるわレアな笑い声を聞けるわ直々に殴って貰えるわでこれ以上に姫を楽しめるコンテンツって他になかなかなくてね」

「……もーいい。アンタちょっとあっちに行ってなさい。私これでも病み上がりなの」

「知ってるよ~。ま、私はそろそろ別の仕事あるから行くけど、寂しくなったらいつでもナースコールするんだぞ? 私が飛んでいくから」

「そうね……アンタがネルフから離れたらナースコールすることに……するわ……」

 

アスカは息も絶え絶えに悪態をついてやるが、一方でマリはあたかもそこまでがテンプレートであるかのようにケロッとしていた。

アスカがある程度息を整えたところで、それで、とマリは続けた。

 

「ん?」

「どうすんの、これから」

「どうすんの、って?」

「これからのことよ」

「これから、か」

「あの力は……状況を整理すれば、全て使徒の力でしょうね。それも使徒の中でも最強の、力の使徒ゼルエルの力」

「……やっぱりか」

「あ、知ってた?」

 

言葉とは裏腹に、マリの表情は意外でもなんでもなさそうではあった。

 

「不思議よね、かつて倒すべき敵だった使徒がよりにもよって自分の中にいた。でも不思議と、私本人も拒絶しようとは思わなかった」

 

アスカの雰囲気は、どことなく自嘲の色を含んでいた。

 

「力の使徒によってうごかされていた殺戮本能。

貴女を「朱雀」として裏世界を舞わせたそれは恐らく今後起こることがないわ。でも……姫があの子に抱いてた殺意。それは力の使徒のでも誰のでもない、研ぎ澄まされた姫自身の殺意よ」

「……あー。そういえばそんな頃もあったわね」

「もしかして黒歴史扱い?」

「……いやだってさ、明らかにヤバイ奴じゃない。しかも実際に殺してる。正直いつ警察やらが来るんじゃないかと、今になってヒヤヒヤしてるわよ」

「それについては……ま、全て終わったら考えればいいんじゃない? 

姫が潰してるのは特A級の裏組織ばかり。証拠は私がある程度は消したし、当分バレることはないと思うよ」

「そんなことしてたの」

「モチ。姫が捕まったらつまんないもん」

 

そんな自嘲に充ちつつあったアスカを、マリは軽く笑い飛ばした。

 

 

一方で、ところ変わって格納庫内。

 

「シンジ君の生命反応はどう?」

「問題ありません。プラグ内で形状を維持しています」

「そう……BM1、BM2の様子は?」

「健康状態、精神状態ともに異常は見られません」

「アスカの様子はどうかしら」

「記憶などに多少の障害は発生しているようですが、それ以外にこれといった問題は見受けられません」

「それならよし。現状維持でよろしく」

 

厳めしい紫の鬼の前にて、少々厳しい顔を浮かべるリツコに現状の報告を行うマヤ。リツコの表情に伴って、自然とマヤの表情も硬くなっていた。

 

初号機、そしてそれを操るパイロットであり、戦績的にもエースパイロットといえるシンジの復活は今のネルフにとって死活問題であった。

というのも、他のメンバーが問題だ。

アスカは一応ある程度の回復こそしている。だがまだ精神面での混乱が見られ、弐号機に乗って戦えるほど万全とは言い難い。……というのが、表向きのアスカの現状ということになっている。

何より、弐号機本体もテストすら行われていなかったアポカリプスモードを強引に発動させられたことで素体に大きな負担がかかっている。その修復にも少なからぬ時間が掛かるだろう。

そしてレイは……零号機もろとも消滅している。あの戦いの後、リツコ率いる調査隊は零号機のエントリープラグの残骸を調査した。ところがそこにあるべきレイの残骸……例えば体細胞や血液、及び特有の炭素反応などといった、そこに人間が居たとすればまず出るであろう反応はまるでみられなかったのだ。

 

それすら残さぬほどに蒸発してしまったとすればそれらがないことに合点はつくが、それ程の高温に晒されたとすればエントリープラグは原型すら留めない、更に酷い有様になっていた筈である。

リツコは零号機に関する一切を極秘事項とし、エントリープラグは高レベルの研究棟へ移されることになった。

 

こうなると唯一エヴァ本体・パイロットともにすぐ動けるのは「表向き」マリだけ、それが今のネルフの現状である。

言うまでもなく今のネルフの状態は万全ではなかった。

 

だがそんなことは使徒にとってはどこ吹く風。いつ如何なる時も、

 

ビーッ!! ビーッ!!

 

例え今だとしても。

 

「まだ一週間しか経っていないというのに……!」

 

ネルフの作戦部長であるミサトは本部へ早足で向かいつつ、苦虫を食い潰したような表情をしていた。今ネルフには、使徒とまっとうに戦えるメンバーがマリしかいないことになっている。

防御システムもまだ三分の一程度しか回復していない。頼れるのは、たった一人の腕っぷしのみ。

 

唯一の幸いは、特に奇をてらった使徒ではなさそうなことであった。

事前にある程度の攻撃偵察などを行った結果、この世界にきちんと実体はあるし、宇宙空間にいる訳でもなければ、ウイルスのような微生物でもない。

 

そこにあったのは、紫色をしたひも状の使徒。それまでの使徒とはやはり一線を画す見た目ではあるが、コア自体は剥き身のまま。

 

「大丈夫よミサトちゃん、『もう一人』いるでしょ?」

「あの子か……」

「アイツのこと、まだ信じられないの?」

「……あの子には悪いけど、ね」

「個人の感情よりも今は目の前の敵をどうにかしないと、だよー」

「分かってるわよ! 日向君、フィフスに連絡を」

「あ、それなんですが……」

「何よ」

 

口を一瞬濁したマコトにミサトが一瞬キョトンとしていると、通信が切り替わった。

 

『もう搭乗完了していますよ、葛城三佐。このMark6であの使徒を倒せばいいのでしょう?』

 

相変わらずの、どこか人間離れした……いや、人間離れしていることは分かっているのだが、それでも、見た目とのギャップを感じさせる雰囲気。

 

「いつからそこに?」

「十秒前から」

「そう。……まぁ、いいわ。作戦開始よ」

「了解」

 

キザな銀髪。それが、ミサトにとっての『渚カヲル』に対する第一印象であった。

 

----

 

目が覚めると、そこはよく見た天井のように見える。

 

見慣れた、天井だ。

 

シンジが最初に抱いた感想はそれだった。

初めての戦いのとき、検査の時も麻酔を使ったりしたときはここで目覚めたし、他にも意識を失ったときはまずこの天井を見上げたものだ。

今史に至ってからも既に数回、検査などから復帰する際はこの天井を目にしている。慣れたくはないが、すでに慣れてしまった自分がいる。

 

突如目に入る陽光に顔をしかめつつ起き上がり周りを見渡すと、一人の少女が壁を背に腕を組んでいる姿が映る。

 

見慣れた制服姿に、茶髪。彼女を一度でも見たことがあれば、きっと一発で誰だか看破できるだろう。

「ようやくお目覚めね、バカシンジ」と、ここまで来れば役満確定だ。アスカの姿がそこにある。

 

「アスカ。無事だったの」

「私がそんなにヤワなわけないでしょ。それよりアンタ。一生起き上がらないつもりなのかと思ってたけど、思いのほか早かったわね」

「え?」

「あれから一月。前の時と全く同じように出てくるなんてね」

「ひと月……いてっ」

 

おぼろげになっている記憶を探ろうとすると、背中に覚えのない痛みが走った。

何かが突き刺さっていたかのような、そんな鋭利な痛み。

 

「背中、まだ痛む? もうあれから一月よ」

「まだも何も、僕としては今起きたばっかりなんだけど」

「まっ、背中を貫かれたんですもんね。仕方ないか」

「なんの話?」

「……本当に何も覚えてないの?」

「覚えていないも何も……一体アスカが何の話をしてるのかわからないよ」

 

きょとんとした顔でアスカのほうを見上げると、あきれた様子でアスカがため息を吐いた。

 

「……前の使徒との戦いは覚えてるかしら」

「確か僕は使徒と戦っていて、それから一度は初号機が止まっちゃったんだけど……また初号機が動き出して……」

「うん」

「それで、使徒を倒した」

「そこまでは覚えてるのね」

「そこまでは、って。何があったの?」

 

アスカの話しぶりからして、少なくとも「何かあった」のは間違いないらしい。

だが、自分には身に覚えが全くなかった。そもそも身に覚えがあるも何も、今の今までエヴァの中に溶けてしまっていたようだからだ。

 

「あの後……初号機が起こしかけたのよ。サードインパクトを」

「……はあ? 初号機が? サードインパクトを?」

「そ」

「えぇっ……?」

 

唐突にアスカから淡々と告げられる衝撃の事実。

恐るべき大災害であるサードインパクトを、止めようとしていた自分自身が起こそうとした……?

 

「大丈夫よ、未遂だから」

 

はっとして外を見る。そこにはいつも通りのジオフロントがあった。

考えてみれば、本当にインパクトが起きていればきっとここで目覚めることもなかっただろう。

命を落としてしまっているか、なまじ生き残ったとして、目覚めと共に一面の紅世界が目に飛び込んできていただろう。

そうした状況からして、少なくともアスカの言うようにサードインパクト自体は起こっていないらしい。それを見て少なからず安堵を覚え、思わずため息をついた。

 

だがあくまでこのいつも通りに見える世界を「未遂」と表現するアスカ。だが嘘を吐いているそぶりも見えない。

そしてそのうえで更に奇妙なのは、それが真実であるとすれば……起こしたのは初号機であったとしても、それを動かしていたシンジを多少なりとも責めるような目線がアスカから感じられてもおかしくはないはずだった。

それに、アスカの様子が妙である。これまでであればどういう訳かやたらと好戦的であったはずなのだが、今はそうではない。

やたらと衝突してくるのは今史に始まったことではないものの、かつてのような異様な攻撃性は既にないように思えた。

 

「そのあたりもよく話を聞いておくことね。……あっもしもしミサト? 目を覚ましたわよ。は? 決まってるじゃない、バカシンジよ」

 

そういえば……このバカシンジ、という呼び方をされるのも久しぶりな気がする。

電話を終え、外に目を向けたアスカを呼びかけてみると、

 

「な、なによ」

 

と少しだけ戸惑った様子で返事が帰ってくる。

 

「いや、雰囲気変わったなって」

「……ああ」

「……」

「イメチェンよ」

「……イメチェン?」

「あんた、もしかして何も知らないの?」

「? うん」

「そう……じゃあ、いいわ」

 

そう言ってアスカは、再び窓の方へと視線を戻した。

 

 

 

ことはシンジが思っている以上に順調に進んだ。目覚めてから僅かに三日で全ての手続きが終わり、無事退院することになった。

 

アスカ以外に見舞いに来た人々は、シンジのことを今までよりも気遣っているようだった。

これまで眠り続けていたこともあるが、何より……綾波レイがいなくなってしまったこと。もう戻ってこない可能性すらあること。

 

唯一そうしたことを気にしなかったのは霧島マナだけだった。というより、綾波レイの存在自体が彼女にとって取るに足らないものだったのか。

実に普段通りな接し方だった。

 

可能性といってもそれはほぼ確定的であるらしく、人々の大半も希望を抱かせるような残酷なことはしなかった。

 

 

ただ、シンジとしては別だった。あの時確かに、綾波レイを喪ってしまったのだろうが、それでも希望は。僅かな希望はあったのだった。

 

ひとまずその希望を追って、シンジは外へ出てみることにした。一ヶ月ぶりの外出である。

 

 

しかし、外はシンジが思っている以上の惨状だった。

 

「……酷いな」

 

思わずそう呟いてしまう。

 

シンジが目覚めた時点ではそれでも大分復興は進んでいたが、それでも見渡してみると痛々しく焼け落ちた建物がところどころ見受けられた。高層ビルであってもお構いなしに破壊されており、視界は大きく開けている。

あちらこちらに赤茶けた瓦礫がまとめられており、更によく見てみれば瓦礫を運ぶ作業員も散見された。

 

侵攻こそされたが、破壊された範囲は小さかったネルフ。そして、ジオフロント。

リハビリ中の散歩をしていた時には、一部の施設を改修しているくらいで殆どの緑が戻っていた。

それと比較してしまうと……それまで破壊を許していなかったこともあり、ある種の新鮮さすら感じられた。

 

そんな街を、こうして散歩してみているシンジ。一月の間に何が起きたのかはリツコから聞いた。だが、自分の目でないと確かめられないこともある。

どれ程に、街が変貌してしまったのか。

 

そして、レイはどうなったのか。

 

常識的に考えてみれば、あの爆発だ。レイが生きているという考えにはまず至らないだろう。

 

それでも、シンジは希望を捨てきれていなかった。

レイはまだ生きているかもしれないという、希望を持たせるには余りにも残酷な確率の、しかし、絶望するには余りにも縋りたくなるような光。

それはシンジの歩みを進める方向が何より証明している。

 

シンジはこの時、爆心地へと向かっていた。爆心地付近は立ち入り禁止にこそなっていたが、警備の人間は殆どいなかったので侵入は容易かった。

 

周りには、只管に焼け落ちた廃墟ばかり。それも中心に向かうと、だんだんと廃墟そのものの大きさが小さくなっていた。

これは、爆発エネルギーの大きさを雄弁に示していた。奥に進むにつれて、外壁は粉々に、鉄骨はより剥き身に、ガラスがあったと思しき箇所は、恐らくは熱による蒸発をもって完全な空洞になっていた。

歩みを進めれば進める程、状況が絶望的なものであることが分かってくる。それでもなお、歩みは止まらない。

 

やがて、シンジは巨大な湖に突き当たった。そこには既に建物の影すらなく、満々と水が湛えられるのみ……いや、幾つかの人工物が浮いていた。

 

それはシンジにとって見慣れたものだった。巨大な腕、脚。

……どれも、かつて零号機のものだったそれだ。

 

色こそ赤茶けてしまっているが、エヴァを護る一万二千枚の特殊装甲の強度は一枚一枚が並大抵のものではない。それが、腕部、脚部の原型を残させていたのだ。

 

しかし、肝心要の胴体部分。レイが居るはずのエントリープラグ。それらは見当たらなかった。

ネルフに回収された? それとも……。いずれにしてもシンジの心理状態にとって、現状は好ましいものではなかった。

 

 

波打ち際に腰を下ろしてみる。

 

 

……とても静かだった。波の音だけが鼓膜を静かに震わせる。

 

 

 

 

『……ダメだ、離れてる』

「!」

 

その声は、波の音にしては余りにも言葉じみたノイズだった。

 

『旋回してくれ、八時。十時の方向……戻して、一時』

「……」

『微調整、左。そのまま直進。そう、もっと右。もう少し。そう、そっち。あと、一マイル。波が来る、微調整右。左、少しだけ……そう。方向を保って』

「……」

『シンジ君、見えた。制服を確認』

 

シンジが声に従う気になったのは、その声に聞きおぼえがあったからだった。それも、一度や二度ではない頻度で聴いた覚えがある。

 

「ゲームはいいねえ。リリンの文化の極みだよ」

 

そこに居たのは、やはり見覚えのある銀髪に、今の自分と同じような白のカッターシャツと黒のスラックス姿。

 

その姿を見るやいなやシンジが「カヲル君!」と叫んだ通り、彼は確かに渚カヲルであった。

 

「どうしてここに?」

「どうして、と言われてもなぁ……」

 

カヲルは、かつてと変わらないアルカイックなスマイルを浮かべていた。

 

「話せば長くなるけど、結論から言えば、僕は君の知っている渚カヲルとそんなに違わない」

「そうなの?」

「うん。どこか場所を移したいけど……そうだ。君の家に連れて行ってくれないかな。久しぶりに君の作ったカレーが食べたいんだ」

「分かったよ」

 

----

 

「はい、できたよ」

「おっ、相変わらず美味しそうだね。戴きます」

「いただきます」

 

嬉しそうな顔でシンジお手製のカレーを頬張るカヲル。

口の中に広がるカレー特有のスパイシーさが、彼の表情をより一層豊かにした。

カレーを頬張り屈託のない笑みを浮かべるこの少年が、元……いや、もしかしたら今も使徒であるかもしれないというのは、誰にも信じがたいことであろう。

 

『続きはこれまで通りに話そうか』

「! 直接脳内に……?」

『うん。でも、怪しまれないようにカレーはお互い食べ続けよう。……あ、このカレー美味しいよ。ありがとうね』

「え、うん」

 

突然脳内に飛び込んでくるカヲルの声にシンジは戸惑いを覚えた。だが帰宅時恒例の盗聴器破壊をまだ行えていないので、素直にカヲルに従った。

 

『ちなみにこのテレパシー的な能力はATフィールドを応用してる。流石に実体化している僕が一緒に盗聴器を破壊したりするのは怪しすぎるからね……これからはこの能力で君に干渉することもあるかもしれないことはことわっておくよ』

「そ、そう……」

『じゃあ話を戻そう。一ヶ月前、エヴァ初号機が覚醒した。そして君は前の時と同じくして、エヴァの中に溶けた。ここまでは知っているかい?』

「うん」

『その時、僕の魂は君という器を失い行き場も失った。その時たまたま、覚醒する寸前のこの肉体をこの魂が捕らえた。そして、僕は肉体に宿っていた未熟な魂と融合して、この身体を得たんだ』

「……なんというか、SF漫画みたいだ」

『何をいまさら。僕が生まれたのはドイツの支部らしい。周りはみんなドイツ語を使っていたからね。使徒の力自体は既にあったから、脱出してここまで来るのは難しくなかったよ』

「そうなると、君は追われていることに」

『そこはまぁ、大丈夫だろう。僕の前の使徒が倒された今、僕が覚醒していること自体は何ら不自然ではないから。裏も取ってある』

「そっか」

『で、今は新造されたエヴァMark6に搭乗する、レイ君、セカンド、君、真希波さんと来てのフィフスチルドレン。それが今の僕というわけだよ。

実は君が眠っている間にも使徒を一匹撃破したんだけどね』

「使徒を?」

『ああ。どうやら前史には存在しない使徒だったね。そこまで強くはなかったから苦戦もしなかったけど』

 

カヲルの話を一通り聞くと、なんとなく状況を掴んだシンジ。

色々と気になる点はあるが、ひとまず今重要なのは、今カヲルがこうして現実の世界に実体を持って生まれたことだ。

こうして現実に実体があるかどうか、というのは、行動にも大きく影響する。

 

だが、そうなると……シンジには、気にかかることが一つあった。

 

「ねぇ、カヲル君」

『なんだい?』

「君に何が起きたかは分かったよ。でもさ、君がその姿でこうして、使徒として立っている。と、いうことは……」

 

そう、カヲルは今、現実に存在する「使徒」なのだ。幾ら意思疎通が可能とはいえ――

 

「……僕はまた君を……殺さなくちゃいけないの?」

 

蘇る生々しい記憶。エヴァという媒体越しになお感じる、生温かな柔らかいものを握りつぶした感覚。

最期まで安らかな笑顔をした、目の前の少年と同じ姿をした彼を。

 

けれど、カヲルはシンジにとって安心する答えを用意していた。

 

『いや、大丈夫だよ』

「そうなの?」

『あの時は、君の存在があってなおアダムに辿り着かんとする生存本能があった。でも今は、不思議とそんな欲求が微塵も湧いてこない』

「そうなのか……なら、よかったよ」

『うん。僕としても君を悲しませてしまうのは心苦しいからね。それとあと二つ、君にはいいニュースがある』

「何?」

『まず一つ僕が動かない限り、次の使徒は現れない』

「どうしてそう言い切れるの?」

『使徒とはそういうものだからさ』

「……って言われてもなぁ」

『そしてその僕に動く意思がない。そうなると、この世にもう使徒は現れないことになる』

 

カヲルから通告される唐突の「平和宣言」。それはあまりにも突然過ぎて、この時のシンジには全く現実味がなかった。

 

『君を騙しても僕にメリットはない、これはウソじゃないよ。

というわけで君への好意を届けるためにも、僕はこれからも出来る限り手取り腰取り君を助けてみたい』

「それは嬉しいんだけど、なんか微妙に目が輝いているようなきがするのは僕の気のせいかな」

『気のせいさ。ともかく、使徒はもう現れない。現れるとしたら……それは人間ということになるだろうね』

「……ゼーレ、って奴らか」

 

ゼーレという言葉を聞いてから、シンジの脳裏には、飛行する白い機体がフィードバックされていた。

人造とはいえ人間と称するにはおぞましすぎる彼らはネルフ本部の周りをグルグルと飛行し、そして地上には……それ以上は、記憶にブレーキがかかっていた。

 

『まあ、ゼーレ自体は問題ない。問題なのはやはり、量産型エヴァになるだろう』

「この世界でも、やはり量産型は作られている?」

『そうみたいだ。軽く研究所に侵入してみたけど……前回よりは遅いながら、確実に研究は進んでいるね』

「そっか……じゃあ、いずれは戦うことになるのかな」

『いや、それはない。使徒が現れない以上、研究の大義名分はやがて失われる。

遠くない未来に量産型計画は頓挫し、ゼーレや委員会が裏でどれほど大きな影響力を持っていたとしても人為的なサードインパクトを起こすことはできなくなるだろう』

「そっか……」

『……でも、君は、いや僕たちは結果的に彼らと戦わざるを得なくなるかもしれない。それは君次第でもある』

「どういうこと?」

『それは、次のいいニュースにも関わることなんだ』

 

二人の表情はここまで殆ど動いていない。テレビ番組を観ながら黙々とカレーを食べる二人。それが今、監視カメラが存在していれば映されている光景だろう。

 

だが、カヲルの「君次第」という言葉を受けて、シンジの眉が少しだけ動いた。

 

「そういやいいニュース、二つあるんだったね。もう一つは?」

『ああ……そうだね。結論から言おう。綾波レイは、まだ生きている』

 

その瞬間、一瞬だけ二人の間の時は止まった。対話を続けながらも相変わらずスプーンはカレーと口内とを行ったり来たりしていたシンジの手は、その瞬間だけ止まった。

 

「……本当!?」

『ああ。ただ、条件付きだ。そういう意味では、死んでしまっているとも言える』

「……?」

 

謎掛けのような言葉を掛けられ、不思議な表情をしながらもシンジは再びじゃがいもを頬張った。

 

『シンジ君、君にとっての「人の死」とはなんだろう?』

「また唐突だね」

『人とはつまりリリンのことだが、それが死ぬとはどういうことかな』

「うーん。例えば……息をしなくなるとか、心臓が止まるとか……そういうこと?」

『なるほど。それは医学的な死の定義と言える。人間の立場での解答としては正解だよ』

「医学的じゃないって言うと……例えば、コミュニケーションが取れなくなるとか」

『例えばそういうことさ。綾波レイは、医学的には死んでいる。けど、そうでない意味ではまだ死んでいない』

「……?????」

『ガフの扉を知っているね?』

「……? 知らないけど」

『おかしいな。あの赤い世界で一通りの記憶を……そうか、記憶媒体はシンジ君のもののままだから抜けているのか……』

「???」

『や、分からないならいいよ。ガフの扉っていうのは……リリンで言うところの「三途の川」のようものだね。

その奥にガフの部屋というのがあるんだけど、まあこれはリリンで言うところの天国。綾波レイの魂はまだガフの扉を通っていないんだ』

「つまり?」

『いわゆる地縛霊のような状態で綾波レイは「そこにいる」。魂はまだこっち側に戻れる状態にあるんだ』

「なるほど……」

『でも一つ問題があってね。魂の器がどこにも存在しないんだ』

「(どういうこと?)」

『魂はそこにあるけど、その魂の入れ物になる身体がどこにもないんだよ。あの戦いで身体は跡形もなく消え去ってしまったからね。だから医学的には死んでいる、これは間違いない』

「(じゃあ何故綾波の魂が生きていることが分かるの?)」

『ちょっと前の君と僕のような状態になってるんだよ。とはいえ僕もアダムよりの使徒だから、リリスそのものといえる彼女との親和性はお世辞にも高くない。故に普段は長く留まれないが……必要があれば意志疎通くらいは出来るのさ』

「……なるほどね。綾波はまだ、生きている」

『僕の素体ならまだ幾らでもあるのだけどね。アダム由来の肉体では親和性も悪いし、何より彼女自身が僕と同じ肉体であることを拒んでいるんだ』

「確かに君たち仲悪いもんね」

『お世辞にも良いとは言えないねぇ。そこで……近いうちにネルフの地下に潜ってみるつもりだったんだ』

「地下に?」

『あそこには綾波レイの肉体そのものが大量に眠っているからね』

「ああ……」

 

またも思い出される過去の記憶。

 

ケンスケの持っているようなおもちゃではない、実弾の入った本物の銃。

 

大量の「綾波レイ」。

それはおぞましさを超えて、ある種の神々しさすら感じられた。

きっと彼女たちもこの地に降り立つことを夢見て、だからこそあのような薄ら寒さを感じる笑顔を浮かべ続けていられたのだろう。

恐らくは初めて、そして見ることもない冷静沈着な女の流した涙。

 

『隙を見て彼女を接触させる。上手く行けば、「三人目」として彼女を復活させる』

「そっか……でも、うまくいくかな」

『だから、「だった」んだ。地下に潜るつもりだった。だが、君が接触していないだけですでに三人目は居るみたいなんだ』

「もう復活してるのか……」

『正直僕もリリンの技術をすべて知っているわけではないから、驚いたよ。使徒に関する知識ならたとえ赤木博士にも負ける気はしないけど』

 

そりゃ君は使徒だからね、と苦笑を浮かべるシンジ。

 

『ともかく、直接の接触は難しくなってしまった。下手を打つと今の三人目とかつてのレイ君のどちらの自我も崩壊し、綾波レイという存在が消滅する可能性すらある』

「じゃあ、どうすれば……四人目を待つ?」

『……いや、もう使徒は訪れない以上四人目を待つのは絶望的だろう。

その上、あの肉体は長くは持つようにできていないらしい。通常の人間の十倍の速度で寿命が進んでいく……仮に綾波レイをあの肉体に据え置けても、長くて十年後には滅んでしまうだろうね。

「じゃあ……素体を保存すれば」

『素体の保存もダメだ。恐らくネルフは使徒が現れなくなったという事実をそう遠くないうちに得ることになる。死海文書にもそのことは記されているはずだからね。

ゼーレを倒せようがそうでなかろうが、使徒が現れなくなったなら、ゼーレと同時にネルフの存在意義も消滅する。そうなればあんなホムンクルスまがいのものを保存しようなんて研究機関もない以上、素体は破棄されるだろうし……僕だってアレを保管する技術を保持しているわけじゃない』

「……じゃあ、どうしたらいいのさ」

 

カヲルは皿とスプーンとの軽快な衝突音でカレーが空になったことを察すると無言で台所へ立ち、

おかわりのカレーをよそいながら、シンジにとって絶望的な事実を淡々と突きつけていく。

 

『チェックメイト。綾波レイを戻す手段は……現状では存在しない』

「そんな……」

 

シンジのスプーンは、すでにずっと止まっていた。その視線がテレビに向いていなければ、きっと怪しまれたかもしれない。

表情はあまり変わっていないが、心なしか絶望の影がにじみ出つつあった。そんなシンジを見かねてか、カヲルはだからね、と話を再開した。

 

『……そこで、僕達は選択を迫られているんだ』

「……?」

『さっきも言っただろう? ゼーレとは「結果的に」戦うことになるかもしれない、と』

「ああ」

『サードインパクトがどういうものだったかを覚えているかい?』

「??? 急にどうしたの」

『いいから』

「……うろ覚えだけどね。確か……皆が戻ってくることを、祈った気がする。一人じゃない、誰かがそこにいる世界を望んだ気がする。そうしたら、アスカが戻ってきた」

『そうだね』

「それが、ゼーレとの戦いになんの関係があるの?」

『分からないかい? 君の願いは、確かに届いたんだ。その結果、セカンドチルドレンは確かにあの世界に還ってきた』

「でも他の人たちは? 確かにアスカが戻ってきたことがわかった時は嬉しかった。でも、他の人達は最後までこっちに戻ってこなかった……現実の厳しさを痛感した」

『そうだったね。じゃあ、この世界はどうだい?』

「?」

『この世界自体が、あのサードインパクトの君の願いを反映した世界だとしたら?』

 

カヲルの一言は、この時のシンジにとっては青天の霹靂というべきか、コロンブスの卵というべきか。

ともかく、強い衝撃を与えるものであった。

 

そう、確かにそう考えれば……全てに納得は行く。シンジははっとした表情で固まってしまった。

 

『というか、忘れてしまったのかい? あの世界では、君は確かに神といえる存在に等しかったと言うのに』

「そういえばそうだったっけ。だから僕は、君たちとこの時間へかえってこられた」

『それも厳密に言えば異なるんだけど……ま、その話は後でいい。

重要なのはそう、サードインパクトには……いや、正確には『インパクト』という現象には、依代となった人物が願った世界を実現する可能性があるということだ』

「……じゃあ、つまり」

『そう。あのレイ君がいる世界……いや、それだけじゃない。

使徒たちや、それを囲むネルフ、ゼーレのような組織も存在しない、本来リリンたちが歩むはずだった平和な世界。外に出かける時、当たり前のように両親に見送られる世界。

それを、本当の意味で実現できる可能性もあるということなんだよ』

 

カヲルの言っていることは、全てあまりにも突拍子のないことだった。

全てを破壊するはずのインパクトで、全てを救った世界を創ることができる……この推測は、それこそインパクトの大きなものとしてシンジの思考を支配していった。

 

『だから、この手段を取る場合ゼーレには近いうちに戦いを挑むことになる。

そして彼らの引き起こす人為的なインパクトを利用し、君の望む世界を構築する……これが、僕達が「あの」レイ君を取り戻すことのできる唯一の手段といえるだろう』

「なるほど……」

『だが当然、リスクもある。わかるね?』

「そうだね……ゼーレには負けなくてはいけないし、まずその時点で命を失うかもしれない」

『だから、君には選択肢がある。レイ君は死んだままだし、他にも色々と傷跡は残る代わりにそれ以外は全て平和なままであることが確定したこの世界で一生を暮らすか。

それか、世界滅亡のリスクを背負いながらもレイ君が生きていて、その他の君を含めた人々ネルフや使徒に関わる全ての傷跡からも解放される世界を勝ち取るか……いずれにせよ、君はその世界の神の子として、前の世界に次いで再び降臨……再臨することになる。

そしていずれの選択肢を取ったとしても、君が願った祈りは完遂されるだろう』

 

カヲルが提示した選択肢は、どちらもとても甘美で完備なものだった。

誰にとっても、正解のない選択肢。だが、誰もがどちらかを取りうる選択肢。

 

 

シンジは、すぐにはそれを決められなかった。

 

 

確かに、レイが戻ってくればそれに越したことはない。

 

だが……レイのあの犠牲のお陰で、望んだ平和な世界は確かにやってきている。それに話を聞く限り。レイもそれを望んだと言うではないか。

 

自分だけでない。レイもまた、自分の命を賭した。そして、今のこの、平和が確定した世界を紡いだのだから。

 

この世界は、レイの命のおかげであるのだ。シンジが、レイを取り戻したいという理由だけでリスクを取るのは、それはエゴでしかないのではないのか?

 

シンジの中では、様々な相反する思いが衝突を繰り返していた。

 

 

そんなシンジを再度見かねたカヲルは、やはり再度フォローを加えることにした。

 

 

『ま、無理に今決めることはない。猶予はもう少しだけあるからね』

 

 

そう言って、スプーンの止まったシンジをよそに三杯目のカレーを盛りに台所へと歩き出したのだった。

 

----

 

唐突に与えられた「完全な」日常。

 

使徒がいないことが当たり前の「日常」。

 

それはカヲルの指摘通り……シンジにとっては待ち焦がれた甘美な日々といっていい。

 

 

まず変化が起きたのは、ネルフだった。二度と使徒が襲来しないという事実は、カヲルの指摘通りネルフのトップ層ではある程度把握されつつあるようだった。

そしてそれは、少なくとも組織としては大きな制約を抱くことになる。細かなものまで一つ一つ挙げればキリがないが、明確にシンジたちに関わる事項が一つあった。

 

それは、ネルフへのチルドレンの出入り制限だった。

万が一の非常事態宣言や事前に予約された面会など特別な事情でない限り、エヴァのパイロットになった際に手渡されたIDカードは許可を取らない限り無効となる。

 

やや原始的な方法ではあるが、これは、子供達がいよいよ特務機関ネルフと物理的に距離を置ける環境が整いだしたことを意味していた。

政治的な力を持たない子供達にとって、ネルフとの間の物理的遮断はそのまま戦いの日々との別れを意味していた。

 

 

そう。

 

 

学校に行けば、

 

「おっシンジか。おはようさん」

「シンジ。聞いてくれよ、トウジの奴がさ……」

「お前! それは言わん約束やったろ!」

「ほらふたりとも邪魔よ!」

「ぐはぁっ!!」

「いてぇっ!」

「シーンジ君っ! おはよ」

「何すんじゃ! って誰かと思ったらおんどれか霧島ァ!」

「あら、誰かと思ったら鈴原の旦那じゃないですかァ。なんか用かしら?」

「なんか用ちゃうわ! こちとらお前のせいで何度腕を捻ったかと」

「あぁ、最新型のカメラが……」

 

友達と朝の挨拶が出来る。

 

「私の若いころは根府川沿いでボランティアをしていましたが、あの大災害・セカンドインパクトが起きてからは……」

「私の地元にある根府川温泉は炭酸泉として知られていたのですが、セカンドインパクトの影響で枯渇してしまい……」

「私の地元である根府川の沖にも遺跡があるという話がありましたが、あのセカンド・インパクトによって……」

「先生、さっきから全部同じ話です」

「違いますよ鹿目さん、これだからヨカタの方はいけません。もっとよく聞いてください」

 

何事もなく授業を受けられる。

 

「そういえばシンジ、お前ロシアヒカリダケって知ってるか?」

「何それ? 聞いたことないなぁ」

「此間テレビで見たんだけどな、どうも光る茸らしいんだ」

「ふーん……」

「不思議なキノコもあるもんやなぁ。で、味は?」

「トウジ? 何を言って……」

「味」

 

取るに足らない談笑も出来る。

 

「じゃあ、僕は掃除当番だから」

「おう、またなセンセ」

「また明日な、シンジ」

「よっし! シンジくん一緒にかーえろっ」

 

そしてこんなふうに、放課後の別れの挨拶も出来る。

 

これがあたかも大昔から当たり前であったかのように、決してこわれることなく毎日続いていく。

 

そんな生活が、シンジたちを唐突に出迎えたのである。

 

 

そんな放課後、ふと人気がなくなったころに耳をすませば、音楽室からどこからともなく音が聴こえてくる。

これもまた、普段の学校生活に時折起こるイベントかもしれない―――。

 

その演奏は見事なものだった。シンジにとって、クラシックはそれなりに造詣があるつもりだった。

かつて習っていたチェロの影響で、弾いたことがある曲は勿論、チェロ以外の楽器の曲も目ぼしいところは一通り知っている。

けれど、そんなシンジでも聞いたことがない曲が、上の階から聞こえてくる。

 

奏者の指は、鍵盤の上で歓喜を知った。自分で自分を表現できる歓喜を。

それは余りにも原始的な動作ばかりだった。その場で飛び跳ね、転げまわり、走り回る。誰に教わらずとも行われる行為を以って、声を持たない彼は歓喜を示してみせたのだ。

暫く跳ね回ったのち、暫しの休息。それから、今度はゆったりと軽やかな舞いをし始める。その舞いには力強さが徐々に加わっていき、やがて再び先ほど跳ねまわったように激しい踊りになった。

このようなことを二度ほど繰り返し、そして歓喜の絶頂を覚えた彼はより一層に大きく飛び、跳ね回ったのち、鍵盤にその身を任せたのだった。

 

シンジは気になった。これほどの奏者がこの中学に居たのか……と。

気付けば脚は階段を登り、手は音楽室の戸を開けていた。

 

すると、ドアを開けた音に気付いたのか。ツインテールの少女が此方を向いた。その姿にはうんざりするほど見覚えがある。

 

「おやおや? そこにおわすはわんこくんではありませんか」とシンジを出迎えるのはマリである。

 

「真希波さん」

「他人行儀だねぇキミも、マリって呼んでくれてもいいのよ?」

「いやもう、慣れちゃいましたし……」

「まぁいいけど」

 

いつの間に背後に回ったのか、声が耳元で聞こえてきたかと思ったら、両腕が両肩に掛かる。

吐息が耳に掛かり、そこはかとないこそばゆさを感じる。とても扇情的な行為だと思えなくはないのだが、

 

「相変わらずさり気なく引っ付くのやめてもらえませんかね」

「キミのLCLの匂いがたまらなくてねぇ。一次的接触にも少しは慣れた方がいいよ?」

「そうやって抱き着いてくる人そうそういませんからね?」

「そう思うならそうなんだろう、お前の中ではな」

 

シンジはもうそんなマリの大胆な行動にも大分慣れていた。

流石にマリがどれほどナイスバディでも、年がら年中出会う度にひっつかれては慣れてきてしまうというものだった。

マリも「つまんないの」と呆れ顔こそするが、既に茶飯事になっているのでこのシンジの反応は慣れていた。シンジの肩に乗せた腕を離すと、シンジの前に立ち両手を後ろで組みいつものどや混じりの顔でシンジを見つめてくる。

 

「上手なんですね、ピアノ」

「ありがと。練習すればわんこくんにも弾けるよ」

「いえいえ無理ですよ、チェロならともかく」

「生きていくなら新しいことを始める変化も大切だよ?」

 

さあおいで、と、マリはシンジの手を引くと、強引にピアノの椅子に座らせた。

戸惑うシンジの両手を鍵盤の上に添えさせると、自分もピアノの椅子に座る。

そのきめ細やかな右手の五指を鍵盤の上に乗せ、そのまま鍵盤の上を滑らせた。それに合わせて、シンジもなんとなく適当にジャン、ジャンと和音を叩いてみる。

 

「そう。キミはこっちで鍵盤を叩いてくれるだけでいい」

 

マリが更に右手の指を動かすと、更にピアノは旋律を奏でた。それに合わせて、シンジも和音を叩く。

 

シンジにピアノの知識は殆ど無い。だが、マリが演奏するメロディがガイドとなって、乱雑だった和音は気付けば自然なリズムの伴奏に成りつつあった。

 

「……こ、こうですか?」

「うんっ、いいよ……そう、もっと強く……」

 

マリの強く、という言葉を信じて、シンジは更に一歩踏み込んだ強さで鍵盤を叩いてみる。

するとマリの手は階段を登るかのように低音域から高音域へと、するりするり鍵盤を弾いた。それを合図に、マリの指の動きは一層に激しさを増した。

シンジもそれに合わせようと、それらしく和音を叩こうとしてみる。するとマリが合わせているのか、シンジが合わせるようにマリが仕向けているのか、本当にメロディに合った和音となって奏でられる。

 

 

「いいよっ……いいよっ、キミとの音……」

 

気付けば、先ほどの演奏がそこに再現されていた。新たにシンジという二人目の奏者が現れたことにより、演奏は更に力強さを増した。

先ほどまで一人で歓喜の舞をしていた彼女は、ついに歓喜を分かち合う「仲間」を見つけたのだ。

さながら庭園を駆け回り共に笑い合うアダムとイヴのように、二人は空想上の五線譜を舞う。

煌びやかなデュエットは、シンジの一見ただ適当に和音を叩いているだけのおぼつかない伴奏にすら歴史に残る名ピアニストのそれを想起させることとなった。

 

そのうち、愉快になってきたシンジの口からも「アハッ、楽しいね」と思わず呟きが出て来る。

 

「おっ、初めて敬語以外で私に喋ったね」

「そうだっけ……?」

「うん。これからもそれでいいからね」

 

マリの表情も穏やかだった。

 

時を忘れ、同じメロディを延々と繰り返す。

シンジにとってこんな感覚は初めてだった。音楽なんて、所詮ただ惰性で続ける程度の関心しかなかった。それが今こうして、初めて「楽しい」と思える音楽を演奏できている。

 

 

そこは完全な、二人だけの世界。

 

 

やがて指がへとへとになって、初めて演奏を止める。気付けば外からは斜陽の光が差しており、夕焼けが音楽室中を照らしていた。

いい加減時間も押してきていたので、二人は校門の前までさっさと足を運んだ。

 

「今日は有難う」

「私もだよ~。またやろうねっ」

 

にしし、と満面の笑みをするマリ。幾ら普段から過剰気味なスキンシップを取られるとは言え、いや、だからこそ、こういう普通の笑みに眩しさを感じられる。

控えめに言ってもマリは相当な美人の部類に入る。変人でさえなければまず間違いなくモテるだろう……いや、変人の今でもなおモテるくらいだ。そんな女が屈託のない笑みを浮かべていて、可愛い、とか、綺麗、とかそんな印象を思い浮かばない男は居ない。

シンジもそれは例外でなくて、次に出てきた「え、ネルフとかは大丈夫なの?」というセリフも、明後日を向いてのものであった。

 

「細かいことは気にするな若人よ、何のためにリッちゃんやマヤちゃんがネルフに居ると思ってるのさ」

「さいですか……」

「あーまた敬語に戻ってるよ」

「別に友達同士でも敬語使うことはあるでしょ」

「そらそーだけどさ。……友達同士、か」

「?」

「いや、なんでもない。それじゃあね」

 

手をひらひらとさせ、先程とは一転して追い返すように別れを切り出したマリ。

少し不思議な顔をしつつ、シンジは「うん、じゃあね」とその場を後にした。

 

----

 

「よぉ、シンジ君じゃないか」

「あっ、加持さん。おはようございます」

「おはよう。なんか久しぶりだなぁ」

 

シンジと加持が出会うのは確かに久しぶりだった。何ヶ月ぶりだろうか、とふと考えていると、「どうだ、体調の方は」と加持が話題を持ちかけてくる。

 

「大丈夫です、あれからもう三ヶ月近く経ちますから」

「そいつは良かった。ネルフはここ三ヶ月少しずつ変わりつつあるが、使徒が来ない保証はどこにもない。エースパイロット様には元気で居て貰わないとな」

「出来ることなら、元気じゃなくても良くなるといいんですけどね」

「エヴァの適性を考えると……あと十年は掛かるかもな」

 

加持の告げた十年という年数に、シンジはそうですね、と苦笑いを浮かべる。

 

「しかし、君も変わったな」

「え?」

「初対面の時は、どことなく尖った印象があった。どこか、人間離れすらしたような……」

「ああ……」

「けど、今はどうだ。君の振る舞いはどこにでもいるような少年そのものに見える」

「だとしたら、変わったんだと思います。男子三日会わざれば括目して見よ、というじゃないですか」

 

シンジはこの世界に来てからの加持との初対面を思い出し、苦笑いした。

彼が日本政府、ゼーレ、そしてネルフのトリプルクロスであるという事実は、今の段階でも恐らくごく一部の者しか知らないのだろう。

 

「けれどそんな君の人格が変わってなお……一つ不可解なことはある」

「?」

「その前に……ここから先は君を信用して話そう。これで俺が死ぬとすれば時は、それは俺の責任だ。君が気に病むことはない。いいな」

「は、はい?」

 

加持は突然神妙な面持ちになると、

 

「……どうして俺がトリプルクロスになることが分かった?」

「え?」

 

シンジの耳元で、そう囁いてみせた。

 

「あの時点では俺はまだダブルクロスだった。もし俺が不覚を取って君に何か通信を見られていた……という可能性もあるから、それを指摘したならまだわかる。だが君は「トリプルクロス」を言い当てた」

「それは……たまたまでは」

「どうかな。俺はつい最近、再びダブルクロスに戻った。

色々訳ありでな、ある方面に関してスパイする必要はなくなったんだよ。

だが……トリプルクロス最後の日。拉致された冬月副指令を連れ戻すようにという任務が下った」

「!」

「ほう、このことも知っていたという顔だな。まぁ、当然だ。あのまま行けば俺は確かに死んでしまったのだろう。

そして君は言った。葛城を苦しめるな、と。

己惚れる訳ではないが、俺が死ねば確かに葛城は動揺するだろうし、下手をすれば一生苦しむ可能性もあるだろうな」

「それは……その、加持さん、どことなくナンパ好きっぽかったから……」

「ふむ、だがあの時の君とは殆ど初対面だったはずだな。

何故俺が女好きだと分かった? そして、君は使徒をある程度予知する能力も持っているらしいじゃないか。

多少のズレはあれど、外見の特徴、攻撃方法は概ね合致していたと聞く。……君は、一体何を知っている? 俺に、俺達に何を隠している?」

 

シンジは明らかに動揺していた。そしてその動揺は隠し通せたものではなかった。以前はカヲルが中に居たのである程度精神状態も維持できていたのだが、今はそういう緩衝材もなく、ただ「碇シンジ」という一人の人間を、「加持リョウジ」という一人の人間に試されている状態である。

そうなれば、シンジにはもう利は薄い。

 

無意識に口をもごもごとさせてしまうシンジだったが、加持はその様子を見て再び笑みを戻すと、シンジの肩をぽんと叩いた。

 

「すまない、君を追い詰めるつもりはなかった。

単純な好奇心だと思ってくれていい、並々ならぬ事情があるんだろう?」

「……ごめんなさい。どうしても、お話しすることは出来ません。今はまだ」

「そうか。なら、いい。

話せるときになったら……それこそ君がエヴァを降りたときにでも、酒の席でこっそり教えてくれよ。どんな夢物語でも信じてやるからさ」

「……ありがとうございます」

 

加持はどこまで感づいているのか、シンジにはまだ分からない。

だが、昔からずっと変わらない大人の余裕を持った彼の言葉には、急速に強い安心感を覚えていった。気付くと、表情は緩み笑みを浮かべていた。

 

そんなシンジを横目に、加持はポケットの中の煙草に火をともしていた。

 

「……煙草、吸うんですね」

「意外か」

「はい」

「大人になると色々あってな。俺もガキの頃は吸うまいと思ってたけどね、高いし。でもネルフってのは意外と高給取りになれてな、案外余裕があるんだよ。

どうだ、君も吸ってみるか?」

「えっ」

「冗談だよ。まあ吸うって言うなら止めないつもりだったが」

「そこはウソでも止めなきゃダメですよ」

 

シンジが呆れ顔に鳴ると、「はっは、お手厳しい」と加持は手を軽くホールドアップした。

 

「シンジ君。人ってのは、煙草みたいなもんだと思わないか?」

「はい?」

「誰がどうやっても、一度火が付いたら燃え続ける。

どれ程に隠したとしても、そこにあるという痕跡は隠しきることは出来ない。

それにモノが燃えるには空気がいる。そう……周りの環境も必要不可欠になる。

誰もが、周りの人間に頼って生きてる」

「……そういうものでしょうか」

 

暫く黙ってからのシンジの一言に、「そうさ。君とてそれは例外じゃない」諭すように、加持はそう続けた。

それからふぅ、っと煙を吐ききると、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。

 

「煙草とヒトと共通する宿命として――確実にいつか終わりはやってくる。

煙草が燃え尽きるという現象自体は周りの空気を使わない。

孤独に、たった一人燃え尽きるんだ。既に中身のない吸殻と、僅かな塵と残り香を置いて燃え尽きる。

そしてどれほど上質な煙草としても記憶は風化し、いつかは忘れ去られるだろう」

「確かに……」

「考えてみると本当によく似てるよ、煙草と人は。

こいつは俺の考えだが、一部の人が煙草を好む理由のひとつはそのせつなさにあるのかもしれないな。

色々と理由はつけるが、結局のところ本能的に欲してるんだよ」

「そんなもんですかね」

「そうさ。だからこそ、必要以上に嫌悪する人も居る。煙たいだとか、そういう理由も多分にあるだろうが。同族嫌悪、ってやつだな」

「僕は煙草は嫌いじゃありません。好きでもないですけど」

「そう、君のようにどちらでもない人もいる。だからこそ人は面白い。そして、女も」

「女、って。やっぱり軟派じゃないですか」

「レイのこと、まだ追ってるんだろ?」

「……そりゃあ、追ってないと言えば……嘘になりますけど」

「いいじゃないか。君もまだ若いんだから、やりたいようにやってみるといい」

「……ありがとうございます」

 

加持のどこか忠告も含んだ激励の後、暫くの間二人は無言になった。

ただ、そこに気まずさを感じることはなく……安心の伴った無言であった。

 

やがて煙の香りがしなくなった頃になると加持は立ち上がり、どこからかスイカを取り出しシンジに見せつけた。

 

「……よし! 辛気臭い話は終わりだ。ところでこのスイカを見てくれ、コイツをどう思う?」

「すごく……大きいです」

「大きいのは分かったからさ、このままじゃ倉庫の収まりがつかないんだよな。よかったらお土産に持ってってくれ」

 

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「いやぁ此間のニュース見たかいわんこくん」

「ん、何か面白いニュースでも?」

 

シンジとマリは、この日も音楽室でピアノを弾いていた。

 

今日は土曜日。半ドンの日ではあるが、なんとなく音楽室に立ち寄ったら、やはりマリがいたのだ。

それからはもう、ひたすらにピアノに明け暮れた。

鍵盤をひと押しする度に包まれる音のシャワーに、シンジはすっかり虜になっていた。

 

これは、今日に限ったことではない。あの放課後以来、なんとなく音楽室に立ち寄っては、二人でピアノを弾いてみたりする機会が増えていた。

マリ曰く「デート」らしく、それを説明する度にトウジやケンスケに強い詮索を受けるのが若干悩みのタネだったりもした。

 

だが奇妙だったのが、マナの様子だった。あれほどシンジに執着していた様子だったのが、今ではただの友人のように振る舞っていた。以前のようであれば、マリのこの「デート」を許容はしなかっただろう。

 

あの時何をしたかとかはなんとなく覚えているらしいのだが、「一時の気の迷い」というのがマナの言葉だ。

もっとも「まぁ、シンジはアリかな」とも付け加えられたので、それもちょっとだけ心のうちで燻っていたりしないわけでもなかったのだが。

 

「んー、私の好きなアニメの監督が変わっちゃってさ」

「アニメ、観るの?」

「そりゃもう……文化の一つとしてアニメは押さえておかないとっ」

 

今日弾いていたのは、マリ曰くその「好きなアニメ」のオープニングらしい。

 

「しかしまぁよくやるよ、人気に火が付いた要因の一つはこの監督の努力のたまものだってのに、その監督をのけものにするなんて」

「そんなにすごい人なの」

「二十一世紀でも現状、三本の指に入る位にはすごいんじゃないかな?

すごいんだよ、超低予算で作ったのに何百億も売り上げちゃってね。しかも所謂ステルスマーケティングとかじゃなくて、きちんと実力で面白い」

「へぇ……」

「そんな監督を降板させるとはカナガワも落ちたもんね、あっカナガワってのはそのアニメを作る親会社みたいなもんなんだけど。だってそうじゃない? 監督とか特に変えずにこのまま行けばコケちゃっても前作からのファンが金を落とすけどさ、こんな風に突然下ろされちゃったらその金も落ちないと思うんだよ」

「そういうもんかなぁ」

「そういうもんなの。……ま、私にはもうじき関係なくなるけどね……」

 

マリの呟きは、シンジには届くことがなく。

ただ、違和感を覚えなくもない。普段は自分と同じくらいな背中が、その時だけ幾分か小さくなったように感じられたのだ。

 

「……?」

「んーん。さっ、次はどの曲がいいかな」

 

ただ、シンジがその違和感に首を傾げたときには既に、マリの後ろ姿はいつものものに戻っていた。

 

そしてその違和感は、それからも続いた心地よさに飲まれ、すぐに消滅していくのだった。

 

 

やがて指に疲労感を覚え、その日の演奏会が終わると、時刻は午後四時。まだ少し早い印象もあるが、帰るにもいい時間ではある。

 

「さて、わんこ君」

「はい?」

「……今日はさ、本当に「デート」しない?」

「??」

「だから、デート。しない?」

 

マリの台詞を、2,3秒ほど咀嚼してから、

 

「……えっ!?」

 

シンジは驚きの声を上げた。

 

「いやだから、デートだって」

「でっでも、僕なんかと?」

「君だからいいのよ」

「そ、そうですか……」

「うむ。分かったら、返事は?」

「……まあ、放課後も予定ないし……いいけどさ」

「おっ? そうかい。意外と断らないのね」

 

ここ数日の演奏会で、マリとシンジはすっかり打ち解けてもいた。だが、こうして改めてデート、と言われると言葉も尻すぼみになってしまうというものだ。

 

「でもボディタッチはしないでくださいね」

「いけずぅ」

「するつもりだったんですか」

「あたり前田のクラッカー」

「いや意味が分かりませんからね」

「分からなくて結構。行くならほれ、はよ行こう!」

 

そう言ってマリは鞄を右手に持つと、余った左手で未だ鍵盤の上にあったシンジの手を引いた。シンジは突然手を引かれ、わわ、と声を上げながらなんとか鞄を拾い上げマリへついていった。

 

 

「デート」といっても、中学生の身分では行けるところは多くはない。

 

だが、それでも細やかながら、ゲームセンターに行ってみたり、レストランに行ってみたり、なんとなく季節のイルミネーションを見てみたりして、とやれることは多いものだ。

 

実際にシンジたちはそのどれもを実現した。

ゲームセンターではマリがパンチングマシンをぶっ壊したり、ホッケーを一人でやり出したりとシンジがとにかく圧倒される出来事が多数起こったり、

レストランではマリが異常な大きさのパフェを食べてシンジの財布がだいぶ軽くなったりと主にシンジの負担がだいぶ大きかったりもしたが、

 

「ね、見て」

「ん」

「綺麗ね」

「……そうだね」

 

光輝くイルミネーションを受けて眩しくなる笑顔を見ると、なんとなくどうでもよくなった。

 

「ね、わんこ君」

「?」

「人間って、すごいね」

「何を唐突に」

「歌だってそうだし、歌のない音楽も、ゲームも、映画も、テレビ番組も、絵も、そしてこんな飾りも。

何もかもが、すごく綺麗。こんなものを作り出せちゃうんだから、人間ってすごいよ」

「まあ、たしかにね」

「でも、こんなきれいなものを創る人もいれば、争う人もいる。不思議だよね、人間」

「……そうだね」

「私ね、思うんだ」

「?」

「みんな幸せになってほしいなって」

「??? まぁ、そうなれば確かにいいことだけどさ、みんなが幸せってのも難しいかもね。

……というか、今日の真希波、なんか変だよ?」

「あはは、ごめんねぇ。特に何ってわけでもないんだけどさ……焼き付けておきたくてね。この思い出を」

「……変なの」

 

マリの言動はいつも奇妙だが、今日はいつにもまして不思議だった。それはまるで、かの友渚カヲルを彷彿とさせるような。

そんな、不思議な雰囲気を感じ取らないこともなかった。

 

「さて、そろそろ私はいこうかな」

「ん、もうこんな時間か」

「うん。……あっ、そうだ」

「ん?」

 

帰ろうとしたマリは突然何かを思い出したように、シンジの方を振り向いた。

肩を持つと、シンジの瞳をじっと見つめる。

 

ねぇ、シンジ。マリは神妙な面持ちでシンジに顔を近づける。

 

「は、はい?」

 

普段と違う雰囲気の彼女に、思わず昔のように敬語に戻る。

 

「キス、しよっか」

「え」

 

そういってマリは、顔を近づけていく。シンジは突然のことに身体を固まらせた。

 

何より、このシチュエーション。どこかで覚えがある。思い出した。アスカとも、なんとなく適当なノリでキスをしたのを思い出した。

 

しかも、奇しくも全く同じセリフで。

 

身体は固まったままだったが、徐々に近づいてくるマリの吐息と、ゆっくりと預けられる体重にマリの本気を錯覚した。

それで思わず、目を瞑り……

 

 

それから、三十秒が経過する。

一向に待ち構えていた感覚が来ないことを怪訝に思ったシンジが目を開けると、マリが大笑いしそうになるのを堪えながらぶるぶると震えていた。

 

「……あははっ! 本気にした? ねぇ本気にしたかにゃ??」

 

どうやら遊びだったらしい。ほんのちょっと脱力感と、弄ばれたことに対するやり場のない怒りのようなものがふつふつと湧き上がってくる。

 

「ねぇ真希波、僕って実は仏じゃないんだよ。仏の顔も三度までって言うけど僕の顔の回数は知らないでしょ」

「え? じゃあどうする? キスする? それとも君とならその先までヤッちゃってもいいけど、する?」

「う」

「ほーら、返事に詰まった。可愛い」

 

強気に出ようとしたが、ダメだ。やっぱりマリにはかなわない。

ツン、と唇を人差し指で一突きされ、シンジはそれを確信する。

 

マリはまた後ろを向くと、再び歩き出した。今度はもう、こっちには戻ってくる様子はない。

 

「バイバイ。……楽しかったよ」

 

そう言ってひらひらと手を振りながら、マリはイルミネーションの中に消えていった。

 

シンジにはその様子が、なんだかとても儚げに見えた。

 

ただ、それだけだった。

きっと数ヶ月前なら、不審にすら思ったのだろう。だが平和になったという錯覚は、彼の察知能力をだいぶ鈍らせていて。

 

気付くとシンジの思考は、明日に待ち構える日曜日をどう過ごそうか、という至って平凡な話題へと移行しつつあった。

 

 

----

 

時刻は、午後十時。

シンジとマリが『デート』を終えて、別れた直後のことだ。

 

 

そこに居るはずのないチルドレンが、エヴァを前にしている。それは奇しくも、否、必然として白いワンピースを着用していた。

 

チルドレンは、マリは、誰もいない格納庫の中で赤いエヴァ、エヴァ弐号機を見上げている。

 

それは彼女にとって眩しい赤色だった。かつて一時を共にした惣流アスカのトレードカラー。

 

「んっふっふ。姫驚くだろうなぁ~。きっと私を罵倒するだろうなぁ~。『私の弐号機になんてことするのよ!』なんて。でも姫の罵倒はプラチナ物だからね、冥土の土産にゃ丁度いいかにゃ」

 

彼女は、あくまでも淡々としていた。死を前にしてなお、軽口を叩き口角は上がる。

 

彼女の目に、迷いはなく。涙もまた一粒もなく。

 

「でも、百合ってなかなか成就しないのねぇ。

リリンたちはいつもそう。愛をありのままに伝えても、同じ性別ってだけで決まって同じ反応をする。

わけがわからないにゃ。どうして人間はそんなに性別にこだわるのやら。

……マナちゃんを頼ってもそれを知ることが出来なかったのだけはちょっと残念か。まっ、仕方ない」

 

最後の一服、とばかりに戯言を呟き、溜め息を一つ。マリは宙へ浮いた。

それは、ジャンプしたりしたわけでもない。何か力を入れた様子もない。ただ、当たり前のようにそのまま浮遊し、そして弐号機へと近づいた。

 

「さてと、リッちゃんやマヤちゃんに見つかると厄介だからね……さぁ行くよ。おいで、アダムの分身。そして……碇シンジ君」

 

弐号機はマリに呼応し、咆哮を上げた。

 

 

その時、非常事態宣言は発された――――。




はい、第二十ニ話いかがでしたでしょうか。

これを皮切りに物語は終局へと向かいます。もう少しだけお付き合いください。

次回、第二十三話「最後の使者」。それでは次回も、サービス、サービス。

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