麒麟児の仰ぎ見る旗 作:地獄大陸
彼女は竹簡の巻物を、手慣れた動きで読み進める。
「ほー。『天の御遣い』様とは……面白い風向きになって来てるんじゃないかい?」
西涼の地で多くの豪族を束ねる者。その名は馬騰。
現在の本拠は金城郡だ。居城は治所の金城県の城である。
城内の謁見の間の奥に設けられた、二段高い位置にある豪奢な金細工も施された席に、一人恰幅のいい濃い茶髪なポニーテールの女性が座る。
彼女は、跳ねっ返りな姪っ子馬岱からの報告へ楽しそうに目を通していた。
馬岱の書いて来る報告書は、いつも面白く書かれているのだ。
娘の馬超は、そんな馬岱へきちんと書けというが、馬騰は自分宛の書簡に限りそれを姪へ許していた。
「しかし、『天の御遣い』様を名乗る奴がいるとはなぁ」
馬家は縁起や神様を尊ぶ家風。その称号は気になるところ。
古今色々な小賢しい名を騙る輩は多いが、『天の御遣い』を騙る奴はまずいない。
何故か? 当然、担がれ死ぬ率が高すぎるからに他ならない。
騙る奴は死にたがりな余程のバカか―――本物かだ。
馬岱の書く書面には、その彼の成した事が面白いながら正確に書かれていた。
偶然訪れた街でいきなり異民族軍の戦いに巻き込まれながら、その街の先頭に立って倍の兵数の敵を一蹴したという。
それも、多数の人質を取られてなお、それらを同時に全員救出し生還させて『魅せた』とあった。
まず、完全な余所者が街の兵らを統率出来た事実に驚きだ。凶悪な相手は倍の兵力。信頼関係なくしては戦いにならない。それを見事にやってのけている。
そして、それが終わると病で急逝した県令の代わりにと推挙されたという。もはや何かの物語のように思えた。
――普通じゃない。
これだけの過程でも、凡人なら何度も死んでいるはずなのだ。
今は、太守に代わり郡兵を束ね、異民族の軍団を近日中に天水の地から排除しようとしている段階とあった。
「……そこまで成せればもはや本物だろうねぇ。……会って見るか」
馬超からも書簡が来ているが……その男への持ち上げっぷりが尋常ではない。
(しかし、自分からは男に近付かなかった娘が、色気付いたか翠よ、クックックッ……まあ、蒲公英もまんざらじゃなさそうじゃが)
どこか冷静な視点で見る馬岱だが、『天の御遣い』様にはのめり込んで傍から離れようとしていないのだ。
そこへ、気遣い者に妄想キラキラ娘、二人の女の子が広間へと入って来た。馬休に馬鉄だ。
「
「え? なに? お母様、誰かの縁談が来たとかー?」
「いや、何でもないさ」
彼女らの主君は一人、ほくそ笑んでいた。
+ + +
今の季節は春を過ぎた頃。
今日は、寒さを感じない夜が徐々に更けゆく、顕親県令の館傍へ建つ警備の役所。
その一室で、仕事終わりに長の李績や女十人隊長らと守備兵、そして北郷兵団の仲間たち数人と龐徳は、親睦も兼ねて晩飯を肴に酒を飲み交わしていた。
大宴会にて龐徳の加入の劇的な場面を見たためか、最近増え始めた北郷兵団、北郷隊とも言われる彼らは、まさに一刀の為だけに働く兵達である。とは言え今は、顕親の守備兵も兼ね二足の草鞋を履く者も多い。女十人隊長らも実はそうだ。人質となっていた者達の親族も多く、彼への感謝から心酔している形。
そんな者らの酒宴での話題は、やはり『天の御遣い』様と異民族軍が中心だ。
この街へ来たばかりな龐徳との、共通の話題はまだ少ないことも有る。
「私ももう十五若ければ、今後の戦いも『天の御遣い』様と共に最前線を駆けるのだが。もう、足を引っ張るかもしれんでな」
「何をおっしゃられる。李殿はこの顕親の守備の要。それに先日、主君と人質救出の折の先頭に立たれた武勇も聞いてますぞ。主君も笑顔で話しておりました」
「はははっ。確かにあの時は武人の華を咲かせてもらいましたわ。しかし――あの御仁が現れなければ、あの機と展開はありえなかった。今頃、皆、草木の苗床になっていたかもしれませぬ」
「……某もそうやもな」
戦の勝敗とは微妙なところで、どう転ぶか分からない生き物のようなもの。
李績の言葉に龐徳が呟く。彼女も彼が居なければ、結局多くの同郷の者が殺されたのち、ただ怒りの内に希望無く突撃し切り死にしていたかもしれない。
周りの者らも、口許を緩めつつも目線が落ちる。
「そういえば、聞いて宜しいのかと思うが……令明殿はまだ、県令様に真名をお預けではない様子。あの主従の契りの場では不足と?」
「いえ、あの場でも良かったのですが、一度に纏めるのも少し横着かと。なれば、意味のある別の機会にと」
「ははっ、若いのはいいですなぁ。県令様は人気者でもありますからのぉ」
「……い、いや、深い意味はないのだが。本当ですぞっ」
真面目な彼女は別に、主君の気を引くつもりとかではなかったのだが、李績は意味深な意味で捉えてしまった。周りの兵らも、
桃色の長い美髪なポニーテールを可愛く振って、肴を提供してしまったと諦めるように言を吐く。
「もうっ、好きに取ってくれ」
忠義に変わりなく、礼節を貫く。あとは『赤龍偃月刀』にて、ただ道を切り開くのみ――。彼女はいつもそう思っている。
そんなところへ、馬の嘶きが外から聞こえると、唐突に窓へ人影が現れた。ここは三階なのだが、この馬岱という娘には関係ないらしい。
「よっと。居た居た二人とも」
「「馬仲華殿!?」」
「ここにいるぞー! って、お兄さまの所から様子を見に来たよ~」
李績と龐徳は事情を知るためかなり驚いたが、配下の者らは少し驚くも最近はいつもの事だと思っている。
「何か変わった事はある~?」と自然に聞きつつ、彼女はつかつかと部屋へと入り、つまみの肉や野菜に穀類の雑炊を頂く。その行動には無駄が無い。
「今の所は」
李績の言葉に龐徳も同意し小さく頷く。必要以上なやり取りは避けていた。
「ふ~ん。みんなは、何を話してたの~♪」
馬岱も、皆を余り考えさせないようにと別の方向へ話を向ける。
なにせこんな大事な時に、期待を受ける『天の御遣い』とその軍師がこの街に不在なのだ。周囲に気付かれては間違いなく街中で混乱が生じるだろう。
すでに顔見知りとなっている兵らの答えを食べながら聞いたあと、食べ終えた器を机へ置き、馬岱はニッコリと笑顔で一同へ告げる。
「じゃあ、お邪魔様~。また後で見に来るかも~」
そのまま彼女は、窓からあっさりと後で来るかのように降り去って行った。
龐徳の手には去り際の僅かな間に、小ぶりな竹簡が残されている。
馬岱の手際に、李績と龐徳はさすがと感心していた。
一刀らは馬岱が顕親へ向かうと、日の沈む前に、枝葉で煙が拡散し灯りも見つかり難い森の中へと野宿の場所を求めた。間もなく夕餉を取る。
この辺りは兵約五百の異民族軍が布陣する豲道(カンドウ)県の宿営地から南東へ三キロ程の位置。豲道の西には隴西郡、その更に西には羌国が広がる。
以前の通り、さすがに森の深い所までは奴らも巡回してこない。
敵陣への潜入調査は早朝に行う。それまで交代で仮眠を取る予定だ。
居残りの鈴花には、立場上明け方まで起きていてもらう。
姜維は昼間、休憩時にも一応昼寝を取っていた。だが、なるべく眠らせる為、先に寝かせる。代わりに一刀が最初の火の番を買って出ていた。
「では、すみませんけど。あとあの、主様……いいですか?」
「ん? ああいいよ」
「では……」
今、馬岱はいない為、姜維は当然の如く――火の近くで木へもたれ掛かり座っている一刀のお腹へぶら下がるようにきゅっと抱き付いて休む。当初はそんな子供風な事が恥ずかしく、一刀が寝入ってからそっと布団へ潜り込むか、彼女が睡魔に負けて寝た折に運ぶ彼へと抱き付くかであったが、最近は先に一言あって抱き付いて寝ることが当たり前になって来ている。一刀もそんな甘えてくる行為がないと物足りない感じだ。頭冠を外して眠りにつく、そんな姜維の髪を一刀は優しく撫でてやっていた。
しかし、馬超と鈴花がそのほのぼのな雰囲気の二人を身咎めてくる。
「ちょっ、『御遣い』様……な、なんて羨まし……ハレンチな。まさか姜殿とこれまでも毎晩ってことはないよな?!」
「お、おい、北郷。何て格好をしてやがるんだっ。貴様、やはりそんな強要の趣味が!」
「えっ? い、いや、こいつ、くっ付いてただ寝てるだけだろ? 伯約はこうして安眠させないと夜中は厳しいんだよ、なっ?」
「……スゥ……スゥ」
主が問いかけるも、姜維から返事は返らず――早くも静かな眠りについていた。
「「「……」」」
思惑の無い、その穏やかで可愛くどこか大人びた美人の横顔な寝顔の様子に、三人はしばし見入っていた。
馬岱は飛ばして駆けた馬を途中で変えつつ、往復約百五十キロを六時間ほどで一刀らの野営地まで帰って来た。夜駆けに加え驚異的な速さである。
「戻って来たよ~♪ 向こうは予定通り進んでるって」
火の番の交代時間で起き出した馬超と一刀へ、そんな荒事を熟した感も思わせない軽快な小声で告げる。
驚いたのは、風を受け涼しいとはいえ、馬岱は殆ど汗を掻いていない事だ。
これが馬家の武将なのか。
「お疲れ様です」
「お帰り、たんぽぽ」
「お疲れ様、仲華殿。食事は?」
「向こうで食べて来たから大丈夫~って、伯約ちゃんずるい。お兄さまと寝てる……」
すでに姜維は、足もカニばさみの状態で一刀へガッチリとくっ付いていた。
「じゃあ、たんぽぽも~」
姜維の様子にそう言って、馬岱も一刀のもたれ掛かる木の所へやって来ると、隣に座って彼へベッタリと寄りかかる。
「たんぽぽ、頑張ったからこれぐらいいいよね?」
そう言われては、馬超を初め一刀や鈴花も大目に見るしかなかった。
馬岱まで一刀の寝所横へ加わったが、早朝に向けて少しずつ緊張が高まるも仮眠を取り休んだ。
馬超が火の番を代わり、そののち姜維が起き出して少しした頃、一刀と馬岱は鈴花に起こされた。
深い紺碧の夜空が、僅かに朝へ向かって白み始めようとする頃、一刀と姜維と馬超の三人が野営地を離れる。
昨夜大任を果たしている馬岱には、睡眠に入った鈴花と残ってもらう。また一刀と姜維は、馬へ乗せていた異民族軍の兵装に着替えていた。
草からの敵陣周辺の情報を持つ姜維を先頭に、一刀、馬超の順で野営地まで森の中を進み一気に迫った。
すぐに朝を迎える安心感で緊張が緩む時間帯。一刀達はさらに陣地外縁を周回するように手薄そうなところを探す。
進攻から半年を経ても異民族の兵らに病等はなく、軍馬が報告より多い事を把握。
そして手薄な場所を見つけると、馬超には待機してもらい、一刀と姜維のみで潜入する。
馬超の流麗なロングポニーと裾の短い華麗な衣装は目立つので、彼女も「しょうがないなぁ。でも、何かあったら遠慮するなよ」と言って送り出してくれた。
愛用の十文字槍『
しかし、この駐屯地は10キロほどの距離にある、もう一つの異民族軍千百ほどの陣と盛んに連絡を取っている事が分かっている。
どちらかが襲われれば、その敵の背後を突くような連携を考えているのだろう。
いよいよ陣内へと潜入した一刀らは、その辺にあった荷物を持って堂々と運ぶ振りをする。
兵糧周りは警戒が厳重なので横目で一瞬視線を送りつつ、人が閉じ込められてそうな建物は無い事を確認し通過。
都合よく陣内に天幕は少ない。ここ数日は雨も無く、基本的に兵らは地面へ布を敷いて寝ていた。雨が降れば、区画に支柱を建て布を張り、その下で雨露をしのぐ形だ。
さて、一刀と姜維が最後に探すのは陣内での理不尽な存在。捕まり、ただイ(生)かされている選択の余地はない者……達――。
朝を迎え、夜の役目を終えた者達らは、小さな天幕に存在していた。中には十余名。
――姜維の母は居なかった。
しかし、その酷い状況に『小さな悪鬼』が目覚める。
「主様……すみません……すみません」
「いや――やってくれ」
荒事は避けたいが、殺された同胞の、虐げられる同胞の、そして母への思いが爆発していく彼女は止まらない。
――十分程後、「火事だぁ」という声と共に異民族軍陣中の小さな天幕で火災が起きていた。ここで見つけ荷物と称して姜維が運んでいた油を撒かれての大炎上である。
敵襲とは判断されず、注目はそちらにだけ向いていた。
天幕には十体余の遺体。
もちろん周囲に歩哨していた異民族兵と、天幕の中に居た仲間ら全員の服まで剥がして――その装備等を活用する。
騒ぎに紛れて、異民族兵の服を着た一団と一刀らは敵陣を離れた。枷は一刀の手引きで来た馬超がその剛力でメキメキとすべて引き千切っていた。
その後、一刀らの野営地へ天水の同胞達を連れ戻ると馬岱が一走りし、四時間程後に十騎程の兵と馬車が来る。それは助けた一団を乗せて静かに去っていった。馬家の配下の者達だろう。
別れ際、助け出された者達は、一刀らへ感謝を述べていた。
見送る一刀へ、横に立つ馬超が静かに尋ねて来る。
「『御遣い』様。……これって、明日以降もやるつもりなのか?」
偵察任務には、当然有り得ない行動だ。指摘されるには十分な事項。
明朝は千百人の駐留する敵陣営を探る予定である。
色々と手を貸して貰った以上、一刀も考えを伝えるのが礼儀だ。
「はい。そのために俺と伯約は、ここまで来ていますから」
「ふっ、そうか。変わっているなぁ。――だが、そう言うのは嫌いじゃないぜ」
今昔問わず、同胞を助けるのは一つの正義である。馬超はそう言うと、数騎残る配下の騎兵の傍へ寄り指示を出していた。
そして明朝を、一行は少し小雨の降る中で迎える。
一刀達は昨日の昼間に野営地を、千百ほどの異民族軍敵陣傍へと移していた。それも大きく回り込んだ陣の西側約三キロ、隴西郡側へと。
昨日同様、一刀と姜維に馬超が敵陣へと迫る。一つ違うのは、馬超も異民族の兵装を着ていることだ。やる気満々である。
まずは兵数や軍馬など敵陣状況の確認。
次に、昨日の火災が敵襲として警戒されていないかと言う点だ。油を使ったため、放火なのはすぐに露見するだろうから。
時間が有れば、ひと月後とか猶予を持たせるところだが、そんな暇はない。
余裕の無い焦りは、リスクを生んでいく状況ではある。
それでも、小雨の音に紛れ進むのみ。
馬超は槍を持つため、一刀らのように道具を運ぶ振りはせず護衛のように後方へ付いている。そしてその目線が、これまでに見たことが無い様な戦場の鋭さであった。
『錦馬超』の名は伊達では無い。彼女の視界は三百度にも迫り、周囲の僅かな動きも見逃さない。
幸いなのか、今の所警戒はそれほどではないように思う。
ここで一刀は、警備の男性兵へ荷物の置き場を尋ねつつ探りを入れる。
「どうだい? 暇なんじゃないか?」
一刀は気が付いていた。――不思議な事に自分が言葉で不自由していないことに。それは、方言や地域別の言葉にも有効であった。
すなわち、異民族の者達に言葉で怪しまれることはない。
「そんな訳あるかよ、おい。昨日もう一つの陣での不審な火災で、警戒しろって通達を知らないのか?」
「そうだった、悪かったな。向こうでこれを置いて来る様に言われたんだけど、場所を知らないか?」
「ん? ああ、それなら、あっちだぞ。少しそこを進んで左だ。それと、逆の向こうは厳重だから余り近付かない方がいいぞ」
「感謝する、そうするよ」
そう言って手の荷を振って言われた方へと一刀達は進んで行った。
……どうやら、警戒されているらしい。
さり気なく見れば、警戒してると言われた方向には、天幕が不自然に多い事に気付く。
「主様、中へ兵を伏せられてますね」
「みたいだな」
外から見て回った状況では歩哨の比率は、昨日の陣と変わらないように見えていた。しかしやはり、昨日の今日では不測の事態に備えたようだ。
不審事があれば数日警戒するのはセオリーである。
この周辺は、現在、異民族軍の勢力圏であり、敵が長居出来ない事を見越しての対応なのかもしれない。
「主様、警戒域へこのまま三人での接近は難しいと思います。ここは私がまず確認だけして来ます」
姜維の感情が抑えきれるかは――甚だ信用できないが、身軽な彼女しか調べようがないだろう。
「分かった。……無茶はするな」
「伯約殿、一人じゃないぜ」
「はい」
姜維は二人へ頷くと、身軽な身体を弾ませるように離れていく。
するとそれを見送った馬超が、とんでもない事を口走っていた。
「さてと、こちらもぼちぼち本格的な武者修行を始めようぜ」
「えっ? えぇっ!? (一人じゃないって暴れるのがって意味?!)」
そうして馬超は先程見つけた馬止めに繋がれ、水や草をのんびり頂いている馬へと近付いて行った。
姜維は遂に陣内の一角で、隣接する二つの大きめな天幕に理不尽に囚われた者達を見つける。三十名程だ。そこにも母の姿は無かった。
そして……昨日の者達よりも過酷であった。昼、夜など関係ない有様に感情が爆発しそうになる。しかし、天幕周辺の警備は堅く、更に逃げ出すなら焼き殺す様に天幕の一部へ油を塗り、火計の準備までされていた。姜維は主の言葉を必死に反芻して一瞬毎に怒りを耐える。
だが、このままでは事態は変わらず、強行するしか手が無いとの思いに収束する。幸い小雨で多少の音は無効化されると共に、湿った天幕への着火には影響があるだろう。
そんな時だ。
早朝の陣内全てへ響くような、見知った綺麗な凛々しい巨声が、姜維の耳へと聞こえて来る。
「あたしと勝負してみる者はいないかぁーー!」
敵陣内、ど真ん中の広場である。
馬超は馬に跨り、愛槍を手に一騎でそう叫んでいた。
なんだ、なんだと周囲から兵らが集まり始める。姜維のいる天幕の中の裸の兵らも、起こった異様な事態に慌てて服を着ると幕外へ飛び出して行った。そして――伏せられていた兵達もその広場を包囲するように、目眩まし的ないくつかの別天幕から動き始める。
姜維は、人気が減ったこの隙にとまず周囲の火の元を処分し、残っている周辺に立つ警備の兵を先に切り倒していった。そして、天幕内へと入り、顕親県から助けに来たと告げ助け始める。
しかし一点、非常に困った事態が起こる。
「くっ……か、硬い……よいしょ、よいしょっ」
それは、捕虜らの枷の金具であった。
そのままだと、姜維の腕力でも外せない事はないが、時間が掛かってしまうようであった。ようやく三つめを壊す。
昨日は、これをいとも簡単に木枠ごと次々と引き千切っていた、馬超の怪力の凄さが分かる。
姜維は焦っていた。少し見通しが甘かったと。周りの者達も小柄な少女の精一杯の状況に「間に合わない時には私達に救いの止めを」と言い始めていた。
そこに一刀も現れる。彼は昨日の状況から、背中一杯に備品倉庫から服や布を調達して来ていた。
「あぁ、主様……すみません、すみません……見通しが甘くて、か、金具が……」
姜維は少し震え、悲しく泣きそうであった。
しかし、ここで一刀が頭を撫でてやり、優しく声を掛ける。
「大丈夫だ、伯約、一人じゃない。悲しむのはまだ早いぞっ」
「えっ?」
一刀は、周りへ立ちすくむ人達へ背を向けつつ声を掛けた。
「あの、俺が持って来た服を着て欲しい。その後、一列に並んでじっと立っていてください。くれぐれも動かないように」
この者達には、逃げてもすぐ分かるように服を着せていないのだ。少年の言葉に皆が急ぎ従う。
彼は倉庫から服と一緒に持って来た剣を抜き放ち構える。
「これから俺が一人ずつ――金具を切断します! はぁっーー、――斬鉄!」
一刀は魅せた。
これまで何万回も刀を振ってきた。
素早く力強く刀身を引いて、滑らかに擦り引き切る技、剣技『斬鉄』を連発したのだ。
人を切るためではなく、純粋にただ助ける為に。
この技は不十分だと刀身にもダメージがいくので、愛用している直刀では多用したくなかったが倉庫で剣を見つけてまずこいつを使う事にした。
剣が双刃や握る感じも違うので、技が今一不十分であったが、一撃で少なくとも金具の半分は断てていた。
「あ、主様……助かりました。こんな技を身に付けてるなんて」
大陸の剣技は基本突き技。でも、これでは頑丈な金具に当てると大抵は剣が砕けるのだ。
引き切る技もあるが、剣同士や固い防具へぶつかる場合、基本『折れる』形だ。
鉄を剣で切るという高等技は余り類が無い。
そのあと、姜維の腕力で破断しかけの金具を次々と引き千切ってもらう。
そうして全員の準備が整うと、姜維が先導して敵陣から脱出していった。
さて、陣内の注目を一身に集める馬超の方だが、すでに四十名以上が一騎打ちに臨んだにも関わらず、当然誰一人相手にならない。
彼女からは呼吸の乱れで無く、単に吐息が漏れる程に。
「ふん。もういないのか? 居なければ婿探しは終わりだな」
馬超は少し悪乗り気味にそう叫ぶ。
幸い異民族の兵装を身に着けていた事と、単騎であり攻撃も刃先を使わず柄部分での打撲に終始したので、今の所余興の様相を呈している。
しかし、彼女の兵装がいささか小さかったことで、胸もお尻も大きく強調され、西涼一の美人とも言われる馬超の姿は、短い裾から覗くムチムチな太腿等、かなり扇情的になっていた……。
そのため、冒頭部では彼女へ雑兵の男兵らが勝って嫁にしてやると、競って息巻き群がっていた。
一刀と出会っていなければ、その男らからの好意に少しはときめいたかもしれないが、もはや興味の無い相手らへの手合わせは情け無用である。
その中には、百人隊長ら八人と軍団指揮官の千人隊長麻吾(まご)までも挑んだが、いずれも肩を見事な一撃で打ち据えられ落馬していた。
槍を持ったそんな神秘で魅力的な女騎馬兵は、広場の端に一刀の合図を確認すると「また会おうぞ」と言って、悠々と馬を駆って走り去って行く。一刀らとは、とりあえず逆方向の冀(キ)方面へと。
その彼女を止める者は誰もいなかった……。
だが、彼女が去った後、事態は急変する。
警備の者らが多数斬殺され、捕虜の者達が全員連れ去られていたのである。
先程の女騎馬兵を初め、昨日別の我が陣営を荒らしたのと同じ者らであろうと、指揮官の麻吾を中心に異民族兵達の周辺捜索が始まっていく。
一刀達は、野営地へ帰着すると、すでに呼び寄せられていた馬家配下の馬車に、開放した者達を乗せて直ぐ、護衛の騎馬らとこの地を北方へ向けて離れさせた。
今回は敵へ完全に潜入する者の存在を認識されてしまっただろう。一刀達は追跡を受けるかもしれない状況である。
しかしこれで天水内の敵部隊への調査は終了した。ほどなく当初東へ向かい大きく迂回して来た馬超も合流し、五人はすぐに追手を無駄足させ撒くが如くこの地を出立する。
そして間もなく、天水郡の西にある隴西郡へと入って行った。
隴西郡は、女性太守李相如(りそうじょ)が治める地である。
北に金城郡、南に武都郡、そして東に天水郡と接する。
すでに七ヶ月以上前になるが、異民族軍の襲来で真っ先に攻撃を受けた地域だ。
だが、天水と状況が異なるのは、郡内中央部にあるその治所狄道(テキドウ)以西半分程は全く被害を受けていないらしい。
天水では西側に治所の冀があり、東側の奥へは進攻しにくいのだが、それでも兵三百程ないくつかの集団によって、東側でも少なくない村が襲われている。つまり全域が攻撃対象であった。
羌でも西奥の地の西羌が、態々襲来して近場の隴西郡でそう振る舞う理由は少ない。
隴西より天水が優先すべき目的地という可能性はある。ひとつは、より重要地の漢中や長安に近いからだ。
しかし、それにしては要所の冀は手付かずで、兵力五千も流石に少ない。
ということは狩場の広さであろう。天水は隴西より倍以上人口が多い。つまり略奪出来る範囲が広い。そして豪族が少ない点だ。
対して、隴西は豪族が多く兵力も多い。
異民族軍側は損耗を考え、隴西郡では戦わない内約が有効と判断したのだろう。
「それを太守や豪族らが認めたなら、それは――中央への造反です」
そんな話を隴西郡内を進む道中で、前に座る姜維が話してくれた。
時々、主がしっかり掴まってくれているのかをコッソリ確認するように、彼女はその小さな背中を一刀のお腹へと可愛くスリスリして来る。
今、一刀らは再び馬で、豲道から西へ三十五キロ程の位置にある、隴西郡襄武(ジョウブ)県を目指している。
昨日になるがあの後、敵陣から西へ遠ざかり十キロほど移動した山間の沢近くで野宿した。冀から西へと街道は避けつつ、これで六十キロ以上進んで来たわけだが、途中で通過した村や街に生きた人の姿を見ることは無かった。見かけたのは多くの遺体のみ。
野営地は、郡境を越えて数キロ隴西側へ入ったところであった。また東へ逃亡したと思わせる為、翌朝に一刀らは動かず留まる。
一方で昨夜は七時間ほど掛かけて、馬岱が顕親まで往復してくれていた。二日ぶりだが街の状況や準備の進行は、特に変わらない様子と伝えてくれる。屋敷の楊達らも息災とのことだ。
『お兄さま~、雪梅ちゃんが物欲しそうな表情をしていたよぉ~?』
『えぇっ?!』
そんな、からかいの言葉まで貰ってきていた……。
さて、この隴西での異民族軍の配置についてである。
草からの報告で敵は、天水郡内の主力の一つ、千人隊長呼伊(こい)の一団を失った事を受け、隴西郡内に散っていた戦力を天水郡との境へと集め始めていた。
しかしまだ、天水郡内の陣地も健在であり、この地の兵数二、三百の小規模な兵団はそのまま再編されずであった。郡内の最大兵力は今向かっている襄武県の街道脇に駐留する千五百の兵団だ。
他六つの小規模な兵団が、更に襄武の南西側二十五キロの鄣(ショウ)県の街へ至るまでの街道沿いに点在している。
その七か所が一刀達の調査対象だ。鄣から西へ五十キロ程行けば羌国国境に到達する。
また姜維は、母の
それによると、天水郡で切られて捕まった姜冏は彼女らに手当をされ回復すると、異民族軍五千人隊長の陣と共に隴西郡側へと移動していったという。
夜の務めを強いられる、かの者らは現地調達が基本の中、姜冏は気に入られたのだろう。
ただ五ヶ月近くは前の事で、それ以後については分からなかった。
「これだけ助けられたんだ。きっと大丈夫さ」
「はい、主様……」
姜維は、背中を主にしっかり包まれつつも、母の件についてはどこか少し元気の無い様子で馬を走らせていた。
一刀達一行は、昼半ばには襄武の街跡へと近付いていく。
そうして異民族軍千五百の駐留する敵陣から北へ三キロ程の森の中に野営地を設置した。次に、この地での行動について話し合う。
「今夜は夜間に予備調査を行なうことにしよう」
一刀は皆へそう告げた。
偵察に行くたびに解放作戦をしている現状。その作戦の為の調査というわけだ。
郡が変われば事情は変わる。
一つは同胞意識だ。漢の同胞ではあるが、助けた後に隴西の者達をどうするか、先に考えなくてはならない。天水に連れていくのかという話だ。
また、隴西郡に一刀と姜維は伝手がない。
馬家はというと――更に状況が悪い。
「実は、あたしらは隴西郡内の豪族らとは不仲なんだよな。その筆頭は韓家で以前、母らと争ったことがあるんだ。韓遂文約ってのとだ。なので、悪いがこの地での協力を充てには出来ない。基本、馬家の配下だけでこっそりやるしかないな」
「ちなみに、天水にはいくつか豪族の伝手があるよ~♪」
「後はまあ、付き合いのある商家を頼る手もあるけど、豪族らの手回し次第では怪しいな。完全に信用は出来ないぜ」
「そうか……じゃあ、あちこちに手を借りない方がいいな」
「私もそう思います」
なので、まず助ける人数の把握をすべきとの結論に達した。その上で、行く当てのない者は天水へ送ることにし、伝手の有る者は郡の西側の街外れで開放する事に決める。
こういう話の時、鈴花は脇で黙っていた。
「じゃあね、たんぽぽも調べに行ってくるよ~♪」
「えっと、いいのかな?」
「これも武者修行の一環かな」
馬岱の言葉に、馬超も「まぁ、そう言うことだ」と頷く。
おそらくこの五人の中で一番の適任者ではある。
「……じゃあ悪いけど、手伝って欲しい。あと、伯約も」
「はい、もちろんです。でも、主様は残ってください」
「えっ? でも言い出したのは俺だしなぁ」
「夜間ですし、その方が早いと思います」
「うん、お兄さま。私達におまかせっ♪」
確かに、一刀が居ない二人の方が身軽に思える。
姜維も先日、予想外の目論見の甘さで、感情だけでは痛い目に遭いかけたことで自制できるだろう。
結局地図を広げた事前の打ち合わせで一刀は馬超らと残留し、襄武県寄りの三つを姜維、機動力のある馬岱に遠方の四つを任せた。
そののち、姜維は朝からの休憩時に加え、ここでも遅めの昼寝を取り始める。
二時間程が過ぎ、皆で早めの夕餉を取ると、日が沈む前に姜維ら二人は行動に移った。軍師らは異民族軍の兵装に着替えていた。
「仮に普段の漢風な私達の姿を陣内で見た時、彼らは何を思うでしょうか」
「見せたくなるね~」
隴西郡内の豪族の一党かとも考え、疑心暗鬼になるのではないだろうかと。
「あと、ついでだから、野営地の場所を配下の騎兵にも知らせて来るね~♪」
そう言って、馬岱らは間もなく野営地を馬に乗り出ていく。
残った一刀達は火の番をしていた。馬超がそろそろと言うべき疑問を尋ねて来る。
「ところで、そいつは何時まで連れ回すんだ?」
「ああ、呼君か? 一応、国境近くまでは送ってやるつもりだけど。一人旅は何かと物騒だからなぁ」
「ふ~ん。まあ、あたしらは構わないけどな」
「……」
二人から少し離れた所で火に当たる鈴花は、一刀の優しい気遣いに少し複雑な表情をしていた。その優しい人物に二度も助けられた命だ。今は、父らの代わりに生き抜く為、何としても西羌の
「君の村の飢餓は、どれほどなんだ?」
一刀は、将来の貿易規模の参考にと尋ねる。だが内容は結構な軍事関連要綱でもある。
西羌の地は、山岳地に点在する砂漠や湖の傍に邑が点在している。呼一族はその中でも大きめな勢力だ。凄く広大な地域に数万の民を有していると言う。
「ここ二年程、天災に加え天候も思わしくないんだ。他の地域でも広く続いているみたいで皆困っている。今は父の権限で不足分へ兵糧の蓄えを使い、皆も食べる量を減らして凌いでいるが、あと何年もとはいかないと思う。生産量に対して結構足りない逼迫した状況なんだ」
鈴花はまだ若輩で、詳しい数値的な情報は知らないようだが、それでも非常事態だと分かる状況になっているみたいだ。
活路を外に求めるのは間違いではないが、やり方が問題である。しかしこの時代に於いて『力で奪う』は全うな考えの一つだ。何万人もの民が座して死を待つなら他と連合するのも自然の流れと思われる。
一刀としては、そんな規模の兵糧を用意出来るのかという思いもあるが、何事もやってみないと分からない。
「孟起殿、西涼方面も飢餓なのか?」
金城郡周辺も同じ大陸の西部地域だ。教えてくれるかダメ元で聞いて見る。
「いや、ここ数年の収穫量は悪くないぞ。まあ、羌国のような山岳域だと五十里も離れれば状況は全然変わってくるからなぁ」
農業に於いて天候や気温は正に運任せ。それに文句をいっても始まらない。しかし、この差は大きな貧富を生むのだ。
一刀はどうにも出来ない今に複雑の心境であった。
虫が鳴き始める周りの音に隠れる様に、月明かりの元、姜維が担当する三つの拠点の最後の場所へと慎重に潜入する。
そこは進攻する異民族軍で最大の兵千五百の駐留地である。
他の二ヵ所には予想通り母の姿は無かった。だが、それぞれの兵団にはやはり天幕一つへと理不尽に押し込められた者らが各数名ほど存在していた。確認が終わると姜維は後ろ髪を引かれるように陣を後にして来た。この怒りは助け出す時の為にと。
また、どの陣も兵達に病等はなく、士気は悪くない状況だ。一応、兵団指揮官の統率力は侮らない方がいいだろう。また特殊な備えについても確認されなかった。
攻めるに際しての大きな問題は無いと再認識する。
最大の駐留地の兵らも主に地面へ布を敷いての寝泊りで、調べる天幕は限られていた。
結果、この陣地には五十名近くの囚われた者らを確認する。おまけに場所が離れた三か所に分散されていた。更に本国からの娼婦も来ているらしい。
救出するのはかなりの難易度である。
しかしそれよりも――五十名の中に何故か姜維の母の姿はなかった。
姜維は、再度必死に確認し直したがやはり母は見当たらない。少女は危険を承知で、兵の振りをしつつ囚われた者数人へ、五千人隊長と共に天水から来た姜氏を名乗る者について知らないかと尋ねた。現時点で、救出するとは伝えられないのだ。
すると衝撃の言葉が返って来る。
「あの、この陣に――五千人隊長は居ないわよ……ここに居る軍団指揮官は千人隊長の頭斜(とうしゃ)だけ」
「え?!」
母を攫った五千人隊長は、そして母は一体何処へ行ったのかと、姜維の頭は一瞬白くなり掛ける。だが、言葉は続いていた。
「五千人隊長の冒曼(ぼくまん)なら、鄣県寄りなどこかの陣に居るはずでしょ」
つまり、馬岱が調べている四つの駐留地のどこかだと言うのだ。
姜維は逸る気持ちを抑えて、かの者らへの会話を切ると天幕を後にする。駐留地からの去り際に炎のような決意の視線で、百人隊長以上と思われる指揮官らの顔や姿を記憶するのを忘れない。
(全員、生かして国には帰さない―――)
何時しか、少女兵の姿はこの陣から消える様にいなくなっていた。
姜維は呼吸を乱す程、急いで野営地へ戻って来た。しかし、馬岱が未帰還な事を視覚で確認すると「戻りました」と小さく皆へ伝える。そのまま主の傍にしゃがみ込んで目を瞑り、きゅっと彼の胸へ抱き付いて来た。顔をスリスリして来る。泣いているのかもしれない。
それだけで、何か有ったことは皆に伝わった。
一刀は今は何も聞かず、ただ優しく姜維の後頭部の辺りを撫でてあげた。
話を聞くのは馬岱が帰って来てからでもいいだろうと。
しかし、主に癒され落ち着いたのか、彼女は一刀から離れ顔を上げると難題な状況を話し始める。
各敵陣地での目標天幕の場所や中の人数。そして敵最大の駐留地に於いては、目標天幕が陣内で三か所に分散された上、五十名もの数な状況の説明。
だが、どこから救出するのか。そしてどうやって行うかについては、馬岱の帰着を待つことにする。
姜維に遅れる事一時間半程。日付を越える前に、静かに馬岱が戻って来た。
「みんな、たっだいまー。帰って来たよ~♪」
相変わらず元気な彼女は、一刀から差し出された竹の水筒を開け、それを飲み干すと状況を伝えた。
「五千人隊長を見つけたんだけど。――一番遠い所に」
つまり異民族軍は現在、本国に一番近い位置の駐留地に本陣を置いているという事であった。
「それも、街道じゃなく鄣県の城に移ってたよ」
「えっ?! 門とか施設はどんな感じ? 壊れたりしていなかった?」
「城壁に門や倉庫はしっかり直されていたよ~。恐らく十分兵糧も準備されてるんだと思うけど。その辺りは警備も厳重にされてたし~」
鄣県の城は、進攻初期に攻め落とされていたとの情報はあった。確かにそれから随分と期間は過ぎている。手直しを進めていたのかもしれない。不測の事態には、本国からの増援をそこに籠城して待てるように。
攻め落とされ、すでに無人であった街や城の情報までを、さずがに草も細かく伝えてきていなかった。
「……敵の将、侮れませんね。本国への距離があれば、僅かな苦戦も後がないと恐怖を生むのです。それは敵を弱くしてくれます。しかし、逃げ込む場所があるのなら、少し踏ん張ろうという気概も生まれます。先を見越しての布石と兵への心理効果をしっかり考えている」
姜維は静かに敵の備えへの考えを指摘した。
そして同胞を殺し尽くし、父を殺し、母を連れ去った憎むべき相手の指揮官を、彼女は確認する。
「その将の名が、冒曼(ぼくまん)というのですね」
「あれ、伯約ちゃん? よく知ってるね」
「仲華殿――その、お願いした人物はどこに……居ましたか……?」
姜維は僅かに震えた声で、そう馬岱へ問うた。
出発時に馬岱を呼び止めていたのだ。そして、ある人物の容姿の特徴を伝えていた。
決定的な問い掛けに気付き、話を伺う一刀も緊張する。
馬岱は答える。
「……ほぼすべての場所を確認してきたよ。天幕に囚われていた人達も結構いたけど、でも『その人』は見つけられなかった。ごめんね……」
「………」
姜維は馬岱を見つめていた。そして目を数度瞬きする。やがて視線を足元へと落として行った。
だがそこで、馬岱が最後の希望を口にする。
「――城の地下牢だけは、周囲に警備が多い上に入口が一か所しかなくて今日の時点では入れなかったから。もしかするとそこに……いるのかも」
姜維は静かに顔を上げる。そして皆へ告げた。
「では、作戦をお話します」
つづく