暗い場所だった
明かりはなく、人は誰一人としていない 彼を除いて、猫の子一匹いやしない
そう、彼を除いて
そこは東京の駅だった
地下鉄のホームだった
だが、電車が通る気配はない
そこは存在するはずのない、利用されていない地下鉄ホームであるのだ
何故こんなところがあるのか、何故ここにいるのか、何故ここに来れたのか
様々な《何故》が彼の周りを回っていた
その疑問は、目の前の物体の前に立ったことで雲散霧消してしまう
それは、縦に引き伸ばした菱形のような石だった
赤茶色なのだが、何故か所々生き物のような筋のようなものが不自然に浮かんでいる
その大きさは最早岩とすら形容できる
が、彼はそれを石と認識していた
その石に呼ばれたのだ
その石の声を受け取り、彼は無意識にここへと足を踏み入れていた
その石に触れるために、一歩一歩と歩いて近づく
やがて、目と鼻の先まで来ていた
普通の人間であれば、これより前の時点でこの状況を不審に思い、引き返すなりするだろう
彼はそうしなかった
夢のような心地だったからだ
あるいは、危険な薬物を吸い込んだ酩酊感と共に来る幻覚と同じようなものか
いずれにせよ、判断力も認識力も奪われていたのは言うまでもない
もう、彼自身にもその行動を止めることはできないのだ
そして片手を伸ばす
なんの変哲もない、普通の石のようなややごつごつとした感触
無機物であるからか、この場所の性質か、やや冷たく感じる
筋のような部分も、触れてみれば彫刻の飾りと同じように石の感じがしていた
触れてみて、目的を達成
満足感もないまま、彼が手を石から離そうとした
その刹那
彼は石に引っ張られていた
石に付けた手が、石から離れようとしないのだ
むしろ、石に腕が飲み込まれていく
引きずり込まれていってしまう
彼の意識はここに来て目を覚ましたように再起動した
足を踏ん張り、飲み込まれていない方の手で飲み込まれていく手を引っ張ったりする
ここで奇妙なことが起こった
引きずり込まれる手が、徐々に徐々に形を変えていく 甲殻類に良く似ていて、それでいて人間の前腕のような形状へと、形を変えていっているのだ
それはもう人間の腕とは言えない 異形だ
やがて、爪先もその形へと変貌していた 踏ん張っているうちに足が石に接触していた
靴もジーンズも関係ない 異形の足へと変わる
その変化はじわじわと体に広がっていく 変化が広がる間も、石は彼を内部へと引き寄せる
刺々しく変わっていく自らの体 触れた瞬間触った者をまるで食わんとするかのように引きずり込む石
やがて、額が石と接触した
その変化は一瞬だった 彼の頭部が昆虫のような不気味なものへと変貌した
変化が終わったあと、彼は意識を失った
なされるがまま、石の中へと吸い込まれていった
石は完全に彼を飲み尽くした
体の隅まで異形となった彼を
そして、全てが終わったあと、そこにはその石以外の物は無くなっていた
暗い場所だった