幻 作:とうたく
それから暫くが過ぎた。俺は普通に仕事に行って普通に休日をのんびりと過ごし、特に不幸な事もなく暮らしていた。
あれから悪魔は俺の目の前に現れていない。テーブルの上に置いてあった契約書から前の体験は夢ではなかった事は伺えるが、何故二度目の訪問をしないのだろうか。
……いや、恐らく俺に不幸な事が起こらないからなのだろうが、しかしそれでも俺は悪魔が来るのを今か今かと待ちわびていた。それは、この前聞いた自殺未遂の人がどうなったかを知りたいからである。
あのあと、結局場所も分からないので助けに行く事もできず、俺はもしかすると見殺しにしてしまったのではないかと不安に思っていた。俺が助けなかったせいで死なれては目覚めが悪い。
そんな風に心配しながら毎日を過ごしていたのだが、ある日また悪魔が訪れる日が来た。
「失礼致します」俺が鍵を開けてやると礼儀正しく礼をして中に入る。しかし、今日は少し焦っているようであった。
「少し厄介なことになりました」
悪魔はまずそう言った。
「実はこの前のトラックを回避した事により、貴方様の身の回りの運命が大きく変異致しました。それにより暫くはわたくしの予言本が使えなかった為に、少し間があいた訳でございます」
「……運命が変わったって?」
「はい。本来トラックが原因で立て続けに起こった不幸でしたので、根本を変えたことにより今までとはほとんど別の運命となりました」
なるほど、と俺は納得した。確かにあれほどの不幸を回避したのなら運命の一つや二つ変わってもおかしくはない。
「それで……その予言本とやらが使えなかったってのは?」
「はい。運命を変えると本の内容も変わります。その更新に多少の時間がかかりその間は本を開くことが出来ないのです。しかし、こうも長かった試しはありません。恐らくですが、貴方様の運命はわたくしの想像を遥かに超えるほどに変わっております」
悪魔は自らの予言本を撫でながら言った。辞書ほど厚いそれは古臭く焦げた色をしており、パッと見だとそれ程貴重な本には見えない。
「……運命が大きく変わったってことか。それって良い方に?」
「いえ、前と比べると怪我をしなかっただけマシになった程度です」
「それって殆ど変わってないじゃないか。前の運命と何が違うんだ?」
「それは後でご説明致します。それより、早急にお伝えしなければならないのですが、たった今より不幸がやってきます」
「今から?! なにが起こるんだ?」
早口に説明する悪魔の様子からいって、どうも、あまり良くない事態なのは想定できた。トラックが突っ込むことを分かっていてなお平然としていた悪魔がこうも焦るとは、ただ事ではあるまい。
「前に話題に出しました、自殺未遂をした者です。その方がこちらに来ます」
「……自殺未遂者? 前言ってた人か? そういえば、あの後どうなったんだ?」
「当初の運命通りその方は高さが足りずに自殺に失敗致しました。その日から入院していらっしゃったのですが、今日退院されたようで」
「ああそうなんだ、それは良かった」
「はい。ですが、退院された後こちらに向かっているようなのです」
「……ん? なんで?」
「分かりかねます」
俺は一瞬聞き流しそうになったが、数秒たって疑問が浮かんだ。
……こちらに向かっている?
「え、何でこっちに来てるの? どういうこと?」
「わたくしも分からなかったのですが、恐らく前の運命を半ば強引に変えたことにより過程が大きく変わってしまったのだと思います」
悪魔は予言本をパラパラとめくりながら言った。数分前の彼とは違って、冷静さが戻っている。
「貴方様とあの方が出会うのはもしかすると、変えられない運命なのかもしれません。あの方はわたくしにもわからないのですが、何故か貴方様の顔も名前も知っておられます。それは前の運命線の名残か何かかと……」
「名残って……。でも、俺は前の運命とは違ってその自殺未遂の人とは会ってもいないじゃないか。現実的に俺の事を知るのは不可能だろ」
「それ程不幸が凶悪なものだということです。それに、今までにそのような実例もありました」
「そんな事ってあるのか? 会ってもいないのに覚えているなんてこと」
「運命を変えるには代償があります。元の運命の影響を結局は受けてしまうこともあるようです。ですが、普通は会うはずだった人の顔や名前がぼんやりと浮かぶ程度なのです。今回のこれは、余程運命が濃いものなのだという事だと思います」
「そんな事ってあるのか……」
「はい。それで、その方が今からお見えになられますので、決して刺激なさらないようにお願い致します」
「どういうこと?」
「その方が不幸の元凶です。場合によっては死に至ることもあります」
「ええ! 死に至る?! なんとかしてくれよ!」
「いえ、どこまで逃げようとも出会う運命は変えられないようですので、わたくしにはどうしようもありません」
「でも死んでしまうんだろ?!」
「死ぬ可能性があるというだけです。滅多なことをしなければ大丈夫です」
「大丈夫なのか……? そうだ、お前が前にやっていた、記憶を消すのは出来ないのか?」
「申し訳ありませんが、証拠を消す時以外にそれを使用することは禁止されております」
「そんな……」
「ですが、今日貴方様の死亡する確率は一パーセントにも満たない程度です。ですから安心なさって下さい。確かに不幸の元凶ではありますが、半年間回避し続ければ消えてなくなるものと推測されます」
俺は無意識にカレンダーを見た。半年間と軽く言うが、前回のような事が立て続けに起こるようでは一ヶ月も持つか不安である。
「半年間って……。回避はできるんだろうな?」
「筋道をたてていたので報告するのが遅くなりましたが、回避は十分可能です」
「分かったよ。でも、その人が来るもっと前に来てくれれば回避できたんじゃないか?」
「申し訳ありませんが、予言本が更新中でしたのでまだ運命がわかりませんでした。それに、先程も言いましたが、この不幸が理由で今日死ぬことはほぼありません。直結した死に関わる出来事さえ回避すれば事足りますので、無理に回避する必要はないのです。仮に回避するにしても引っ越すくらいしか方法はないですし」
「……んなこといったって。って事は必然的に、俺はその不幸の元凶を避けられないから、会うしかないってことだよな?」
「はい。ですが、半年の辛抱ですよ。要するに死ななければ良いのですから、方法はいくらでもあります」
どうもこの悪魔は便利な能力を持ちながらも、最低限しか使ってはくれないようであった。そこが悪魔たる所以なのかどうかは知らないが……。天使がもしいたとしたらどのようにして俺の不幸を回避してくれたのだろうか。
悪魔は時計を見て、もうそろそろ時間ですと言った。今日死なないにしても、やはり俺の中で不安が残る。
「では、わたくしは姿を見られぬように退避しますが、くれぐれも『彼女』を刺激なさらないように注意してください。運命が突然変わっても責任は取れませんからね。それでは、失礼致します」
そんな、俺の心を揺さぶるような事を言ったあとに、相変わらず礼儀正しく悪魔は玄関から出ていった。