ヱヴァンゲリヲンFIS-もしシンジがイノベイターなら- 作:るーしー
思い掛けずに電車が途中駅で運行停止してしまい、少年はやむなく降車した。目的地たる終点までは二駅と云った処、場所がちょっとした田舎なだけに、徒歩では結構な距離になる。
特別非常事態宣言なるものが発令された理由など、少年には知る由もないが、少なく見積もっても鉄道の再運行まで数時間は必要だろう。
駅施設の立派さに反してこぢんまりとしたターミナルには、やはり1台のバスも見当たらない。その事に軽く嘆息すると、ショルダーバッグから1枚のカードを取り出した。
NERV
Guest:Shinji Ikari
と
シンジはカードをしまうと、ゆっくりと歩き出した。
長時間電車に揺られていた閉塞感は、そよ風も吹かない無風状態に蒸れた黒髪も手伝って維持されており、シンジの黒眸は曇ったままだ。
「それに……嫌な予感がする」
車内での非常放送を聞き、減速する車両から、車外に意識を向けた時の
ゴーストタウンの様な無人の街、殺伐とした空気を形成する無数の負の感情。どちらかだけであったなら、彼個人の能力でも対処出来る範疇であっただろう。
2~3時間前から、なぜか第六感の調子が悪い。その『電波状態』の悪さを計算に入れると、おそらく数百~数千人規模の悪意が渦巻いている。
それらが自分に向けられるモノでない以上、一々気にするような事でもない――そんな感性はここ数年ですっかり磨り減っている。スレてしまった自分が虚しいが、嘆いても仕方ない――が、その数が問題だ。
避難あるいは退去させられたと思わしき街の住人達、指向性を含んだ敵意や害意。それらから想定される危険度は、やろうと思えば銃器で武装したヤクザの集団を素手で制圧できるシンジをして、裸足で逃げ出したくなる程だ。
不意に、誰かに呼ばれたような気がしてシンジは振り向いたが、そこには誰も居ない。静止した町並みがあるだけだ。しかし、彼には“彼女”が見えていた。
『白い少女』
それが、シンジが得た印象だった。
彼が感じたものは、無意識における無感情の発露、一切の意図を持たない叫び、言うなれば灯台の光や星の瞬きと酷似している。ただ「私はここにいる」と発信するだけの機能。それは無機質な印象を受けかねないが、シンジは「とても純粋かつ人間的」と感想をもった。
この『電波』の発信者を少女と評したのは感性的な面が強いが、強ち間違ってもいないだろう。
逢ってみたい。彼は生まれて初めて、こんな事を思う。
この人に逢ってみたい。
貴女に逢いたい。
「君は……」
ターボジェットエンジンの爆音にその言葉は遮られた。空を仰ぐと、戦略自衛隊が運用する重攻撃機の編隊が、パイロットの険呑な意思を撒き散らしながら飛翔していた。
半ば確信していたとは云え、信じたくない思いはあった。15年前の爪痕は未だ癒えきっておらず、世界一平和と謳われたこの国でも、治安の悪いスラムじみた場所が生まれている。
でも、まさか……。
「戦争……」
実際に戦いに赴く軍隊という、動かぬ証拠を突き付けられたショックは大きい。
その衝撃にシンジは失念していた。一般に戦争と云うものは、相手がいてこそ初めて成り立つ行為だと言うことを。
山間からのっそりと姿を見せた巨体、眩暈を覚えるような非現実さは、戦争という現実から半ば逃避していたシンジを逆に現実に連れ戻した。
50メートルは下らないであろう巨躯、ずんぐりした首無しの人型、胴体の割に細い四肢には3本の指が付いている。既存の生物から明らかに逸脱した怪物だ。
そいつに目を向けた瞬間、シンジは『電波障害』の原因を思い知った。
「ぎゃあああ!!」
脳髄を火箸で掻き回されるような痛み、音や声というレベルを超えた衝撃波、その内容などただの爆風としか思えない。
シンジは先ほどから第六感を不調にさせていた『妨害電波』にチャンネルを合わせてしまったのだ。
見開かれた眼、虹彩は金色に輝き、本能的この巨大な情報量を処理しようとする。だが、処理しきれない。余りの負荷に神経が過熱し、頭が破裂しそうになる。
三半規管がパニックを起こし、バランスを崩した身体は膝をついて蹲ることしかできない。
「受け、流……」
最初のインパクトをなんとかやり過ごしたシンジは、目を閉じて必死に意識を“怪物”から逸らすが、少しでも気を抜けば直ぐに『怪電波』に曝されてしまう。
「か、別の……」
だが、意識を集中させられるような、適当な対象は近くにない。朦朧とした思考の中、シンジは1つの光明を見出した。
白い少女と云うイメージ――名前も声も知らない、顔はおろか年齢や性別すら定かではない謎の人物。今はもう感じられない
既にシンジの意識は完全に“怪物”から逸れていた。
蹲ったまま全力で彼女を見つけ出そうとする。だが、ただでさえ死にかけるような負担の掛かった脳を、休ませもせず酷使したのだ。
結果シンジの脳はブレーカーを落とし、意識は闇に沈んでいった。
特務機関ネルフ――出迎え人=葛城ミサトの職場である、国連の非公開組織だ。断片的な情報から察するに、どうやらシンジを呼び付けた父親は、そこで結構な地位にあると考えられる。
迎えと案内を仰せ付かったらしいミサトの手によって、気絶したシンジはあの場から救出されたのだ。
彼女に連れられて
「予定時間に間に合うとは珍しいわね、ミサト」
「アンタが急がせたんでしょうが、リツコ」
倒れていたシンジを愛車に放り込み、全速で離脱している時の遣り取りで、彼女を急がせたのが白衣の女性=リツコのようだ。
「初めまして、碇シンジ君。私は赤木リツコ。怪我が無いようで良かったわ」
リツコはにこやかな表情だが、それは外面だけだった。感じられる内面は、冷徹な観察者の思考とやや黒い興味の感情。前者は別に構わないけど、後者に関しては通常初対面の人間に向ける類の物ではない。
シンジの息災を祝する言葉も、本心でありながら社交辞令のように聞こえる。
「こちらこそ初めまして。赤木さん」
と言うか本心でありながら社交辞令というのは、かなり問題ではないか、と思いつつシンジは頭を下げた。
「所でさ~この子、父親に似て、結構無愛想なのよ。しかも、開口一番あたしのコト、頭悪そうなんて云ってくれちゃって――」
愚痴を聞くリツコの感情が、父親と言う言葉で一瞬跳ねたが、ミサトに向ける感情自体は、親愛と
シンジに向けられた黒い感情は、父親が原因らしいので、ここは1つ彼女の認識をゲンドウの息子から碇シンジ個人にシフトさせる為に、この機会を利用しよう。
「気が付いたばかりで、意識が朦朧としていた時の失言です。リツコさん、これが頭の悪い写真です」
そういってミサトから送られて来た写真をリツコに渡す。
「ミサト……」
「な、なに?」
「あなた、馬鹿でしょ」
この後写真を返そうとするリツコに、友人に持っていて貰う方が嬉しいでしょうと返却を断る頃には、黒い感情は感じられなくなっていた。
リツコの先導で一行は複雑なネルフ本部の通路を進んでいく。
シンジは施設の奥へ進むにつれて、使徒に似たサイズの何かを感じていた。それが発する『電波』は、使徒の様に脳の鼓膜を破壊する暴力的なものとは違っていた。
静寂を体現したかの様な無音の声、静かで力強い大樹のようなイメージだ。
「(近づいている……)」
いや、その大樹のイメージに向かっていると言った方が適切だ。直感的にネルフという組織は、これの為に存在しているのだとシンジは理解する。
「(10年も音沙汰無かった父親が、僕を喚んだ理由がこの先にあるって事か)」
お互い10年以上、全くと言っていい程、会うどころか電話や手紙の1つすら無かった父ゲンドウから、突然の呼び出しの手紙――正直父親の名前どころか存在さえ完全に失念していた。
父親との面会より先にリツコとミサトが見せたがっている物――今までの2人の会話と『電波』に乗って流れてきた思念からすると、この先にある物はシンジが
広い場所に出たシンジを出迎えたのは巨大な顔だった。仮にこれが人型だとすれば、そのサイズは使徒とほぼ同じになる。つまり、これは使徒と戦う為のモノと考えるのが自然だ。
「対使徒用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン初号機……私達の切り札よ」
リツコの言葉は、その推測を完全に肯定していた。初号機から視線を外さずにシンジは確認を取る。
「これが僕を喚んだ理由……ですか」
「そうだ。久し振りだな」
初号機に魅入っていたシンジはスピーカーから聞こえてきた声に驚いた。思わず声が聞こえてきた上方に顔を向けると、黒い服を着込み髭を蓄えた男が居た。
この男こそ、シンジの父親にして、特務機関ネルフの最高責任者・碇ゲンドウ総司令である。
「出撃だ」
正直、意味が分からなかった。いや言葉の意味は分かるが、その意図が全く推測できない。
そこでゲンドウの考えを探る為に、意識を集中させようとした時、ミサトが口を開いた。
「ちょっと! 初号機にはパイロットが居ないでしょ」
「たった今、届いたわ」
その怒声に、中途半端に――虹彩が金色に輝かないレベルで――集中した意識が2人に向けられた。
ミサトから感じられるのは、確信に近い予感と言った物。リツコからは、判り切ったことをわざわざ聞くなと云ったニュアンス。
「でも、来たばかりのこの子には無理よ」
「葛城陸佐、今は少しでも可能性のある人間に任せるほか無いわ」
ミサトの言葉は反論と云うより、最終確認の意味合いが強かった。罪悪感を誤魔化す為の、無意味な抗議だ。
対するリツコはこの状況に於ける最善を分析していた。恐らく冷静に現実と向き合うタイプだろう。
「碇シンジ君――」
「無理です」
使徒と対峙することが、シンジに与える影響――脳髄の耐久力を超える『怪電波』――をリツコ達が知る由もない。
それこそ、エヴァが
「シンジ君、お父さんや自分から逃げては駄目よ。アナタはなんの為にここに来たの」
「僕は不可能を可能に出来るような人間ではありません。無理なものは無理です」
読み取ったミサトやリツコの思考から、実際のエヴァの戦闘能力は精々使徒と互角に戦いうる程度であろう。最低限度以下の操縦で勝てるはずもない。
ゲンドウの命令で病床より担ぎ出された少女の、浮世離れした透明さにシンジは目を奪われた。
「レイ、予備が使えなくなった。お前がやれ」
医者に付き添われて現れたレイは、ストレッチャーから身を起こそうとするが、素人目にも重傷患者に無茶をさせていると分かる。
通常ある程度歳を重ねた人間の思考には、いくらか雑念が混じる物だが、レイの思考にはそれが無い。極めて純度の高い意思は、まるで幼子のようである。
ネルフ本部を襲った震動にレイは投げ出された。彼女を助け起こそうとして近づいていたシンジは、震動するとほぼ同時に弾丸の様に飛び出した。
シンジの人間離れした爆発的な
歩くには短いがストレッチャーから落下する少女を助けるには、果てしない距離を一瞬で無にし、固い床に叩き付けられる寸前で重傷の身体を柔らかく受け止める。
だが、危機はそれだけでは終わらない。強い震動は天井に設置された大型照明を落下させていた。
「危ない!」
迫り来る命の危険においてシンジは全くの平静であった。
横抱きにしたレイに負担を掛けないよう注意しながらしっかりと抱き上げて立つと、今居る位置から一歩後ろへ下がり左に半ターン、瓦礫が背後を通過すると同時に右へ跳躍、落下して跳ね暴れる鉄骨を絶妙のタイミングで蹴り、
「天使?……」
「いける!」
レイを救い、絶体絶命の状況を覆し、瓦礫の上に躍り出たシンジに対する2人の女性の言葉だ。前者は――科学者は存外ロマンチストであるという例に漏れない――リツコ、後者は――彼の身体能力と
腕の中にいる少女に目を向ける。レイは苦痛に喘ぎ、顔からは血の気が失せている。
青白い顔とは対称的に血が滲んだ蝉鬢、細腰から抱き上げて知った体の軽さ、伝わってくる瀕死の身体を省みない思考、シンジの中に苛立ちが生まれる。
それは何に対する苛立ちなのか、重傷のこの子に死ねと命令する連中か、少女が出てくる羽目になった原因を作った自分か、はたまた自分を大事にしないレイに対してなのだろうか。
「(不便だよな。
でも、シンジの心は決まっていた。
「この子の出る幕はありません、すぐに手当をしてあげて下さい」
「それはあなたがエヴァに乗るという解釈でよいかしら?」
「ええ、正しいですよ。ド素人と瀕死の女の子、究極の二択ではありますけど」
怜悧なリツコの問いに、ふてぶてしさをさらけ出したシンジは、皮肉げに自分が乗ると答えた。
シンジがエヴァに乗ることを了承してからしばし、発令所ではエヴァンゲリオンの発進準備が着々と進められていた。
「エントリープラグ挿入、脊椎伝導装置オープン。各システム異常無し……エヴァ初号機、起動準備完了」
程なくリツコが発令所に入ってきた。
「遅れて申し訳ありません、現在の状況は?」
「初号機の各システムは正常、いつでも起動可能です」
「
迎えに来てくれた時のやり取りでの意趣返しをするミサトに、リツコは軽く鼻を鳴らす。
「シンジ君に捕まっていたのよ。エヴァの操縦方法や機能について質問責めにされたわ」
「取り敢えず、パイロットのやる気は上々って所かしら?」
「そうね……エヴァ初号機起動シーケンススタート!」
リツコの到着により、初号機の起動が開始された。
「シナプス形成、各神経素子異常無し。第二次コンタクト、A10神経接続。オールナーヴリンク終了」
「絶対境界線まで後0.5、0.3――神経接続に異常発生! シンクロレベルがボーダーを超えられません」
発令所の全員に緊張が走った。綾波レイの怪我の原因がエヴァの暴走事故であり、この状況での不幸の再現は致命的すぎる。
「初号機への電源供給停止。暴走の可能性をチェック!」
「了解。ハーモニクス全て正常、各神経素子異常なし、暴走の危険性はありません」
「イレギュラーの発生したプロセスを洗い出して。
暴走の危険は無いことに全員が胸を撫で下ろすが、リツコは冷静にこの失敗の原因を考えていた。
前日にレイによる起動実験を行い、無事初号機は起動した。彼女以上に初号機との親和性が高い筈のシンジが起動できないとは考えがたい。
つまり、シンジに想定外の要素があり、それが初号機の起動を妨げていると考えるのが自然だ。事実、起動こそ出来ていないが、暴走の兆候はない。
「イレギュラーの箇所判明。相互ナーブリンクのシステムにエラーが発生しています」
「データを見せて。――これは……
「リツコ、初号機は使えるの!?」
ミサトの問いに静かにうなずき、リツコは部下に指示を出す。
「マヤ、シナプス密度を最大にして。それと双方向回線の更新周期をを0.05から、0.001に変更」
命令を受けた伊吹マヤは仰天した。
「5、50倍に上げるんですか!? それでは精神汚染の危険が――」
「大丈夫よ。やりなさい」
思わず上司を振り返ったマヤを、リツコは確信を持った顔で見詰めた。
エントリープラグのシートに座ったシンジは、エヴァ初号機が発する『電波』に意識を割きながら、呼び出したマニュアルに目を通していた。
「システム再設定、双方向回線開きます」
瞬間、シンジは情報の奔流のただ中にいた。
だが、それは苦痛に繋がる物ではなかった。使徒のそれが大嵐や巌も砕くような瀑布といった暴力的なものであったのに対し、エヴァのそれは静かな海中や魂を吸い込まれそうな蒼穹のような不思議な引力だ。
流れる
「貴女、なのですか?」
聡明で教養溢れる淑女の如く優美でありながら、はしゃぐ少女のように無邪気な笑みだった。
少女の様でもある白いイメージは、肯定も否定もしなかった。
「今から発進させるわ。舌を噛まないようにね」
返事を聞く様子が無いことに、内心無駄な事をしているなと思いながら、シンジの心に僅かな自信が芽生えていた。
「(
そんな確信にも満ちた思いを、白いイメージとの邂逅はもたらしていた。
コクピットのシートに深く身を預けたシンジは、目を閉じて射出時のGに身を任せていた。
白いイメージ――シンジの眼にしか映らない彼女――が待ち望んでいたこと。それが
云えることはただ1つ。
「彼女は僕を望んでいた」
という事実だけだ。
リフトが減速し、強い衝撃と共に停止する。
「エヴァ初号機リフトオフ。まずは歩いてみて」
機体を固定していたロックが外れ、自由に動ける状態になった。
ミサトのどこか逸る雰囲気に嫌な予感がしていたが、見事に的中してくれたらしい。「意識」を外に向けていないにも関わらず、暴力的な『電波』感じる。その強度と方向から、自分は使徒と真正面から対峙しているのが分かった。
今は目を閉じて、初号機に意識を集中しているから平気だが、悠長に動きを確かめる暇はない。
「目標を――」
目を閉じたままスイッチを操作し、左肩のラックからプログレッシヴナイフを展開する。
使徒の発する『電波』によって脳神経を蹂躙される以上、長期戦など出来やしない。
「シンジ君、何やって?」
右手でナイフを引き抜かせつつ、機体に前傾姿勢を取らせた。
故に短期決戦、先手必勝。リツコから聞き出した使徒の弱点、コアへの一撃で一気に終わらせる。
「――ッ、攻撃させていただく!」
眼を開いた瞬間、暴力的な『電波』が頭に侵入してくる。エヴァに乗っているせいか、初めて使徒を見た時よりは幾らかマシだが、その苦痛に思わず呻き声が漏れる。
それらを無理矢理にねじ伏せて、操縦桿を倒し込み、エヴァ初号機を吶喊させた。
「さっきから!」
向かってくる初号機に向けて、使徒は腕を突き出した。発信される攻撃の意思から、物理的な軸線を逸らす。
「頭に――」
使徒の掌から放たれた光の槍は空を切り、初号機は敵の懐に滑り込む事に成功する。
「響くんだよ!」
そして、
吸い込まれるようにコアに向かう切っ先、「勝った」と云う確信がシンジの口元に浮かんだ。
だが、コアにプログナイフが突き刺さることは無かった。突如出現した、幾何学的な形状の、オレンジ色の壁に遮られる。
「
シンジの眼が驚愕に見開かれ、リツコの言葉が脳裏を過ぎった。
シンジが硬直していた時間は1秒程度だったが、既に大勢は決していた。使徒は、初号機の左肩を掴んで引きはがし、もう一方の腕で頭を鷲掴みにする。
半ば、反射的に使徒を睨み付けたシンジは絶叫した。
「があああ!」
使徒から流し込まれた悪意。憎悪、恐怖、殺意、ありとあらゆる負の感情――をくべた魔女の釜の中身――を浴びせられるとでも言うべきか。
心臓とも云えるコアを狙われた使徒が、初号機を敵と認識した事で、発散されていた意識が敵意と言う方向性を持ち、ただ1つの対象に絞ったのだ。
「落ち着いて、あなたの身体じゃないのよ」
膨大な量の害意による精神の侵蝕、肉体の痛みで無い以上、リツコの助言は余りにも的外れだ。
使徒の腕がパンクアップし、初号機左肩のウェポンラックが握り潰される。
そして、頭を鷲掴みにした左手から放たれた光の槍が、右目を抉り初号機を吹き飛ばした。
数百メートル先の大型ビルに叩き付けられた初号機は、脱力したように停止している。
パイロットたるシンジに至っては、両目が裏返り全身が痙攣している。
使徒に初号機
この状況下では、シンジの辿る運命は死があるのみだ。
「死……ね、ない」
呻きに混じって声が漏れた。
この都市に来る前までは、いつ死んでもいいとさえ思っていたが、今は違う。シンジには生きていたい理由があった。
あの時感じ取った『白い少女のイメージ』が誰か確かめる。生まれて初めて抱いた感情の正体を確かめなければならない。
生存本能を凌駕する程の意思は、シンジの
他者の意思を感じるという能力と長年共にあった事により、彼は人間の汚さを思い知っていた。
大人社会における組織の腐敗に端を発し、子供社会における邪悪さは際限がなく、孤児同然であったシンジは格好のターゲットだった。
害意に晒されながら生きていく術はそう多くない。卑屈になって媚を売るとか、心を閉ざして鈍感になるとか、どうにせよ心身を凌辱されている事に変わりはない。
しかし幸か不幸かシンジの心身は、それらの悪意に抗しうる特
攻撃を回避し敵から逃げ続けた毎日の中、自らの特殊能力を使いこなす技量を身に着けるのにあまり時間はかからなかったが、そんな日々はシンジの能力を静かに腐らせていった。
死の運命を覆そうとする強い意志は、彼本来の能力を再起させる。
ほんの数分前と比べて、格段に増幅された『意思の電波』は、初号機に眠っていた勝利の女神という奇跡を呼び寄せた。
「助けてあげる」
脳裏に現れたビジョン――どこか母性を感じる純白の少女がそう云うと、シンジの脳を苛んでいた『使徒の電波』が遮断される。
そして、今のシンジに必要な知識が
シンジの指が高速で動き、初号機の状態を確認する。
左腕小破及び左肩ラックの破損。頭部中破及び右眼欠損により、視界の右半分がほぼ死んでいる。更に使徒の追撃で、胸部及び腹部の装甲が小破していた。
戦闘に一切の支障は無い。
「いける」
シンジに自信に満ちた笑みが浮かぶ。
深呼吸を1つ、改めて操縦桿を握る。滅茶苦茶になっていたエヴァとの接続を、ネルフの技術の粋を集めたシステムが自動的に復元していった。
ずんぐりした体躯の使徒から見て取れる無数の情報、僅かな動きや気配と言った物から、シンジは攻撃を予測した。
「ATフィールド――」
直後、使徒の顔が発光する。だが既にシンジは防御の態勢に入っていた。初号機の周囲の大気がぐにゃりと歪み始めている。
「――展開」
初号機が
ビルに背を預けて座った体勢から、クラウチングスタートの姿勢に機体を起こし、再び初号機を突撃させた。
使徒のビームを
長時間苛まれた頭痛から解放された事に加え、増大した
再び接近を許した使徒は、潰した右眼によって死角となる左腕から、光の槍を放った。
「それは
シンジの虹彩が黄金に輝いていた。使徒の懐に入りつつ大きく回避した初号機は、伸びきった使徒の左腕を肘からプログレッシヴナイフで切断する。
だが左腕を切断されたことは、使徒にとって好機だった。
初号機の左側は右腕で塞がれており、ナイフを振り切った今の体勢では右側や後ろに下がることも不可能、ATフィールドは互いに中和されている。
この至近距離で最大出力のビームを放てば、初号機とてただでは済まない。
しかし、今のシンジに対しては悪手であった。
逃げるどころか逆に踏み込んできた初号機の右肩が火を噴く。
隠し武装のニードルガンが使徒の顔面を貫き、続いてプログレッシヴナイフを叩き込まれる。
ビームのエネルギーが暴発し、顔を中心に使徒の上半身は大きく吹き飛んだ。
使徒のビームを逆に利用し、大ダメージを与えることに成功したシンジは舌打ちした。
初号機に搭載されていた全ての武器を失った。更にナイフを握っていた右手は爆発に巻き込まれて、手首から先が無くなっている。
この状況は最大のチャンスなのに、手札に決定打が無い。
「武器が無くなった! なにか無いの!?」
それ故にシンジの判断は素早かった。
そしてプロフェッショナルの集団たるネルフ職員の行動も素早かった。
長髪のオペレーター青葉シゲルは、初号機の正確な位置を全員に伝達。
眼鏡のオペレーター日向マコトは、初号機の武器選定と射出の準備。
女性のオペレーターの伊吹マヤは、初号機に武器が送られる場所の転送準備。
ネルフ戦闘指揮官の葛城ミサトが、命令を下す。
「パレットライフル、Y-02に射出!」
「了解」
「
パレットライフルの射出位置は、初号機の後方百数十メートルの位置だった。
モニターに表示されたマップに従って初号機を後退させ、兵装ビルのラックから押し出されていたパレットライフルを掴んだ。
初号機の左手がライフルのグリップを握ると、システムが自動的に操縦桿のトリガースイッチとライフル本体の引き金を、パレットライフルの射撃装置と同期させる。
余談だが、これは設定の変更によって、最大で4重の冗長性のある射撃システムとして完成する。
初号機にライフルを装備させたシンジが、上半身が吹き飛んだ使徒に目を向けると、使徒は失った上半身の再生を既に始めていた。
3度目の正直とばかりに、三度初号機を突撃させる。
使徒からの攻撃はないが、代わりに今までとは比較にならない強度のATフィールドを発生させている。
「時間稼ぎをさせるつもりはない」
初号機のATフィールドを左手に握るライフルの銃口の先に集中させ、使徒のATフィールドを突破。
パレットライフルそのものをコアに叩き込む、コアに罅が入り銃口がめり込んだ。
互いのATフィールドが干渉して紫電を撒き散らす中、シンジは操縦桿のトリガースイッチを引き、初号機もライフルの引き金を引いた。
電磁加速された弾丸がコアの表面で砕け、マズルブレーキとひび割れたコアの隙間から火花となって現れる。
だがその均衡も一瞬だった。
罅割れから侵入した弾丸の欠片が蒸発し、零距離から途切れなく撃ち込まれる弾丸によって更に加熱され罅割れを拡大させる。
拡がった綻びはコア自体の強度を低下させていた。そして毎分数千発で連射される銃弾は弱ったコアを掘削し、とうとう貫いて使徒の背面を突き破って吐き出される。
不意に嫌な予感に襲われたシンジは、パレットライフルを手放し、初号機を後退させた。
その直後使徒が爆発し、空に十字の火を打ち上げた。
爆炎は使徒の殲滅、シンジ達の勝利を雄弁に物語る祝砲だった。
ネルフ総司令執務室にて、予想を遙かに上回る快挙を為したシンジについての報告が行われていた。
「脳量子波……かね? 聞き慣れない言葉だな」
初老のネルフ副司令、冬月コウゾウが、報告者に尋ねた。対する報告者赤木リツコは説明を行う。
「ご存知ないのも無理はないと思います。何せ数年前にEUの大学で書かれた論文に登場する新用語ですから」
リツコの説明によれば、近年頭角を顕してきた若手科学者が執筆した論文にて、脳量子波という物に言及しているという。
概要は、知的生命の意志を伝達する素粒子の存在を仮定した上で、その素粒子を交換する作用における意思を伝達できる波動状態を脳量子波と定義しているらしい。
またネルフの有する技術と科学力をもってすれば、脳量子波の活用は十分に可能であると告げた。
「――であるからして、初号機パイロットは高レベル脳量子波保有者だと言うことは間違いありません」
「ふむ、結論を言えばエヴァパイロットとして非常に優秀だと言うことだな」
まるでそれさえ判っていれば充分だとばかりに、ネルフ総司令碇ゲンドウが締めくくった。
余りにも身も蓋もない言葉に、冬月とリツコの顔が一瞬引きつるが、確かにネルフとしてはそれで十分な話でもあった。
絶叫と共に碇シンジは白い部屋で目を覚ました。
「夢……あれ?」
酷く悪い夢を見ていた気がするが、内容を全く憶えていなかった。
上がった息と動悸は間違いなく魘されていた証拠と云えるが、内容を忘れているなんて初めてである。いつもなら朧気でも思い出せるのにだ。
自動ドアの向こうに慌ただしい気配を感じると、電子音が鳴って機械音声が来客を告げる。さっきの叫び声を聞いた看護師らが様子を見に来たようだ。
「碇シンジさん? 入りますよ」
医師と看護師がベッドで上体を起こしたシンジに寄ってきた。妙に丁寧な対応と、伝わってくる思考から判断するに、どうやら自分はVIPらしかった。
寝汗が酷く服が貼り付いて気持ち悪かったので、シャワーと飲み物が欲しい旨を伝えると、クリーニングされた服を持った看護師にシャワー室に案内される。
すっかり汗を流して脱衣所に戻ると、服をいれた籠の傍らにスポーツドリンクが置いてあったので、シンジは遠慮なく頂いた。
一度病室に戻り――やはり最も設備の整った個室の1つだったようだ――
否応無しに頭に伝わる、他者の思念を緩和する為の悪足掻きとして、数年前に大手電器店で見掛けて衝動買いした物だ。
だが、それは予想以上の効果を発揮し、今では大事な愛用品となっている。
音楽プレイヤーの電源を入れると、ネットで収集したクラシックや洋楽・ポップスなどが自動でランダム再生させるようにセットしてある。
今日の最初の曲はクラシックであり、今聴きたかった曲だ。小さな幸運にシンジの顔が綻ぶ、優しい高音域と中音域のハーモニーは、浴室で思い出したサキエルとの死闘で昂ぶった神経をゆっくりと鎮めてくれた。
奥まった場所にある病室は静かで、腰掛けているベッドは何時の間にか――シャワーを浴びている間に決まっているが――シーツが取り替えられていた。
身体を投げ出した清潔なシーツのサラサラで冷たい感触は、シャワーで火照った身体に気持ちよく、シンジは音量を絞るとホッと息を吐いた。
それは微睡んでいたシンジの心に、雷鳴のような衝撃を与えた。
純粋で純白の脳量子波――発せられたのはごく一瞬の事であったが、他に類を見ない独特の思念波は間違えようがない。
飛び起きたシンジは、脳量子波のチャンネルを完全解放し、虹彩を金色に染めて発信者を捜すが見付からない。
寝惚けていた上にあの短い時間では、距離も方向も分からない。シンジは舌打ちをして
ただ1つ云えることは、『白い乙女』がネルフ関係者もしくは第3新東京市の住人である事くらいである。流石にあの天使の様なイメージが、
あんな事が遇った後で、悠長に寝直せる程シンジは諦念的でも消極的でもない。とてもじゃないが、いてもたってもいられなかった。
もしかしたらこの病院の
眩しい夏の陽射しに似ていながらも優しい光は、塵1つ無い病院を――
一通り院内を
自室前の廊下から前庭を見下ろしているシンジは、イヤホンを耳に付けたままで、未だにプレイヤーの再生は続いている。
音楽プレイヤーの音量を絞っていたのは、病院と云う場所を考えれば当たり前だが、それでも脳量子波を感じる事を半ば放棄していたと云える。
捜索と云うよりは散歩であり、モヤモヤした気持ちを発散させる事が主目的であったと云っても過言でなかった。
真新しい病院を
シンジが振り向くと、ストレッチャーに乗せられた儚げな少女が、ナース達に付き添われて進んできていた。
邪魔にならないよう廊下の端に寄り、腕や頭の包帯が痛々しいレイの様子を見ると、怪我を除けば体調に問題は無さそうだ。
「(良かった。無事だったみたいだ)」
すれ違う時の一瞬、レイと目が合った。
神秘的な紅い瞳と、金の輝きを秘めた虹彩が絡んだ瞬間、あの『純白の脳量子波』がシンジの心を撃ち抜いた。
『彼女』の正体は綾波レイなのか、或いは今の事は偶然か。
乱雑な思考に数瞬囚われたシンジの行動は、もはや雑音発生器に成り下がってしまったイヤホンを、コードの分かれ目を掴んで乱暴に引っこ抜く事だった。
より鮮明になった
その代わりに不愉快な人物の思念が飛び込んできた。
「あの男……」
シンジの似ていない父親にして、ネルフ総司令である碇ゲンドウだ。
何やらレイに話しかけているが、二言三言で終わった様子から、怪我の具合でも聞いただけなのだろう。
ゲンドウが発していた感情は悦びに近いものだったが、複雑な成分を少なからず含み、シンジにとっては未知の情動だ。
対して、脳量子波を介して伝わるレイの思念も歓喜らしいが、何らかの矛盾を抱えているように感じられた。
「僕も忘れていたとは云え、一応息子なんだけどな……」
最早、他人と云っても過言でない
だが、シンジはエヴァに乗り使徒を撃退したのだ。父としてで無くとも、総司令として礼の1つを述べても良いだろうと思う。
百歩譲って、シンジに一声も掛けない事はよい。
しかし、昨日リツコが向けたものとは比較にならない程の、薄暗い感情は、表面上は完全に隠せていても裡から滲み出ていた。
思春期の少女に入れ込んで、少女と同年代の息子を疎ましく思う父親。
「やれやれ……あんな
2つだけ分かった事があった。1つはゲンドウが碌でもない人間であるのは間違いない事。
もう1つは、レイと初号機の
つまり、彼女もまた『白い少女』の候補であるのだ。
読んで頂きありがとうございます。
以前公開していた物とは、構成を変更し加筆修正を加えてあります。
第1話にして脳量子波と云う単語が解禁です(笑)。
タイトルも、旧題『もしもシンちゃんがイノベイターだったら』から、
新題『ヱヴァンゲリヲンFIS』へ。
実は旧題だといわゆるネタ系作品臭いと云う感想がチラホラあったんです。
FISは三つの単語の頭文字で、本作の要旨部分です。ちなみに単語の組み合わせは複数あります。
感想・講評・批評・意見・分析・指摘等々、お待ちしております。割と切実に……。