――彼女は僕にとっての太陽だった。
知り合ったのは中学三年生の頃。
クラス替えが終わって隣の席に座っていた彼女は僕へ向けて、見る者全てを幸せにするような……そんな輝く笑顔をくれた。
「私は高坂穂乃果! よろしくね!」
底抜けに明るい声と、サファイア色の澄んだ瞳。
ただでさえ内気で、女の子と上手く話せない僕はただただ俯いてぼそぼそとした返事を返す事しか出来なかった。けれど、彼女はそんな事など意に介さずにずっと笑顔を向けていてくれた。
可愛らしくて優しい子だな。
単純な感想。
しかし、思えばその瞬間から僕の心は彼女に奪われていたのかもしれない。
席が隣同士だったせいか、彼女はそれからもよく話しかけてくれた。
同じクラスの二人の親友の話、家の話、好きなテレビ番組の話。授業が始まる五分前の積み重ねで、僕は彼女の事をたくさん知って、より深く引き込まれていく。
心から楽しそうに自分の話をして、女子慣れしていない僕のたどたどしい、面白くもない話を嬉しそうに目を輝かせて聞いてくれる。時には頷いたり、時には首を傾げたり。彼女なりの大きな仕草で相槌をうつ。
僕はそんな彼女の笑顔が見たい一心で、一生懸命言葉を紡いだ。
「君は面白いねっ! 穂乃果、楽しいなぁ」
純粋な彼女はきっと、同じ言葉を色んな友達に言っているはずだ。僕にだってそのくらい分かっていたけど、それと同時に、僕は彼女がそういう言葉をいつだって本心で言っている事も知っていた。
だからこそ、心から嬉しくて、そっと机の下でガッツポーズをしたことを覚えている。
でも、そんな楽しい時間は続かない。
席替え。毎日の楽しい時間は、そんな何気ない出来事で終わりを告げた。
日課だった会話は無くなり、一抹の寂しさだけが胸に去来する。彼女の笑顔が見たい。彼女と話がしたい。素直にそう感じ始めたのだ。
そうして僕は自覚する。
――僕は、彼女の事が好きだ。
もちろん、人懐っこい彼女はそれからもちょくちょく話しかけてくれた。おはよう。バイバイ、また明日。高坂さんはそう言う人だ。誰に対してもフランクで、どんな人とも仲良くできる。
でも、僕は彼女にアクションをかけて貰うだけの自分が本当に……嫌いだった。
だからと言って、人の性格はそう簡単には変わらない。
内気な僕はどこまで行っても内気なまま、そんな彼女の優しさに甘えて変わらない日々を過ごしていたんだ。
しかし、ある時ふと気が付く。
たしか、それは昼休みの事だったかな。
本当に偶然、僕は読んでいた本から顔をあげた。
目の前を通り過ぎる人影。同じクラスの南ことりさんの影が一瞬本に重なる。つられて彼女が歩いて行く先を見ると、高坂さんとその友達、園田海未さんの姿があった。南さんは何やら高坂さんに話しかける。
丁度その時、僕は高坂さんの正面の位置に居た。
ただの偶然。でも――その一瞬が、僕の世界を変えることになる。
彼女は、南さんの言葉でふわりと笑った。
いつもの快活な輝くような笑顔ではなく、気を許した人にだけ見せる優しげな、花がほころぶような笑顔。僕はそんな彼女の表情を二度と忘れないだろう。
それまで、一応僕は高坂さんへの恋心を自覚しているつもりではいたのだ。
でも、気が付く。それは恋などではなく、ただの憧れだったのだと。
だからこそ何一つ行動を起こせないし、ただそっと見守るだけで満足している自分が居た。しかし、そんな意識は百八十度変化する。きっと、このままじゃ駄目なんだ。
僕はやっと理解した。自分自身の本当の気持ち。
彼女の笑顔がどれほど眩しくて、愛おしいものであるか。もっと、彼女の表情を見ていたい。
出来ることならば、僕だってもっと彼女を笑顔にしたい。
心からそう思った。
恋なんてしたことのない僕だったけど、初めて生まれたそんな気持ちをそっと胸の中で温めはじめる。燃えるような情熱だと本では読んだけど、僕の胸に生まれたのはそんな表現とは似ても似つかない、優しく暖かい感情だった。
その日から、僕は生まれ変わる。
おしゃれとはとても言えない、ただ伸びていただけの髪型を変えようと思い立つ。恥ずかしさから顔を真っ赤にしながら美容院に行って、カットして貰った。ワックスだって買い揃えて、一生懸命使い方を勉強した。
口下手な自分を変えたくて、頑張っていろんな人に話しかけたり、お笑い番組を見て、友達を自分の力で笑わせられるように努力した。
勉強も、スポーツも。同じくらい必死にやった。
高坂さんとまた楽しく話がしたい。
あの笑顔が見たい。
その一心で、僕は自分を変えようと頑張ったんだ。
「お前、変わったな」
「~君、格好良くなったよね」
誰もがそう言ってくれる。
でも、高坂さんは。
――いつだって、いつもと同じあの笑顔を向けるだけだった。
何度だって話しかけたよ。
一生懸命話をした。たくさん面白い話をしたつもり。
それでも彼女との距離は縮まらない。
もちろん、カノジョをとっかえひっかえするアイツみたいな恋愛的なアプローチをしてはいない。
ただの友達として、少しだけ積極的に絡んでいただけだ。いつか。いつか僕の気持ちに気が付いてくれることを信じて。
……。
いや。それは嘘。
実際の所、自分の言葉で彼女の笑顔が曇ることが何より怖かっただけなのだ。好意をむき出しにしてアタックすることは、もしかしたら恋人を作る手段としては凄く有効で重要な手段なのかもしれない。
でも、僕は違う。
恋人にはなりたいよ。
彼女の一番傍で、笑っていたい。笑わせてあげたい。
でも、今のこの、お互い楽しく笑い合える関係を失いたくもない。
幼い僕の、そんな幼い考え。
いつの間にか月日は流れて……。
今日、卒業式を迎えた。
***
タッタッタッタ。
僕は校内を足早に駆け抜けた。
卒業式は終わり、僕の右手には卒業証書と胸元には大きな造花がくっついている。周りにいる同級生は一つでも多く思い出を残そうと、今日ばかりは使用を許された携帯電話を使って仲の良かった友達同士で何枚も写真を撮っていた。
僕も何度か呼び止められて一緒に写ろうと言われたものの、ごめん、あとにして貰えないかな? と、頭を下げて、彼女を探していた。
一日考えたんだ。
僕は一体どうするべきなのかって。
卒業式の間中。
いや、この半年間ずっと同じことを考え続けて来た。
高坂さん。僕の初恋の相手はこの春から音ノ木坂学院に入学することが決まったらしい。今日の朝、なぜか南さんが教えてくれた。高坂さんの家族全員が通ったらしい。
その高校は……女子高。
つまり――もう、僕は彼女と会うことは無い。
この日が来ることはずっと前から分かっていた。
二人を分かつこの時は、前もって知らされていたのだ。それでも僕は一歩前に踏み出す勇気が出ずに、今日まで問題を引き延ばして来たのだ。そして、先ほどやっと答えが出た。
ダメ元で良い。
今日、この想いを高坂さんに届けよう。
僕は息を切らせて彼女の姿を探していた。
高坂さんの事だ。今はきっと、たくさんの友達に囲まれて、あの素敵な笑顔を振りまいている。もしかしたら、僕がこれから行おうとしているその行為は、彼女の笑顔を曇らせることになるのかもしれない。
それは彼女にとっても、そして何より僕にとって、心から辛い事だ。
それでも……。
今この瞬間を逃したら、もう二度と僕は彼女の笑顔を見られない。
夢だった、かつてみたあの優しげな微笑みを引き出すことは叶わない。
仮に、一パーセントでも可能性が残されているのなら。それにかけてみよう。
「あの……」
「えっと、何? ごめん、今急いでて」
「うんっ。す、すぐ済むから、その……」
同じクラスの女の子から呼び止められる。
頬を染めて俯く彼女の様子に戸惑いつつも、先を急いでいることを告げて続きを促した。一体なんだというのだろう。僕にはやらなきゃいけない事が……。
落ち着かなくソワソワとする彼女を見る。
「もし、あげる予定がないなら……」
やっと決心が付いたのか、彼女は顔をあげた。
「うん。どうしたの?」
一瞬の間。
そして。
「第二ボタン。私にくださいっ!」
彼女はそう言うと、顔を真っ赤に染めて、卒倒しそうな顔で頭を下げて来た。僕はそんな予想外の言葉にただただ驚いて、あんぐりと口を開ける。僕の第二ボタン? そんなものを貰ってどうするというのだろう?
僕はしばらく呆けたまま考えを巡らせて、やっと一つの答えに辿り着く。
「えっと、それは……」
「うんっ。そうだよ。告白は、しないけど」
彼女はそう言って少しだけ泣きそうな顔をしてそう言った。
「私、あなたが誰の事を好きかは分からないけど、私以外の誰かに恋をしてるって事は分かってるよ。だから……」
そう言って、彼女は俯いた。
なんで、どうしてばれたのだろう?
僕のそんな表情を見て、彼女は儚げな笑顔を見せる。
「あれだけ一生懸命変わろうとしてるあなたを見たら、誰だって気が付くよ?」
「そ、それは……」
「でも、そんなあなたを私は……。だから、告白はしない。でも、せめて私に、思い出だけでもくれませんか。だめ、かな?」
「……うん」
僕はそっと、自分の第二ボタンに手をかけた。
消え入りそうな声でそう告げる彼女が、酷く誰かに……僕に似ているような気がして。
優しく彼女の手を取って、その手の平にボタンを。この三年間ですこし凹んで汚れてしまった金色のボタンを静かに乗せた。
「それじゃ、僕はもう行くね」
「うん。告白、上手くいくといいね?」
「……そう、だね」
僕はそっと唇を噛みしめて、走り出す。
――ごめんね。僕はきっとこれから振られるんだ。
でも、ありがとう。
少しだけ、少しだけ自信が付いたような気がする。いままでしてきた努力が少しは意味があったんだって、そう思えたから。
見慣れた校舎の中を駆け抜ける。
僕は、この景色を次第に忘れていくのだろうか? 廊下の壁についた学際のペンキ後。細かい傷のついたクラス表示板。結局使われないまま、掃除だけ沢山させられた消火器の入っている箱。
通り過ぎる友達と、恩師の顔。
それらはいつも、僕の日常の中にあった。
毎日毎日。
会いたくなくても、見たくなくても目に入る。かけがえのない欠片たち。
それらのピースで作られた世界から、僕たちはこれから抜け出すのだ。
……いや、そうではない。
きっと、その世界は一度壊れるのだろう。
一つ一つの欠片は思い思いの場所へと飛んでいく。形成されていた世界は一度終わりを迎えて、欠片たちが飛び立った先で、それらはまた新たな世界を作り出すのだ。
違う場所、違う思い、違う願い。
もしかしたらそれは当たり前のことなのかも知れない。
それでも僕には、どうしても失いたくない欠片があった。
僕を照らしてくれた太陽を。
――君を、失いたくない。
彼女はやはり、大勢の友達に囲まれていた。色んな人と写真を撮って、いつものあの笑顔を周りの人みんなに向けている。不思議と、どこに居ても彼女は目に入ってくる。僕とは違う、生まれながらの太陽。
拳を握り込んだ。
決めたんだろう? 覚悟を。
彼女を失いたくないのなら、叶えたい願いがあるのなら。
この足を踏み出さなければならない。
僕は、大きく息を吸い込んで、その右足をあげた。
瞬間。
そっと背中を引っ張られる感触が制服越しに伝わって来る。
優しげな、若草のような香りと、鈴のなるような可愛らしい声。
「待って」
静かに振り返る。
「南……さん?」
彼女は強い覚悟のこもった、それでいて悲しげな眼差しを送っていた。
***
「ごめんね。邪魔、しちゃった」
人気のない屋上へと連れられるままに辿り着いた。
そして彼女は振り返るなり、寂しそうに笑いながらそう言う。
僕は彼女の意図が分からないまま曖昧に頷いた。
正直、邪魔をされたという感覚はぬぐえなかった。が、彼女は理由もなく誰かの邪魔をするような人では無い。あまりこの一年で仲が良くなったわけでは無いが、高坂さんと話す彼女が悪人で無い事くらい重々承知していた。
「穂乃果ちゃんに、告白しようとしたんでしょう?」
凄くシンプルに、そう投げかけられる。
そうか、やっぱり彼女は気が付いていたのだ。僕の抱えたこの思いに。
この後に及んで隠す気も無ければ、その意味もないので素直に頷いた。
「うん。そうだよ。僕は今日、高坂さんに告白する」
「ダメ……だよ」
「どうして?」
「ことりは穂乃果ちゃんの親友だもん。だから分かるよ。今告白したって、あなたは振られちゃう」
かけられた言葉は、何よりも非情で、至極真っ当な物だった。
そうか、やっぱりそうだよな。
一パーセントくらいは可能性が……なんて、僕が勝手に自分自身を奮い立たせるために作った嘘っぱちだったんだ。僕はその事に内心では気が付きながらも、そんな優しい嘘に身を委ねて歩き出そうとしていた。
「やっぱり、そっか」
「うん……」
「ありがとう、南さん。君は優しいんだね」
「……っ!」
彼女が僕をわざわざ呼び止めて、こんなことを言ってくれるのはひとえに彼女の優しさだろう。無駄に傷つこうとする僕への思いやりと、そのせいで卒業式というこんな日にバカな男に言い寄られ、味わう必要のない罪悪感を感じてしまうであろう親友への思いやり。
僕はそう考えて、静かにお礼を言った。
でもその瞬間、南さんは目に涙を溜めて、俯いた。
「南さん?」
「ことりは……ことりはそんないい子じゃないよ」
小声でそう呟いて再び顔をあげた彼女の両目に、涙はもうなくなっていた。
「あなたを呼び出した理由はね。ことりのわがままなんだ」
「わがまま?」
「うん。ごめんね。でも、聞いて欲しいの」
寂しげに微笑みながら、彼女はそう言った。
僕は返す言葉のないまま、静かに南さんを見守る。
肌寒い風が彼女の髪の毛を揺らし、乱していった。
「ことりは……」
なぜだろう。
ふと先ほどの女の子を思い出す。
どこか強い思いを宿した物悲しくも力のある相貌。
……そして目の前に立つ彼女は、先ほどの女の子が霞むほどの強い覚悟をその笑顔の裏に湛えている。そんな気がした。
沈黙。
風の音さえ、聞こえなくなった。
そして彼女は言葉を紡ぐ。
「ことりは……ことりはあなたの事。ずっとずっと好きでした」
儚い、今にも消え入りそうな笑顔と共に告げられる。
僕は何もできないまま、ただただ突っ立っていた。
「あなたが穂乃果ちゃんの事を好きだって事も知ってたよ。でも、なんとか穂乃果ちゃんに好きになって貰おうと努力するあなたからいつの間にか目を離せなくなってた」
「僕の……努力?」
「うん。誰かを好きになったって気持ちを、自分の為に、そして誰かの為に前向きの力に変えて前に進んでいくあなたの事をことりはずっと見てたんだ。穂乃果ちゃんと話すあなたの笑顔と……ちょっとだけ寂しそうな横顔」
「……」
「えへへ。いつの間にか……好きになっちゃってた。叶わないからダメだって。何度も何度も言い聞かせて来たのに。それでも、あなたが穂乃果ちゃんに向けるその気持ちが、少しでも私に向いてくれたらいいのにって」
気付かなかった。
それが真っ白になった頭で思う純粋な感想だ。
先ほどの女の子の事だってそうだ。僕は何一つ気が付いていなかったのだ。太陽に目を向けるのが精いっぱいで、その眩しさからか逆に僕の事を見ていてくれた人の視線に気が付けなかった。
結局のところ、僕は自分が傷つくのを恐れていたくせに、平然と誰かを傷つけていたのだ。この世界は太陽と自分だけ。そんな訳ない事くらい分かっていたはずなのに。
「僕は……」
「うん。ことりはあなたの気持ち、すっごく良く分かるんだ。だって、絶対に叶わない相手に恋をしているもの同士なんだもん。でもね……」
南さんはふわりと笑った。
「きっと、出した答えは違うの」
出した答え?
僕と同じ、玉砕の道を選んだのではないのか?
だからこそ僕を呼び出して、告白をしたのでは……。
しかし、南さんの口から告げられたのは、予想だにしない台詞だった。
「ことりと付き合えば、これからだって穂乃果ちゃんと会えるよ? そうすれば、あなたの望みだっていつかは……」
息を飲む。
「南さん。それは」
「うん。今は嘘でも良いの。ことりはまだ、あなたを諦めたくない。まだ、同じ世界で生きていたいの」
僕はそっとため息をついた。
南さんと付き合いさえすれば、その親友である高坂さんと会える口実も出来るだろう。時間をかけて仲良くなって、何年後かは分からないけどいつの日か彼女の気持ちを引き寄せることが出来るのなら!
……僕はそこまで考えて。首を振った。
「ダメだよ。南さん。僕はキミを利用してまで高坂さんと……」
「それは違うよ」
「……?」
南さんは確かな覚悟のこもった眼差しで僕と目を合わせた。
「ことりだって、あなたが私の事を好きになって貰えるよう、頑張るから」
「それは……」
「今はまだ、〇パーセントだよ。でも……あなたが穂乃果ちゃんに見て貰えるようになるために頑張ったのと同じくらい。いや、もっと! ことりだって努力して見せるから!」
「南さん……」
「これはね、あなたと私。両方のゼロパーセントを、一パーセントにあげるためのたった一つの方法なんだ」
だからね。
南さんはそう呟きながら真っ直ぐに僕の瞳を見つめる。
その目はどこまでも澄んでいて……。
「ことりと、付き合ってください」
僕は静かに、頷いた。
この選択が正解だったのか、それとも間違いだったのか。
その答えなど、知る由もない。
かくして彼は嘘を選択する――了