「すみません、少しお話があるのですが」
南さんの家を出てすぐ。
玄関先を左へと曲がった先に彼女は立っていた。
――あぁ。まずい。
僕は心の中で小さく呟く。
「園田さん……」
戸惑いとも、怯えとも取れる声が零れた。
……なんて情けない。
話しかけてきたのは先ほど帰ったはずの同級生。彼女は明らかな猜疑心を浮かべた表情で僕を見つめている。良くない話を持ち掛けてくるであろうことなど、容易に想像できた。
――何がいけなかったのだろう。
僕は、ついてきてください、と一言残して前を先導するように歩き始めた彼女の背中を追いながら考える。
気が付かない内にボロが出てしまったのだろうか。
それとも、ただ色々と僕に聞きたいことがあったから待っていたのだろうか。
……いや、後者で無い事は間違いない。
聡く、そして厳しい彼女の事だ。本当に聞きたいことが今までにあったのなら既にコンタクトを取って来ている筈。このタイミングで僕を呼び止める理由など、園田さんの中で僕と南さんの関係に疑問が生じたから意外に考えられない。
――何がいけなかったのだろう。
再び問いかける。
僕自身、演技は出来ていたはずだ。
なぜなら嘘は言っていないから。
南さんの目の前で、高坂さんへの想いを語り、それをあたかも偽りの彼女への行為であるかのようにすり替えて。彼女を傷つける事を分かって、そして本当に好きな人に嘘をついてしまう事も理解したうえで僕はあの行動を選択した。
その時は園田さんも静かに聞いていてくれたように思う。
だとしたら……、南さんが原因だろう。
僕の目から見れば終ぞ平静を装ってはいたが、幼馴染の園田さんだからこそ見える何かがあったのかもしれない。
小さく溜息を一つ。
……別に、南さんが悪いわけでは無い。
何がいけなかったのかだって?
そんなこと、解り切っているさ。
僕がこうして今、南さんの彼氏としてここに立っている。
全てはそこから始まった。
間違いや失敗を探すのならば、きっとそれだけだろう。
でも今更、細かい反省なんてするつもりも無い。
僕がすべきこと。
選択肢など残されてなんかいないんだ。
たった一つ。――南さんの居ないこの場所で、彼女の親友を騙すだけ。
僕は案内されるがままに近くの公園へと足を踏み入れる。それは、ことりさんの家と高坂さんの家の丁度半分くらいの場所に位置していた。
ザッザッ。
言葉を発しない二人の間に、砂を踏みしめる音が不快なほど強く耳朶を打つ。
心地よいはずの夕方に吹く初夏の風は僅かに浮かぶ冷や汗を乾かすだけですぐに通り過ぎていく。
「単刀直入に聞きます」
園田さんは振り返るなり、そう切り出した。
有無を言わさぬ様子で、まっすぐに僕を見つめてくる。
「ことりとは、本当に付き合っているのですか?」
そして訪れる無音。
さらさらと夏に向けて一生懸命に背を伸ばす草木が揺れる。
容赦のない問いかけ。
真実のみを求める真摯な瞳。
「……」
「失礼な事を聞いていることは自分でも良く分かっています。でも、どうしても聞いておかなければいけない気がして」
少しだけ、園田さんの声のトーンが落ちた。
クラスが一緒だっただけのさほど仲の良くない男。しかも、友人の彼氏をいきなり引き留めて、疑いの言葉をかける。その行為は世間的に見ると許されたものではない。そして彼女は礼儀作法を強く弁えている人間だ。一歩引いてしまうのも無理はない。
しかし、僕はそれとは全く別の事を考えていた。
――なるほど。これなら。
僕は内心で頷く。
どうやら彼女には、疑いこそあれ、それが確信に変わってはいないようだ。
僅かに声色に滲んだ申し訳なさを、僕は正確に聞き分ける。
だとしたら。
だとしたら、僕にだって彼女を騙せる。
黒く汚い、下劣な思考。
僕は、僕の為だけに彼女を騙し。
嘘が再び嘘を呼ぶ。
「あたりまえだよ。僕はことりさんの事が本当に好きだから」
自分でも驚くくらいスムーズにその言葉は口をついて出てきた。
――慣れ始めているのだ、心にもない言葉を紡ぐ行為そのものに。
僕はその事実に気が付く。そして、どうしようもなくやるせない気持ちに駆られながらも、笑顔を浮かべて見せた。高坂さんと仲良くなりたくて一生懸命身に着けた、人と話す時の姿勢。笑顔や声色や、相手の表情を伺う技術。
それは皮肉な事に、全て……今の自分の力になっている。
「そう、なのですか」
幾分か、園田さんの表情から不信感が抜け落ちるのが見て取れた。
「嘘は言っていませんよね?」
「……もちろん」
「そうですか」
幸いな事に、僕の嘘が見抜けるほど、彼女は僕の事を知らない。
園田さんはしばらく僕を見つめた後、ふぅ、と小さく、一つ息を吐き出した。
僕は、努めて冷静に問いかける。
「どうしてそんなことを?」
「いえ……、少しことりの様子が気になったものですから」
「ことりさんの様子が?」
「はい」
もちろん、名前で呼ぶことも忘れない。
そして、『予想外の問いかけをされた彼氏』の態度も崩さない。
「どうかしたの? もしかして、僕が何か……」
「いえ、そうではないのですが」
「……」
「少し、ことりの表情が暗くなる瞬間があるのです。勿論、今日も」
「暗く……?」
やっぱり。
園田さんは、僕と南さんの歪な関係を幼馴染の顔色一つで察している。
そして、おそらく感覚も一つの大きな要素ではあると思う。……が、何より、
「はい。ことりは少し自分一人で溜め込んでしまう所があるので」
彼女が自身の幼馴染の性格を熟知しているという点にある。
園田さん自身の友人を憂う優しい性格と、今述べた性質が相まって、たった数十分の会話だけでここまで辿り着いたのだろう。
僕はそんな二人。いや、三人の関係を羨ましく思う。
と、同時に強烈な罪悪感にも襲われた。
そこまで固く、強い絆で結ばれていた三人の関係を壊しかねない事を、僕はしているんだ。
次第に自覚していく僕の決断の弊害。
被害を被るのは何も、南さんだけではない。目の前に立つこの娘だって、大きな影響を受けるかもしれないんだ。何も知らず、ただ純粋に幼馴染の幸せだけを願って思いやりを見せる園田さん。そんな彼女に対して南さんは嘘をついてる。
それがどれだけ異常な事態かって事くらい、僕にだって分かるさ。
――傷つくのは僕と南さん。共犯者同士仲良く二人だけ。……なんて都合の良い稚拙な思考。
「どうかしましたか?」
どうやら表情に出てしまっていたようだ。
少し心配そうに、僅かに疑いの念を込めて問いかけられる。
「……えっと」
「やっぱり、何かあるのですか?」
「いや……僕、彼氏なのにことりさんのこと何も分かってあげれてないなって思ってさ」
一瞬、彼女は驚いた顔をして――にこりと笑った。
優しく、安心したようなほころぶ笑顔。
「本当ですよ。貴方はことりの彼氏なのですから、分かってあげなくては」
僕はそっと彼女と目を合わせる。
不思議と、瞳の奥に揺らめいていた疑いの炎は消えかかっていた。
なぜだろう?
しかし、その疑問はすぐに拭い去られることになる。
「ことりの態度が気にかかるのは本当ですし、おそらく気のせいではないと思います」
「……園田さんが言うならそうなのかもしれないね」
そして、と彼女は話し続けた。
「その態度の原因が、貴方であることも間違いないと私は思っています」
ハッキリと言われてしまった。
流石だね……。その通りだよ、園田さん。
僕は静かに彼女の視線を受け止める。
言葉は発さない。……だって、紡ぎようがないから。
――静寂。
「でも……」
一歩、彼女は僕に歩み寄ってきた。
「ことりが、貴方を本気で好きでいることは疑っていません」
曇りない瞳。
湛えられた、自分の親友に対する全幅の信頼。
「私と穂乃果とことりは小さいころからずっと一緒に居ましたから、お互いが考えてることは良く分かるんです。だから、あの子が貴方に向ける気持ちは本物だと、私達にはハッキリ伝わってきました。詳しい話はなかなか教えてくれないのですが……」
少し拗ねる様な口調で彼女は言う。
「本当は全部話して欲しいです。けど、それはワガママというものですよね」
「……友達でも、言えない事ってあるのかもしれないよ」
「はい。それに私はまだ恋愛というものを知りませんから……もしかしたら、男の人と付き合うというのは楽しい事ばかりではなく、ことりのように時折暗い表情を浮かべてしまうようなものなのかもしれません」
そう言い切って、彼女は再び笑顔を浮かべた。
――『自分は恋を知らないから、そういうこともあるのかもしれない』
園田さんはその言葉で自身を納得させたようだ。
……いや、少し違うかな。
きっと、未だに完璧に納得は出来ていない。どうして自分に何も話してくれないのか。そんな気持ちが燻っているとは思う。
――でも、親友だから。
親友が目の前の男の事を本気で好いていることは事実。だとしたら、それを全力で応援してあげるべきなのではないか。たしかに、少し気がかりな点もあるけれど、それはまだまだ未熟な自分の取り越し苦労なのかもしれない。
そんなどちらにも傾きかねない危うい考え。
しかし、園田さんを『僕たちを信じる』方へ倒した理由がある。
「貴方は信頼に足る男性だと、私は思っていますから」
そう言って、はにかむように微笑む。
――狼少年の話を知らない人はいないだろう。
普段から嘘を吐く人間は、信用の置けないものとしてそのようなレッテルを張られてしまう。嘘つきにはアイツは本当のことを言わないという汚名をが否応なく背負わされ、それを取り払うことは出来ない。
そして、それは逆もまた然り。
誠実さとは不思議と伝わる。信頼される人間とそうでない人間は明確に差別化され、その噂や評価は広がっていくものだ。
「貴方が、優しく、そして誠実な男性であることはよくことりや穂乃果から聞かされていましたから」
僕は、そういう人間として認識されている。
別に演技をしてきた訳じゃない。
ただただ純粋に、太陽に近づきたくて。だからこそ、もっと輝きたくて。
高坂さんの目に留まるくらい。彼女が僕に憧れるくらい魅力的な人間になりたい!
中学時代の僕はその一心で色んな事を頑張ってきた。
だからこそ、きっと南さんは僕の事を見つけたのだと思うし、そして。
――幸か不幸か。その努力はこの瞬間『園田さんの僕自身への信頼』として顔を覗かせた。
一つの見方をすれば、……幸せなのかもしれない。
僕や南さんは自分の目的に一歩近づける。園田さんだって幼馴染を疑うという本当はしたくない行動から遠ざかることが出来る。一見、波風立たない結果へと結びついているように見えなくもない。
でも、別の見方をすれば一転。……不幸になる。
好きな人のために培ってきた信頼は、今やその想い人のために吐く嘘を覆い隠す蓑となった。
皮肉なものだよね。輝きたくて懸命に身につけてきた評価や力はそのまま、汚くよごれゆく僕を助けてくれている。魅力的な衣の裏で、着々と腐りゆく身体。そしてそれを理解しても尚、忘れられない想いと憧れ。
もし仮に、僕に信頼に足る何かがついていなかったとすれば、園田さんに止めて貰えたかもしれなかったのだ。もしかしたら邪魔して貰えたかも。そんな選択間違っていると、教えて貰うことだって出来たのかもしれない。
だけど。
「ですから、私はしばらくは静かに見守っていようと思います。ことりのこと、頼みましたよ?」
――結局僕は彼女を騙しきってしまった。
また一歩、先へと進める。前へ。前へ。
未だ答えの見つからない暗い道。
答えがあるのかもわからないその未来。
それでも僕は……
「うん。任せてよ」
嘘を吐く。
***
「呼び止めてしまってすみません」
「いや、別に良いよ。むしろありがとう」
「いえ、お礼なんて……。でも、貴方とこうして話せて良かったです」
「僕もだよ。また何かあったら遠慮なく言ってきてね?」
「はい。それでは失礼します」
園田さんは申し訳無さそうに礼儀正しく頭を下げる。そしてその後、幾分かスッキリとした表情で帰って行った。僅かにちくりと胸が痛むが、残念ながらもうそんな痛みなどとうに慣れてしまっている。
僕は軽く拳を握りこみ、何度か頭を振った。
――これでいいんだ。これが僕らの選んだ道なんだ。
自分に言い聞かせる。
そして。
「これで良かった。そうだろう? ……南さん」
園田さんが帰って行った方向とは逆。
彼女の死角となっていた塀の向こうに――彼女は居た。
「……うん」
小さく――響く。
「やっぱり、来てたんだ」
「……」
ゆっくりと、彼女は僕の元に歩いてきた。
視線は足元に向けられてその表情は伺えない。
「どうしてここに?」
問いかける。答えなど分かっている筈なのに。
南さんは俯いたまま、僅かに震える声で返事した。
「海未ちゃんがことりの違和感に気が付いちゃった事くらい、分かるもん。……ずっと一緒に居たんだから」
園田さんが彼女の事を理解しているのと同じく、彼女もまた、園田さんの事を深く理解していた。きっと幼馴染という関係は一方通行ではなく、相互の理解で成り立ってる。だからこそ南さんは自身の親友の猜疑心に気が付いて、僕たちの事を追って来たんだ。
追いついて、何をしようとしていたのかは分からない。
僕と一緒に嘘を並べようとしていたのか。
それとも、本当のことを話そうとしたのか。
今となっては知る由もない。
「ことりは……」
「うん」
「今のことりは、貴方の彼女だよね?」
「……うん」
「だったら、抱き着いても……良いよね?」
「……」
「……」
「……うん」
彼女は、迷いなく僕の胸に飛び込んできた。
優しく甘い香りを纏いながら、強く僕の身体を抱く。
――彼女は……泣いていた。
小刻みに震えながら、強く僕のシャツを握りしめる。僅かに漏れる嗚咽と吐息がかかり、涙が服を湿らせた。僕はどうすることも出来ず、ただただ立ち尽くす。
「ことり、……ことりはっ」
掠れた声を絞り出した。
「ほんとは海未ちゃんに嘘なんて、吐きたくないよぉ……」
なだれる様な声をあげて、彼女はむせび泣く。
共犯者が流す優しい涙。
彼女は全部聞いてしまったのだ。
そして、知ってしまった。
園田さんが自分の事を一生懸命考えているからこそ、僕を呼び止めたのだという事実に。
……いや。そんなこと、彼女たちの事だ、お互い理解し合っているに違いない。
本当に大事なのは、園田さんが南さんと僕を心から信じて疑うのを辞めたという結果。
――つまり。
自分が親友を騙し、そして……これからも嘘を重ねなくてはならなくなったという現実。
僕には、彼女の胸中を全て伺い知ることは出来ないだろう。
だけど、確かな事が一つだけ。
――僕らはもう、立ち止まれない。
ゆえに彼等は戻れない――了