河鍋暁斎の百鬼夜行図にも、そうしたものが数多く描かれています。
これはそんな現代の付喪神のお話――かな? ご笑覧いただければ幸いです
※にじうらにも投稿しております。
登場する各種名称は実在する企業・団体・個人とは一切関係ありません。
それは今から一日前の事。素直に昨日と言え? そうとも言うね。
その日、僕は仕事の付き合いで酒席の宴に参加させられた。同僚と酒を酌み交わすのさえ煩わしいってのに、何が悲しくて上司や取引先のお偉いさんと面突き合わせなければならないんだ、まったく。
ニ時間ほど狂乱の巷を繰り広げ、その後もカラオケだキャバクラだと引き回され、ようやっとお開きになった頃には僕の足元はかなり覚束なくなっていた。
遠のく意識を懸命に繋ぎ止め、どうにかこうにか電車を乗り継ぎ、後からやってくる車に轢かれそうになりながら、ろくすっぽ街灯も立っていない夜道をフラフラと歩く。
そして僕は住んでいるワンルームマンションに到着した。築一年にも満たないクセに、もう立て付けが悪くなっている玄関のドアを渾身の力で引いた。
「うわああああっ!?」
ドアを開けた瞬間、僕はものの見事にしりもちをついた。別に勢い余っての仕儀というわけではない。信じられないものを見たからだ。
この話を見ている大多数の人が多分恐らく絶対にそうであるように、僕も家を出る時には全ての照明類を消していく。光を放っているとすれば、せいぜいレコーダーの時間表示くらいのものだ。
しかし、僕は見てしまった。
部屋の中を緑と赤の光が飛んでいるのを。
(な、なんなんだ今のは!)
おっかなびっくり、僕は這うように玄関へ上がり、照明のスイッチを入れた。
室内のサークラインが蛍光灯特有の白い光を放つ。
「あれ?」
眩い光が照らす室内には、飛んでいるものなど何ひとつなかった。
ここ数日仕事が忙しくて疲れ気味のところへ今日の酒席だ。酔いのせいか、やたら眼の中を赤やら青やら黄色やらの光がチラついている。多分それを勘違いしたんだろう。
うんきっとそうだ、そうに決まってる。
僕は自分にそう言い聞かせて、ベッドの上に倒れこんだ。一瞬、スーツを脱がなきゃと思ったが、正直言ってそれさえするのもだるい。明日は休みだし、替えのスーツはあるからこのまま寝てしまおう。
そして僕は瞳を閉じた。
点けっぱなしになっている部屋の明かりも気にならなかった。
翌朝。つまり今日だね。
「お早うございます。もう朝ですよ?」
耳元から聞こえる、少し甲高い女性の声で僕は目覚めた。
誰の声だろう。少なくとも聞き覚えはなかった。なによりわざわざ朝起こしに来てくれるような女の人なんて、僕の身の回りには存在しない。二日酔いの頭痛がもたらす幻聴というか耳鳴りだろう。そうに決まっている。
僕は再び眠る事にした。――頭痛い、しくしく。
「……もう、お寝坊さんですねぇ」
女性の溜息交じりの声が聞こえたと同時に、僕の前髪は強く引っ張られた。
「いたたたたたたたっ! ――ゐっ?」
「あ、やっと起きました。お早うございます」
たまりかねて飛び起きた僕は、その瞬間ギョッとした。
僕の前髪には、身の丈十センチ足らずの、デフォルメされた女性フィギュア(のようなもの)がぶら下がっていたのだ。
青と水色をベースにしたメイド服風のドレスを身に着け、背中からは白い羽が見える。
女性フィギュア(のようなもの)が僕の目の前でニッコリと笑った。
何がなんだか訳が分からない。あまりに非現実的な出来事に直面した所為で、ただでさえ寝起きで新鮮な血液が不足気味な脳味噌が、現実逃避という名の貧血症状を起こした事だけは確かだ。
僕の上半身が後に傾き、加速度的にベッドへ向かって倒れ込んでいく。
「――!」
目の前の女性フィギュア(のようなもの)が何やら叫んだのと、僕の唇に何やら触れたのはほとんど同時だった。
次の瞬間、柔らかさと独特の丸みを帯びた質量が僕の身体全体に圧し掛かってきた。
「ん゛ん゛っ?」
ややくぐもった、悲鳴のような声が聞こえた瞬間、僕はギョッとした。
十センチほどだったはずの二頭身フィギュア(のような――いい加減くどいか)が、なんと百七十センチ前後の生身の八頭身美女に姿を変えて、僕の上に覆い被さっていた。
――ちなみに僕はおよそ身長百八十センチである。
そして、僕の唇に触れたものの正体は、その八頭身美女の唇だった。
これってキスしてるのと同じ……だよね?
突然の出来事に女性は眼を白黒させている。女性の瞳の中に写っている僕もそうだ。
「きゃあっ!」
女性は叫び、慌てて身を起こすと口を手で覆った。叫ぶタイミングがやたら遅かったような気がしないでもないが、それだけ頭の中がパニックになっていたのだろうと理解しておく。
「え、えっと、その! これは、あの、いわゆるひとつの――そう! 偶発的かつ予測不能の極めて不幸な事故であってですね!!」
何がなんだか分からないまま僕は身を起こすと、顔を真っ赤にしている女性に対しひたすら言い訳めいたフォローに努めた。
なんて言うか、経緯はどうあれメチャクチャ気まずい。
それは女性も同様だったようで、二人して俯くとそれきり黙り込んでしまった。
「――すいませんでした」
どれくらいそうしていただろう。先に口を開いたのは女性のほうだった。深々と頭を下げながら、謝罪の言葉を口にした。デフォルメ時とは異なり、落ち着いた雰囲気の声だ。
「あ、いえ。こちらこそ、その……」
頭を掻き掻き、つい口ごもりがちになる僕。女性が苦笑しながら首を横に振った。
「お気になさらないで下さい。誰だって驚いて当然ですわ」
そこで僕はようやく平静を取り戻した。女性に対し色々訊こうとしたところ、女性は掌でそれを遮った。
「お尋ねになりたい事は想像がつきます。まず、大前提となる事からご説明しますね」
「その前に、ひとついいかな?」
キョトンと首を傾げる女性に、僕は言った。
「とりあえず、僕から下りて欲しいんだけど」
朝の男は色々な意味で危険が危ない。
それと知ってか知らずか、女性は即座に僕から離れ、ベッドのそばで横座りをした。
「では。私は旅客機の魂です」
女性はそう言って得意気に胸をそびやかした。服の上からも大きさや形が丸分かりである。きっと女性は脳内で、頭上に『エッヘン!』と書き文字を浮かべているのだろう。美人のドヤ顔は――美人だから余計にと言える――正直どうかと思うが、そのマイナス印象を打ち消してプラスマイナスゼロどころかむしろお釣りが来そうな、大きくて形の良い胸に免じてノー問題。要するに不問に付しますってことで。
……そうだよ、僕はおっぱい星人さ。
それはともかく、単刀直入にも程がある。どこぞの画像掲示板住人が泣いて喜びそうな事を、溜めも作らずにシレッとサラッと一言で語ってハイ終了とは……どう思います、そこのあなた。
「信じていただけないんですか?」
何も反応を示さずにいると(正確には示しようがなかったのだが)、女性は悲しそうな瞳で僕を見上げた。
デフォルメキャラから八頭身美人に変身するところを(一応だが)目撃しているので、女性の言葉を信じないわけではない。
ただ、あまりにあっさり言われてしまうと趣がなさすぎる。
「そういうのって、もう少し勿体つけて言うものだと思ってたから……」
「なるほど。以後気をつけます」
チロッと舌を出しながら茶目っ気たっぷりに笑う女性の笑顔を見て、僕も知らず知らず笑顔になっていた。
女性の正体は、とある航空会社の国際線で活躍していたボーイング747-400(通称ダッシュ400)の魂だ。
本体(肉体? 機体?)は航空会社の機材転換方針により、日本での登録を抹消され海外の専門商社へ売却されたものの、移転先が決まらずスクラップになってしまった。
本体はなくなってもその魂(つまり女性)は健在で、ジェット気流に乗って日本へ流れ着いた。どこか落ち着ける場所はないかとフラフラ探し回っていたら、たまたま僕の机に飾られているボーイング747-400の模型が目に入ったので、その中に滑り込んだ。
「――というわけなんです」
「なるほど。じゃあ、昨夜の緑と赤の光は?」
「模型の主翼についている翼端灯です。誰もいないのを良い事に飛び回っていたものですから」
女性は平然と言うが、あの模型には点灯ギミックはおろか飛行ユニットなんて仕込まれてないし、また仕込んでもいない。首を傾げる僕を見て女性が笑った。
「あなたがいない間に、色々改造してみました。――あっ! 衝突防止灯を入れるのを忘れていました、今度取り付けますね」
「勝手にそういう事やらないで下さい!」
「それが終わったらエンジンを精密に再現しようかしら。ただのプラモデルを気合だけで飛ばすのは、結構疲れますし。あ、そうなると揚力発生装置や昇降舵、それに方向舵も動くようにしないといけませんね。それとメインギアやノーズギアも出し入れ可能に……」
スイッチが入ってしまったように、女性があれこれ頻りに呟いている。
何だか眩暈がしてきた。というか形状を再現するだけならまだしも、実際にエンジンを始動させて燃油による飛行が可能になるなんて事は、是非とも勘弁してもらいたい。火事の元です。
そんな具合に心の中でツッコミを入れていると、不意に女性の身体が揺れ、僕のいるベッドへ倒れこんできた。
僕は咄嗟に女性を受け止めようと身構えた。
しかし、女性の姿は忽然と消えた。否、最初に見たデフォルメされた姿となって、ベッドのそばに転がっていた。僕はベッドを下りて小さくなった女性をそっと両手ですくい上げた。小さな額に汗の粒が光っているのが見えた。
「大丈夫?」
僕が呼びかけると女性は微かに笑った。
「ありがとうございます。大きくなっていられる時間に限界があるんですよ」
「ということは、普段はそのちっちゃい姿?」
「ええ。私の本体、つまりダッシュ400の実機さえあれば、時間なんて気にせず……」
女性はそう言うと僕をチラリと見た。
「いつでもいつまでも、ナイスバディな姿でいられるんですけどね、ウフフッ」
女性特有の身体の丸みと柔らかさ、そして重さ。それら全ての感覚が女性の言葉を契機に鮮明に蘇った。僕の顔が熱くなっているのがハッキリ分かった。
そんな僕の心の内を見抜いたように女性が笑った。デフォルメされてはいるものの見た目は十分に大人っぽく落ち着いていて、けれどその笑顔はデフォルメされているから余計に可愛らしくて、僕の胸は自然と高鳴るのだった。
不意に女性の眼差しが真剣なそれになった。
「あの……、あなたさえお嫌でなければ、私をここに置いていただけませんか? 私には行くべきところがもうありません。依り代である本体の旅客機もありません」
「だからって……」
「駄目、ですか?」
女性が上目遣いで僕をジッと見ている。唐突な申し出だ。それっていわゆる同棲ってやつじゃないか。いくら旅客機の魂とは言え女性の姿をしている以上、独身男性の部屋に居つくのは如何なものかと思うが。
「あなたの身の回りのお世話をします。炊事洗濯針仕事はもちろん、お遣いからお留守番まで、何でもやりますから!」
炊事洗濯はともかく、針仕事とはまた古風な。
ともあれ、女性は真剣そのものだった。
「それに、疲れたときや夜はあの中で寝ますから、お部屋の場所は取りません」
模型を指さしながら懸命にアピールしてくる女性を見ていると、さすがに素気無くあしらうのは悪いような気がする。
だから僕は(我ながら意地悪な反応だと思いつつ)こう尋ねた。
「……その格好で、僕の身の回りを?」
「お仕事する時はちゃんと大きくなりますっ!」
女性はぷうっと頬を膨らませた。予想通りの反応だけど――確かに怒るよな、うん。
「もういいです! こうして一所懸命お願いしているのに……」
「とりあえず、基本的には毎日朝と晩の食事を作ってくれればいいよ」
そっぽを向こうとした女性が、不得要領といった様子で僕を見た。
「日中は無理せず休んでいてくれて構わないから」
「あの、ひょっとして――?」
女性の顔に期待と不安が半々の表情を浮かんでいる。小さな声で「ここにいてよろしいんですか?」と呟いた(ように思った)ので、僕は無言で頷いた。
女性の表情が一瞬にして明るくなった。
「あ、ありがとうございますっ!」
女性は僕の手のひらの上で、何度も何度もお辞儀をした。そして、背中の羽根をパタパタ羽ばたかせて、僕の顔のすぐ間近に飛んで来た。
「よ、よろしくお願いします。……えっと、誰さんでしたっけ?」
困ったように笑う女性だが、今の今まで名前を教えていないので無理もない。
「聡明って書いてとしあき」
「はぁ」
女性が首を傾げた。切れ長の眼がすうっと細くなり、怪しく光った。
「『聡明って書いてとしあき』さんですか。変わったお名前ですね」
ニンマリと笑う女性の額に、僕はでこピンをお見舞いした。
「……痛いです」
羽根をパタつかせながら、女性が抗議の呟きを漏らした。こちらとしても痛くするつもりでやったので当然の事である。――弾みで女性が明後日の方向に飛んでいかないよう、力を加減したのは言うまでもない。
そんな僕の気遣いを女性は承知しているはずもない。『う~』とか『む~』とか唸りながら僕を睨んでいる。外見がデフォルメされているので見た目の怖さはないのだが、何故か僕は身の危険を感じた。例えて言うなら、航空機のエンジンに吸い込まれそうになる鳥の心境だ。
「と、ところで、君の事はなんて呼べばいいのかな?」
「つーん」
涙目になりながら、女性はそっぽを向いた。
「……そうやって都合が悪くなると話題を変えるようないじめっこさんには、絶対に教えてあげないもん」
八頭身美人だった時とは打って変わった、子供っぽいものの言い方である。
唇を尖らせながらの言葉に、僕はついクスリと笑ってしまった。
女性が僕のほうを向いた。顔が真っ赤になっている。
「なっ、なんで笑うんですかっ!」
「ごめんごめん! その、よろしくね。――アナさん」
「えっ?」
女性が目を丸くした。
僕が女性を『アナさん』と呼んだのは、かつて女性が所属した航空会社のスリーレターをローマ字読みしただけで、そのこと自体は単なる思いつきで特に意味があったわけではない。
ベタ過ぎるかとも思ったが、女性はそうは思わなかったようだ。
「凄く、懐かしい気がします。その呼び方……久しぶりに聞きました」
嬉しそうに微笑む女性――アナさんの目から涙が零れ落ちた。
「改めて、よろしくお願いしますね、聡明さん」
「あ、うん。こちらこそ」
アナさんがドレスの裾をつまみお辞儀をしてくる。
僕もそれに倣って頭を下げた。今更だけど順応性高いね、我ながら。
「それで、その、聡明さんに承知しておいていただきたい事があるんです」
アナさんがはにかんだ様子で手招きした。こういう切り出し方の場合、話の内容は大きな声では言えないものと相場が決まっている。僕はアナさんの顔に耳を寄せた。
「えっと、私が大きくなっても……」
「大きくなっても?」
アナさんがヒソヒソ声で言うから、僕も自然と声が小さくなる。
「その……」
「何かな?」
よく聞き取れない。僕はアナさんに触れそうになるくらいの位置まで耳を寄せた。その瞬間、やや冷たい感触が僕の頬に伝わりすぐに離れた。
「今のは『ごめんなさい』のキスです」
「何それ」
「私は、その、大きくなってもえっちな事はしませんし出来ませんから、その事に対する但し書きというかお詫びというか……とにかくそんな意味です」
――なんなんですか、その唐突というかむしろ完全に飛躍し過ぎのお断りは。
当惑する僕を見て、アナさんは身体をもじもじさせながら笑った。もちろんアナさんにそんなつもりは少しもないんだろうけど、何故だかその笑顔が僕を馬鹿にしているように感じられた。
「……別にそんな事考えてないよ」
半ばむっとした口調でそう告げ、アナさんをベッドの脇にある書棚に載せると、僕は頭から布団をかぶった。
「ちょっと聡明さん! それどういう意味ですか!?」
アナさんの怒ったような声と羽根をパタパタと動かしている音、そして頭の辺りをポスポスと叩く軽い衝撃が布団越しに伝わってくる。
「ナイスバディな私を見ても、その気にならないって事ですか? 聡明さん、起きて下さい! 聞いてるんですかっ?」
――アナさん、さっきと言ってる事が矛盾してる気がするんだけど。
布団の向こうで顔を真っ赤にしているアナさんの様子が眼に浮かぶ。僕は思わず吹き出し笑いをしてしまった。
「~~~~っ! なんで笑うんですかっ?」
抗議の声がほんの少し湿っぽかった。きっと半ベソをかいているんだろう。
直後、布団を叩く衝撃が心なし強くなった。ただでさえ痛む二日酔いの頭に、外的な刺激は結構こたえる。悲鳴を上げそうになるのを堪えつつ、僕は布団の中で腕時計を見た。
愛用のクロノグラフは七時三十分を示している。いつもなら遅刻確定の時間帯だ。
今日が休みであることに感謝し、僕は二度寝を貪るのであった。
――次に起きたら、アナさんにキチンと謝らないといけないな――
そう心に決めながら……。
【終】
くどいようですがこの物語はフィクションです。
登場する各種名称は実在する企業・団体・個人とは一切関係ありません。