IS学園の中心で「ロマン」を叫んだ男   作:葉川柚介

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番外編 その九「俺の中の俺」

 目が覚めると、なぜか泣いている。

 

 滲んだ視界が示すその事実は、寝起きのマドカをさらに不機嫌にする。

 

「……ふん」

 

 体を起こすなり目尻を乱暴に指で拭い、それで終わりにする。何度も繰り返してきたことだ。

 どうせ夢見が悪かっただけだろう。生まれも育ちもおよそ想像を絶する最悪ぶりで、心当たりだけは無数にある。

 

 だが不思議なことに、寝ながら涙をこぼすほどの夢がどんな内容だったのか、目覚めてからも覚えていたことはただの一度もなかった。

 

 

 こうしてその日、織斑マドカは涙とともに目覚めた。

 

 

◇◆◇

 

 

「……ん? んん?」

 

 

 その日、織斑マドカは目覚めるなり自分のおっぱいを揉んだ。

 

 

◇◆◇

 

 

「……あったかい」

 

 目覚めを誘ったのは、幸せと違和感だった。

 体を包む柔らかさと温かさ。いつまでもここにいたいと思わせる何かと、自分がこんなところにいるわけがないという奇妙なざわつく感覚のせいで眠ってもいられず、寝床から身を起こす。

 妙に体が重い。もしや病気の類かと思うも、すぐにそんなことはないと気付く。あらゆる意味で病気など寄せ付けないような体になっているのだ、今は。

 

 かすむ目をこすり、せめて状況を把握しようと部屋を見渡し。

 

 

「……どこだ、ここは」

 

 

 明らかに眠りにつく前とは別の場所にいることに、呆然と声が漏れるのだった。

 

 

◇◆◇

 

 

「おーい一夏、起きてるかー?」

 

 常識というものを知っている紳士は、たとえ友人の部屋であろうとも扉を開ける前にノックをする。ノックをしないのは常識がない束さんのような人間か、常識を把握したうえで無視する刀奈さんのような人間か、一夏のようなラッキースケベの星のもとに生まれた主人公体質のヤツくらいなものだ。

 なので、そのどれでもない俺は当然こうしてノックをする。

 

 IS学園1年生寮、一夏の部屋の前。

 時刻は、そろそろ万端準備を整えていなければ1時間目の授業に遅刻の懸念が出てくるころ。しかも今日はしょっぱなから千冬さんの授業だ。遅刻は死を意味する。

 

 が、なぜか一夏が起きてこなかった。

 イケメンフェイスに朴念仁の魂と年寄りの生活習慣を悪魔合体させたような一夏にしては珍しい寝坊の気配に、寮の食堂で朝食をとっていたヒロインズはざわめき、心配し、かといって部屋に行こうにも互いにけん制し合って出し抜くことは出来ず、全員仲良くと様子を見に行くという発想はそもそも浮かばない。

 結果、女同士の暗闘が勃発する寸前に湧いた妥協案として、俺が一夏の様子を見に来る役目を仰せつかったわけだった。まあこの手の役割を任されるのは、割とよくある話であったりする。

 

「一夏ー、まさかまだ寝てるのかー?」

 

 てなわけで声をかけているのだが、返事がない。

 はて、どうしたんだろう。一夏が寝坊なんてまずありえないし、加えてこうして呼び掛けても起きないなんてことは輪をかけてありえない。

 

「……ふむ」

 

 この扉の向こうで、ありえないことが起きている。

 なので。

 

『……オラァ!』

 

 とりあえず強羅を展開して扉を殴り壊し、部屋に強行突入してみることにしました! この手に限る。

 さらば、もはや何枚目になるかもわからない一夏の部屋の扉くん。

 

 朝っぱらからちょっと騒がしいが、なにも考えなしの行動ってわけじゃない。

 なにせここはIS学園の中でも特にホットな場所だ。俺を含めて二人しかいない男性IS操縦者の、そして千冬さんの弟である一夏の部屋。そこで異常事態が起きているとなればロクでもないことなのは間違いなく、ましてや一夏は過去にファントム・タスクによって誘拐された実績もある。

 

 そして何より、俺の勘が叫んでいる。

 「今すぐ突入しなければヤバい」と。

 

 

『一夏! いるか!?』

 

 のしのしと部屋に押し入りながらさらに一夏を呼ぶが、返事がない。

 だがこの時点で俺は一夏の身に何かが起きたことを確信していた。

 部屋の床に散らばる本や食器、くしゃくしゃになったシーツ。

 お前はどこの母ちゃんだというほど家事をしっかりやる一夏の住む部屋の床が、まるで千冬さんの部屋のように汚くなっている。いや、「荒らされている」。

 

 間に合わなかったかもしれない、という最低の想像が脳裏をよぎる。

 だがその後悔はひとまず後に置くべきで、とにかく急いで一夏の安否、あるいは消息の手がかりを探さなければとベッドのある部屋の奥まで入りこみ。

 

「くっ、押し入られたか……! 急がなければ!」

 

 そこには、部分展開したと思しき雪片を器用に持って切っ先を自分の腹に突き付ける、切腹スタイルの一夏がいたのでしたとさ。

 

『って何やってんだバカー!?』

 

 叫び、友人の切腹を止める朝。

 普段の強羅のノロさからは信じられないくらいに素早くかっとんで雪片をインターセプトしながら、俺は今日という一日がまたとんでもなく厄介なものになることを確信していた。

 

 

◇◆◇

 

 

 朝。目が覚めて、マドカは食事を取りに行く。

 今ファントム・タスクが拠点としているのは廃業したホテル。隠蔽の意味もかねて内部は外側のさびれた様子とは比べ物にならないほどに整っているが、ホテルだったころの構造に引っ張られているため食事をするとなると食堂に行かなければならない。

 スコールが率いてマドカが所属するモノクローム・アバターという部隊は構成員の仲がいいんだか悪いんだかわからないことで有名で、いろんな意味で仲が良いコンビと極めて仲が悪い者たちとに分かれている。

 

 そのこと自体、マドカは大層気に入らない。

 悪の秘密結社などという立場上大っぴらには動けず、こうして潜伏拠点に引きこもらなければならない時間が極めて長い。

 自由はなく、安心もなく、信頼もない。物資は三日に一度しか来ないにも関わらず、レズのカップルは2組いる。

 

「あ」

「……なんだ、お前か」

 

 そして、そんな拠点にいるメンバーのうち、マドカとオータムは極めて仲が悪い方に入る。

 その中の悪さたるや筋金入りで、顔を合わせれば牙を剥き、訓練のタイミングがかち合えばうっかり手が滑って実弾が相手の方に向かって飛んでいくというありさまだ。

 特に恨みや因縁の類はないが、機会があったらとりあえず撃っておこうかな、と思いあっている程度には息がぴったりである。

 

「おい、エム。……その、今日は、朝飯作らないのか?」

「……はぁ?」

 

 「おいこいつ頭大丈夫かいよいよ介錯が必要になってきたか」という感想を包み隠さず表情に出してお届けしながら素っ頓狂なことを言い出したオータムを見る。朝っぱらからドンパチかめんどくさいな、とも思っていたのだが、なんとオータムの顔は至ってマジだった。マドカの表情を追求しないほどに、だ。

 

「いや、昨日言ってただろ。『病は食から。食べるという字は人を良くすると書くってな』って、なんかすごい手慣れた感じで作ってたし、これから毎日作るって言ってただろ」

「……正気か?」

 

 この場合、マドカにとって疑うべきは自分が本当にそんなことを口走ったか、ではなくオータムのSAN値だ。それほどに、マドカのキャラからかけ離れている内容だった。何をどうしたらマドカが朝食を、しかもオータムの朝食を世話しなければならなくなるというのか。というかいつの間に病の話になったのか。

 何をバカなことをと嘲笑いながら、マドカは食糧庫に積み上げられた適当なカロリーブロックを取り、かじって食事を終わらせる。マドカにとっての食事とは楽しみではなく必要最低限のエネルギー補給に過ぎない。

 

「……む?」

 

 だというのに、どうしてだろう。

 今日ばかりは、とても味気なく、飲み込みがたく感じてしまうのは。

 

 

◇◆◇

 

 

「おはよう」

「あ……お、織斑くん」

「おはよう、ございます……?」

 

 織斑一夏はその日、教室に入って挨拶を一声投げるなり、クラス中の視線の集中砲火を浴びた。

 その圧たるや思わず一歩下がってしまう程。IS学園における男である以上珍獣扱いには最近慣れてきたつもりだったが、この反応はさすがに意外だった。そういえば入学したての頃はこんな感じだったなあとまだ1年と経っていない過去のことを思い出しつつ、いまさらになってそんな視線を向けられる意味の不明さに一夏は少しだけ不気味なものを感じた。

 

「……一夏、今日は普通なんだな?」

「普通ってなんだよ?」

 

 そして、最初に面と向かって声をかけてきたのは友人である神上真宏だった。

 なんとなく、クラス中から興味はあるんだけどいまいち近づきづらいから何とかしてくれという押し付けオーラが真宏に寄せられていたような気もするが、まあ割といつものことだ。

 

「いや、昨日みたいにいきなり切腹しようとしたり、妙に目つきが鋭かったり、千冬さんの顔見て泣きそうになったりしないのかなと」

「……真宏、お前夢でも見てたのか?」

「と、昨日はこのクラスの全員がお前に思ってたんだよ!」

 

 何が何やらわからない、というのはお互い様。どうにも致命的なまでの認識の齟齬があるらしく、話が通じている気がしない。

 

「え、マジで覚えてない系? 昨日模擬戦の相手をお願いしてきた女の子を全員ドSな笑顔で返り討ちにしたことも?」

「何人か、ボコボコにされた上に踏まれて何かに目覚めてたよね」

「なにそれこわい」

「まるで人が変わったみたいだったんだぞ? 中に人が二人くらいはいってそうな怪人にでも入れ替わったか心配してたんだ」

 

 しかしそんな一夏の様子を見ていつも通りと理解したか、遠巻きにしていたクラスメートたちがようやくいつものように寄って来た。一夏としてはいまだよく理解できていないのだが、この様子を見ても自分は正常であったと言い張れるほど太い神経はしていない。

 

「一夏、本当に大丈夫か? もし具合が悪いのなら大事を取って休め」

「お熱はないようですわね……でも、少し用心したほうがいいかもしれません」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくる箒と、額に掌を当てるセシリア。やけに近い箒の髪から漂う得も言われぬいい匂いと、少しひんやりとしたセシリアの指の細く滑らかな感触が妙に心地いい。

 

「無理しちゃダメよ。真宏みたいに頑丈ってわけじゃないんだから、もしどっか悪いなら早めに直しておかないと」

「もし授業の途中でも辛くなったらすぐに言ってね? 保健室まで送っていくから」

 

 鈴とシャルロットも心底心配してくれているのだろう。いつもなら煽りの一つも入れてくるだろう鈴まで素直で、シャルロットは眉がハの字になってしまっている。どうやらいまいち覚えていない昨日は本当にいろいろあったらしいと思い知る。

 

「何か私にして欲しいことがあったら言うがいい。……添い寝か? 私は一向に構わんッ! 布団を敷こう、な!」

「ラウラ、落ち着いて。それなんか方向性が違う」

 

 ラウラはいつも通りで、簪がストッパー。いつもの専用機持ちのメンバーだった。

 まあそんな感じでのほほんさんをはじめとしたクラスメートからも昨日の一夏の様子は次々に教えられた。

 曰く、いつになく鋭く冷たい目つきで睨まれると燃えた。

 曰く、妙に口調が荒くてちょっぴり新鮮。

 曰く、千冬のことを呆然と、しかしどこか涙ぐんで見つめていた。

 

「まるで別人のようだったぞ。あれはいったい何だったんだ?」

「いや、俺にも何が何だかさっぱり……」

「アレかしら、並行世界の記憶が流入的な」

「最近流行りの異世界転生というヤツかもしれん」

「お、おう……」

「真宏、なんでうろたえてるの?」

 

 などなどなど。

 次々齎される情報は詳しく聞きたいような全力で聞こえないふりをしたいような一夏だったが、全てを聞き終える前に鳴り響いたチャイムの音が学校の始まりを告げる。もうじき担任の千冬がやってくる。そのときまで立ち話などしていたら命が危ない。本能レベルで刷り込まれた感さえあるその純然たる事実に従い、話はいったんお開きとせざるを得なかった。ほっとしてなんていない。断じていない。

 

「朝だ。連絡事項を伝える。聞き漏らすなよ」

「はい! 織斑先生!」

 

 朝からクールな姉の千冬が教室に入るなり雑談もなしに本題に入るいつもの様子を眺めながら、しかし一夏は気もそぞろだった。

 真宏の、そしてクラスメートの反応が妙に気にかかる。

 昨日の一夏の様子など、いつも通りだったに決まっているではないか。朝起きて、朝食を作って、みんなに食べさせて……。

 

(……え? 誰に、食べさせたんだっけ?)

 

 そこで違和感に気付く。

 IS学園には寮にも校舎にも食堂があるが、それでも一夏はこれまでの習慣で料理をすることもある。だが、朝から誰かの分の朝食まで用意する、などということはさすがにそうそうあることではない。

 ありえなくはないことだが、ならば一体誰のために食事を用意したのか。真宏や箒たち友人のためか。悪ふざけをして一夏の部屋のベッドにもぐりこんでいた楯無にねだられてか。千冬の少々乱れ気味な生活を心配してか。

 どれもありそうで、どれ一つとしてしっくりくる記憶はなかった。

 

「一夏、授業始まるぞ」

「え、あ……お、おう。ありがとう」

 

 そんな思考に没頭しすぎたせいか、いつの間にか1時間目の授業が迫っていることに声を掛けられて初めて気が付いた。

 声をかけてくれた箒も心配そうに見ている。何が何だかわからないが、とりあえずいつも通りにしなくては。

 一夏はそそくさと教科書とノートを取り出す。IS学園の授業はIS関係の技術的な科目はもとより一般教科の類もレベルが高く、気が抜けない。せめて前回の授業でどこまでやったかを見直そうとさっそくノートを開き。

 

 

『お前は誰だ』

 

 

 ページ全体を使って大きく書かれたその問いに、息が詰まった。

 

 

 見たことのない、筆跡だった。

 一夏のノートに、きっと一夏のペンで、しかし見覚えのない字で書き手の疑問と戸惑いの強さを示すように大書された誰何。呼吸の仕方を忘れた喉がひりひりするようだった。

 

 何かが起きている。

 訳が分からない状況で、しかしその確信だけははっきりと胸の中で形を結び、息を詰まらせた。

 

 

「……おい真宏、この落書きお前が書いたのか」

「もちろん」

 

 ちなみに、そのページの片隅にはこの問いへのアンサーらしき文言と二人の男がプールの中に落ちてぶくぶく沈んでいるらしきイラストがめちゃくちゃ見覚えのある字と筆致で書かれていたので、ちょっとだけ冷静になれました。この友人は、毎度感謝していいのか怒ればいいのかわからない。

 

 

◇◆◇

 

 

 その日、マドカの寝起きは不機嫌だった。

 いや、そもそも不機嫌でない時間など1秒もないような性格と表情を常からしているのだが、それでもとびきりだった。

 

 目元をぬぐった指先が濡れる。

 ああまたか、と朝っぱらからいら立ちがさらに1段階増し、この正体不明の怒りがどうせまた夢のせいなのだろうと確信する。

 最近、この秘密基地に起居するファントム・タスクメンバーからの視線が生暖かい。何かを期待するような目で見てきて、睨みつけてやるとまたいつものか、とばかりに首をすくめてすごすごと引き下がっていく。

 まるで、自分だけ知らされていない作戦の詳細を周り全てが知っているような、知らないままでいることが死に直結するような不安感があった。

 

「今日あたり、適当なヤツを締め上げて調べてみるべきか……ん?」

 

 いい加減嫌気がさしてきたので、脳内で情報を得るための拷問プランを組みながら伸びをしたマドカであったが、そんな思考が一瞬でぶっ潰される違和感を部屋の中に認めた。

 危険の類ではない。害意や殺気の類であればたとえ眠っていても飛び起きる。

 そんなマドカが全く気付かず、しかし目にした瞬間自分の頭が破裂するかと思う程の場違い。せっかく伸ばした間接も固まるその衝撃。

 

 

 壁際のハンガーにかけられた、ほぼ1枚布で作られたそれ。

 いわゆる一つの、エプロンである。

 

 

「なんだこれは……なんだこれは!?」

 

 適当な布で作ったらしい、至極シンプルな形のエプロン。しかし手縫いらしき縫い目は丁寧にして緻密。胸元の鮮やかなワンポイントの花の意匠はなんと刺繍である。

 言うまでもなく、マドカの部屋には昨日までこんなものはなく、トチ狂いでもしなければマドカがこんなものを自身の部屋に置くはずはなく、当然そんなことをした記憶もない。

 これならどっかのIS操縦者の首でもあった方がまだ納得できる。織斑マドカとはそういう少女だ。殺伐としすぎていて泣けてくるが。

 

 そういえば、と部屋の様子も改めてうかがってみると、こちらも違和感だらけだった。

 さっきまで寝ていたので皺だらけになっているが、シーツはしっかり洗濯されたらしく清潔だ。

 床は隅々まで清められて埃もなく、衣類を収めてある引き出しを開けてみれば全てきれいに畳んで収められている。当然、マドカはそんな律儀なことをしたためしがないし、この隠れ家に潜んでいるファントム・タスクのメンバーもまたハウスキーピング役などいるわけもなかった。

 必然的に、こう結論を下さねばならない。

 

 「これらのことは全て、マドカ自身がやったのだ」と。

 全く記憶にないにも関わらず、である。

 

 

 事ここに至っては、マドカはもはや断定するしかない。

 夢物語の類としか思えない、一つの事実を。

 

 

「まさか……!」

 

 

◇◆◇

 

 

 事ここに至っては、一夏はもはや断定するしかない。

 夢物語の類としか思えない、一つの事実を。

 

「もしかして……!」

 

 

◇◆◇

 

 

「私たちは夢の中で……」

 

「俺たちは夢の中で……」

 

 

「「入れ替わってる!?」」

 

 

◇◆◇

 

 

 認めたくない、しかし認めざるを得ない事実を一夏とマドカはほぼ同時期に確信した。

 入れ替わりのトリガーは眠ること。周期はまちまち。一度眠って入れ替わった後は、再び夜に眠るまで心が相手の体と入れ替わっている。

 自分以外の誰か、異性と入れ替わっているということはわかっているが、入れ替わり中は体だけではなく記憶の一部も共有して、しかも元に戻って目覚めるとほとんどのことを忘れているらしく、互いに相手が誰かはよくわかっていない。

 まあ、わかっていたらそれはもう大変なことになっていたのは間違いないが。

 

 ともあれ、一夏とマドカは状況を認めたうえで、互いの生活を守るためにルールを定めた。夢のような現象だからか互いに記憶がはっきりせず、直接の連絡を取り合うことは不可能。手段は必然的に紙に直接書き記すという交換日記のようなものになったが、やり取り自体は可能だったのが幸いし、なんとか話をつけた。

 互いの生活に干渉しない、人間関係を壊さないためのルールを。

 

 なぜならば。

 

『おい! 昨日2年生の先輩から模擬戦の相手を頼まれたぞ! 「今日もいっぱい踏んでください。あ、私を見るときは養豚場の豚を見るような冷たい目でお願いします。……そう! 今のその目からもっと興味とか削ぎ落した感じ!」とか言われてな! やり過ぎるなってあれほど言っただろ!』

『そういうお前こそ、なんだこのハンカチやらスカーフやらの山は!? 刺繍の受付ってなんだこれ! オータムが色気づいてバラの刺繍とかつけてたの見たときは面白過ぎて爆笑して決闘騒ぎになったわ!』

『頼まれたんだから仕方ないだろ! ていうか最近女の子たちが俺を見る目が妙に熱いんぞ!?』

『こっちだってレズ共から妙な目で見られてるわ!』

『なんだと!?』

『やんのかコラァ!』

 

 

 とまあ、こんな感じになるからであった。

 二人の心の平穏は、遠い。

 

 

◇◆◇

 

 

「はぁ……」

 

 IS学園の屋上で、一夏がため息をついている。

 時刻は昼休み。食堂で、教室で、あるいは学園内のベンチでとあちこちで生徒たちが昼食に興じている。

 

「また入れ替わりか……。しかも財布を忘れた」

 

 そんなときに見事なぼっちぶりを晒している今日の一夏は入れ替わりモードだった。

 しかも寝坊をしかけて焦って出てきたためにうっかり財布を忘れ、弁当の用意などするはずもなく、授業の一環として行われた模擬戦で相手の一般生徒をボコボコにして恍惚とした表情でビックンビクン痙攣されてドン引きしたりなど、一筋縄ではいかない日常を過ごして何とかここまでやって来た。

 

「はぁ、一体この現象はなんなんだ。……それに、私は誰だ」

 

 この入れ替わりの難儀なところは、確かに入れ替わっているのに、「誰が」入れ替わっているのかはっきり把握できていないことだ。

 どうも、人格の入れ替わりに伴う記憶の共有のせいか、記憶の混濁が発生しているらしい。

 初めて入れ替わりが起きたときは自分の名前も教室で使うロッカーの位置もわからなかったが、不思議と自分が来るべき教室はわかっていた。

 クラスメートも誰と仲が良く誰とあまり話をしないか程度のことはなんとなく察しが付く。

 一方で、この体が自身のものではないということはわかっているのに、ではもともとこの人格の持ち主であった自分が何者であったかは、名前すら思い出せない。

 女であったことは間違いない。一夏と比べて殺伐とした生活をしていたような気がするし、なにがしかの因縁があったようで胸の奥がざわざわする。だが詳しく思い出そうとすると頭に靄がかかったように考えがまとまらず、どうしてもそこで止まってしまっている。

 

 眠ることがトリガーとなっている夢現であることが原因なのか、地に足がつかないこの状態は決して好ましいものとは言えなかった。

 まして今は空きっ腹。頭が痛いことこの上ない。

 

「さーてメシメシ……って、一夏じゃないか。どうしたんだこんなところで」

「フン、お前か」

 

 そしてなお悪いことに、真宏までもが現れた。

 誰とも会いたくないから来た屋上だというのに、どうしてこうなるというのか。

 だからと言ってもはや立ち上がるのすら億劫で、とても立ち上がってどこかへ逃げる気にもなれないが。

 

「顔が見えないから食堂にでも行ったのかと思ってたけど……その様子だと昼飯食ってないな? またいつものアレみたいだし」

「余計なお世話だ」

「授業中も上の空だったじゃないか。3時間目は窓ばっか見てたし」

「まど……か?」

「窓ばっか、な」

 

 なにせ、この男はおせっかいだ。

 一夏の人格入れ替わりを詳しく把握しているわけではないが、幼馴染の経験と勘でかすぐに気付いてくる。それでいて腫れものを触るような扱いをするでもなく、一部の女子生徒のように目の色を変えてお近づきになろうとしてくるわけでもない。

 あまりにも自然体の、友人がその日の気分で髪型を変えた程度にしか思っていない節がある。

 

「まあそれもまたよし、か。腹減ってるだろ? 今日は弁当作ってきたから一緒に食おう。俺が弁当作るといつもクラスのみんなが食べたがるから、多めに作ってあるんだ」

「……簪はどうした。振られたのか?」

「いや、今日は女子会だってさ。箒たちと一緒に食堂行ったよ」

 

 ベンチの隣に遠慮なく座ってくる真宏の手には、割と大きな包みがある。料理が得意、というより幼いころから家事全般を一人でこなしてきたという年季の入った弁当作り。それがこの男の数多いような少ないような特技の一つだ。

 包みの布をほどくと、中から出てくるのは飾り気のない弁当箱が2段。ふたを開ければ、中から出てくるのは大ぶりなおにぎりがみっしり詰まったものと、からあげ、卵焼き、ウィンナー、野菜のマリネ、アスパラベーコンとひねりがなく、しかし腹が疼くラインナップのおかずの数々だった。

 それをいったん置き、大きな水筒から麦茶を注ぎ、当たり前のような顔で差し出してくる。まるでおかんのようだ、といたこともない母とはこんな感じだろうかと思わされてしまう。

 

「女子会だと?」

「最近の一夏の様子がおかしいね会議らしいぞ」

 

 

◇◆◇

 

 

「あなたはいつものちょっと優男風イケメンの織斑くんが好き! 私は最近たまに見えるタイプワイルドでちょっと冷酷な織斑くんが好き! そこになんの違いもありゃしねえだろうが!」

「違うのだ!」

 

 

◇◆◇

 

 

「クラスのみんなと一緒に、こんな感じの議論を交わすらしい」

「なんだそれは」

 

 割とドン引きものな会議が繰り広げられているとのことだったが、スルーしておくことにした。IS学園ではよくある話だ。

 

「ほら、それより遠慮せず食え食え。なんかそうなってるときの一夏はいつも食事がおざなりだからな」

「余計なお世話だと言っているだろうが」

 

 とかなんとか言いながらも、マドカはおにぎりを手に取った。

 神上真宏という男は強引な奴で、こういう時にはたとえ笑顔であっても一切引かないということを、混じり合った記憶と実感の双方で理解している。

 

 

「いただくぞ。あ……むぐ」

「はいめしあがれ」

 

 なので、さっさと済ませてしまうに限る。

 どうもこの体は元の女の体より健啖にできているらしく、おにぎりの1つや2つは飲み物扱いでするっといけることは確認済だ。さっさと食べ終わってまたどこか一人に慣れるところを探そうとかぶりつき。

 

「…………………………………………」

「ん、どした?」

 

 そのまま、固まった。

 否、正しくは「口以外が」固まったのだが。

 真宏が見ている前で、ぴたりと動きを止めた体の中で口だけがおにぎりを咀嚼する。

 飲み込めば2口目、3口目と止まることなく食べ続ける。

 

「……ほら、箸。おかずも食え。あとおにぎりの具もいろいろあるぞ。今のは鮭だったけど、梅干しとかツナマヨとか葉唐辛子の佃煮なんてのも用意した」

「茶の用意を頼む」

 

 この食事を終えるまでに、まともに発した言葉はこれが最後となった。

 

 おにぎりにかぶりつく。から揚げを食べ、卵焼きを食べ、ウィンナーを食べ、茶で流し込む。一つ目のおにぎりを食べれば2つ目に、それが終われば3つ目に。手が止まることは、なかった。

 

 

「なんだ……なんなんだ、これは」

「いや、それは俺が聞きたい。気に入らなかった……わけじゃないよな、うん。やけにがっついてたけど、そんなに腹減ってたのか?」

 

 そういうわけではない。

 空きっ腹を抱えていたが、こんな程度とは比較にならないほど飢えたこともある、気がする。

 だがそれでも、あのおにぎりを一口食べたときから止まらなかった。

 

「どういうことだ。何かおかしなものを入れたのか? ……なぜ、こんなに胸が熱い。苦しくないのにたまらない。どうして、どうして目まで熱くなる!?」

「……さあな」

 

 一夏は胸をかき抱く。夢中で食べたものが、確かにこの体の中にある。当たり前のことであるはずなのに、こんな感覚は知らない。未知のなにかが自分の中で暴れまわって、大声で叫びを上げそうだ。

 いや、全くの未知のものではない気がする。かつて、はるか昔にはこの感覚を知っていたのかもしれない。そんな懐かしさと、しかしそれを評する言葉を知らないもどかしさがいまの一夏を苛んだ。

 

 暴れる何かを抑えることに忙しいから、一夏は熱くなった自分の目からこぼれるなにかに、ついぞ気付くことはなかった。

 

 

「一夏、今日の弁当の中で何が一番好きだった?」

「なんだ、いきなり」

 

 一夏が落ち着くのを待って、真宏は声をかけた。

 さっきまでの様子を心配するでもなく、詮索するでもないその接し方は、ありがたいと自覚することさえできないほどに自然で、一夏もつい会話を続けてしまう。

 

「からあげは下味をつけておいた。ウィンナーはコショウをキツめにしておくと弁当にいい。IS学園は色々いい野菜もあるから、アスパラベーコンは小細工なしで美味いし、野菜のマリネも箸休めにはいいだろう。何が気に入った?」

「……卵焼き」

 

 ぽんぽんとあげられるおかずの名前と、口の中によみがえる味。夢中で食べたのに不思議と思い出せるのは、これほど美味い食事をこれまで味わった記憶がないせいか。

 だから、俯き気味に真宏の顔を睨みながら口をついて出たのは、ついつい最後までとっておいてしまった一品の名だった。

 

「そうか。出汁からこだわってるだし巻き卵、気に入ってもらえたようで何よりだ。……そういうところは、千冬さんそっくりだな」

「千冬姉……さん」

 

 その名を聞くと、その姿を見ると、それだけで胸が痛くなる。

 近づきたいような気がする。だがその末に抱きしめてほしいのか、その喉笛に刃を突き立てたいのか、それがどうしてもわからない。だがきっと、この気持ちを人は「大切」と呼ぶのだろう。この心も体も、その見解だけは一致している。

 そんな千冬とそっくりと言われると、どうしてかとてもこそばゆい。

 

「ま、それだけ聞ければ十分だ。また作ってやるよ。……だから、食べにこい」

「そう、か。……そうか。それも、いいかもしれんな」

 

 織斑一夏は入れ替わる。

 入れ替わっている間のことは夢現。今自分が何者なのか、入れ替わる前の自分が何者だったのかも曖昧で、確かなことなど一つもない。

 いつもいつも、入れ替わっていることを示す互いの行動記録の外はうっすらとした自覚しか残らない、一夜の夢。

 

 だがそれでも。

 今日味わった真宏の料理の味と、この約束だけは、決して忘れずにいられる気がした。

 

「……ああ、今日はこんなにいい天気だったのか」

「そうだとも。……眠そうだな。すこし寝たらどうだ。昼休みが終わる前には起こしてやるから」

「……そう、だ……な」

 

 眩しい日の光に目を細め、そのまま瞼を閉じる。

 まるで日差しの中に溶けていくような心地よさに包まれながら、自分が眠りに落ちていくことを自覚する。

 

 これならきっと、最高の気分で目覚められそうだと確信しながら。

 

 

◇◆◇

 

 

「んんぅ……?」

「やっと、目を覚ましたか。おはよう、一夏」

「俺、寝てたのか……?」

 

 一夏が目覚めると、隣に真宏がいた。

 寝ぼけ眼であたりを見渡すと、そこは見知ったIS学園の屋上。空は晴れて、太陽は高い。どうやら昼休みだったらしい。

 

「……んー、ひょっとして、俺たち二人で昼飯食ってたのか?」

「そうだぞ……って、ああ。そうか、一夏なんだな。おかえり」

「……ただいま」

 

 いくら眠っていたらしいとはいえ、一夏は自分の記憶のあまりの脈絡のなさに入れ替わりが起きていたことと、元に戻ったことを自覚する。普段は昼間に寝ても入れ替わらないのに、という疑問は一瞬浮かび、夢の残滓とともにすぐ消えた。

 

 そんなふわふわした一夏の態度を前にしてもいつもと変わらぬ様子のこの友人は、ひょっとして全てを知っているのではないだろうか。ふとそんな予感が一夏の脳裏をよぎるが、聞かずにおくことにする。それを聞いてしまうのは、少々無粋な気がした。

 きっと一夏が入れ替わりで様々なことを体験したように、一夏と入れ替わっているあの子も、そしてそんな一夏と触れ合う真宏たちもまた、何かを得ているはずだから。

 いつまで経ってもはっきりとはしない夢幻の一幕は、無理に言葉にすればかき消えてしまうだろう。

 

「夢を見てたよ。俺じゃない誰か、女の子の夢だ」

「へえ」

「その子は、なんていうか……寂しい子だった。俺には千冬姉がいて、箒たちがいて、真宏がいる。でもその子には、何もなかった。よくは覚えてないけど小さな支えに縋って、強がって、ピリピリしてたよ」

 

 目を閉じると、よく晴れた空から降ってくる日差しが目蓋越しにもわかる。

 いい天気だ。だけど少しだけ残念に思う。こんなにも眩しいと、わずかに残る夢のかけらまで光に溶けてしまいそうだから。

 

「だけど、悪い子じゃないと思う。失くしたものを取り戻したいって、ただそれだけが強かった。……だからさ、もしもその子に会うことができて、俺がその失くしたものを埋めてやれたらいいなって、そう思ったんだ」

「一夏らしいよ、本当に」

 

 真宏はただ一夏の言葉を聞いている。

 昼寝の合間に見た夢の話などという与太話を、笑いもせず、茶化しもせず。

 いつの間にか目の前に差し出された白い何かは、真宏が広げていた弁当に残っていた最後のおにぎりだった。しかもなぜか卵焼きを乗せて。器用なことである。

 さんきゅ、と口にして一夏はそれを受け取り、かぶりつく。美味い。真宏の料理の腕は自分に匹敵していると改めて確認する。

 なんかすでにおにぎり5個くらい食べたんじゃないかというくらい腹が膨れていてちょっと苦しいが、それでも今日のおにぎりは、そして卵焼きは妙においしくてもりもり食べられる。

 

「……でも、少ししょっぱいぞ」

「そうだろうなあ」

 

 不満と言えば、その程度。

 頬を伝うのは、きっと日に当てられてかいた汗か何かだろう。何度も味わったことのあるはずの真宏の弁当の味が、なぜか今日はこの上なく尊く思えた。

 

 

◇◆◇

 

 

 交わるはずのない二人が交わった。

 そのことを奇妙と呼ぶべきか、奇跡と呼ぶべきか。

 

 紡がれたかすかな縁が、今後切れるか何かを繋ぐか。

 それはまた、いつか未来のお楽しみ。

 

 

 しかしそれでもただ一つ、科学万能この世の中で、かくも不思議な入れ替わり、いかなる理屈で起きたるものか。

 この広い天の下、神ならぬ身で知りうるものがいるや否や。

 問うて答えが得られるものかと言いますれば。

 

 

 

 

「それも束さんだ」

「そして、私のワールド・パージです。いっそレクイエムと呼びましょうか」

 

 どこともなく、脈絡もなく、そう呟く黒幕系うさ耳マッド天災女と、その娘を自称するクールな銀髪両目つぶり少女がいたとかいなかったとか。世の常である。

 

「いやー、控えめに言って最高だったね。なんで男の子の中に女の子が入ったらイケメンになって、女の子の中に男の子が入ったら女子力上がるんだろう」

「織斑家の神秘ですね」

 

 そう、この不可解な入れ替わり現象の首謀者はもはやいつもの感溢れる束とクロエの暗躍によるものであった。

 特に意味もなく趣味として活用している、クロエのIS黒鍵が誇るワンオフ・アビリティ<ワールド・パージ>。電脳空間において仮想世界に押し込む能力と、現実においても人間に幻覚を見せる能力をいい感じにミックス。ISのコアネットワークも使って人の意識を入れ替えることに成功したのだ。

 

「で、どうくーちゃん。入れ替わりは他にもできそうかな。たとえば束さんと箒ちゃんを入れ替えていっくんとの仲を進展させてあげたり、束さんといっくんを入れ替えてちーちゃんに思い切り甘えたり」

「それは……まだ出来ないようです。どうやら相性の問題が絡んでくるようなので、今のところ入れ替えられるのは織斑一夏とマドカだけです」

 

 しかも、情け容赦のない人体実験である。この二人に常識的な倫理観は存在しない。

 

 だからこの入れ替わりには意味もなければ目的もなかった。

 手段があり、興味があり、やらない理由がない。ただそれだけで束はどんなことでもしてのけるし、クロエは束がやりたいと言い出したことを止めるつもりが一切ないのだから。

 

 

 それでも。

 行動に意味がなかったとしても、巻き込まれた者たちがその結果に意味を見出すことはある。

 互いを互いとはっきりとは理解しないままに入れ替わり、境遇を知った一夏とマドカ。

 

 結んだかすかな絆を頼りに、きっと二人はまた出会う。

 この入れ替わりの意味は、その時にこそ問われるだろう。

 

 

 二人は自らの口で問うだろう。

 知っている顔、知っている名前。なのに知ることのなかったあの時の分を改めて。

 

 「君の、名前は」と。


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