2014年8月30日投稿。
作戦終了の報告書を手に執務室に向かう途中、ふと、自分の左手を見やった。
薬指に嵌った指輪が、小さく光を反射している。
――司令官とそういう関係になったからと言って、私達は何も変わらなかった。
司令官は今まで通りだし、私も今まで通りだ。いつものような会話をして、いつものように出撃するだけ。
名目がどうなろうと、その中身は今までの関係と何一つ変わっていない。司令官と、艦娘。それだけだ。そこに男女としてのあれやこれやは一切と言って良い程無い。
まあ、そういう事に夢中になりすぎて自分の役目を疎かにするよりは、ずっと良いだろうが。
……けれど、折角そういう関係になれたのだから、それっぽい事をしてみたいとは、勿論思う。
でも、私からそんな事を言い出そうにも……恥ずかしいし。司令官は司令官で、自分から積極的に来るような人間ではないし。
だから、私達は今まで通りだし、多分これからも、少なくともしばらくはそのままなんだろう、と。
でも――いつかは、そう、例えば、キスとか。そういう事も、してみたい、とか。
そんな事を考えながら、執務室の扉を開いた。
「司令官、今戻ったぞ。報告書を……」
言いながら、執務机に近付いて司令官に視線を向けたところで、言葉を止める。
――司令官は、背もたれに寄りかかって静かに寝息を立てていた。
「……はあ」
多分、疲れていたのだろう。まったく、人にはちゃんと休息を取れなどと言う癖に、自分はこれだ。
……まあ、司令官がいつも頑張っている事は、私が良く知っているし、今日はこれから特に予定も無い。この報告書だって、早急に目を通す必要がある様な内容では無い。
だから、しばらく寝かせておいても良いだろう。そう思って、報告書を机に置いて、司令官の隣の秘書艦用の椅子に座った。
横を向いて見上げれば、司令官の寝顔がすぐそばにある。
――その寝顔は、本当に無防備で。
「……仮にも軍人だと言うのに、無警戒な事だ」
今なら、何をしても、気付かれなさそうな。
「……」
……今、なら。
今なら、司令官は寝ている訳だし、周りには誰もいない。この空間で何が起こっても、それを認識出来るのは、私だけだ。
つまりそれは――今なら、誰にも気付かれずに、キスだって出来るだろうと、そういう事で。
別に、遠慮する事も無い筈だ。私達の関係からして、キスくらいしたっておかしくはない。いや、むしろキスの一つもしていないという現状の方がおかしいだろう。その先まで進展していても良いくらいだ。
だから別に、これは変な事でも悪いことでも無いし、そもそも本来なら恥ずかしがるような事でも無いのだ。
――立ち上がって、司令官の顔と、私の顔とを近付ける。私の背丈では、椅子に座った司令官の顔の位置が、やや屈んで丁度くらいの高さだ。
少しずつ。少しずつ、司令官との距離が狭まる。静かに吐き出される司令官の寝息が、顔にかかるのを感じる。
あと、少し。ほんの、少し――
「――いや、やめておこう」
あと1センチも無いだろうという距離まで近付いたところで、私はそれ以上進まずに元の椅子に座り直した。
――だって、これじゃあただの自己満足にしかならない。
ちゃんと、自分の気持ちを、司令官に伝えなければ、意味が無い。
「……難しい事じゃ、無い筈なんだがな」
たった一言伝えれば、済む話なのに。
でも、私にはそんな勇気が無い。
戦場で果敢に戦う勇気があっても、好きな人に自分の望みを伝えるだけの勇気が、無い。
「ただ、キスがしたいんだ、って。そう言えば良いだけなんだが――」
そう独り言ち、そろそろ自室に戻ろうかと立ちあがり――
「……」
「……」
――司令官と、目が合った。
「……えっと。起きてたのか?」
「……」
――頷く司令官。
「……その。もしかして、もしかしてだが。最初から、起きていたのか?」
「……」
――頷く司令官。
「……」
……ええと。
それは、つまり。
キス未遂とか、独り言とか。
全部、筒抜けという事で。
「…………あ、あう」
――その事を認識した瞬間、顔面が燃えているかのように熱くなる。口からは無意識に間抜けな声が漏れる。
たぶん、今私の顔は真っ赤だろう。鏡を見なくてもはっきり分かる。
というか、まずい。司令官の顔をまともに見れない。目を開けていられない。いや、それどころか、司令官に見られているというだけで溶けて消えそうだ。
何か言おうにも、頭はショート寸前でまともな思考が出来やしない。この場から離れようにも、身体は強張って動かない。
い、いや。まずは落ち着け、落ち着くんだ私。別に、怒られるような事をした訳でも、嫌われるような事をした訳でも無いんだ。そう、そうだ――
――ぽふん。
――なでなで。
「……うん?」
頭頂部に、なんとなく違和感。
閉じていた瞼を開くと、いつの間に近付いてきたのだろう、目の前に司令官がいる。
その右手は私の頭の上に伸びており、ゆっくりと私の頭を撫でていた。
「……」
「……」
その手つきは、不器用だけど、優しくて。
その表情は、柔らかい笑顔で。
――ああ、やっぱり私は、この人の事が好きだなあ、と。
少しずつ心が穏やかになるのを感じつつ、改めてそう思った。
「……司令官。一つ、頼みがある」
そうして、少し経って。
だいぶ気持ちも落ち着いたところで、そう切り出す。
司令官は手を止めて、私の話に耳を傾ける。
何を言おうとしているかくらいは、もう分かっているだろうけど。
「……え、えっと、その」
やっぱり、物凄く恥ずかしい。
それでも、言わなくちゃいけないだろう。
ちゃんと、自分の口で。自分の言葉で。
「……キスが、したい。司令官――ううん。大好きな、あんたと」
――言えた。
「……駄目、かな」
「……」
司令官は、少しだけ考えた様な素振りをした後、屈んで顔の高さを私に合わせる事で応えた。
「――」
「――」
――目を、瞑る。
首筋に、司令官の手が当てられたのを感じ、そのまま身を任せる。
それから、永遠の様にも思える、けれど時間にしてみればたったの数秒程度であろう、そんな間の後。
私の唇と司令官の唇とが重なるのを、微かに――それでも、確かに感じた。
……目を開く。
今まで通りの司令官の顔が、いつもと変わらずそこにあった。
「……えっと、さ」
何か洒落た事でも言おうかとも思ったが、そんなのは私には――私達には、あんまり似合わないだろう。
だから、素直な気持ちで。思い付いたままの言葉を。
「……これからもよろしくな、司令官。艦娘としても――そ、その、恋人と、しても」
「……」
司令官は、ちょっと照れ臭そうに笑って。
私も、同じ様に笑い返した。
――そんな、ある日の午後の一時。