――――阿礼乙女といえば、この幻想郷で彼女の名前を知らない者はおそらく存在しないだろう。
人間のみでありながら幻想郷の歴史を綴る役割を担う家系。血統による相伝ではなく、乙女本人が転生を繰り返すことによって幻想郷を後世へと残していくという、幸か不幸か判別しづらい立場。私から言わせてもらうと、個としての記憶、意思がなくなる時点で己が死んだも同然であるから、あまり好ましいものとは思えない。
さてさて、そんな現代における阿礼乙女、稗田阿求であるが、彼女は私にとってちょっとばかり危険な人物として認識されている。本人は否定するだろうが、危険度極高の少女として、だ。
倉鬼の病室で甲斐甲斐しく林檎の皮を剥いていた幻想郷縁起編纂者を軽く睨みつけると、そのまま視線を倉鬼へと移して会話を開始。
「か、下級妖怪に後れを取るなんて情けない限りだわ。今後そういう事が無いように、私が懇切丁寧にじっくりと魔法の基礎を叩きこんで……」
「年がら年中図書館から出てこない引き篭もり魔法使いにウチの倉鬼がお世話になる事なんてありませんのでお帰り下さい」
「…………あ゛?」
「なんですか?」
私の言葉を遮るように放たれた拒絶の言葉に、思わず淑女らしからぬ声が漏れてしまう。眼力五割増しで睨みを利かせるのは、もちろん忌々しい和服の少女だ。倉鬼が返事をするより前に即座に私を追い出そうと目論む彼女は私の反応に動揺することもなく、にっこりと絵に描いたように模範的な笑顔をこちらに向けていた。その表情の裏に潜む腹黒オーラを確かに感じさせながら。……なんかこう、無性に腹立たしい。
私と稗田の間に広がる殺伐とした空気に何を思ったのか、今まで喋るタイミングを完全に失っていたらしい倉鬼がやや狼狽えたように口を開く。
「せ、せっかく僕のお見舞いに来てくれたんだから、そんなに冷たい態度を取らなくてもいいじゃないかあっきゅん。そ、それにパチュリーもさ、目が怖いよ目が。もっとこう、女の子らしい優しい表情をだね……」
『アンタは黙ってろ!』
「あ、はい」
少女二人に怒鳴られて委縮する半妖男子とかいう世にも奇妙な光景が目の前に広がっているけれども、今はそんなことに気を取られている余裕はない。一刻も早く場の主導権を握らなければ、完全に掌握されてしまう……!
ちら、と傍に控える美鈴に視線を投げかける。何か空気を読んで行動してみろ、と脅し半分懇願半分の感情を目一杯乗せて。そう、稗田とは違って私には部下がいる。一人より二人で挑む方が有利なのは自明の理、自然の摂理!
私の意思を読み取ったらしい美鈴は誰から見ても分かる程に嫌そうな表情を浮かべるものの、盛大に溜息をつくと渋々ながら頷きを見せた。さすがは気を使う程度の能力を使う妖怪。帰ったら彼女の待遇向上をレミィに訴えておこう。承諾されるかは知らないが。
美鈴はすたすたと稗田の方に歩みを進めると、何やら彼女の耳元でひそひそと話し始めた。うまく聞こえないが、話が進むごとに稗田の表情が二転三転している。何を話しているのだろうか……。
しばらくすると会話が終わったらしい。満足気な表情で美鈴が戻ってくると、同時に稗田が荷物を纏め始めていた。あれだけ渋っていたのに、こうも容易く……さすがは美鈴。
「あれ、あっきゅん帰るのか?」
「え、えぇ。あんまり長居するのも身体に障るだろうし、今日はこの辺で帰らせてもらうわ」
「そっか。今日はありがとう。このお礼はいつか必ず」
「べ、別に期待はしていないけれど……まぁ、早く治しなさいよ」
倉鬼の謝辞に顔を赤らめながらデレるという少女漫画顔負けの甘ったるい会話がされているんだけど、賢者の石ぶつけていいかしら。
荷造りを済ませると私の横を通って部屋を出ていく稗田。美鈴と最後に視線を合わせ、二言三言言葉を交わすとそのまま歩き去って行った。怪しい……怪しいが、目的は達成した以上美鈴を責めるわけにもいかない。ここは大人しく素直に感謝しておくとしよう。
……ただ、気になるのは気になるのでこっそり美鈴に耳打ちを。
「ちなみにだけど、何て言って帰したの?」
「我が紅魔館秘蔵の桂木写真集をお渡しするので、ここのところはパチュリー様に譲っていただけませんか、と」
「待ちなさい。その写真集って……!」
「さて、それでは後は若いお二人に任せて……」
「め、美鈴!? めーいりぃーん!!」
私の必死の叫びも空しく閉ざされる扉。この状況と引き換えに私の宝物が消滅しようとしている危機に動揺を隠せない。いや、確かになんとかしろとは言ったけど、代償が大きすぎるわよ美鈴っ……!
「な、なんか大変そうだね……」
「誰のせいだと思っているの」
「むしろなんで僕のせいなのか問い詰めたいところではあるんだが」
「はぁ……」
愚痴ってはみるものの、確かに倉鬼の言う通りではある。もうこの際あの写真集の存在は忘れよう。また一から集めていけばいいではないか。念写天狗との取引をまた一層濃いものにしなくてはならなくなったが、背に腹は代えられない。
溜息一つ。先程まで稗田が座っていた椅子に腰を下ろすと、改めて倉鬼に向き直る。
「……にしても、本当にボロボロじゃない。普段からしっかり鍛えておかないからそういう目に遭うのよ」
「僕は争い事が苦手な文学系男子だということをしっかり確認したうえで言ってほしいね」
「ただの平和ボケでしょ。人里の外に出るのなら自衛の手段を一つでも身に着けておくのは当然でしょうが」
「自衛の手段ねぇ……」
「初級魔法くらいならいつでも教えてあげるわよ? もちろん、それなりの対価はいただくけれど」
「魔女が言う対価ほど恐ろしいものはないからちょっとパス」
そこまで怖がることでもないのだが、確かに一般人からしてみれば魔女との取引というものは想像できない恐怖を煽る響きを持っているかもしれない。等価交換が原則の魔術ではあるけれども、初級魔法、しかも他でもない倉鬼に教えるのであればそこまでの対価を頂くつもりは毛頭ない。ただ、研究材料用に少しばかりの精や体液を譲ってもらえれば……。
「…………」
「どうしたパチュリー。顔を真っ赤にして黙り込むとちょっと怖いよ」
「にゃっ!? にゃんでもにゃいわよ!?」
「……にゃ?」
「なんでもないっての!」
危ない。ちょっと色々とアレな妄想が膨らんでいた。齢二十にも満たない子供に何を考えているのだ私は本当にまったく……もぅ……。
コホン、と咳払いを一つ、会話を戻す。
「身体を張って幼馴染を庇うっていうのは偉いけれど、少しは自分を大切にした方がいいんじゃない? 自己犠牲も度が過ぎるとただの阿呆よ?」
「自己犠牲っていうのとはまた違うんだけどなぁ。ただ僕は、小鈴が傷つくところを見たくないだけなんだよ」
「なによそれ、ようするにただの色ボケ野郎じゃない」
「そらそうさ。僕に限らず、男ってのは好きな女の子の悲しむところは見たくない生き物なんだから」
「……私だって、アンタのそんな姿見たくないわよ」
「何ぼそぼそ言ってるのさパチュリー」
「……このバカ」
「うおっ?」
ポスン、と彼の布団に顔を埋める。目と鼻の先に彼の身体があって少々胸が高鳴るが、素直に喜ぶことはできなかった。嬉しい状況なはずなのに、どうしてか胸の奥がわずかにチクチクと痛む。もやもやとした……少々の苛立ちが靄のように私の思考を圧迫している。
桂木倉鬼は本居小鈴の事が好きだ。それは私も、おそらくは稗田も知っているし、周知の事実である。もしかしたら、本人達を除けば幻想郷のほとんどが知っていることかもしれない。それほどまでに倉鬼の行動は分かりやすいし、真っ直ぐ。彼の好意が他に向けられる可能性は、ゼロに等しいといってもいいだろう。この勝負はそもそもから勝ち目がない。
ただ、それでも。倉鬼の想いが本居小鈴だけに向いているという事実は納得がいかない。勝算が皆無だとかいう現実を、認めるわけにはいかない。
目を合わせないまま、私は彼に言葉を投げる。
「アンタが誰の為に傷ついて誰の為に身体を張るかなんて勝手だけれど、私の知らない間に野垂れ死ぬなんてことは絶対に許さないからね」
「そんな大袈裟な……」
「笑い話じゃないわよ。今回だって、ナズーリンがいなかったら危なかったんでしょ? そのまま無謀を続けていれば、いつか絶対に死ぬわよ。アンタの身体は私が実験材料として貰うんだから、私の所在がない場面で死ぬなんて冗談じゃないわ。もっと自分を大切にしなさい」
「言っている内容が滅茶苦茶なんだけど、そこんところ分かっているかい?」
「そう? 私的には完璧なんだけど」
死なないように気をつけろ、と注意している反面、私の前では死んでいいと言っているのだから確かに支離滅裂かもしれないが……私が納得しているのだからこれでいい。とにかく、勝手に死にそうな目に遭うのだけは許さない。
ちら、と横目で倉鬼の顔を見上げる。彼は頬を掻きながら困ったような表情を浮かべていたものの、私の視線に気がつくと表情を綻ばせた。
「まぁその、パチュリーなりに心配してくれているってのは分かったよ」
「そ、そういうことじゃないけれど……べ、別にアンタがいなくなったところで図書館が静かになるだけなんだから、何の支障もないのっ」
「そんな絵に描いたようなツンデレ台詞を吐いてくれるなんて、本当にパチュリーは僕の事が大好きだなぁ」
「う、うっさい! こ、こら頭を撫でるな子供扱いすんなー! は、な、せぇーっ!」
母親のような慈愛に満ちた微笑ましい顔で私の頭を撫でようとする朴念仁精一杯の抵抗をしながらも、どこか幸福感に包まれる。先程までのもやもやが嘘であったかのように、彼との触れ合いで私の心は満たされつつあった。彼にとっては冗談かもしれないが、私にとっては一大イベントである。なんというか、その……御馳走様です。
ただ、まだ一つ気に喰わないことがある。自慢の紫髪をくしゃくしゃに撫でまわす右手を跳ね除けると、ぐいっと彼の頬に人差し指を突きつけながら顔を寄せる。
「後! その呼び方はなんなの? いつまでそういう呼び方をするつもりなの?」
「え? 引き篭もりモヤシのことか?」
「そんな呼び方したことないでしょーがっ! 違う!」
「そんなに怒るなよパチュリー」
「それよ! その『パチュリー』って呼び方! もっと、こう、親しみを込めて呼びなさい!」
「親しみも何も、『ノーレッジ』から『パチュリー』にランクアップしたのもついこの間なんだけど……」
「いいの! そんな細かいことは気にすんな!」
「細かいかぁ?」
いまいち釈然としないらしい倉鬼はのほほんとしているが、私にとっては死活問題である。本居や稗田に比べて絶対的にアドバンテージが少ない……具体的に言うならば、『幼馴染』の称号を持たない私が頭一つ抜け出るためには、こういう部分で距離を縮めるほかないのだ。馬鹿らしいと思うかもしれないけれど、呼び方を寄せることで私にとって特別な存在であることを意識してもらう。異論は許さない!
そして新しい呼び方が思いつかないようで、先程からうんうん首を捻っている倉鬼。こ、こいつ……日頃ロクでもない渾名をポンポン思いつくくせに、こういう時だけ頭の回転遅いんだから……!
いい加減腹が立ってきた私は彼の胸倉を掴み上げると、先程以上に顔を近づける。少々恥ずかしいが、そんなこと言っている場合か!
目を丸くしてやや頬を染める彼の顔を脳内フォルダにぶち込みながらも、私は叫んだ。
「『パチェ』! 私の事は今度から『パチェ』って呼びなさい!」
「え、でもそれってスカーレット姉妹にしか許していない呼び方では」
「文句あるの?」
「ないです、パチェ様」
「よろしい」
多少強引ではあるが、目的は達成した。パチェ、いい響きだ。レミィや妹様から呼ばれる時とはまた違った気持ち良さがある。あぁ、なんて心地よい響きなのだろうか。素晴らしい、素晴らしいわ私!
「な、なんか今日のパチェは様子が変なんだけど……実験でどっかおかしくなったんですか紅さん」
「お構いなく。パチュリー様がおかしいのは今に始まったことではございませんので」
いつの間にか戻ってきていた美鈴と倉鬼が何やら失礼千万な会話を繰り広げていたが、絶賛ご機嫌な私の耳に届くことはなかった。
パチュリーのターン!