夜も程よく更けた魔法学院、その広場にて
月明かりが煌々と照らす中、ルイズは一人、剣を振るっていた。いや、正確に言えば、一人と一振り、だろうか。
――分かる。剣の使い方が、頭に浮かんでくる。
杖より重いものは持ったことが無い、と迄はいかないが、大貴族の出自であるルイズだ。食器以外の刃物なぞ手に触れる機会はほとんど無く、いわんや身の丈程の大剣なぞ、といった具合である。
けれどもこの月下斬撃。舞うような体捌きからの振り下ろし、横薙ぎ。まるで生来慣れ親しんだ己が手足のように、ルイズは易々と剣を振るう。
別に何かを相手にしている訳ではない。ただ振っているだけだった。ただ踊っているだけだった。
体が軽かった。全能感に満ち満ちていた。知らず知らず、ルイズの口角が自然に吊り上っていく。些か凶暴で、暗さがある笑みだった。
「そう言えばあんた、なんで私が剣を必要としていたか、聞かなかったわね」
「別に何でも構いやしねーよ。俺は喋れると言ってもただの剣だ。剣に振られる理由はねぇのよ。ただそこにあるがゆえ、さ」
「なにそれ、カッコつけ?」
「格好は付けられる時に付けた方がいいぜ。もったいねえからよ」
カッコつけは否定しないのか。ルイズはそう思いながら、一度剣舞を止め、デルフを地面へと突き立てる。
額から垂れる汗が、ルイズの頬をたらりと撫でた。疲れはない、ないのだが。
柄から手を離す。手袋に包まれているルーンの発光が収まり、がくん、とルイズの膝が揺れた。万力の如くあった握力が刹那のうちに霧散し、羽根の様に軽く振るえていた腕に大量の重しが圧し掛かったようだった。
両手の震えを自覚しながら、やっぱりね、とルイズは苦く笑った。
「疲れない訳じゃない、ってことね」
「そうさな。疲労自体がなくなる訳じゃねぇんだ。ルーンが体を誤魔化しているだけなんだろう」
「手を離せばそれが返って来る、か、あ、あーこれちょっとキツイ……」
急激に訪れた倦怠感に逆らわず、ルイズははしたなく地面へとへたり込む。
けれど、己のような体格の持ち主が、同じ丈の剣をぶんぶか振るって「疲れた」で済むのなら十二分だ。流れる汗や切れる息そのままに、ルイズは満足気に空を見上げた。
「でもおめー、そのナリの割に体力あるじゃねぇか。基礎の部分だけどな」とデルフが言ったので、ルイズは顔を剣に向ける。
「そう? 私は自覚ないけれど」
「ああ、やろうと思えばルーンがなくても……いや、ああ、そうか、これは」
「ん?」
「いや、なんでもない、思い違いだった」
「ふーん」
適当な相槌を打って、ルイズはまた空を見上げ直した。
天蓋の頂点で、丸い双月が闇夜に輝いていた。それをぼんやりと眺めながら、ルイズは昼間の出来事を反芻する。
ルイズを含めた三人は、休日をほぼ丸々使い、王都のあちらこちらを歩き回った。
装飾店を冷やかしたり、出店を見て回ったり、キュルケが見つけたお洒落な店で昼食をとりさえした。
不明な落ち込みを見せるタバサを慰め、気遣うため。建前はそうであり、ただの余興と己に言い聞かせたルイズにも、タバサを案ずる気持ち自体は確かにあった。
けれど。
今の日。あの時、あの瞬間。
三人で店を渡り、キュルケが色仕掛けで宝石を値切ろうとしたり、タバサがハシバミ草のサラダを無茶苦茶に食い散らかしていた、あの時。
間違いなく、誇張なく、言い逃れ出来ないほど――ルイズは、街を楽しんでいた。二人との交友を、楽しんでいたのだ。
話の顛末として。
タバサはこちらの呼びかけや働きかけには反応するものの、絶望と失望が固められたその氷の瞳は、最後まで融解しなかった。
何一つ解決しなかった。彼女の使い魔である風竜シルフィードにさえも、帰りの空できゅいきゅいと鳴かれて心配されていた程だ。
そもそもの原因も分からずじまい。キュルケも不安な顔をしていた。そして、ルイズも。
夕暮れの魔法学院にて、別れ際、キュルケはこう言った。
『もう少しタバサに付き合うわ』
ルイズは「あっそ」と素っ気無く言い捨てて、あとはそれっきりだ。そうして二人は何をしているのか、タバサはどうなったのか、ルイズは知らない。
こうして現在。当初の予定通り、ルイズは誰も居ない夜中、一人剣を振るっている。力を求めている。悩める二人を、振り切って。
宙に浮かぶ青と赤の月が、静かにルイズを見下ろしている。
何かの比喩のようだ、とルイズは思う。鮮やかな二人の髪の色。
導かれるように、求めるように。ルイズは月へと手を伸ばした。届くはずもなかった。
焦がれるように伸ばされた両腕は虚しくも空を切る。上天にある月は、ルイズを見やることさえしない。
天の蒼紅、地の零を顧みず。交叉あれども、天地同格に非ず。
そんなものだ、ルイズは寂しげに微笑んだ。寂しいという気持ちは、もはや否定できなかった。
「んで、おめー、なんでまた剣を使うって気になったんだ?」
ルイズが己に灯った感情を想っていると、唐突にデルフリンガーがそう言った。
前言を撤回するのが早すぎる。ルイズは剣へ呆れ顔を向けた。
「なによ、カッコいいこと言っといて、結局聞くんじゃない」
「聞いてほしそうだったからな。それぐらいは剣でも出来る」
「じゃあ聞き返すけど、あんたはなんでだと思う?」
剣は黙した。
「まさか、股間の剣だけでは飽き足らず鉄の棒を握りたくなったのか! とか思ってんのならぶっ飛ばすわよ」
「それはおめー被害妄想が過ぎるぜ……」
左手の大剣、右手の杖、そして股間のチンコ。
これぞルイズ完全体。
驚異的な剣技。正体不明の爆発魔法。首を擡げる暴れ馬、からのヴァリエールカノン。それらを駆使し、ルイズは暗黒の時代を駆け抜けるのだ。世界は滅ぶ。おっぱいは生きろ。
ふと思いついたマジでクソみてぇな妄想を、ルイズは頭を横に振って消し飛ばす。
デルフの指摘もそうだが、流石に思考が偏り過ぎていると彼女は嘆息する。全てのことが己の股間を揶揄しているような想像。これは、先日の使い魔の仕業とはまた違うものだとルイズは察していた。
あれはルイズが魔法を使えないという事実を確信し傷つくのを防ぐため、魂の同居人である黒犬が思考に介入していたのだ。
であるのならば、これは、この殺伐で捨て鉢な考えは、彼の所為ではなくて――
それ以上の思考を、ルイズはしなかった。決断的に、懐に手を入れて杖を取り出す。
何もない空中へ杖を向けて、適当なルーンを紡ぐ。なんでもよかった。どうせ爆発するのだから。爆発しか、しないのだから。
虚しく響く、破裂音。
しゅうしゅうと音を立てて散りゆく失敗魔法の残滓が、ルイズの目には無能の誹りに映った。事実、その通りなのだろう。
「これが私の魔法よ。魔法じゃないのかも知れないけど」
なんにしても、よくわからないのよ。何もかもが爆発する訳だから――杖を懐に入れ直しながらデルフに向き直り、ルイズが言った。
地面に突き刺さっている剣は、何も言わない。目の前に起きた不可思議な失敗魔法に、永き時を斬った剣は、何も言わなかった。
ルイズはデルフの言葉を待たず、ただ天を見た。そこにある月を見た。その裏側にある未来を見ようとした。見えなかった。見えたことなど、一度もなかった。
「魔法が使えない貴族。役に立たない貴族。貴族ではない貴族。色んなことを言われて、もちろん反発もした……だけど、言葉でいくら否定しても、事実は変わらない」
もう覚悟したはずなのに。決めたはずなのに。
ルイズは猛烈な悲しみと虚無感に襲われた。あれだけ努力して、あれだけ勉強して、あれだけ馬鹿にされてなお、甘い水は、ルイズに寄って来なかった。
私は、ルイズは、ゼロなのです。家族は、これを聞いてどう思うだろうか。悲しむのだろうか。怒るのだろうか。慰めてくれるのだろうか。失望するのだろうか。
ルイズは家族が向けるだろう、様々な感情を想像した。考えたそれら全てがあり得るもので、それら全ての『かも知れない想像』が、ルイズの心に注ぐ黒水となる。ルイズは目を瞑り、即座に開ける。闇の中の幼い自分が、空の瞳で何処かを睨み付けていた。
ルイズは右の手で左手首を強く掴んだ。左手を鉤爪の様に尖らす。ぎちりと歯を強く噛む。紺色の手袋の内側で、黒い力が循環しているのが分かった。
――屈辱をすべて受け入れろ、そうして私は前に進む。
「見返すだけの力が欲しい。普通の魔法が使えないのだとしたら、それ以外の、誰もが認める力が。それがたとえ、努力の果てに無い、振って沸いたものだとしても、私は」
「おめーは……」
「なによ」
「いや、なんでもねぇ」
デルフは言葉を切った。ルイズは深追いしなかった。
ルイズは、ただ空を見上げ続けている。見えない何かを、見ようとしている。
「浅ましいと、思う?」
それは、誰に向けての問いだったのだろうか。
行先不明の質問に対し、やはりというべきか、どこからも答えは出なかった。デルフからも。ルイズの中からも。
夜に沈む世界が、静寂に溺れる。けれど耳が痛い程に響く沈黙は、一瞬だけだった。
「あー思い出したおもいだした、うん、思い出した」無音の帳を切り裂くようにデルフが言った。抑揚がない、ひどく平坦な声だった。
その言葉のすぐ後、デルフは光った。比喩でなく、月明かりの反射でもなく、剣の刀身自体が眩い光を放ったのだ。
ルイズには声を上げる暇さえなかった。
気が付けば、デルフリンガ―の刃から錆が消えていた。刀身にあった薄い汚れや古さは露と消え、まるで朝霧が齎した雫の様に輝いていた。
「な、なによ、これ……」
「へっぽこに使われるのが嫌だったから、わざと錆びたふりをしてたんだ。今思い出した。たったいま。ちょうど。ホントに」
白々しいとはこのことだ。ルイズはため息を吐く。急に剣が変化した驚きは、明らかな虚言を聞いてどこかへ飛んで行ってしまった。
錆びていた理由は本当かもしれないが、ちょうど今思い出したというのは眉唾だ。言い訳がましく付けられた念押しの言葉は、ただルイズの疑念を加速させる役割しかなかった。
というか、下手に使われるのが嫌だから錆びたふりをしていた、のならば、何故己に真の姿を見せたというのか。まだ出会って一日しか経っていないし、ルーンがあるとは言え己は素人同然なのだ
何か、何かを隠している。ルイズはじとりとした目線をデルフへ向けた。
「……随分都合のいい記憶だこと。で、他に何か思い出した?」
湧き上がる疑問を一度捨て置いて、ルイズは要点だけを聞いた。
けれど、実際デルフの記憶や思惑がどうあれ、答えはどうせ一つしかないとルイズは分かっていた。
「分からんね」
ほら見ろ。
しかしルイズは、これ以上なにも聞かなかった。些事として片付けた。剣の思わせぶりな態度。古の剣の謎。そして赤と青が混じる景色。どうでもいい。
やることは、ただ一つ。望むものは、ただ一つ。溺れるべきは、ただ一つ。
ルイズの奥では、幼い彼女と黒い犬が向かい合っている。
『ちからがほしいの』
『お前がそれを望むなら』
器に浮かぶは甘い水。
一人の少年のふらふらとした足取りが、月の明かりに照らされた。
金髪の髪に整った顔の少年は、表情を苦い物にしながら、誰もいない広場を歩いていた。
「イテテ……肘はないだろう、肘は……」
腹部を押さえ、どんよりした顔で一人呟く少年――ギーシュ・ド・グラモン。
父を元帥として持ち、また高名である家系の四男であるギーシュが、なぜこんな時間に一人歩いているかと言えば、理由らしい理由はない。
強いて言えば、じっくりと考え事をする為で、取り繕わなければ、それは男女関係によることで、ありていに言えば、女の子に振られたのだ。
腹部への鈍痛を誤魔化す様に夜風に漂うギーシュは、今なら素直にこう思える――あれはなかった、と。
一から十まで己が悪かったのだ。
自分の『二股』が原因で、彼が言うところの『麗しき乙女』を傷つけてしまったのだから。
気障たらしく、体面を気にするトリステインの貴族らしい子息であるギーシュだったが、流石にこの期に及んで責任を乙女に被せたりはしない。
――次はもう少し上手くやろう。ばれないように。
ギーシュはうんうんと頷いた。彼は馬鹿なのだ。反省と後悔の方向がズレているのである。
ギーシュから言わせれば、体面的には二股に見えたとしても、あれは、そんなものではないのである。
そう、美しき薔薇の化身である己の最大の使命、それは世に羽ばたく蝶のような女性を、限りなく楽しませることにあるのだ。彼は馬鹿だった。
よって、ギーシュの反省点と言えば、複数の女の子に粉を掛けたことではなく、ばれてしまったことなのだ。
しかも本命と対抗……ではなく、彼がいうところの二人の可憐な蝶に同時にばれたもんだから、もう目も当てられない。しかも人目が多い昼の食堂でだ。
要は、彼は客観的に見れば何も変わってないということ。精々がもうちょっと慎重に動くべきかな、という心構えをしたぐらいだ。
そんなんだから、彼はさっき、本命の女の子に縁りを戻そうと近づき――見事な肘鉄をくらうハメになったのだった。二股事件からまだ碌に日が経っておらず、彼が吐いた言葉は謝罪というべきものでもなかった。どちかと言えば言い訳だ。当然の結果だった。
ふらふら、ふらふら。風に揺れる薔薇の花弁よろしく、彼は夜道を歩く。
静寂にある夜の魔法学院。だけれどギーシュはそこで、研ぎ澄まされた風斬り音を聞いた。
ぴたり、とギーシュの足が止まる。貴族であるギーシュとて、何もかも分からぬ訳でもない、今のは、間違いなく剣が空を斬る音だ。
魔法学院で、剣を振る音。ギーシュは首を傾げる。今まで聞いたこともない。しかも、その音が異様に大きいのだ。杖と一体となっているレイピアを振っている、どころのものではない。
おそらく、両手持ちの剣。それもかなりの大きさだ。一瞬、賊の類か、と思ったギーシュだが、すぐさま頭を振る。
この平和な時世だ。賊も何もないだろうし、仮に侵入者だとしたら、その場で素振りをする意味が分からない。剣の斬撃は、未だ続いている。争っているような物音もしない。
誰、だろうか。ギーシュの好奇心が淡く刺激された。元より娯楽が少ないこの閉鎖空間だ。学院の生徒は、往々にして何か話題を探している。
しかもギーシュは二股がばれたところを大衆に晒しているのだ。ここ何日か級友にからかいを受けており、鬱憤も溜まっていた。
丁度がよかった。恥辱や屈辱を慰めることが出来るとかどうかは別として、一つの話題探し、暇つぶしにはなる。
杖も携帯しているから、万一があっても問題ない。そう思い、ギーシュはまたふらふらと、音を頼りに夜を歩き始めた。
「うふふふふふ、あははははは! デルフ、あんた、何かを知っていて、何かを隠しているわね。でもいいわ、全て不問にする。とっても気分がいいから!」
「……もっと腰を入れろ。腕だけで振るな」
「っとと。頭では分かっているんだけどね。あはは、駄目ね、油断していると。でも、まぁ、いい買い物だったわ。こうして足りないところを指摘してくれる」
「そうかい」
なんだあれ。
ギーシュは愕然とした。呆然とした。暫く自失していた。
目の前に居るのが、同級であるゼロのルイズだということは分かった。特徴的なピンクブロンド。整った顔に幼児体系。だからして、おそらくルイズなのだろう。
けれど、確信が持てなかった。彼が知っているルイズは少なくとも、高笑いしながら彼女の丈と等しい剣をぶんぶん振り回したりはしない。
改めて前の前の悪鬼を見る。握られている剣を見る。白銀煌く片刃の剣。しかも喋っている。インテリジェンスソード。だが注目すべきはそこではない。
そもそもの問題として、あの小柄なルイズが自分でもまともに振れるかどうか分からない大剣を、異様な速度で振るっているのだ。まるで歴戦の戦士の様に。見てくれだけは見麗しい貴族の子女が。
そしてその悪夢染みた現実以上に、ルイズの笑い声がギーシュの耳を強く打った。
狂ったような笑い声。明らかにまともではない。
そこでルイズは剣を片手持ちに切り替えた。左手を懐に入れて、杖を取り出す。
すると彼女は、杖を前方に転がっている石へと向けた。何事かを呟く。魔法だ。
ゼロのルイズの無能たる所以、爆発。いつもの失敗魔法。けれどギーシュが知っているルイズは、そこで終わった。
爆発が、拳大の石を上方へと弾いた。石そのものではなく、地面との接点を狙った一撃。普段の何処へ飛ぶかも分からない不正確さなど微塵も見えない、寸分違わぬ精密さだった。
ルイズは宙を舞う石へ向けて、また杖を向ける。呟く。
二発目のそれは、石そのものを標的としていた。暴力的な紅が溶け、煙が晴れた後、そこには何も無かった。消し飛ばされたのだ、爆発、失敗魔法によって、
ルイズは動きを止めた。動くものなど世界に何もなかった。夜が静謐に満ちる。
ギーシュはあんぐりと口を開けて、呆然と立ち尽くしていた。
あれは、あれは本当にルイズなのだろうか。無能劣等生と馬鹿にしてきた、ゼロのルイズなのだろうか。
「あは」
誰よりも早くしじまの帳を切り裂いたのは、ルイズだった。
幼さが強く表れた短い笑い声。まるで悪戯好きの妖精の如く、可憐で、無邪気な声だった。あくまで、ここまでは。
「あはははははははは! 魔法が何よ、何なのよ。火も風も、この爆発で全てかき消せるわ! あは、あははははははは!」
また狂笑。本当に気がふれたみたいだ、と現実逃避気味にギーシュは思う。空を睨みながら、ルイズは頬を紅葉させて喚き散らしている。
それに何の意味があるかギーシュには理解できなかったが、それでも、ぼんやりと、分かったことがあった。
――溺れている。
これほどまでに分かり易く力に溺れている者を、ギーシュは見たことがなかった。お手本のような溺れ方にさえ思えた。
ぶるり、とギーシュは体を震わせる。夜風が響いた、と嘯くことさえも出来ない。身も蓋も誇りさえも投げ捨てていうならば、ギーシュは恐怖を感じていた。曲がりなりにも普通に魔法を使える彼が、ゼロのルイズに。
自身を情けないとは思えなかった。それほどまでに、夜天に高笑うルイズの姿は人智常識の範疇を超えていたのだ。エルフや吸血鬼に恐れを抱くことは、決して間違いではないのだから。
そんな訳なので。
「あら、ギーシュじゃない」
顔を興奮に染めるルイズに気づかれ声を掛けられたギーシュが、心臓が飛び出るほど仰天したのは仕方ないことであるし、むしろそれを表に出さなかっただけでも幾分マシであるとも言える。
ギーシュは額から垂れる冷や汗を自覚しながらも、いつも通り、きざったらしく髪を上げた。
「……やあ、ルイズ。いい夜だね」
「うふふ、本当ね。本当に、いい夜だわ」
うふふ、うふふ、うふふ……
残響する微笑は、風に揺れては夜を薙ぐ。ギーシュは、己の顔の筋肉がぴくぴくと痙攣しているのが分かった。
ついで、かつて己がルイズに嘲笑と罵倒を浴びせた場面が脳裏にちらついた。悔しそうに歯を食いしばる少女の姿が見える。なるほど。ギーシュは心中で頷く。走馬燈だこれ。
ギーシュのその判断にはいくつか理由がある。彼がそう思った一番の大きいところを挙げれば、刹那で距離をつめたルイズが、ギーシュへ杖と剣を突き立てているからだろう。
喉笛に切っ先。腹部に杖。動きが早すぎる。杖を取り出す暇さえなかった。思い出すは過去の情景とあの剣の冴え、そして精密動作の爆発、それによる石の消滅。なるほど。ギーシュは心中で頷く。詰んだ。
「なぁルイズ」とギーシュが言った。
口の中が不快な粘つきに覆われていた。喉仏と冷たき剣の先の隙間をはっきりと感じることが出来た。
喉元は震えている。剣は逃すまいとぴたりと硬直している。
ギーシュは混乱していた。後悔していた。屈辱を感じていた。今すぐ叫びたかった。今すぐ逃げ出したかった。
思考が空転する。精神が焼き切れそうになる。情報量が多過ぎる。脳内の処理が間に合わない。けれど、口だけは滑らかに動いた。
「モンモランシーに、愛している、すまなかった、と言っておいてくれないか」
つまり彼は馬鹿だった。最終的な結論として、彼は愛しの幼馴染への侘びを、己の命より優先させたのだ。
――墓には薔薇を添えてやるわ。という幻聴をギーシュは聞いた。それに対し己はにっこりと笑い、そして死ぬのだ。うん、僕かっこいい。
けれど、無論そうはならなかった。ギーシュの戯言を聞いたルイズは、怪訝な表情で杖と剣を引いた。
「はあ? なんで私がそんなことしないといけないのよ」
整った顔を、疑問と不機嫌で彩らせて、口を尖らせる。そこにいたのはいつものルイズだった。先ほどまでの狂気的な雰囲気はすっかりと霧散していた。
全ては悪戯で、冗談だったのだ。ギーシュは察して、神へと感謝した。
そしてギーシュは、明日朝一番、彼女(否、元彼女)のモンモランシーに謝ろうと決意した。傲慢さや貴族のなんちゃらなどは捨て、誠心誠意謝り、彼女へ五体を投げ出して懇願するのだ。
生まれてきてありがとう、ああ、愛しのモンモランシー、人の命は儚く尊いものだね、抱かせてくれ。と。そして出来れば明日の舞踏会までに縁りを戻し、その後はいちゃいちゃむにゃむにゃほにゃららあんあんするのだ。彼は馬鹿だが、馬鹿は懲りない上に強いのである。
んで。
月明かりの夜の下、ギーシュは、先ほどの発言の説明をし、ルイズは突如剣を振るい爆発を制御してみせた理由を語った。
二人は立ちんぼのまま、一定の距離を置いている。ルイズの近くには地面へと剣が突きたてられていた。
「つまり、あんたはモンモランシーと喧嘩しているのね」
「つまり、君は体に棲む使い魔の力を利用している訳か」
けれど二人は、それぞれの事情を少なからずぼかしていた。
どうもルイズは二股云々のことを知らないようだっので、ギーシュは「些細な意見の食い違いさ」と言った。実際は10対0でギーシュの敗訴である。
ルイズもルイズで、己の特殊性や能力全てを、「なんだがよく分からないが内にある使い魔がなんかしている」とふわっふわな理論で押し通した。全てが嘘という訳ではないのが。
話はそれだけで終わらなかった。ギーシュが件の喋る剣、デルフリンガーについて問えば、知性ある剣は挨拶を返し、ルイズは王都で買ったと続ける。
「こんな立派な剣、高かったんじゃないか?」とギーシュ。
「ふふ、鞘込みで百エキューよ」
「嘘だろ? そんなに安いわけがない」
「訳ありだったのよ。ね?」
「まぁな」
「……うーん、そう言われてしまっては反論の余地は無いが」
そんな破格の買い物をした所為なのかもしれない、とギーシュは思う。
ルイズは、かつてないほど、穏やかで満たされた顔をしていた。
月の光が、ルイズを照らしている。桃色の髪が鮮やかに靡き、その背筋は真っ直ぐに伸びていて、表情には自信が乗っていた。
身の程の大剣を隣に侍らされているゆえ、いささか倒錯的ではあるが、元来の彼女の容姿と相まって、それはなんとも美麗な光景だった。
なによりも、雰囲気が異なりすぎる。普段の彼女とは。そも、ギーシュは彼女と会話らしい会話をしたことなど今までになかった。彼女は人を寄せ付けない。人も彼女に寄り付かない。
今のギーシュにルイズを揶揄するつもりがない、というのもこうして話すことが出来ている理由だろうが、それにしても、彼女の態度は普段とかけ離れていた。
彼女の身に、そして精神に、一体何があったのだろうか?
「なによ」と、視線を受けたルイズが言った。
「ん、いやあ、今日の君は、随分と……うん、魅力的だ」
「口説いてんの? 切り落とすわよ」
何を、とは聞かなかった。ルイズも具体的には言わなかった。けれど、それでも、ひゅんとした。ギーシュは思わず内股になった。なぜかルイズも内股になっていた。
さておき、先の台詞はギーシュの悲しいサガである。本当は「落ち着いている」とか、「雰囲気が違う」などと言うつもりだったが、自覚が無いまま何時の間にやら口説いてしまっていた。彼にとって女性に美辞麗句を並べるのは呼吸と同義である。
ついでに言えば、いくら綺麗に見えたと言っても、ギーシュは癇癪持ちお子様体型のルイズに一切興味がない。君じゃチンコは勃たないんだ。谷間を作ってから出直したまえ。それを実際に言えばチンコの墓標が立つことぐらいは、流石の彼でも分かっていた。
「ねぇギーシュ」と内股のルイズが気を取り直すように、内股のギーシュへと言った。
「さっき言っていた、モンモランシーへのどうたら、私がなんとかしてやってもいいわよ」
「は?」
「ああ、愛しているだとかそんなのじゃなしにね。それは自分で言いなさい。要は、私が仲を取り持ってあげるって言ってんの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君が? モンモランシーに? どうやって」
「それは後から考えるわ」
つまり案も策も何もないのだ。けれどルイズは無意味に自信満々だった。
ギーシュが知る限り、ルイズとモンモランシーに同級以外の接点はない筈だ。そんな彼女、しかも対人能力が明らかに欠如しているルイズに、果たしてどうにかすることができるだろうか。むしろ、状況が悪化する未来しか見えない。
「なんだって君は、そんなことを」
「今さっき思いついたんだけどね」
そう言って、ルイズは地面から剣を引き抜いた。その場で一振り。瞳には、またもあの熱狂の色が浮いている。
「あんた、ゴーレムを作れるじゃない? 私のつかい……いや、『私の力』を試したいんだけど、人に向けて剣やら爆発やらを向けると危ないから、あんたに協力して貰いたいのよ。見返りは……さっき言ったわね。安心して、あんた本人には何もしないから」
意訳すれば、お前をボコボコにするのはわけないけど、それやると色々拙いから、お前のゴーレムをボコらせろ。そうすればにゃんにゃんするのを助けてやるにゃん、といった具合である。
ギーシュは彼女のあんまりな言いざまに怒りを覚えた。本人にその気があるかは別として、挑発と見下しが取れる言葉だった。
年頃らしい青い感情がギーシュを満たした。懐に手を入れようとして、やめた。急激に頭が冷えていくのが分かった。
仮定の話として。
もし、このルイズの申し出が、先ほどの剣技や爆発制御を見る前にされたものだとしたら。
ギーシュは怒り、そして何様のつもりだ、ゼロのルイズ、などと彼女を罵倒し、あるいは決闘でも申し込んだかもしれない。
女性に対して暴力云々はどうかと思う気持ちはあるが、それを差し引いても、ルイズは癇癪や爆発で周囲からいい目で見られていない。そして、ギーシュも。
だからして、決闘という建前で、家柄の上に胡坐をかいているそんな迷惑な無能を好き放題できるのは、なるほど、己の暗い欲望を満たしてくれるだろう。そして先に喧嘩を売ったのは他ならぬルイズだ。言い訳は如何様にも出来る。
自分でも驚くほど、ギーシュは自分の汚いところをはっきりと自覚していた。
何故かといえば、今のギーシュはその「あり得たかもしれない決闘」の結果を予測していたからだ。つまり、冷静に物事を見ることが出来ていた。己の内なる感情さえ読み取れるほど、思考は冴えに冴えていた。命の危機を味わった故だろうか。
おそらく、戦えば負ける。
元より彼女の爆発は防御のしようがない。威力だけは誰もが知っていることだ。そして今や狙いも正確。距離を詰め、爆発を封じたとしても、今度はあの恐るべき斬撃の餌食になる。創り出したゴーレムは哀れ地面の染みと消え、お世辞にも肉体的に強いとは言えないギーシュは爆発や剣戟に対処できない。彼に勝てる要素はなかった。
ひょっとすると、僕は大人になったのかもしれない。ギーシュは自嘲の笑みを浮かべる。敵わなければ諦める。そして、それほど負けられない戦いでもない。骨折り損だ。
我ながらこれはいい選択ではないかと自賛したくもなった。相手はなんだかよく分からない生物なのだ。ここは退くべきだ。仕方ないのである。そう言い聞かせる。
なので、杖を懐から出さすに、ギーシュは別に逡巡する。ルイズの持ち掛けに応じるかどうか。
普通なら拒否一択である。自身のゴーレム、ワルキューレがボッコボコにされるのも気分がいいとは言えないし、そして利点もゼロだ。どころか、下手をすればマイナスになることだってありうる。
だけれども。
「よぉし、その話に乗ろうじゃないか」
そういって、ギーシュは改めて懐に手を入れた。薔薇を模倣した杖を手に、きざったらしく斜めに構える。
別段、ルイズの話術によるモンモランシーの懐柔に期待した訳でもなかった。そんなものに頼るぐらいなら、まだオーク鬼のそれの方が上手く行く気がする。
結論を言えば、ギーシュは興味を抱いていた。魔法が使えない劣等生、けれど志だけは一丁前。そんな彼女が手にした、貴族らしからぬ野蛮な力に。
見てみたかった。彼女が何を掴んだのかを。それに、何かの間違いで己のゴーレムがルイズを取り押さえることだってあるかもしれない。もしそうなれば面白いものが見える調子にのったゼロの末路。彼は系統魔法が一種しか使えない土のドットメイジであるが、それでもゴーレムの制御には自信があった。
仮に、ルイズがモンモランシーに余計なことを言って事態が拗れたとしても、それはそれ。彼は、それでさえも己の魅力でどうにかなると確信していた。彼は馬鹿なのだ。
「それでこそよ」ルイズは凄惨な笑みを浮かべた。ギーシュはちょっとびびった。
「……これは決闘ではなく、ただの訓練だ。僕は君を傷つけず、君もまた同じ。杖に誓えるかい?」
「無論よ」
よし、言質は取った。ここまで言えば怪我をすることもあるまい。ギーシュは杖を振るい、そうして青銅製の人型ゴーレム、ワルキューレを生み出す。都合七体。彼の全力だった。
「行け!」
戦乙女達が夜を駆ける。相対するのは不明の悪鬼。ギーシュ・ド・グラモン、推して参る。
そして行間で負けた。
怪我一つしていないギーシュは、けれど精神力を使い果たし、大の字に倒れこんだ。月が眩し過ぎて視界が滲んだ。
彼が誇るワルキューレたちの姿は無惨、無情の言葉に尽きる。要は地面の染みだ。そして彼女達がルイズに触れることもなかった。爆発で消し飛んだか、真っ二つにされたかだ。
「いい運動になったわ。礼を言っておくわよ、ギーシュ。モンモランシーのことは任せなさい。それじゃあね」剣を背負ったルイズが踵を返し、夜の道へと消えていく。
「ああ、お休みルイズ……」
悪い夢でも見ろ。とギーシュは吐き捨てたくなった。無論言わなかった。彼はまだ満足に息子を使っていないからである。
ああ、月が、本当に、眩しい。
最高に気分が良かった。
ギーシュのワルキューレと心をボッコボコにしたルイズは、溢れる充足感そのままに、一度部屋に戻って剣を置き、そして誰もいない風呂場へと赴いた。
ここ最近の彼女ならば、風呂場で反射する自分の残酷なる変わりよう――ちんこぶらんぶらんフランソワーズ――を見れば、何かしらやるせなさ悲しさなどが頭に浮かぶのだが、今日はそれさえもなかった。
肉体は疲労している。けれど、彼女は満たされている。思う存分力を振るう感覚。そしてそれを、自分を馬鹿にしてきた奴にぶつける爽快感。
浴場か去り、夜もどっぷりと更けた女子寮の廊下を歩きながら、彼女は一人ほくそ笑む。いや、彼女の奥に居る同居人もまた、そんな彼女を見て嬉しそうに尻尾を振るっていた。
と、そこでルイズは足を止めた。誰もいない筈の夜遅い回廊に、見知った顔が二つ。
褐色肌と豊かな果実を持つキュルケ。豪奢な金色の髪を持つ、先の気障な男の連れ、モンモランシー。
あまり見ない組み合わせだ、とルイズが思えば、気付いたキュルケが小走りで近寄り彼女の腕を掴んだ。
「ちょうどよかったわ、ルイズ。あなたも来なさい」
「ちょっと、なに、なによ」
困惑を隠さずルイズが声を上げると、キュルケがぐいっと腕を引っ張りながら、
「第一回タバサを慰める会を始めるわ」と言った。
「は?」
なんで私が、とルイズが疑問符を出しながら、この場に居るもう一人へと目を向ければ、そのモンモランシーもまた、「なんで私が」と言った顔をしていた。おそらく彼女も、こうして強引に巻き込まれたのだろう。
「なに、あの子、まだ落ち込んでいるの?」
「最早そう言う問題じゃないわ」
そこでキュルケがルイズを見やった。余裕綽々な彼女に似つかない、疲れた顔をしていた。
キュルケは眉尻を下げて、溜息混じりに呟く。
「タバサが泣き出したのよ」
「ええ……?」
長い一日は、まだ終わらない。
・何かが起きているから何も起きない。
・諸君、決闘じゃなくて本当に良かった!
・次回、ガリアの闇