ルイズがチ◯コを召喚しました   作:ななななな

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第二十話

「元気にしてた? ルイズ」

 

 

 字面だけ見れば朗らかに見えるその言葉は、けれど友好的なものではなかった。そもそも初手が頬を抓るというものであったのだが。

 腰まで伸びた鮮やかな金髪に、整った顔立ち。そこに乗せてある目尻の吊り上がった眼鏡……の中で存在感を放つ鋭い目つき。

 そこから放たれる極寒の目線は、残酷な程真っすぐにルイズへと向けられていた。

 

「え、ええ、姉さまもお変わりないようで……」

「ふーん……姉さま『も』、ねぇ……」

 

 目線以上に底冷えする言葉。ルイズは震え上がる他ない。なにしろ、ルイズは彼女を苦手としているのだ。頭が上がらない人物の一人なのである。

 エレオノールは即座にルイズの左手を取って、一瞬のうちに紺色の手袋を外した。顕にされる使い魔のルーン

 

「ちょっ!」

「なーにが、姉さまもお変わりないようで、よ! ちびルイズ! あんたがお変わりしてるじゃない! オールド・オスマンから研究所に通達があったと聞いたとき、私がどう思ったと思う? ええ?」

 

 言いながら、エレオノールはルイズの頬をぐにっと抓った。

 

「ふぇひぇぇ、ふ、ふいふぁふぇん!」

「おだまり! 私はおろか実家にも連絡なしで……体内に使い魔ぁ? 力が湧いてくるぅ? なんでこんなとんでもないこと、身内に報告しないのよ! お馬鹿!」

「ふ、ふぇぇ……」

「それに! ヴァリエール家の令嬢が芸の様に剣を振るうなんて……いくら品評会だからって、もう少しやりようがなくって!?」

「ふぁ、ふぁぃぃ……」

 

 見てたんですか、気づきませんでした、とか、剣に関しては学院長の考えでもあるんですけど、など、ルイズの頭にいくつかの台詞が浮かんだが、それらが世に出ることがなかった。

 こういう場合、ルイズから出る全ての言葉が姉にとって口答えになってしまうのだ。嵐に対する術はやり過ごす他にない。

 しかし経験上もっと長く続くと思われた姉の猛攻は、そこで幕を閉じることになった。エレオノールは叱責と折檻をぴたりと止めた。

 ルイズがそれを疑問に思うよりはやく、エレオノールはルイズの両肩に手を置き、屈んで目線を合わせた。

 

「本当に大丈夫なの? 何か問題は? 身体に異常は? 痛みは? 生活に支障は出てないの?」

 

 それを嵐の様な詰問、と表現するには、あまりにも温かみある言葉だった。

 ルイズは心に棘が刺さるのを感じた。なぜならば、ルイズは今から嘘を付かなければならないのだから。 

 身内に。曲がりなりにも自分を想ってくれている実姉に。

 けれどルイズは引けない。それがある種の裏切りだとしても。ルイズは前に進まなければならないのだ。

 

「……ご心配、ありがとうございます。それと、黙っていてごめんなさい。私は大丈夫です。何も問題ありません、姉さま」

 

 果たしてこれほど神妙なルイズの顔つきを、エレオノールはかつてどれだけ見たことがあるだろうか。

 小柄な少女。手がかかる妹。かつてはそうで、今でもそうだ。だがそんなルイズは、今、どこまでも真剣な目線を飛ばしている。余計なことを言わず。取り繕うことせず。癇癪を起さず。

 エレオノールは肩から手を離し、距離をとった。しばしルイズを見つめたあと、薄く微笑んだ。

 

「……あなた少し……変わったかしら?」

「……まだまだです」

「そう言えることが、その証拠よ……困ったことが起こったら、いつでも私に言うのよ。研究所ではなく、私個人に」

「はい、姉さま」 

 

 ルイズの心の柔らかい部分がぎしりと軋んだ。

 こういう時に。こういう時に限って、いつも厳しい姉が優しい言葉をかけた時に限って。

 ルイズは背信しなければならないのだ。何もかもを黙っていなければならないのである。自分の都合で。あるいは使い魔の都合で。

 これが、大人になるということなのか。不義の味はただ苦いだけだだった。

 心の中だけで、ルイズはため息をつく。これ以上の思考は無駄だ。

 

「姉さまが来られたご用事は、その、このことですか?」

「……その内の一つではあるわ。本筋は別にあるのだけれど」

 

 歯切りの悪い姉の言葉に、ルイズは敏感に反応した。

 妙に優しい態度(あくまで普段よりはだが)に加えて、どこか煮え切らないこの発言。

 ルイズの内側が冷たく研ぎ澄まされた。忙しい筈の姉の訪問。妹への態度。

 

 ――家族の、病状。

 

 寒々とした風がルイズの内に吹いた。表情が削がれる。口が乾く。頬の筋肉の逆らえない痙攣を可能な限り抑えながら、ルイズはどうにか口を開く。

 

「……もしかして、ちい姉さまの具合が――」 

「え? ああ、違うわよ」

「へ?」

 

 ルイズが脳内で描いた最悪の未来を、エレオノールは間髪に入れずに否定した。

 それだけではなく、彼女は笑っていた。今までルイズが見たことないぐらい、穏やかな顔で。

 

「まぁカトレアのことも報告の一つではあるわね……あの子、すっかり元気になったのよ。前に取り寄せてもらったガリアの新薬が身体に合ったみたい。まだ様子見の段階だけど、いずれは領土外にも出られるだろうって、お医者様が。あの子、今までないくらいはしゃいじゃって」

 

 そのことを思い出したのか、エレオノールは傾く口元を隠しながら、しかし逃れ切れない喜びを乗せてそう言った。

 それを聞いたルイズは瞬間、とても幼い精神では処理できない情報、感情を受け取った。

 濁流の情動。防ぎきれない心の揺れ。だからルイズは、鳶色の瞳から涙が一条流れることを止められなかった。

 

「あ……」

「……まったく、泣き虫は治ってないのね」言いながらエレオノールは手巾を取り出し、ルイズの目じりを優しく撫でた。

「だ、だって……」

「ふふふ……」

 

 慈愛ある手つきで末妹の頬を拭う姉。

 緩やかに流れる暖かい水の一片と、布越しに伝わる姉の温度が、けれどルイズに冷たさを思い出させる。

 

 お前に泣く権利があるのか? 己のことに精いっぱいで、身内を碌に顧みないお前に。役立たずのお前が。

 

 磨いた刃が首元に寄り添っている気分だった。身体は姉に成されるがまま、ルイズの精神に幻痛が襲い掛かる。

 命の危機でさえありえた次姉カトレアの病気。彼女の回復はルイズにとって嬉しくないはずがない。

 けれどルイズは冷静であってしまった。結論、己が彼女に対して何も出来ていないことに行き付いてしまうぐらいに。

 更に言えば、遠くない未来、兼ねてより自分を気遣ってくれたカトレアにも、ルイズは虚言を通さなければならないのだ。

 誰も言えない秘密。それを抱える代償。分かり切っていた筈なのに、ルイズは今になり、その重さを強く感じていた。

 

 

「落ち着いた?」

「はい……ごめんなさい」

「いいのよ……そういえば、普段あなたにこうしていたのはカトレアだったわね。私はむしろ……泣かす側だった」

 

 懐かしむ様に、あるいは少しだけ、後悔するように。あらゆる胸懐を伴って、エレオノールはそう言った。

 か細い旋律ともとれるその紡ぎに、ルイズは驚きを隠せなかった。あまりにも、どこまでも苛烈な姉に似つかない態度だった。

 

 それを置いて、ルイズは未だに疑問だった。結局、姉の言う「ここに来た本筋の理由」とはなんなのか。

 ルイズの頭に浮かんだのは最大の禁句であった。姉にとっての。

 

 結婚。

 

 二十七にして未だつがいなし。振られること星の数。これマジでヴァリエール家跡継ぎどうすんの問題の急先鋒。

 ルイズはそれを見極めようとする。股間にある汁出し棒が、少女にその冷静さを獲得させたのだ。やったね。代償が重すぎるのよ死ね。あやうく私が問題を解決するところよ。

 聞くべきか。聞かざるべきか。ルイズが知る限り、現在、姉には婚約者がいる筈だ。バーガンディ伯爵。だが安心は出来ない、ここから破局に至ることなぞ、今のルイズが夢精するぐらいの頻度なのだ。つまり毎回なのである。クソ。

 

 ルイズは考えを巡らせる。もし、奇跡的に上手くいっていて、姉が式の日取りの話だとかに来たのだとしたら。

 であれば、もう少し浮かれているはずなのである。まるでこの世の春が如きに。だがそういう雰囲気は持ち合わせていないように見える。

 ではやはり、駄目になってしまっただろうか。振られてしまったのだろうか。まるで空が曇れば雨が降る如きに。自然の摂理に沿って。

 しかしそうならそうで、もっと苛ついている筈でもある。カトレアの回復を差し引いても、それでも隠せない憤怒の色がある筈なのだ。

 

 逡巡の果てで、ルイズは踏み込むことにした。人の顔を伺い感情を読み取るなんて、ルイズには出来ない。だから、突き進む。足踏みして狼狽えてばかりの自分ではないと叫ぶのだ。

 先に進んでいるという証。変化の渇望。だからルイズは今から『姉さま婚約どうだったんですか、やっぱりダメですか?』と聞くのだ。斜め上の進み方だというのは薄々感づいていた。そう聞いたら頬を抓られることも。なに、結局はどう足掻いても怒られるのだ。なら早い方がいい。

 

 

「姉さま、婚約……」

「解消したわ」

 

 ――速い。

 

 あまりにも鋭く、速い抜き打ちだった。おそらく、風のメイジでもここまでの速度は出せないだろう。しかも敵(ルイズ)の発言を完全に予見していた。並みの実力ではない。

 一方ルイズは姉の豪速の薙ぎ払いに対し、それに負けぬ程の速さを付随させて、すぐさま謝罪の動きに移行した。

 話を先に振ったのはこちら。そして婚約者に振られたのはあちらだ。姉への無礼は死に直結する。ヴァリエール姉妹鉄の掟なのだ。なお、それは長姉と末妹の間にのみ適応される。

 しかし。

 

「一応言っておくけどね、おちび。伯爵とは話し合いの末、互いの同意ありで婚約を解消したのよ」とエレオノールが言った。

 

 馬鹿な。

 

 そんな、それではまるで円満に解決したみたいではないか。ルイズは困惑した。

 てっきり姉の熾烈な性格に件の伯爵が音を上げたのではとルイズは考えたのだが、そうではないと姉は言う。

 見栄を張っているだけ……ではないだろう。もはや彼女はそういう程度を通り過ぎているのだ。『私についていけない? はぁ? で?』ぐらいは言いそうである。自分が原因なのに。

 頭の中でなら無礼は許される。ヴァリエール姉妹鉄の掟の逃げ道だ。

 

 さておき、そうなると謎は深まる一方だ。伯爵側が解消を選んだのは明白だ。単純に限界だったのだろう。公爵家との繋がりより、御身の平穏を選んだわけだ。いつもと同じだ。

 しかし今回に関していえば、その決別は一方的なものではないという。姉側にも、破棄する所以があるということなのだ。

 なぜ結婚に飢えている姉が別れを決めたのだろうか。伯爵に問題があったのか? 贅沢言える身分か? 

 しかし、その迷宮の様な謎はもとより、そもそもエレオノールがルイズを訪ねてきた理由の本筋が未だ宙に漂っているのである。

 

 そこで天啓じみた直感が、ルイズに舞い降りた。

 妙に暖かい姉。円満解消。ここに来た理由。それらは全て繋がっているのではないか。

 根拠はなかった。だがルイズはそれが正解だと思った。余計な言葉を放たず、ルイズは次の姉の言葉を待つことにした。

 

 そこに、まるで達人同士が相対するかのような間が存在していた。距離を測り、言動を視る為の間が。

 先に動いたのはエレオノールだった。僅かな躊躇いと目線の揺れを乗せて、慎重に口を開いた。

 

 

「好きな人が……出来たのよ」

 

 

 今度の口説は、先のものより格段に遅い一撃だった。

 ――だが、重い。

 エレオノールがらしくなく視線を彷徨わせ、冷たく尖鋭な印象を与える顔をほのかに赤くして放ったその言葉は、ルイズの胸部に強烈な一撃を与えた。

 そう、胸部、つまり心だ。決して下腹部ではないのだ。身内に欲情するほどルイズは獣ではない。長姉もおっぱいが小さいのだ。論点がちげぇよ馬鹿しね砕けろ。

 

 まるで、恋する乙女の表情だったのだ。あの厳しい姉が。妖精に語り掛けるような声色を付けて。

 しかし『まるで』ではないのだろう。ルイズは思う。まさしく『恋する乙女』なのだ。二十七年ものである。その辺も重い。

 ルイズは愛おしさを感じた。厳格な姉にも、こういう顔が出来るのか、と。

 ルイズは驚きを感じた。気位が高い姉が、よもやこんなことを言い出すなんて。

 ルイズは申し訳なさを感じた。元々、姉はこういう人間なのではないか、と。己があまりにも無能なため、姉に余計な重荷を背負わせていたのではないか?

 即座、頭を振るう。今は自嘲自虐しているときではない。

 

 ルイズにとって、それはあまりにも衝撃的な発言だった。

 

 『好きな人が出来た』

 

 エレオノールは大貴族の長女なのだ。

 惚れたのなんだのは二の次で、血統を考えた伴侶探しをしなければならない立場なのである。

 本人もそのことは分かっているだろう。己の役割。貴族の責務。けれど彼女は今、それを超えて己の意思を所望している。だから、伯爵との婚約を解消した。

 

「その、それは、どなた、ですか?」

 

 ルイズはそう聞きつつ、異様な座りの悪さを感じた。まるでちんちんの置き場がズレているがの如く。殺すぞ。

 単純に、姉とこのような会話を今まで交わしたことがなかったからだ。普通の姉妹のような、ありふれた会話を。

 聞かれたエレオノールは、眼鏡の奥に佇む瞳を、これ以上ないくらいに右往左往させた。そのあからさまな狼狽具合は、ルイズでさえ見て取れるものだった。

 

「……私より一つ年下で、魔法衛士隊に所属しているわ」 

 

 体面に居るルイズから目を逸らし、髪の毛を手で弄りながらエレオノールはそう言った。

 声は低く、言葉は鈍い。平坦でぎこちない音色だった。どことなく、震えているようでさえあった。

 

 ――あれ?

 

 姉の言動全てがルイズに違和感を覚えさせた。

 年下。衛士隊。確かに、大貴族の娘にはあまり相応しくない殿方の条件ではある。言いづらさを覚えるぐらいには。

 けれどそれに関しては、ルイズは目を瞑った。大人の事情や貴族の通例なんてものは、張本人の姉が先ず分かっている筈だからだ。

 ルイズが感じた違和は、そういうことではない。

 普通、どなたですかと問われたら、名前から入るのが一般的ではないだろうか。けれど、伏せている。

 名を言えない理由があるということだ。もしくは、言いたくない理由が。更に言うと、ルイズは姉が上げた条件に満たす人物に心当たりがあった。

 ルイズの瞳が凍えた。

 

「……失礼ですが、その方の爵位の程は」

「…………子爵よ」

 

 たっぷりと時間を使って、エレオノールは言った。声の調子はどんどん下がっている。

 

 ――あれれれれれ?

 

 ルイズは眉間を抑えた。あたまいたくなってきた。

 姉より一つ下。つまり二十六歳。魔法衛士隊。子爵。バツが悪そうな姉。今日ルイズを訪ねた理由。

 全てが綺麗に繋がってしまう。ルイズは顔を上げてはっきりと姉を見た。

 辺りをうろついていたエレオノールの瞳とルイズのそれがかち合った。

 明朗で艶のあるルイズの瞳。煌くそれを見て、エレオノールは気圧されるように後ずさった。しかし、後ろは扉だ。ルイズは追撃の手を緩めなかった。

 

「お名前は」

「……ジャン」

「家名も含めて」

「…………ジャン・ジャック・フランシンス・ド・ワルド……」

「はい」

「はい」

 

 はい。

 

 はいじゃなくて。

 姉の言っている意味は分かっていた。因果の繋がりがはっきりと見える。理解は出来ない。

 ルイズは目を据わらせながら、心の中で大量の爆発を発生させていた。端的に言って、訳が分からなかった。

 もしかしたら、奇跡が起こったのだろうか。姉の好きな人と自分の婚約者が、同姓同名でかつ爵位立場まで同じだという奇跡が。

 そんな訳はない。

 乙女にちんこが付くぐらい、それはあり得ないことなのである。じゃあ下にあるどっぴゅん棒(玉付き)は奇跡の賜物だというのか。たまだけに。爆砕するぞ。

 

 

 エレオノールが気まずそうにしている筈である。よりによって、妹の婚約者に惚れてしまったと言うのだから。

 

「姉さまぁ……」

 

 ルイズがジト目で呟いた。なんと言ったらいいか分からない。そもそもどういう気持ちでいたらいいかも分からなかった。 

 けれど、何かを言う権利はあるだろうと思った。だからこそ、ルイズは呟いた訳だ。複雑な感情を乗せて。

 

「な、なによ! す、好きになっちゃったんだからしょうがないじゃない! しょうがないのよ!」

「えぇ……」

 

 二七歳ヴァリエール家長女、妹に逆切れ。

 煽情的な見出しがルイズの脳裏を高速で横切っていった。

 ここまで怖さがない姉のぷっつん具合は初めてだった。ルイズは衝撃を受けた。それはもう色々な角度から。本格的に頭痛がしてきた。

 しかしこのまま姉の癇癪を眺め続けるのも堪らない。鏡の中の自分を見るようなものだからだ。

 恐る恐る、竜の尻尾を踏むのを避けるように、ルイズは口を開く。

 

「あの、姉さま……なにゆえ?」

 

 ルイズが知る上で、姉とワルド子爵に接点らしい接点はない。

 名ばかりであるがルイズの婚約者だという点と、領地が隣同志という点を除けば、かたや王国魔法研究所所員、かたや魔法衛士隊所属。かたや公爵家の長女、かたや子爵家の領主(彼の父親は故人の為)。

 訳わかんない、もう処理できないわね――ルイズの冷静な部分が、冷静に爆発四散した。情報過多。タバサが泣くこと以上の困惑だった。ルイズの人生において受けた衝撃順位の二位は決まったも同然だ。一位は当然チンコである。言うに及ばない。

 圧倒的な精神負荷を受けたルイズが外界に何も出さなかったのは、目の前に鏡があるからだ。鏡面の意義とは己の見てくれを顧みることにある。ああはなるまい。

 

 ルイズの探るような弁を受けたエレオノールは、全ての動きをぴたりと止めた。

 口元。手の動き。身体の僅かな震え。それらを何もかも静止させて、ゆっくりと、その整った顔を赤く染めた。

 

「じ、実は、ね……」

 

 ――ああ

 

 ルイズは察してしまった。姉の甘酸っぱいものを口に含んだ表情を見て。声の震えの中にある昂ぶりを感じ取って。

 今から満を持して語られるのは、あの厳しい姉の恋の軌跡なのだ。ルイズの瞳から艶が消えた。

 ヴァリエール姉妹鉄の掟。姉の言葉には常に耳を傾けるべし。ルイズは耳だけをこの場に置く術を模索した。模索し続けることに時間を費やすことにした。

 

 

 

「――ということよ」

「はぁ」

 

 エレオノールの事情説明をルイズは沼の様な瞳で聞いていた。

 それは説明というよりほぼ惚気と言ってもよかった。短い話の中に『ジャン』という単語が七十二回出てきたからだ。余分な情報が多すぎる。 

 

 不必要なものを取り除いて、話を要約するとこういうことだ。

 

 元々、エレオノールとワルドの間に関係性はなかった。

 しかしある日、エレオノールに今ガリアに居るワルドの母親……ミセス・ワルドから連絡が来たというのだ。

 何でも彼女は現在、ガリアで地質に関する研究を行っているとのことだ。彼女はエレオノールにトリステインで地質調査を行い、その結果を送ってきて欲しいと言う旨の手紙を送った。

 エレオノールは多忙を理由に断ろうともしたが、ミセス・ワルドはガリアで薬を調達して貰ったのだという。カトレアの特効薬になり得るという、ガリアの薬を。

 そうまでされたら、幾らエレオノールでも動かない訳にはいかない。領地で隣同士だという縁もある。後にカトレアの病状が良くなったこともあり、今ではエレオノールが直接ガリアにまで赴いて研究の結果を渡しているとのことだ。

 

 ミセス・ワルドがなんの研究をしているのか、そもそもトリステイン人である彼女が何故ガリアに行っているのかということについては、エレオノールにもよく分からないらしい。地質関係のなにか、ということは分かるか、それ以外はミセス・ワルドも口を噤んでいるとのことだ。

 ただ、非常に重要で大事な意味合いがある研究、らしい。エレオノールはそれ以上追求しなかった。もっと気になることが出来たからだ。気になる人、と言った方がいいだろうか。

 

 彼女の息子であるワルド子爵は軍属だ。無論、ここトリステインの。

 そうなってくると、二人の親子は中々会えない訳だ。紙のやり取りはともかく、互いにやる事が山積みで、易々と国を跨いで会話をするなど出来ないのである。

 とある日にエレオノールが研究所で仕事をしていると、そこにワルド子爵がやって来た。

 母親と会っているというエレオノールに、現在母親がどういう様子か、息災しているかを聞きに来たのだ。

 

 そこからが始まりだった。 

 

「話し方がね、とても紳士的なのよ、ジャンは。他の男連中は上っ面だけを整えているけど、彼は違うわ。本当に、本当に優しいのよ」

「はぁ」

 

 ルイズはかつてないほど饒舌な姉を前にして、何故ワインは酸味が効いているのかを考えていた。そうして、それは原材料の葡萄が甘酸っぱいからだという事実に思い至った。

 次に、では何故葡萄は酸味があるのかを考えた。それはもう、そういうものなのである。誰が決めたか、葡萄とは端からそういうものでしかないのだ。

 

 ――極めて紳士然とした男と、婚約者から拒否されまくるもういい歳の女性が出会えばどうなるかと同じくらいに。

 

 そういうものなのである。

 

 うっとりと語るエレオノールを尻目に、ルイズは思考を重ねる。 

 つまるところ、姉はすっかり参ってしまったのだ。年下の男の、あまりに洗練された立ち振る舞いに。己を宝物の様に扱う仕草に。

 

『子爵様が知己である公爵家の長女、それも自分の母親の手伝いをしている人を邪険に扱う訳ないじゃないですか。結局、社交辞令に過ぎないのでは?』

 

 とルイズは脳内で乙女の夢をぶち壊す容赦なき指摘を描いたが、それらはルイズの内にだけで完結した。到底口に出せるものではない。

 それに。

 その言葉はルイズにも刺さる。在りし日の思い出。幼い自分。優しくしてくれた青年。

 ワルド子爵の人間性を否定することは出来ない。あれが虚妄だったと思いたくもない。だけれども、公爵と子爵。位の差はどこまでついてくる。

 あの時の彼の優しさは無垢で無知な婚約者をあやす戯言だったのだろうか。ルイズに分かる筈もない。けれど思考の空転は止まらない。善しにせよ悪しきにせよ、ルイズは物事を考えられる能力を得てしまったのだ。

 

 ルイズは頭を振るった。自虐の冷やかさが、情報量で加熱した精神を沈めさせていた。力は振るえばいいというものではないのだ。為すべきことを為せ。

 今のルイズには分かる。姉が己に何をして欲しいのかを。そして自分が姉の為に何をするべきかを。

 

「それで、ジャンはよく昼食のお誘いに来てくれるのだけれど、その時にね……」

「姉さま、父さまや母さまに、このことはお話しされましたか?」

 

 

 ルイズの不躾とも言える鋭い切り口に、エレオノールはたじろいだ。

 先ほどまであった顔の熱はあっという間に消え失せ、唇は僅かに震えている。

 

「……言えるわけ、ないでしょう」

「そりゃそうだ」

「なに?」

「いえ、何も。では、父さまと母さまに伯爵との婚約解消の件は説明されましたか?」

「……解消の事実だけは伝えてあるわ……それ以上のことは言っていない。そもそも聞かれなかったから」

「いつものことだからでしょう」

「え?」

「別に。では本題に移りましょう、姉さま。私、ルイズ・フランソワーズはワルド子爵との婚約解消を希望致します」

 

 元々お酒の席が発端の戯れ、名ばかりの婚約でしたし――そう付け加えて、まるでそよ風に当たる様に涼しげに、ルイズは言い放った。

 姉からワルド子爵の名が出た時点で、ルイズはそうするつもりだった。手前に行った小声の当てこすりは、小さな憂さ晴らしにしか過ぎない。姉に悟られない程の小声、というのが重要である。

 ルイズがあまりにも事も無げに言い放ったせいだろうか、エレオノールは口を半開きのまま、彫刻のように固まった。   

 

「……は?」姉の口から出る戸惑いの声を、ルイズは無視する。

「実際、ワルド様がどうお考えかは分からないのですけど、何年も音沙汰なしでしたし、立ち消えになっても問題はないかと」

「ちょっ、ちょっと、ルイズ! あなた、何を……」

「違うのですか?」

 

 エレオノールはまたもたじろいだ。あまりにも異質なその声色に。

 ルイズの声は、暗いものではなかった。かと言って明るい訳でもなかった。遅くも早くもなければ、冷たくも暖かくもなかった。

 僅かな高揚や低迷さえも感じられなかった。無限の水平性と永劫の鉛直性が交じり合う、不朽の空虚だけがその声にあった。

 

「姉さまは、そのことを言いに来たのではないのですか?」

 

 瞳だけが、無垢の煌きを見せていた。

 

 それを気迫と言い換えるには余りにも透明な態度だったが、エレオノールは息苦しさを感じた。

 言葉に詰まり、戸惑いに溺れ、それでもエレオノールは逃げなかった。ヴァリエールに逃走はないのだから。

 エレオノールはルイズにきちんと向かい合った。姉としての傲慢を捨て、己の恥を受け入れて。

 

「……違うと言ったら嘘になるわね」

「やっぱり」

「もっと段階を踏むつもりだったのよ。あなたの言う通り、ジャ……子爵の考えも分かっていないのだから……あなたは、本当にいいの?」

 

 ふと、ルイズの脳裏に浮かぶ幻影。過去。挫折。閉塞。小舟。憧憬。閃光。

 すべては陽炎にしか過ぎない。ルイズのルーンが淡く発光している。エレオノールは気づかない。ルイズは気づいていた。それはルイズの意思で、感情だった。

 ルイズはただひたすらに、前を向く。

 

「何もかも昔のことでしたから、私は別に……というか、そもそも子爵様は私のことではなくて、姉さまのことを……あー、どうお思いなのですか?」

「……さぁ?」

 

 おいおいおいおい。

 エレオノールの瞳が高速で逸れていったのを見て、ルイズは確信した。姉は完全に向こう見ずな行動をしていると。

 段階を踏む、と言ってはいるが、最終的なエレオノールの目標はワルドとつがいになることだ。それは間違いない。

 けれど、彼女は肝心の子爵の気持ちが分かっていないと言う。それなのに貴重な婚約者であった伯爵と別れたと言う。

 

「もしかして、姉さま、姉妹なんだから大した違いはないとかなんとかで、婚約関係をそのまま移すつもりじゃ……」

「そ、そんなわけないじゃない! 大体、私とあなたじゃ大きな違いがあるでしょうに」

「年齢ですか」

「立場よ!」

 

 エレオノールは青筋を立ててルイズの頬へと手を伸ばした。ルイズはすまし顔でその毒手を避けた。よくよく見れば、ギーシュのワルキューレよりはるかに遅い。鉄の掟? 知らん。恐るるに足らず。

 ルイズは攻撃を避けられて若干驚きの表情の姉に満足しつつ、二の句を紡ぐ。

 

「……では、バーガンディ伯爵との婚約を解消するのは早計だったのではないでしょうか。せめて、子爵様のお気持ちを聞いてからでも」

 

 交友関係ゼロのルイズには知る由もないが、世の女性が同じ条件になったのなら、大多数はそうするのではないだろうか。無意味な損失を避けようとするのが人間なのだから。

  

 けれどエレオノールは鼻を鳴らす。

 

「何言っているのよ。他の殿方に恋をしてしまった上で婚約関係を続けるのは、あまりに不貞でしょう」

 

 エレオノールのその言葉は今日この時において、もっとも鋭く、もっとも重い言葉だった。あるいはルイズにとって、もっとも眩しい言葉だった。

 なんと世渡りが下手で、なんと潔癖なのだろうか。

 これはルイズの想像でしかないが、恐らくワルド子爵の存在がなくとも、件の伯爵との関係は駄目になっていただろう。そしてその主な原因は、姉の傲慢な高潔さに因るものなのだ。

 頭が固すぎる。未来が見えていない。行動と感情の繋がりが強すぎる。そんな姉を見てルイズは、自身の血の濃さを強く意識する。

 

 ――融通が利かないという類似性。

 

 もしもルイズが今の姉と同じ立場でも、同様の言動をする、してしまうだろう。

 姉の様な潔い割り切りが出来るかどうかはともかく、少なくとも、空気を読んで上手いこと流れに乗ろう、なんて生き方はルイズには出来ない。したくもない。

 不利益を被る程の剛情。鏡の前の自分。頑迷の由来が血筋ならば、やはり己はヴァリエールなのだ。

 そう思ったルイズは自分でも分からないうちに、口角を僅かに上げていた。

 

「その笑みはどういう意味なのかしら? おちび?」

「ふひぇ、ひひゃいひゃうひょう!」

 

 そして頬を抓られた。

 ヴァリエール姉妹鉄の掟。姉からは逃げられない。もはや掟でもなんでもなかった。ただ鉄の様な繋がりだけが輝いていた。

 

 

「ですが姉さま。不貞と言うのならば、そもそも婚約しておいて他の方に惚れたというのは、その……しかも、戯れの約束とはいえ私の婚約者……」

「……実家には……特に母さまには、くれぐれも内密にしておくように」

「はい」

 

 ヴァリエール姉妹鉄の絆。母さまを刺激するな。これが麗しき姉妹愛である。わかったか。

 

 

 

「ところで姉さま、今日来られた本題はそのことなのですか?」

「……そうと言えばそうだけど……ルイズ、あなた、明日は空いているかしら」

「明日ですか? まぁ、学院は休みなんで空いていますけど」

 

 ルイズがそう言った瞬間、エレオノールの瞳が据わった。

 途端、ルイズは強烈な既視感と猛烈な寒感に襲われた。

 どこかで見た瞳だった。即座に思い出す。鏡。比喩表現ではなく、鏡の中の己の瞳だ。

 あれは、そう、自分の無才を悟り、齎された新たな秘儀を見つけた、あの夜。

 部屋の中で全裸ちんちんぶらんソワーズしていた自分を姿見に映した時の、あの瞳。

 

 ――何もかもを受け入れ、そして何かを覚悟した瞳だ。 

 

「明日、王都に食事に行くわよ。準備しておきなさい」エレオノールが言った。有無を言わさぬ声だった。

「はぁ……私は、構いませんけども……」

「では、明日の昼前に迎えに行くわ。ジャンが」

「はい…………はい?」

 

 

 もしかしたら、そう、もしかしたら。

 エレオノールが唐突に斬新な語尾をつけだしたのだと、ルイズは祈った。「昼前に迎えに行くわジャンガ」のような。

 無論そんな筈はないし、そうならそうで困る。奇妙な語尾の長姉とちんこ生えた末妹に挟まれる次姉カトレアがあまりに不憫すぎるからだ。

 結局、ルイズに現実逃避は許されない。分かり易い結論だ。明日の王都での昼食とやらは、件のワルド子爵も同席するのである。

 というより、話の流れからすれば同席するのはむしろルイズの方なのだ。

 ワルド子爵もエレオノールも決して暇な人間ではない。ならば、明日の予定は最初から決められていた筈である。

 

 ――段階を踏むつもりだった。 

 ルイズは姉の先の言葉を思い出した。これこそが姉の本題だったのだ。婚約のあれこれなどの家柄が絡む煩雑な問題はさておき、まずは三人で食事から、ということなのだろう。

 本来ならば、そうした会食の向こう側で姉は真意を見せるはずだったのだ。ルイズとワルドの距離感や感情を測った上で。

 なるほど、確かに理に適ってはいる。今日の今日までルイズに一切を知らせていない以外は。

 

 段階の踏み方ァ!

 

 ルイズは口からはしたない異論を出そうとしたが、かろうじてぐっとこらえた。姉には姉の事情があるのだから。

 そしてルイズが渦巻く感情を咀嚼している最中、エレオノールは既に部屋の扉を開けていた。

 

「ちょ」

「じゃあね、ルイズ、また明日」

 

 

 忙しなく扉を閉める音が自室に響いたのち、ルイズは静まり返った部屋で暫し佇んだ。

 耳に痛いほどの静寂に満たされた部屋。考えることがあり過ぎて、ルイズは何も考えられなかった。

 

「よお、ルイズ」

 

 そこで、まるで久しぶりに会ったかのような気軽さで、デルフがルイズに声を掛けた。

 壁に立て掛けられていた筈の彼は、いつの間にか床へと身を預けていた。落ちた拍子にだろうか、その刀身が僅かに外界を覗き込んでいる。

 ルイズは今までずっと気づかなかった。いつごろかは分からないが、デルフは喋れる状態にあったのだ。

 

「よく黙っていたわね」

「剣だって、空気ぐらいよめらぁ」

 

 

 正直な話、ルイズとしては大助かりだった。インテリジェンスソードを所持している理由を、姉は細かく聞きかねない。これ以上面倒は増やしたくなかった。

 そもそも、エレオノールは最後までルイズの後ろにあった剣について言及しなかった。単に気が付かなかったのだろう。

 

「……ねぇデルフ」一つ間をあけて、ルイズが言った。

「なんだ」

「姉さまを見てどう思った?」

「胸ちいせぇな。お前と同じで」

「私もそう思う、違う、いやいや違くはないけど、あー……なんだこの野郎」

「浮かれてたな。これ以上ないってぐらいに。おれは平素の姉ちゃんの様子は知らんけどさ」

「……普段はもっと厳しいわ。態度も口調も」

「恋をしているからだろう。ヒトはそれで変わる」

「剣のあんたが恋を語るというの?」

「経験則さ。おれは今まで腐るほどヒトを見てきたからな」

「ふーん……」

 

 恋。

 そう、姉が紡いでいたのは疑いようもなく恋の歌であり、鼓動は春のものだった。

 あらゆるものの息遣いが明るく、躍動感がある、始まりの季節。エレオノールが想い人について話す様子は、ルイズに辺りを覆いつくす花の畑を想起させた。

 姉は今、その最中にいるのである。だから、デルフリンガーが見えなかった。彼女が見ている風景に入らなかった。

 

「あとはそうだな、おめーら姉妹、そっくりだな」ルイズが思いを巡らせていると、デルフがそう言った。ルイズは思いがけない言葉にきょとんと目を丸くした。

「……どこが?」

「人に頼るのがクソ下手なところだ。どうしようもねー時になって初めてそうしようとしやがる。もっと早くすりゃあ、拗れるもんもねーだろうに」

「……なによ、突然。私もそうだというの?」

「違うか?」

「違う……ことはない……ような気がする」ルイズは言葉を濁した。

 

 人に頼るのが下手。言われてみれば確かにその通りな気がする。けれど、それが姉と同一のものだと言われると、何かが違う気がした。

 あえて差異を上げるのならば、ルイズは何かを人に委ねることを弱さと断じているからだ。だから人に頼らない。そう思っていた。少なくとも、今までは。

 何か、何かが違う気がする。本当に、それが解なのだろうか。自分が他人と距離を置く理由は、本当にそこにあるのか。

 

 答えは出ない。当たり前の様に。だけれども、ルイズはこの疑問に対してはすぐ近くに真実の解があるように思えた。

 

 デルフは次の句を発さなかった。ルイズも黙った。

 この場面での頼る頼らないの話は、何らかの意味があるのだろうか。それとも、意図なぞないただのデルフの感想なのだろうか。

 即座、ルイズは頭を振るう。分からないことに時間を費やすな。

 明日、明日のことだ、考えるべきは。とは言っても、やるべきことは決まっている。

 姉と子爵の仲を取りつつ、ワルドの気持ちや見解を知る。そうして、ルイズはワルドとの婚約を正式に解消する……

 

 これでいい。ルイズはふっと微笑んだ。

 考える。ワルド本人の思考と嗜好は抜きにして、姉と自分、どちらが彼の伴侶に相応しいのかを。

 家柄や貴族としての立場を別に、純粋に、男と女として、将来子孫を残す上で、姉と自分、どちらが優れているのかを。

 

 決まっている。こんな無能の血を、誰が好き好んで選ぶものか。 まぁこっちはむしろ種を出す側で……

 

 

 ――駄目よ。

 

 左手のルーンが鋭く発光した。心が軋む音がした。

 ルイズは誤魔化されなかった。あるいは、誤魔化さなかった。

 下劣な言葉は遊びは要らない。逃げ道は作らない。『誰か』由来の防衛機構。けれど今は必要ない。

 

 ルイズの心の奥の奥。

 幼いルイズが無意味な詩で杖を振るい、産まれ出でた虚空の爆発によって黒犬が弾き飛ばされていった。

 

 

 

 

 夜になった。

 姉の来訪から今まで、ルイズは出口のない靄の道の中で物思いに耽っていた。ルイズも、そして鞘から刀身を出しているデルフも言葉を発さなかった。

 そこでルイズは気づく。まるで遠い昔の話のような、キュルケの進言。第一回タバサを讃える会。という名目の、半ば習慣化された四人での飲み会。

 行く意味もない。だけど、行かない意味もなかった。今更断るのもきまりが悪い。ルイズは自分にそう言い聞かせて、のろのろと部屋から出て行った。

 

 

 

 

「世の中クソ」

 

 

 ルイズがタバサの部屋に赴いたとき、タバサの第一声がこれだった。

 もうルイズ以外は全員揃っていて、先に飲みを始めていた。その中にあって特にタバサはぐでんぐでんの状態にあった。対面に座るモンモランシーの腹部に頭をこすりつけながら、盛大に呪詛を吐いている。

 似つかわしくないタバサの奇行に、しかしいい加減慣れてきたルイズは、目線を外し、のんびりとワイングラスを傾けているキュルケに目を向けた。彼女はルイズを見て、ひらひらと手を振った。 

 

「来たのね、ルイズ」

「来てやったわ、キュルケ」

 

 如何にもつまらなさそうにルイズは言って、もはや定位置になった木造の椅子に腰かけた。そしてごく自然にチンコの位置を調整した。

 ルイズが机から空の杯を手に持つと、キュルケが立ち上がってワインボトルを差し出してきた。ルイズは何も言わずそれを受け取った。

 

「タバサ、どうしたの?」

 

 自ら杯に赤水を注ぎつつ、とうとうルイズが言った。見なかったことにするには、あまりにも距離が近すぎる。

 これがタバサを讃える会だと言うのか。モンモランシーの腹部は表彰台かなにかなのか。だとするならばなぜ恨み事を吐いているのか。モンモランシーの腹部は悪鬼の窯かなにかなのか。

 

「品評会で高い評価を貰って、じゃあ嬉しそうにはしゃぐ、なんてタバサらしくはないけれど、これもこれでどうかと思うわ」ルイズが言った。

「まったくね。でもまぁ、これもタバサなのよ」知った風にキュルケが言う。その瞳はただ優しさで煌いていた。

「で、結局なんなのよ、これ」

 

 キュルケの瞳の色を無視しつつ、ルイズはタバサを見た。青い髪の童女はとうとうモンモランシーの長い巻き髪に絡みつき始めていた。

  

 

「例のガリアの件らしいんだけどね」

 

 そう前置いてからキュルケが言った。

 

「タバサにはいとこがいて、その子はタバサと同じように例の同性同士のアレコレに反対していたようなんだけど、その子から手紙が来たとかで」

「まさか、その子まで……同性のアレコレに……?」

「逆よ逆、なんでも長年同性的なアレに刃向かっていた同志である男の人と、そのいとこが心を通わせたらしいのよ」

「じゃあ、むしろいいことでしょう。健全じゃない」

「そうと言えばそうなんだけどねぇ……ほらタバサって最近しょっちゅう、かっこいい男の人がいいー、って言っていたじゃない?」

「それが?」

「その男の人って、誠実で、カッコよくて、おまけに強いらしいのよ」

「……もしかして嫉妬してるってこと? あのタバサが?」

「それもあるかも知れないけど、結局はその殿方は関係なくて、『置いていかれた』っていうのが強いみたいね。タバサ、そのいとこの子を慕っているらしいから」

 

 ルイズは衝撃を受けた。

 ――置いていかれた。

 あまりにもルイズに馴染み深いその言葉。そしてそれは、才女であるタバサから遠い言葉だと思っていたからだ。

 

 さておき。

 

「ねぇキュルケ、もしかしなくてもだけど」

「言わないで、ルイズ」

 

 

 タバサ本人は秘密にしているつもりだが、ルイズは彼女がガリア王の姪だということを知っている。

 翻って鑑みるに、タバサのいとこということは、それはもしかして、王……

 そこまで考えて、ルイズはワインをぐっと一飲みした。知らない知らない。関わりたくない。

 キュルケの目は据わっていた。酔いが回っている訳ではあるまい。

 先ほどからモンモランシーが頬を引きつらせているのは、タバサが頭で腹部を圧迫しているだとか、タバサがモンモランシーの髪の毛の匂いを嗅ぎまくっているだとかが理由ではないのだろう。

 単純明快。やたらとでかい話だからだ。かなり危うい話である。国家的な意味で。

 

 次期ガリア王はだーれだ問題はさておき、ルイズはタバサ個人を考える。

 親しくなかった過去においては、ただただ優秀な生徒だと思っていた。

 今現在もそれほど親しくなっているとは言えないが、少なくとも、押しも押されもせぬトライアングルクラスのメイジという印象だけの人物ではなかった。

 

 でこっぱちめ、裏切り、かすてる何とか、おめでとう、くやしい、いいにおい。

 

 タバサは意味が分かるような分からないような言葉をひたすらに呟いている。複雑に絡みついた感情が読み取れる。ついでにタバサの顔にモンモランシーの巻き毛が絡みついている。

 

「……というか、なんでモンモランシーなのかしら」

 

 誰に聞かせるでもなく、ルイズは呟いた。

 普通、こう言った役目はキュルケが担っていた筈だ。いつもなら。

 けれど、今日はモンモランシーがタバサを慰めている。これがモンモランシーが自主的にやっていることなのかはかなり怪しいところだが。

 ルイズの口からついと出た疑問をしっかり聞き届けていたキュルケは、ふっと微笑んだ。

 

「甘えたり頼ったりする人は多い方がいいでしょう? それだけよ」

「……それに何の意味があるの」

「それそのものに意味があるのよ」

「は?」

「人それぞれってこと」

「……」

 

 ルイズはそれ以上の問答をしなかった。

 

 頼ることの意味。人それぞれ。

 凪の湖に石を投げたかのように、ルイズの心に波紋が広がっていった。

 求めた答えが。隠れていた真意が。手の届く距離にあった。

 頭の片隅に追いやった靄が、だんだんと晴れていく。

 ルイズはその先の景色を覗き込む。虚しさを覚える空洞。予想通りだ。

 

 ルイズはキュルケの顔を見た。分かる。何かを思案する表情。表にでた僅かな憂慮。ルイズに向かう心配の情。

 

 昼、姉があれだけ盛大に扉を叩いたのだから、部屋の距離を考えればキュルケが気づかない訳がない。

 姉は消音魔法を使わなかった。下手をしたら、キュルケは会話のすべてを聞いていた可能性すらある。

 だが、キュルケは言わない。だから、ルイズも言わない。

 

 

 

 

 

 何も、ルイズは言うことはなかった。

 

 

 

 

 タバサが眠たくなったら、終わりの合図だ。今日に限ればタバサはその場で落ちてしまっていたが。

 ルイズは粛々と部屋から出て行った。キュルケはモンモランシーの腹部にくっ付いたまま寝てしまったタバサをひっぺがすことに終始していた。どうやらモンモランシーの腹部はなんなのか問題は解決したようだ。寝具なのである。

 それらを一瞥した後、冷たい廊下を渡り、ルイズは自室へと戻った。その後、意味もなく部屋を見渡し、故なく深く息を吸った。

 そうして、部屋の壁に佇むデルフにすっと声を掛ける。

 

「デルフ、一つ、いいかしら」

「おう、なんだいきなり」

「……あんたはさっき、姉さまと私は人に頼るのが下手だって言っていたわね」

「……それが?」ルイズの言葉尻の冷たさを感じ取ったのだろうか、彼の声は極めて硬質だった。

 

 そうして、ルイズは目を瞑った。夜の沼の様な救いのない空間に、空っぽの幼い自分がいる。背を向けている黒犬がいる。

 そうして、ルイズは目を開けた。住み慣れた部屋は居心地の良さを感じさせない。それは、ここじゃないところでさえも。本当の居場所が分からない。産まれたときから。

 姉から受けた強烈な困惑はとうになくなっていた。そうして残った今ここにある感情をルイズは吟味した。癇癪は起きない。もう、理解しているから。

 

「……姉さまが人に頼るのが下手な理由は、公爵であるヴァリエール家の長女だからよ。弱みを見せられない。弱くあるわけにはいかない。だから、誰かに頼らない。あんたの言うとおりだと思うわ。どうしようもないときに、初めてその選択が出来るようになる」

「おめーはそうじゃないのか?」

 

 その問いへの回答は、ここにある。この暗き世界の中に。

 

 頼ることが弱さだというのならば、タバサは弱いのだろうか。姉は弱いのだろうか。

 違う。強弱は論点ではない。人それぞれ。ならばこそ、己は己の根源を探るしかない。ルイズは人生から得た教訓と言う名の辻褄を、一心に形作る。 

 

 出来上がった組絵を見て、ルイズは笑みを浮かべた。幼子に美しく咲く花の最後を伝えるときのような、優しさと儚さを携えて。

 

 

「違う。違うのよ、デルフ。私は……私はね」

 

 

 ルイズは感情と記憶のかけらを拾い集め、言葉を作った。その行為が痛みを伴うものだとしても、ルイズは止めない。止まらない。

 近頃感じていた焦燥感。停滞感。それを払拭できるただ一つの決意。組み上げた歪な答えを、ルイズは笑って受け入れる。

 

 

「無意味だと思っているのよ。誰かに頼ることを。縋ることを。だって、誰にもどうにも出来ないんだから」

 

 

 言ってしまった。ついに、口に出してしまった。根底にある己の汚さを、ルイズはとうとう認めてしまった。

 

 貴族でありながら魔法が使えない。その事実を受け入れつつ、しかしそれは自罰的な認識だった。

 だけど、ずっと、ずっと前から、ルイズは一つの思いを捨てきれずにいた。

 

 

 誰も、助けてはくれない。私が無能ならば、無能を救えないお前らはなんなのだ。

 

 

 ――公爵家の柱である父。気高く、熾烈で、華麗な経歴を持つ母。優秀な姉。優しい姉。大切な友人。婚約者。家庭教師。学院の教師。生徒。出会った人たち全て。

 

 誰一人、ルイズの爆発の謎を解決できた人はいなかった。だから、世界はルイズを責めた。だから、ルイズは責められた。己が何もできないのが悪いから。

 自分の空虚こそが根拠である。誰かに頼っても何も解決しない。魔法のみならず、使い魔の召喚だってそうだ。

 秘密を知らせたオールド・オスマンにだって、結論だけでいうならば何も出来ない。出来るのは現状の維持だけ。

 秘密を知ったキュルケもそうだ。彼女は余計な首を突っ込んだだけ。そこから先に道はない。

 

 同化した使い魔からは、『力』だけ貰うことにした。あとは、要らない。気遣いなど無意味だからだ。

 

 この世に無意味なものなどない、なんて、ただの綺麗事だ。己の弱さを他人の所為にしたくないルイズの潔白さが、そう思わせていただけだ。

 誰にも頼れない。頼らない。その思いは貴族としての矜持から来るものではない。意味がないから。使えないから。役に立たないから。諦めから来る無情だ。

 

 

 何もかもを認めた瞬間、ルイズの心は冬の朝の如く清涼な情景に満たされた。清々しさと刺す様な冷気が混じる、純白で寒々しい気配。 

 もとよりルイズが足踏みしていると感じた原因は、無意識のうちに期待していてしまったからだ。何かが何かを齎してくれる。そんな無根拠の願いがあったからだ。

 

 けれどそれらは無意味である。期待するだけ全て無駄なのだ。

 

 かつて自身の無才を認めたときと比べれば、今のルイズは驚くほど凪の心情だった。

 やることは何も変わってないのだ。ただ、世界に独り佇む孤独感と寂寥感がより一層息づくだけ。

 差し当たってはルーンの力を上手く使う術を見つけていけばいい。他から齎される天啓など存在せず、選択肢はないのだから。

 

 ルイズの悲哀すら見て取れる空の言葉を受けて、デルフは一段と大きく揺れた。

 

「……それが、おめーの始まりだ。ここからだ。ここから始まるんだ。忘れるな、ルイズ。おれは剣だから、あるがまま使われてやる。だから、おめーもあるがままでいい。今はそれでいいんだ」

 

 てっきり無言を貫くか、説教が来るかと思っていたルイズは、思いがけない前向きな言葉に目を見開いた。

 その意味を探ろうとして、止めた。今はこの空気に浸っていたいから。

 

 

 そうしてルイズはいつもの様に寝床に着いた。寒々しい心そのままに。

 少女はゆっくりと、温い闇に包み込まれていく。

 覚醒後、ルイズの目に映る朝日は、果たして何色なのだろうか。

 眩い希望の色なのか。暗い絶望の色なのか。

 どちらにせよ、未来に進む少女は誰を隣に置くわけでもなく、ただ孤高に道を進んでいく……

 

 

 

 

 ――これは、そんな話ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 不透明な微睡みに落ちたルイズを迎えたのは、いつもの破廉恥な悪夢ではなく、無限に広がる闇だった。

 ルイズは学院の制服を身に纏った状態で、広大で黒一色な地に立っていた。ルイズはこれを夢だとはっきり確信していた。普段のあやふやなものとは性質が違う、正しく闇の様な深い夢だと。

 

「普通、ここには来ることが出来ないんだ。お互い」

 

 唐突に響く呼び掛け。若い男性、むしろ少年のものと言ってもいいその声は、ルイズには聞き覚えなく、けれどどこか馴染みのあるものだった。

 声はルイズの後ろから発せられている。それも真後ろから。その声の主が。彼が。背中合わせで。

 しかしどういう訳か、ルイズの全身はまるで蝋を浴びたように固定されていて、彼女は振り向いて彼の顔を見るどころか、指先を動かすことさえも出来なかった。

 

「あまりにも深いところだから、普段は俺もお前も『ここ』を認識出来ていないんだと思う。今回は偶然……たまたまってやつかな。たまだけに」

「ぶっ飛ばすわよ」

「たまたま、ってところが重要だな。二つある訳だから」

「ころすぞ」

 

 ルイズが呪詛の様に呟くと、少年は「ははは」と楽しげに笑った。まるで、こんな下らないやり取りをずっと待ち焦がれていたように。

 ルイズは唯一動かせる瞳をぐりぐりと回し、真後ろにいる少年の一端でも見ようと試みた。

 そこで、ルイズはだらりと下げられている少年の左手を視界に捉えることが出来た。己より大きい男の手。そこには見覚えのあるルーンが刻まれていた。己の手のあるものと同じルーンが。

 

「まぁでも、これは夢より薄い何かでしかない。目が覚めても覚えちゃいないだろうな」

「あんた、随分詳しいのね。ここは私の夢なのに」

「そりゃあ、俺はお前よりお前を理解しているからだよ」

 

 あまりにも不遜で、あまり理不尽な物言いだった。己より己を理解出来る他人。認めざる傲慢だ。通常なら。

 しかしルイズは少年の言葉をそのままに受け止めた。「そりゃそうね」ぐらいしか思わなかった。

 実際、彼は『そう』なのだから。合一。魂の同居人。初めて会話したとは思えない既視感。あまりにも近くて遠い人。

 それをルイズが認識した途端、彼女の頭に数え切れない意思が浮上した。聞くべきこと。言うべきこと。あるいは、言われるべきこと。だが思い浮かんだそれらはあまりにも多大過ぎて、全てを出しきることは到底不可能だった。

 

 その中で、ルイズは無数にある選択肢から一つを掴み取った。

 

「……怒ってる?」

 

 真後ろにいる少年は暫し黙った後、ひとつ、息を吸った。

 

 

「怒りっていうよりは、驚きかな。だって、外を歩いていたら突然チンコなくなってんだぜ? 用を足そうとしたら、ないんだよ。思わず叫んじゃったよ。『うわああ、チンコない!』って。あまりにも慌てていたから、その辺に落ちてないか探しちまったぐらいだ」

 

 

 笑い話……にしたいのだろう。少年の声色は愉しげな雰囲気のみがあった。その裏にあった筈の葛藤は何かに昇華されていた。そしてその『何か』とはおそらく、ルイズを想う気持ちなのであろう。

 少年の内を、ルイズは何となく理解していた。少年にとってのルイズ程ではないが、それでも彼と彼女は繋がっているのだから。

 ルイズは何を言っていいか分からなくなった。暫し生まれる静寂。それを切り裂く何かを探すように、ルイズは辺りを見渡した。当然、闇しかない。

 

「……ここに来ればあのふざけてる夢を見なくて済むのね。ねぇ、これから寝るときはここに来るように出来ない?」

「言ったろ? 今回は、偶然だ。ホントは滅多に出会えるものじゃない。意図的にこれをやろうとしたら、進むのが速くなるだろうな」

 

 ――進むのが速くなる。

 

 ルイズはその意味を分かっていた。分かっているだけだ。どうにも出来やしない。デルフリンガーの言ではないが、あるがままを受け止めるだけだ。

 その普遍の事実は、今語る事ではない。

 

「偶然、ねぇ」

「たまたまが重なって今があるんだ。こういうこともあるだろう。あ、たまだけに」

「思い出したように言うんじゃないわよ殺すぞ」

「たまが二つついているところが重要なんだ」

「たたみかけんな飛ばすぞ」

「今の俺にはないけど」

「それはごめん」

 

 勢いに呑まれて反射的にそう言ってしまったルイズだったが、一拍開けて、今の言葉の重要性に気が付いた。

 

「……ごめん、っていうべきなのかしら。やっぱり」

「まぁ人のもの盗った訳だしなぁ」

「盗りたくて盗った訳じゃ……いや、それは通用しないか。というかあんた、随分他人事ね」

「俺としちゃあ謝って欲しい訳じゃないからな。お前が謝りたいなら別だけど」

「じゃあ、どうして欲しいの? ……私に、何が出来るの?」

 

 今ここに居るルイズは、少なくとも世間の柵から解き放たれたルイズだった。

 貴族のアレコレや己の高貴な、もとい『高貴すぎる』立場を抜きにした、只の少女としてのルイズだ。

 だからこそ、ルイズは率直な言葉を出すことができた。

 少年は考えるような間を空けた。

 

「お前の使い魔になりたい」

 

 しかしその言葉はきっと、今考えて生まれ出でたものではないのだろう。先の間はルイズに猶予を与える間でしかなく、答えは決まり切っていた。そういう気迫ある声だった。

 少年のあまりに神妙な言葉に、ルイズは思わず目線を下げてしまった。闇から闇への視点移動。その無益さは己が気後れしている証左だった。

 

「……今だってそうじゃない」

「でも使い魔とやらは主のそばにいるのが普通なんだろ? 俺は基本的に『見る』ことしか出来ないし、そもそも普通のやつらは動物の使い魔みたいだけど、お前のそばにいるのはチンコじゃん。チンコが使い魔でいいのか?」

「いい訳あるか」

「珍しいし目立つものには違いないけどな。『チン』が『たつ』ってやつだな」

「これも言おうと思ってたけど、その頭湧いている言葉遊び止めなさいよ。ちょくちょく私の考えに混ざるのよ、それ」

 

 ルイズが苦々しく言うと、少年は喉をくつくつと鳴らした。

 

「それは無理だ。こればっかりは。手が出せない俺の、精いっぱいの抵抗だから」

 

 防衛機構。ルイズが自罰の沼に落ちないように、偏り過ぎないように、奇妙で下劣な羅列で誤魔化す、彼の意思。

 それは分かっていた。ルイズにも。だけど、なぜそうするのかの理由がわからない。 

 

「余計なお世話よ……」これはルイズの強がりだ。貴族としてのルイズではなく、少女としてのルイズにとって。

「……じゃあ俺が隣に居れば、っていうのも、思い上がりか?」

 

 核心に迫るかのような、少年の固く低い声。ルイズもそれに倣い、声を低いものにした。

 

「もう一度聞くわ…………あんた、怒ってる? 召喚のことじゃなくて、最近のことで」 

「悔しい、ってのが本音かな」

 

 ため息交じりの少年の言葉を、ルイズはただじっと聞いた。

 

「お前が周りにああいう態度を取るのは、誰も信頼していないからだ。奥の部分で、お前は誰にも心を開いていない。多分、身内にも」

「じゃああんたが居れば私が思い直すと? 何様のつもりよ」

「使い魔様のつもりだぜ、ご主人様……そこまで上手く行かなくても、お前の焦りとか怖れとか、それを俺にぶつけることぐらいは出来た筈だ。人はチンコに怒りをぶつけることは出来ない」

「名言っぽく言うんじゃないわよ……仮にそうだとして、あんたが悔しがる謂れはないわ。これは私の問題だもの」

「悔しがることぐらいはいいだろう。これは俺の気持ちの問題だ」

 

 ルイズは眉尻を下げた。彼がここまで思う理由が分からない。『分からないこと』が多いルイズにとっても、その理由は知っておくべきものだと思った。

 だけれども、分かる筈もない。他人の尽力に価値を感じられないルイズに、他人の想いなど。

 

「あんたはなんで、そこまで……それに、なんの意味があるというの」

「この世に無意味なことは……どうなんだろうな。俺も考えておくから、お前も考えてみてくれ。どうせ忘れちまうだろうが、片隅に残っていたらでいいから」

「……私の答えは決まっている」

「もう一度聞くよ。またここに来た時に」

 

 少年のその言葉を受けて、ルイズは目の前の暗闇が白んでいっていることに気が付いた。

 夢の終わり。明日への道標。

 

「……もう終わり?」呆然とルイズは呟いた。

「残念ながら。他に、何か言いたいことはあるか?」

 

 聞きたいことは無限にあった。少年の名前。立場。居場所。現状。チンコなくてどうやって生活してんの? などなど。

 本来なら真っ先に聞くべきそれらを、しかしルイズは咄嗟に聞くことは出来なかった。所詮は泡沫の如き夢でしかない。あやふやで取り留めないものなのだから。

 最後の最後、ルイズの頭に浮かび、そして問うたのは迫っている眼前の問題についてだった。

 

「……明日のことは、知っているわよね?」

「……まぁな」

「一応、聞いておく。仮に忘れるものだとしても、もしかしたらちょこっとでも覚えているかもしれないしね……ねぇ、殿方って、世の女性に何を求めている者なのかしら」

 

 幾年ぶりに会う子爵。ルイズがやるべきことは彼の思いを見ること。姉との距離を測ること。

 だけれども、いくら見知った人とはいえ対人関係に薄い自分が、果たして上手く立ち回れるのだろうか。思えばルイズは男性のことを何も知らない。

 さしものルイズも男性の好みが全て一律のものとは思っていない。更に言えば、少年とワルド子爵の嗜好が一致しているとも考えられない。

 けれども、曲がりなりにも己の為に愚にもつかない言葉を列挙し、そして己を想ってくれている少年の真摯さを思えば、自分では出せない何かしらの意見が聞けると考えたのだ。

 

 少年は間髪入れずに言った。

 

「おっぱいだな」

「は?」

「おっぱいだ。男はおっぱいが見られればそれでいい」

「……おっぱい?」

「おっぱい」

「……次の機会を待つまでもないわね。この世に無意味なものはあるわ。少なくともここにね」

「それはお前の枯れた平原のことか? それはそれで意味はあると思うぞ」

「ころすぞ」

「覚えておけ。おっぱいは偉大なんだ。あのメイドの子とか褐色の子とかやばいよな」

「わかる」

 

 

 ルイズにだって、分かることぐらいはある。

 

 

 

 

 

 鳥が囀る和やかな空気の中で、ルイズは窓から差し込む陽光によって目を覚ました。身体をむくりと起こし、ちっと舌打ちをした。陽に苛ついた訳ではない。無意識だった。

 煌くそれらに目を細めながら、ついと首を傾ける。普段と違い、下腹部に何の異物もない。

 だけれども、ルイズの心には釈然としない風が吹きまくっている。見た筈の夢は忘却の彼方。ルイズは記憶の壺を覗き込む。しかし中身は空っぽだった。

 再び、ルイズは白い極光を放つ輝きに目を移した。ぼんやりと丸い朝日は、ルイズにおっぱいを想起させた。死ね。

 

 

 

 ――これは、そんな話なのだ。

 

 

 




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