やばい、勃起した。
冷や汗が止まらない。脂汗が止まらない。脈拍の加速が分かる。顔は紅潮と蒼白を繰り返し、ドコドコと五月蝿く響く不快な音は、ああ、私の心臓だ。
ルイズにはチビルイズの完全フランソワーズ状態をどうにかする術はない。チェスで言うところの『詰み』、その一歩手前と言える。
必死にルーンに呼びかける。収まれ、収まれ、殺すぞ、殺すぞ! 目を瞑る。あの黒い犬は、爛々と目を輝かせながら尻尾を振っている。どういうわけか、その体躯が大きくなっているように見えた。尻尾の動きは止まらない。
意味わかんない! ルイズは涙目になる。今まで多少なりとも言うことを聞いていたナニが、まさしくさっぱり言うことを聞かない。ふふふ暴れん坊さんね、こいつぅ。殺すぞ。
なんだ、こういう、血液が極度集中している状態は、どうすればいいのだ! 普通の男性が一般的に用いる処理方法を使えと言うのか!
教室の! ど真ん中で! しかも授業中よ馬鹿!
朝、メイドやキュルケの件はまだよかった。静める時間や猶予があったし、実際ルーンに念じることによって、その場はどうにかなっていたのだから。
だが今は。
「……どうしました、ミス。さぁ早くこちらへ来て錬金を」
「危険です、先生!」
「止めさせて下さい! 先生はルイズを受け持ったことがないから――」
「ヴァリエールは魔法が――」
「ほら、あいつだって自信がなくなったから――」
喧騒が遠く感じる最中、ルイズはやっぱり臨戦状態に入っている。杖がね。股間の奴ね。
ああ、どうしてこうなってしまったのか、限りなく背中を丸くしながらルイズは自問する。
何もかも順調だった。朝食時も特に問題なかったし、それどころか平時以上の食事量を完食したルイズは満足さえしていた。
おっぱいおめでとう、そんなトチ狂って脳みそふにゃふにゃ感満載の台詞をモロに聞いたツェルプストさんちーのキュルケ嬢は、どうも聞かなかったことにしてくれたらしく、ルイズの方をちらりと見たぐらいで、何も言うことはなかった。
その辺の空気の読みっぷりを、ウチの家系はもっとも見習ったほうがいいのではないか、そんなことまで考えてしまったぐらいだ。あとおっぱいが大きい秘訣とか。
教室に入った時の、他生徒から送られる粘ついた目線も気にならなかった。
こちとら双玉直棒がぶら下っているのだ。雑魚に構っている暇はない。周囲の蔑むような瞳を受けてなお、ルイズは鼻で笑った。
苛つきや怒りもなかった。ルイズはただ悠然と――ちょこちょこ他生徒たちの胸部を見ながら――王者の様に席に着いた。
闇の中の黒犬は。劣等感を糧にして。彼女の小さな魂は。憐れみと憎しみの最果て。
運命はネジ狂い。思考の偏りが見える。絶望の淵に立つ少女は。空っぽの瞳で零を拝む。
生まれ変わった気分――とは聊か過ぎた表現ではあるが、確かにルイズは変わっていて、もしくは変わろうとしていた。自覚が有るにせよ無いにせよ。
教室に向かう途中で気付いたのだが、体が驚くほどに軽い。魔法が失敗する故、ルイズは飛行魔法のフライも使えないが、それこそ飛べそうな気持ちであった。
朝一番の授業、召喚したばかりの使い魔のお披露目ということで、召喚された様々な生物達が扇形の教室に所狭しと蠢いている。
その体格ゆえか、巨大な青いドラゴンが窓から教室を覗き込んでいる。あれも誰かの使い魔なのだろう。
それらを羨ましいと脳が判定を下すより早く、瞼の中で、ドロドロした何かを黒犬が貪り食っていた。幼き自分と同じぐらいの大きさだった犬は、いまや子牛ほどの大きさになっている、
ルイズは何もかも気に留めない。その代わり、ちらちら見てくるキュルケの胸元をガン視してみせた。ゲルマニアは進んでいるわね。
授業が始まった。
案の定、生徒の使い魔たちに教師が触れた折、ここぞとばかりに周囲の有象無象がルイズを囃し立てる。
ここに召喚していないやつがいます、おいルイズ、お前の使い魔はどうしたんだ。
余計な問答なしに、ルイズは見せ付けるようにルーンが刻まれた左手を掲げ、朝キュルケに説明したことを――さらに洗練させ、さらに自信たっぷりと――周囲に告げた。
妙齢の女教師、シュブルーズはその旨は学院長から聞いていますと言い、不思議な使い魔を召喚したのですね、と微笑んだ。
周囲は静寂し、刹那騒然と成る。インチキだ、誤魔化しだ、責め立てるような言葉に、ルイズはただすまし顔だった。
学院という性質上、一番の権力を持っているのは教員だ。そしてヒトは権威に逆らえない。
教師シュブルーズは無闇に一人を貶めるような発言を諌めた。つまるところ、それだけで他生徒は言を持たなくなる。
結果、授業は恙無く進行した。ルイズは背中に悪意ある視線を感じたが、感じただけだった。それがどうかしたのか。
順調だった。ルイズは優越感さえ味わっていた。周囲の、コトが上手くいかなかったような、あの苦虫を噛み潰した顔!
愉快であり、痛快であり、全能で万能だった。
身体の調子もいい。心は凪の海であり、爽やかな風であった。
だから、だろうか。
授業中、シュブルーズが生徒に魔法の実演を求めたとき、ルイズが我先に手を上げたのは。
周囲のざわめきを他所に、ルイズは確信をしていた。今なら、魔法を使うことが出来る筈だと。
不本意であるものだとしても、己は使い魔の召喚に成功して、使い魔の契約にも性交、成功しているだ。うぉえ。
つまりそれは魔法が成功したということで、これが切欠となり、自分は普通の魔法も使えるはずだ、とルイズはそう考えたのだ。
どの道、魔法が使えるか否かはいつかは確かめなければならないことだった。
本当はこっそりと試すべきなのだろうが、昨日から今日、そんな暇もなかった。心の余裕的な意味で。
お誂え向きだった。簡単な錬金の呪文、それも、己を馬鹿にしていた者共の前での行使。
失敗する可能性、失敗したときの危険性は考えなかった。考える必要性をルイズは感じなかった。
ルイズは、目の前にある甘い蜜に愚直に飛び込んだのだ。
世界の全てを見返す/世界に己を認めさせる。
挫折塗れの人生を送ってきたルイズに、その誘惑を跳ね返す力はなかったのだ。
ある意味、現実を見ていなかった。ある意味、慢心していた。それが無謀であると、ルイズは露と思わなかった。
ルイズは。
ばきばきばっきーん。
魔法の失敗(爆発)を警戒する周囲を他所に、シュブルーズに指名されたルイズは意気揚々と立ち上がろうとした。
机に手を突き、腰を浮かそうとしたその瞬間、何か強い引っかかりをルイズは感じた。何かって、ナニが。
非常に嫌な予感がガンガンする。顔を引き攣らせてルイズが下を見やれば、おお、なんということだ、そこには立派な火竜山脈が聳え立っている! ドラゴンに謝れ。
要は元気ビンビンになったおチビルイズ(パーフェクト・フランソワーズ)が、制服のスカートをこれでもかと持ち上げているのだ。それが机に引っかかった。
慌てて腰を下ろす。自分から実演を申し出て突如椅子に座ったルイズに、シュブルーズは「ミス・ヴァリエール?」ときょとん顔だ。ルイズは曖昧な笑みを返した。
もしもルイズが「勃起しました。立てません。まぁチンコは勃っていますけどね! 笑えよシュブルーズ」と言えるような人間なら話は別だが、乙女であるルイズにそんな沸いた台詞を言える訳がない。
早いところなんとしなければ、このままだと、
『ミ、ミス・ヴァリエール、そ、その盛り上がりは……』
『私の杖です』
『し、しかし、貴女は手に杖を持っているでは……』
『新たな第二の杖です。ヴァリエールの跡継ぎが錬金できます。ばばーん!』
『ええ……』
という悪夢が現実のものと化し、最終的にルイズは神を呪う暴徒と化しロマリアは滅ぶ。
この場は、ルイズを絶体絶命の崖淵へと追いやっていた。
ちっとも動かないルイズを困惑しながらも煽り、また教師に魔法行使を止めさせるよう叫ぶ生徒。
ひたすらに疑問符を上げて、ルイズに早く教壇まで来なさいと言うシュブルーズ。
勃起したルイズ。
もうどうしようもない。
ここで冒頭に至る訳だ。たすけてちいねぇさま。
「ミス、ミス・ヴァリエール! 大丈夫、一度や二度の失敗がなんですか。さぁ、こちらへ」
「ミセス・シュブルーズ! ゼロのルイズの失敗は、洒落にならないんです! あいつは――」
「まぁ! お友達を、ゼロとなどと――」
いいぞ、デブ。お前とは間違ってもお友達ではないが、もっと言え。今日ばかりは許す。
ルイズは喚きたてる小太りの男子生徒に心中で声援を送った。他の生徒たちも勿論口々に文句を言っていたが、シュブルーズは頑なにそれを拒んでいる。もう正面から進言しているのはその生徒だけだった。
あ、駄目だ。口の中に赤土を突っ込まれやがった。使えない豚ァ!
「さぁ、ミス・ヴァリエール」
にっこりと笑う教師に、歯痛を我慢しているようにしか見えない笑顔で返すルイズ。何も解決はしない。
未だルイズの誇れない誇りは直立しているし、そもそもなんでこうなったかも分からない。
世の男性は、授業中脈絡なく勃起することがあるのだろうか。だとしたら、どれだけの業を担っているのか。ルイズは男性諸君に少し同情した。大変ね、ミスタ。ただの現実逃避である。
ルイズのルイズが勃ち上がっている為ルイズは立ち上がれない。かと言って、一度自薦したのだ、易々とした理由で魔法の実演を辞退することも出来ない。
ということは。
ルイズは腹を括り、ガン、と頭を机に突っ伏した。
「うっ、くっ、うう!」
一向に席を立たないルイズを訝しむ教壇に立っているシュブルーズと周囲の生徒達は、唐突に頭を突っ伏し唸り声を上げ始めたルイズに絶句した。
顔は完全に伏せられていて、苦しみの呻きとともにルイズは右手で左手首を掴んでいた。
使い魔が一体化している、それがこの証だ――授業の最初にそう見せられた左手甲のルーン文字が、物凄い勢いでびかびか発光している。
「くっ、暴れるな私の何か……!」
呟く言葉も謎だ。あいつは一体何と戦っているんだ。周囲はそう思うが、あまりにも突然の展開に言葉は出ない。
生徒の奇行に、シュブルーズは目を白黒させる。
「ど、どうしましたか、ミス・ヴァリエール!」
「だ、大丈夫です、わ、私の内にある使い魔が……あの、こう……あれして、とにかく暴れているだけで、うぐっ!」
ふわっふわである。青空に舞う白雲より掴めない返しに、シュブルーズはただ困惑だ。
では医務室に……と教師の口から出た途端、ルーンの発光がすっと収まった。
「大丈夫です」ルイズは顔を上げた。感情を亡くした職業暗殺者のような冷めた瞳で、じっとシュブルーズを見ていた。
「そ、そうですか」
女教師が内心オロオロしながらも、では錬金の実演を、と言ったところでルイズはまた顔を伏せた。見せ付けるように掲げている左手が、また光った。
「うっ、く! ぐ! は、はい、今、行きます、く、くっ、うう! 暴れるな、暴れるな……」
「ああ、分かりました、分かりました! え、ええと、では、他の誰かに……」
「……申し訳、ありません」
「あの、ミス・ヴァリエール? その、医務室には……」
「大丈夫です」
「そ、そうですか」
ルイズは人里離れた未開の地で黙々と斧を振るう木こりのような死んだ瞳で、じっとシュブルーズを見ていた。女教師はとても歳若い少女の出すものとは思えないその気迫に圧された。
ざわめきの渦中、ルイズは周囲の視線や呟きを全て無視した。ちなみにまだ勃起している。ぶっ殺すぞ。
「つ、使い魔の制御も出来ないのかよ」と嘲りの言葉が一つ大きく聞こえるが、その声は震えていた。その生徒は、それ以上何も言わなかった。
好意的感情から来る信ではなかったが、ある意味では、彼らはルイズに一つの確信を持っていたのだ。
あの馬鹿正直で融通が利かない頑固者は、自分の意思で宣言を覆さない、覆せない、と。
結果彼らが選んだ誹謗は、「嘘を吐くなよ」ではなく、ルイズの弁を受け入れた上での「自分の使い魔も抑えられないのか」というものだった。
それにしても彼らにとって埒外なものなので、どうしても気概は薄くなる。
そもそもの話、自分の中に使い魔があるとはどういうことかも、彼らには理解できない。ルイズにも理解できていない。チンコってなんだよ。
こんなものか、ルイズは心中でほくそ笑む。
クソみたいなあまりにも下らないものだったが、コレはコレで人生最大の危機でもあった。
けれどルイズの機転(というには力押しが過ぎるものだったが、彼女はそう認識している)により、あっさりと脱することが出来た。それを怪しむ追撃もない。
なんだ、チンコくっつくとかいうふざけきった運命だけど、けれどそれは、思うより厳しいものではないのかもしれない、ルイズの脊髄は楽観的な思考を反射していた。
暗黒の奥。闇の中。空虚な少女が何かを持っている。木の棒のような。誇りのような。
遮る様に、巨大な黒犬が前に立つ。何も見えない。何も見るな。ただ楽しいことだけ考えろ。
――何か大事なことを忘れている、なんて考えは、今のルイズになかった。
その後の授業は、特に何もなく、淡々としたものだった。
途中、風船が萎むようにルイズのナニがしゅるしゅると縮小したのだが、彼女は再度実演の自薦をすることはなかった。
ナニ、もとい何が起こるか分からないのだ。一先ずここは大人しくしよう。らしくない保守的な思考がルイズの脳裏を過ぎり、そしてらしくなく、彼女はそれを受け入れる。
授業が終わり、ルイズはこちらに目線を送るキュルケに気付いた。
心配を隠さないその戸惑いの目線に、ルイズは微笑みで返す。少年のような、無邪気の笑みで。