一気に寒くなってきましたね、体調にはお気をつけくださいませ。
「着替え、終わったよー!」
元気よく、事務所の奥の更衣室から飛び出してきたのは喜多見だ。
レッスン用のジャージに着替え、準備万端といった様子だ。
「おいっす!さて、と。あとはなにか、あるかな?」
「いえっ。私は特にありません。」
「ああ、私も大丈夫だ。これから先、力を合わせて頑張っていこう!」
「うぃっす!…。」
「どうかしましたか?」
「いや…。」
千川はやや神妙な顔をしている榊にそう、尋ねる。
「来てるんやったら、入ってきてええんやでー!」
「え?」
そう、事務所入り口に向かって話しかける榊。
どうやら、来客がきたようだ。
事務所のドアが開くとそこには。
「ははっ、キミはまるで侍だね!すまない、盗み聞きするつもりはなかったんだが、入るタイミングを逸してしまってね。」
「いや、大丈夫やでー。わざわざご苦労さんー。」
「れ、玲音君!?」
そういって、やや申し訳なさそうに入ってきたのは玲音だった。
殺風景な事務所内にひときわ目立つ彼女の存在は、違和感すら感じる。
「エントランスが開いていたもので、勝手にで悪いが入らせてもらったんだ。お邪魔だったかな?」
「いんや、今しがた終わったとこー。」
「れおん…玲音さん!?ど、どうしてここに!?てか、プロデューサーさんお知り合いだったんですか!?」
「うぇえ!?玲音さんってあの玲音さん!?本物!?」
千川と喜多見が一様に驚いている。
それもそうだ、超がつくほどの有名人が目の前にいるのだから。
「いやいや、ついこの間の会合知り合ったんやでー。オレの命の恩人さね。」
「ははっ、それはお互い様だ!アタシはここに来たのは、他でもない。大牙に聞きたいことがあったからなんだ。…とはいっても、ほとんど聞きたかったことは既に聞かせてもらったようなものだけどね。」
「ん?オレのスリーサイズなんて喋ったっけ?」
「アタシはそれが聞きたかったんじゃないよ!?…キミのアイドルに対する気持ちを確かめたかったんだ。だけど、答えはすでに聞かせてもらったよ!やはり、アタシの目は伊達じゃないね!」
自画自賛する玲音の表情は自信に満ち溢れていた。
「おや?キミが大牙のアイドルかい?」
「えっ!?あ、はい!?」
玲音は喜多見の方へ、目を向ける。
喜多見は玲音の眼差しに既に萎縮してしまっている、まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「そんなに恐がることはないだろう?もっと恐い人間がそこにいるんだからね!」
「おい、誰がプリティフェイスだ。」
「ははっ!ほほう…へぇ…。」
玲音は喜多見を興味ありげに観察している。
喜多見はまだ固まったままだ。
「うん、素質は十分にありそうだね!もっとも、それを磨くのが大牙だろうけど!」
「おうよ、ピッカピカにしてやんよ。」
「そうそう!頑張ってくれ!…それはともかく、さっきのお詫びをしたいんだが…少し大牙を借りてもいいかな?それほど時間はとらせないよ!」
「え?」
玲音は千川と社長に尋ねる。
あまりにも急な展開に全く付いていけてない二人は、すぐに返事ができなかった。
「ダメかい?」
「あ、ああ。いや、こちらの話は終わったよ。構わないよ。」
「ありがとう!」
「んじゃま、屋上にでもいきますか。すまんな、柚。少ししたら戻る。」
「ううん!い、いってらっしゃい!」
「悪いな。」
そういって、榊と玲音は事務所のドアから出ていった。
取り残された3人は、皆一様に呆然とした様子だった。
「さてと。」
「へぇ…意外と綺麗な眺めじゃないか。」
屋上に到着した二人は、しばらく景色を眺める。
特別に綺麗という訳ではないが、心を癒すには十分な夕焼けが広がっていた。
「さてさて、どういやらしい詫びを入れてくれるのだね、玲音君。」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないよ!」
「ちぇっ…詫びもなにも悪い事したわけじゃあるまいし。」
「いやいや、そういうわけにもいかないよ。仮にもここは他所の企業だからね、勝手に内情を事故とはいえ聞いてしまったんだ。何か困ってる事はないかな?」
「そうは言ってもなぁ…。」
自分に何か非があれば、何がなんでも詫びをしたいそれが玲音なりの美学だろう。
言い出したら聞かないあたり、少し榊と似ているのかもしれない。
「例えばよ?柚のレッスン見てもらうつっても、昨日今日にアイドルなりたてやらさ。レッスン以前の問題になってくるわけやん?」
「まぁ確かにそうだね…あ、それなら!」
そういうと、玲音は携帯を取り出し榊の方へ見せる。
「これは?」
「見えるかい?これはアタシがまだ駆け出しだった頃のレッスンやトレーニングのメニューだよ。これを参考にするというのはどうだろうか?」
携帯の画面に映しだされていたのは、文字びっしりと詰まったスケジュール表のようなものだった。
玲音がまだ新人アイドルだった頃に行っていたものだろう。
画面からでもその努力の痕跡は、ひしひしと榊には伝わっていた。
「これなら、データ化してすぐに送ることができるよ。どうかな?」
「いや…気持ちは嬉しいけどこれは受け取られへんよ。」
「だろうね。だけど、こんな言い方したくないがあまり贅沢も言っていられないんじゃないのか?」
玲音の言っていることは、正論すぎるほど正論だ。
今の榊になりふり構っている余裕なんてない。
しかし、これは自分達だけの問題じゃない。
「あはは、まぁなー!でもさ確かにそのメニュー…めちゃくちゃありがたいしもらって損なことなんて一つもないねん。」
「では、なぜ?」
「うん、これはオレのエゴみたいなもんなんやけど。それを受け取ったらアイドル玲音の今までの努力を無碍にしてしまうみたいでさ、したくない。だってそれは、ある意味玲音そのものなんやから。」
「…。」
「今の玲音があるのは、その努力があってこそあるんちゃうの?それをオレなんかが受け取られへんよ。それに、玲音言ってたやん、オレの育てるアイドル見てみたいって。でもそれを受取っちゃうと、玲音が育てたアイドルになってまう。」
「そんな事にはならないと思うが…。」
「いやいや、自分の今までやってきたことをそんなに軽んじたらあかんで。それは玲音にしか持ったらあかんもんなんや。オレらはこれから自分たちで作っていかなあかんねん。やから…ごめん、それは受け取れへん。」
そうこのメニューは玲音の努力のたまものであり、宝物だ。
そんなものを自分なんかが簡単に手にしていいものではないと榊は主張した。
「…ははは!まったく、人の好意は素直に受け取るものだよ?」
「悪いねー!ハグなら大歓迎だぞ、さぁ来い。今すぐ来い。早く来い。」
「や、やめておくよ…。」
「チッ…ありがとな、玲音。まぁ見といてくれよ、オレとオレのアイドルがどんな風になっていくか!」
「もちろんさ。大牙…今回のライブ楽しみにしているよ!もちろん、無茶なのもわかっているだろうが、それでもアタシは楽しみにしてる!」
「無茶…か。…ありがとな。」
「その目は…。あはは、さて!そろそろ行くよ!外に車を待たせたままだしね!またね、大牙!」
「おう!ありがとな!」
そういうと玲音はもたれかかっていた、手すりを離れドアに向かっていく。
しかし、いったん足を止め榊の方へ再び向き直る。
「大牙!」
「んあ?」
「勝算は?」
「…ふふ。どうかな!」
不敵な笑みを玲音に向ける、榊。
その目は、もはや勝つことしか考えていない目であることを玲音は分かっていた。
「…勝て、大牙。」
「…当然。」
そういうと、玲音は去っていった。
榊もタバコを1本吸い終えると、ドアに向かっていった。
そう、勝負はもう始まっている。
「いやぁ、お待たせ。柚。」
事務所に戻ってきた榊はさっそく喜多見に声をかける。
さっきまでの緊張は既に、ほぐれていた。
「おかえり、榊さん!意外と早かったね、何してたの?」
「あんな事やこんな事。」
「えっ!?」
「嘘だ。」
「…っもう!」
「おかえりなさい、プロデューサーさん。」
「おかえり。」
社長と千川も、先ほどまでの動揺はうかがうことができなかった。
「うっす。」
「まさか、玲音君とまで知り合いになっているとはね。本当、キミには驚かされっぱなしだよ。」
「本当ですよ!あぁ、びっくりしましたよー。」
「あっ!サインもらうの、忘れたぁ!」
喜多見はあまりの緊張からか、言いたいことを言えなかったようだ。
「あはは、また言うとくわ。さてと、柚。そろそろ、やるか!社長、ちひろ。トレーニング行ってきますわ。」
「うん!」
「あぁ、いってらっしゃい。」
「気を付けて、いってらっしゃい!」
「ようし、いくか!」
榊は喜多見を引き連れて事務所を後にし、レッスン場へ向かった。
レッスン場へ到着した、榊と喜多見。
ドアから入って対面には鏡が一面にひかれており、さしずめバレエの練習場のようだった。
「えっと…ライブに向けて、だよね?まず、なにするの?」
「おう。まずは…ストレッチすっか。柚、部活流でいいからストレッチしてくれっか?」
「うん、いいけど。」
そういうと喜多見は、ストレッチを始める。
その間、榊は携帯で周辺の地図をチェックしていた。
しばらくすると、一通りのストレッチを終えた喜多見は榊の所へやってきた。
「はーい、終わったよ!」
「おうし、んじゃとりあえず走るぞ。」
「え、走るの?」
「おう。まぁ言いたいことはわかる。ダンスとかじゃなくていいのかな、とかやろ?」
「う、うん。」
「それもいづれしていくよん。でも、アイドルのライブ見てて気づいた。あれ、めっちゃ体力いるわ。やからまずは、その為の土台作りや。そうしないと、ダンスのレッスンもなかなか体力的にきついぜよ。」
「な、なるほど…確かに2時間も歌って踊ってって、確かにすごく体力いりそうだよね。」
あまり気づかれないかもしれないが、意外とアイドルというのは体力がいる。
ライブなどを頻繁に行うとなれば、尚更だ。
「よし、頑張ってくる!」
「ちょい待ち。」
そういって、今にもランニングを始めそうな喜多見だったが、それを榊が止める。
「今から暗くなってくるのに、一人で行かす訳ないっしょ。オレも走るってーの。それに、二人で何かしゃべりながらやったほうがつらくないやろ?」
「それはそうだけど…。いいの?」
「案外プロデューサーも、体が資本よ。ただーし、特別ルールを設けよう。」
榊は喜多見にそう提案する。
「今から約1時間走るペースはゆっくりで構わへんし、オレは柚のペースに合わせる。ただし、その間1度も会話を途切れさせてはならぬ。そんな感じで。」
「ずっと喋っとくってことだよね?うん、わかった!いこう、榊さん!」
「ふふふ…。余裕そうやな?」
「えへへ、実は体力には自信あるよ?そのくらい、へっちゃらだよ!」
「いいねぇ。んじゃ、いこか!」
しかし、この時の喜多見にはそれがいかに辛い事かは知る由もなかった。
だがこれが榊の打倒、姉川花の秘策第1弾であった。