お前退くまで私消えるまで、共に忘れ得る日まで。   作:赤茄子

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第十話:そして異人が加わる生活を…

 夏暖簾の下がる台所前の採光窓を開け放ち、一部屋置いた隣室に住む隣人の溽熱に喘ぐ影を玄関の扉の隙間に見て、申し訳ない気持で目線を逸らし、反対側の一部屋置いた空き部屋の扉の鍵を開ける音に振り返る。油照りの真昼の薄日に金髪が曇り、雪を欺く肌に夏服を纏うミイネさんは、表で到着を待ち続けた私の、暑気中りの所為で赤らんだ顔を見て顰蹙した。新品の鍵を開けて青畳の匂いが籠もる部屋を覗き、冷暖房装置の完備された屋内を見回し、扉の前で待機する私を招き寄せ、冷房装置の電源を入れて設定温度を二十五度にした。先日管理人が換気を任され、雨戸を開けて戸袋の損壊部位を補修し、据置きガス焜炉の元栓を確かめ、翌日昼前に入居する外国人の到着に備えた。私は部屋を一つ置いた一室に寝起きするが、集合住宅と言う物は極力物音を立てずとも、皆が注意を払い動く為、一寸の音響も響き渡る。一部屋置けば嚏や咳や寝言が聞こえる事も無いが、一応の注意を要する。管理人は周囲の騒音被害も考えず、戸袋の補修作業は酷い音で、又隣に寝転んでいた私は飛び起きた。

 畳の継ぎ目を撫ぜ、淋漓と滴る汗を袖口で拭い、蝉時雨の降り頻る裏庭を薄地の遮光用の窓掛の向うに眺め、草刈り前の藪畳の青翠に目を瞬かせる。冷房が利き出し、横長の機械の口から冷気が流れ、蒸し暑い混凝土塀の内側で、通気の悪い玄関前で、昼前に来ると聞いていたのに昼過ぎに到着した隣人の、高い鼻の横顔を見遣る。薄ら汗の滲む額を拭き、隣人は運送屋に頼んだ荷物の到着を待ち、玄関の鈴が鳴って怠い腰を上げ、覗き穴から運送屋の人相を確かめて漸く扉を開けた。運送屋とは隣人談なので、実際は某慈善団体の同僚らしい。黒光りする道化師の様な鉄製の仮面に、病気を疑う程の繊々たる四肢が扉の縁を握り、背後に巨漢の影を認めた。金髪の麗人が体を横に退け、仮面の優男と角刈り頭の偉丈夫が顔を見せ、滝の様に汗を流す私を見て、部屋で待てば良かったのに、連絡出来ず、済まなかった、と言った。冷暖房装置の下を這い出した私は、暑気の流入を許す扉に近寄り、久闊を叙す元気は待機中に阻喪したので一言挨拶して、直ぐ脇の台所に手を突いて項垂れた。

 運送業務を熟した隣人の同僚達は、今度は部屋に荷物を運搬する引っ越し作業員の役を買って出て、隣人の某慈善団体本部から持参した荷物の量が少ない御蔭もあって、到着から物の数十分で荷物運搬を終えた。洋服箪笥にパイプベッド、食器棚と食器類の箱、洋服を仕舞った箱を隣人の指示する定位置に置き、食器棚に食器類を仕舞う作業は男達で勝手にやり、洋服箪笥に衣類を仕舞う作業は私が手伝い、食器類を片付けた男達は組立て式寝台を組み立て、積載量の超過が原因で荷物量が少ないと思われたが、元々持参物が無かった様だ。八畳間に襖を隔てた台所、反対側に風呂場、隣は手洗い場、親友麻衣の部屋より遥かに広い部屋に私は某慈善団体の恩恵を受けて住んでいる。一人暮らし用の小型冷蔵庫から清涼飲料水─一見茶かジュースか判らない─を取り出し、人数分のコップに注ぎ、配ってくれたミイネさんは冷暖房装置の下で衣類収納の作業で又汗をかいた私を労って下さった。

 飲み物を舐め、壁掛け時計の文字盤を見詰める。精緻な意匠を施した長針短針の位置を見て、昼の範囲内の時刻に、男手のある素晴らしさを痛感し、又労働後の空腹を覚えて胃袋の辺りを摩る。腹の虫が鳴きそうだ。空腹感を意識の外へ追い遣る手段として、藪の青葉の擦れる音に集中して胃袋の飢餓感を忘れ、しかし飽食国家内で育ち、最近雑炊や量を誤魔化す料理で胃袋を宥めて来た私の腹は、飢餓感を忘れる事無く意識させて非常に困った。藪畳の葉擦れが中華料理の油の爆ぜる音に聞こえ、空腹の末期症状に限界を感じた。情けない事に腹の虫が鳴く。同級生の稲葉寿子さんの様な食べ物を恵んで下さる同齢の人はいない。私の腹具合を聞いた某慈善団体団員達は破顔一笑、東京は渋谷道玄坂の事務所に挨拶する前に、空腹に喘ぐ胃袋を抱えた孤児の腹を満たす為、事務所の途次にある飲食店で腹拵えする事を提案した。鉄製の仮面に、世間様の目を欺く繊細な義足を着けた偉丈夫が部屋を出て、私も続いて、部屋の主が鍵をかける。私は偉丈夫の義足を見て、以前の鉄製の義足はどうしたのか尋ねると、人混みを歩く時はズボンの裾に隠せる物を着けるそうだ。

 オーバーソウルは便利だなあ、と思い乍ら、青葉の繁る辛夷並樹を今年三月に卒業した中学校方面へ歩き、途中事務所へ行くなら高校方面の駅が良いと言った。団員達は素直に意見を聞いて下さり、高校方面の並樹道を通って駅舎の屋根の見える所で中華蕎麦とある看板を見付け、其処で昼食を摂る事になった。

 私は醤油拉麺を啜り、鉄製の仮面を被った儘、器用に食べる団員の箸遣いを見乍ら完食した。箸は、日本人の私は兎も角、彼が一番上手に使った。

 焼き餃子は省略して拉麺で胃袋を満たし、駅舎を抜けて電車に乗り込み、金髪の麗人に鉄製の仮面を被る外国人、容貌魁偉な外国人を連れた私を盗み見る視線を無視して、山手線の乗り降りは中々慣れず、都民を始めて数年経過したくせに、四苦八苦して渋谷駅に着いた。肩摩轂撃の往来を擦り抜け、通い慣れた道路を歩き、見慣れた家並の狭間を行き、坂道を登って煉瓦壁のビルの最上階の見える所で印刷紙の買い足しに走った事務所所長の助手の長躯を認めた。穹窿形の庇を潜り直ぐ噴水広場の階段を登って行くので、声を掛ける事は遠慮して、後方を行く。足取りが緩慢な為、二階広間に到着する頃には、袖廊下の最奥の事務所の扉を潜ってしまっただろう。殷賑な建物の内部を見回した団員達は、私の先導の下、袖廊下最奥の事務所の扉を見て、喫茶店の様な雰囲気に目を瞬いた。扉を潜ると来客を告げる風鈴が鳴る。戞然と響く鈴の音に、親友麻衣の応対は無く、応接間の長椅子で資料を読み耽る上司が居た。出勤の挨拶もそこそこ、某慈善団体の団員達を紹介する。

 上司の迷惑顔を真面に見て、日本常駐が決定した隣人ミイネさんが挨拶した。心霊現象の調査現場に派遣される時、御一報下されば遠路を厭わず参上致します、と言って慇懃無礼な日本語の挨拶をして、不穏な気配を察知した助手が資料室から出て来て、彼も霊能者と聞くから、某慈善団体の天使隊隊員と言う霊能者達を視認して目を剥いた。非霊能者の私と上司の視覚は幽霊の影を捉える事は出来ないが、幽霊が見えない為に幽霊以外の、生者の顔付きの微細な変化には敏感で、隊員達は助手の前髪と懐を瞥見して一笑した。

 他者の機微に疎い自覚のある私でも霊能者達の一触即発の気配は感じて、息を殺して霊的遣り取りを見守り、応酬は長続きせず、相手霊能者の態度に感化を受けた隊員達は一揖の後、私の手を引いて事務所を出ようとした。資料室へ蜻蛉返りする事を止め、其処に留まった助手が掣肘し、日本常駐の金髪の麗人が嫣然として振り返り、御用件は後程、と曖昧な事を言って、私の腕を引っ張って事務所を脱した。喫茶店の様な扉を潜り袖廊下へ出て、二階広間まで真っ直ぐ歩き、階段を半ば駆ける様に降りて噴水広場の噴水前で、隣人の同僚達と別れた。時刻が昼の範疇でも、少々遅い昼食だったので、腹加減は微妙である。

 都会の摩天楼の最上階が蜃気楼の様に霞み、地平線の無い、建物と建物の狭間に斜陽の煌めきを見る道路を、渋谷駅方面へ歩いて、不慣れな電車の時刻表や線路図を見乍ら切符を購入し、改札を抜けて電光掲示板の指示を仰ぎ見る。目的地の駅名に停車する電車を番線で探し、慣れぬ雑踏を掻き分け草臥れて、蹌踉と階段を登り歩廊で電車の到着を待つが、待ち時間に糞爺の長髪の尻尾が人様の手を引っ掻く事を鬱陶しく思い、頭髪を三つ編みに纏めた事を思い出す。前髪も一緒に纏めると提案したのに、糞爺は厚意を有り難迷惑と言う様に、寧ろ心底迷惑がって、前髪は引き攣る感覚が嫌だと峻拒した。話題が無いので歩廊に緘黙した儘立ち尽くす事を気不味く思い、ミイネさんに糞爺の髪型秘話を語った。整髪に命を懸けた糞爺の意気込みは凄まじく、自動販売機の前で飲み物を買う音を聞いて、熱弁していた事を恥ずかしく思った。烏の濡れ羽色の頭髪は整髪に気を遣う糞爺だから維持出来る、と言うと、ミイネさんは可笑しそうに顔を歪めた。

 数年間の内に最新式と交換したのか、凄絶な騒音を轟かせ、電車が屋根の下の歩廊脇に滑り込み、軈て停車して自動扉が開き、降りる人達を待って、暑中休暇中の車内は大変混雑している。壁際の長椅子は隙間無く埋まり、左右の座席の間の廊下には十数人の人様が立ち、扉付近は普段着姿の児童と思しき背恰好の子供達が陣取って、私達は染髪した児童達の間を通って車内の真ん中、廊下に突っ立った。数分間か数十秒間の停車で、間も無く発車して、車内の無音の報道番組が見慣れぬ鉄道名の何処かの路線が人身事故の影響で数時間に及ぶ遅延の為、電車通勤の人達には大打撃、と報道する。人身事故も異音検知も、異世界の地元駅へ行く道中、東京駅を目指す車中で遭遇した。車内放送で聞いたか、又聞きしたか、携帯電話を弄る人達の会話を盗み聞きしたか、事故発生を知る情報源に覚えがない。無音の報道番組を見上げる金髪の麗人の横顔を盗み見て、元軍人な為か、妙齢の女性には少し違和感を覚える筈の精悍な横顔が、妙に似合っていて、私が真似たら変質者に見られるに違いない。

 電車の乗り換え、番線確認、乗降が不得手の私は、都民のくせに金髪の麗人の叱咤激励を受けて電車に乗り込む始末で、漸く数年過ごす土地の駅舎を走行中の車内から認めて安堵した。遠出は草臥れる。鉄製飛行機に搭乗して数十時間、鯱の背中を髣髴させる濃紺の海原を越えて極東の島国に駐在する彼女は、荷物運搬も整理整頓もその日の内に済ませ、同日午後に私の勤務先へ挨拶に行った。精力的、活動的な麗人は某慈善団体の中で人気絶頂、衰える所を知らず、紛争地帯へ難民救助に向かう部隊志願にも積極的で、私の問題が無ければ今頃中東で大活躍だったろう。不躾な目線に気付いたミイネさんが笑い、一切の迷いの無い眼差しに正義感の強さを見た。正義感は言葉にして、語るだけなら不快感を与えるに留まるが、振り翳して有言実行すれば、誰かの悪者になる。糞爺や生活支援者兼保護者の掲げる正義も、迷惑行為の感は否めないが、糞爺達なりの大事な信念だった訳だ。難しいですね、と私が言うと、当然読心術の心得の無いミイネさんは解らない。首を傾げて怪訝な顔をする。

 電車を降りて駅舎を出て、薄暮の雨模様を見遣り、湿気の多い夕風が夏物の着物の裏地を一層湿らせ、晩御飯を軽く済ませる間に冷房装置に依る着物の乾燥を狙い、手近な軽飲食店を探して入った。雰囲気は糞餓鬼の魔窟の様で、実際窓際の表を向いた席は全部糞餓鬼で埋まっている。夏休みの宿題の愚痴を並べ立て、日焼けの疼痛に宿題を片付ける気概を根刮ぎ奪われ、暑中休暇も半ばを過ぎた今頃に、遠出の算段をつける悪餓鬼も居る。児童より一回り大きい、高校生より一寸餓鬼っぽい、中学生が保護者無しで遠出と言うのだから、場末の飲食店で策謀する事は夏休みの栞の注意事項に書き漏らしたと思われる。事件事故が多発する訳だ、と金銭の相談まで始め、待ち合わせの時間を合議する後ろ姿を見て、親不孝な事だと嘆息した。晩御飯の軽食を齧り、勘定は断固として割勘、賃仕事の駄賃で支払い、雨意を薄雲に見る薄暗い店の外へ出て帰路に就いた。帰宅の途次壁際の席で計画を立てる子供達の笑顔が気に掛かり、夏休みの栞に無い事でも自分達で考え、世間様で聞く禁止行為に及んで良いか悪いか、又自身をどれ程戒められるか、最近の学生は出来ていないと思った。後々まで、不孝を不孝と思わぬ子供達の軽率な行動が頭の隅に残り、門前で私の帰還を待ち望む母の窶れた顔が脳裏に浮かんだ。

 辛夷並樹を通り、部屋に戻る。金髪の麗人の笑顔に手を振り、扉を閉めて鍵をかけ、閾を跨いで居間の卓袱台を壁際に寄せ、押入れ中の敷蒲団を適当に敷き、畳んだ儘仕舞い忘れた寒色のタオルケットを皺塗れの敷蒲団に投げて、着替えを用意する事無く風呂場へ行く。先に歯磨きを済ませ、風呂を省略したい衝動を堪え、重い四肢を懸命に動かして汚れ物を洗濯籠に投げ入れて風呂場の扉を開ける。浴槽は深いが底の面積は一畳に足りない。部屋の選定の際、絶対欲しい物、と言う希望欄に日当たり良好、部屋の風通し良好、とだけ書いたので、広い浴槽は部屋選びの項目から除外された。別段広い浴槽に頓着しない私は、部屋干しに適した部屋に満足している。只、玄関前は扉を閉めると通気が悪く、夏場は暑く、冬場は寒風が吹き込まないので、実は少し楽だ。麻衣が絶賛していた。

 一畳程度の洗い場に立ち、シャワーのみで済ます私は、部屋を借り始めてから一度も浴槽を使った事が無い。重い腕を伸ばしてシャンプーボトルのポンプを押す。洗髪の最中、又糞爺の事が脳裏を過る。洗髪料の残量を確認していない。糞爺は洗髪料に並々ならぬ拘りがあるので、愛用する洗髪料でなければ嫌だと駄々を捏ねる。残量確認と買い足しは麻倉家の方に頼み、いや待て、抑も自分で気を付ける可きだ。頭髪や頭皮を揉み乍ら、気持が荒み、烏の行水で風呂場を出た。

 寝巻の半袖に着替え、電気を消して、敷蒲団の皺の浅い箇所に寝転んで目を瞑る。窓掛を引いた真っ暗闇の室内に、表の藪畳の下陰を駆け回る野良猫の威嚇の声が響き、数匹の声色を聞いて、喧嘩が勃発する所まで息を潜めていたが、薄闇に薄明りが射して顔の端にかかって鬱陶しい。無意識に被ったタオルケットを蹴飛ばし、蒸し暑い早朝の部屋に目を覚ました。野良猫の嘲笑の様な響きを持った鳴き声が玄関の向うに聞こえ、飼い犬の散歩の為に辛夷並樹を往復する人の笑い声と、飼い犬の咆哮が重なった。




 頭爆発。暑い。
 汗は大敵。背中と顔が凄えのなんの。

 引っ越し初日挨拶しちまったミイネさん。
 ケビンさん、このネット社会だ、多分写真撮られてんよ…。
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