晨朝の陽光は背負った鞄の金具を照らし、春疾風が葉の繁る辛夷並樹の樹冠を揺さぶり、松籟に似た葉擦れを聞き乍ら通学路を行って、桜吹雪の止んだ並樹道の端を歩いて正門を潜ると、生徒達が部活動に励み、彼女達の青春を感じて深く頷く。朝寝坊した麻衣の背中が下駄箱の陰に消え、後を追う様に駆けて教室の後部扉を潜り抜け、隣席の稲葉寿子さんの一時間目の授業の教科書等を出した机を横目に、私は朝の挨拶をして、稲葉寿子さんの返事を聞き流して筋向いの席に座る霊感少女の三つ編みの垂れた背中を見遣った。昨日、自称霊能者の松崎綾子さんに霊感の有無を揶揄され、挙句自己顕示欲と断言されて傷付いた顔で帰って行く後ろ姿を思い返す。真に霊能力を有するが為に差別迫害の対象となり、幾星霜も世間様の目に怯え、日陰者として暮らして来た人達の末路を思えば、矢張り擁護の価値も無い事は明白だが、議論の余地無く捨てる事は、霊能者達を追い回した世間と大差無いのかも知れない。
麻衣は友達の恋愛話の直中に引致され、事務所所長の恋敵、原真砂子の登場に歯噛みして地団駄を踏んで、放課後に接触の機会を得る麻衣に、原真砂子の身辺調査を依頼し、他者の恋愛事情、痴情の縺れに辟易する麻衣は目線を逸らす。私同様、筋向いに着座する霊感少女の後頭部を見る様な目付きで、しかし恋愛脳の友達の猛攻に根負けし、目線を鬼の形相凄まじき友達へ戻した。予鈴が鳴り、本鈴が続き、一時間目の授業担当の英語教諭が入室する。教材の塊と資料を詰め込んだ籐籠を教卓に置き、外見は純和風の容貌で、持ち物も和風が多い。教諭の担当科目は外国語の英語、常々生徒達は古典の方が似合うと言って、誰かが、態と不得意な英語を担当して、得意な古典の先生をやり始めたら、授業内容が高等過ぎて自分達の理解力を超えるに違いない、と英語教諭の担当科目を変更した場合の、生徒の被る被害を推測した。
放課後、春嵐が校庭の四隅を護る木立の虐めに飽きて、風の随に白雲を攫って私達の労働を応援する様に、自然を騒がす事を止めて彼方へ去った。麻衣は友達の非難囂囂たる言葉の嵐を遣り過ごし、荷物を抱えて教室を出て、私も稲葉寿子さん達に一別して、誰の視線も無視して下駄箱の簀子の縁を踏ん付け、激痛に蹲る麻衣の姿に薄笑いする。簀子の隙間に親指を挟み、踵で縁を踏み、危うく指が捥げる所だった、と麻衣は言う。靴を履き替え荷物を背負い、労働力提供の心構えを済まし、混凝土校舎沿いに裏へ回り、木造建築物の前に停車する自動車を覗くが上司の姿は無く、私達は渋々廃屋の上階、実験室目指して蝶番の調子の悪い玄関の観音開きの扉を潜って階段を登った。踏み抜く瞬間と感触を、容易に想像出来る腐った床板を踏み締め、踏面に足を置く際、何度も確かめて身を乗り出し、漸く実験室の階まで登って、薄暗い廊下を辿り機械の起動音の響く室内に足を踏み入れた。一番乗りだった。
金属製の棚の居並ぶ壁際、収まる機材の物々しさは昨日の肌寒い夕間暮れに見飽きたが、暫く機械の音や画面の照明を睨む非日常に生活支援者兼保護者の禁じた賃仕事の片棒を担ぐ事に罪悪感を覚え、定期報告の時に白状しようと覚悟した。隣で機械の起動音や声の響く天井を見回す麻衣を一瞥し、異境の地に居を構える生活支援者兼保護者と面識がある為、麻衣の意思次第で生活支援を受ける事が出来る事実を、果たして彼女は憶えているか知ら。機械の起動音に紛れて湿気た縁板を踏み抜く様な音がして、真っ暗闇の扉を顧みて、見慣れた制服姿の霊感少女を認めた。霊能力云々に煩悶が尽きぬ私は、霊感少女に苦手意識を働かせ、意思の疎通を麻衣に任せて背後の会話を聞き流した。労働力提供を約束した私達も機械を弄る事は怖いので、故障を恐れる私達は、機械を撫ぜて覗いて突く霊感少女に無闇矢鱈弄ると上司の怒号が飛ぶ現実を教えたが、聞く耳を持たぬ霊感少女は自称霊能者達の所在を尋ねて来る。話し相手は麻衣任せ、私は機械の操作を記す資料の頁を捲って録音録画、再生早送り巻き戻しの操作法を熟読し、意味不明な文章に、文字を追う事を止めた。
背後の会話は進む。霊感少女は一流霊媒師事原真砂子さんを贋物扱いし、容姿の好悪は兎も角、容姿端麗故にお茶の間で持て囃され、心霊番組に引っ張り出された詐欺師の一人、と婉語を駆使して言って、呆れた風情の麻衣が自称霊感持ち達の言い分に愚痴を零す。首を回して意気消沈の体の麻衣を見遣り、心底聞き飽きた風な語調で、廃屋を彷徨う霊の有無、自称霊能者達の霊感の有無、その不毛な議論を聞いた者の感懐を述べ、また大音声の霊感所持の主張を控える可きと、婉曲な言い回しで注意する。
矢庭に機械の天板を叩き、霊感少女は注意に立腹した風情で、親切心を発揮して言った麻衣を、頭ごなしに物事を否定する世間と同等と見做し、真実の事物を否定した宿債を清算させられる日が来る様な事を言った。同様の口論を、異国の荒野の休憩場所で糞爺とした記憶が蘇り、又真冬の日本列島を目指し、濃紺の海原を渡る不可視の飛行機の片翼で言った事、心の最奥で前世の罪業を持ち出す糞爺に憤慨した過去を嘆く。無知を重罪、非力無力無能を嘲り、有能な者の残った世界を至高と言った魔女の末裔の言葉、──実際は違うかも知れないが、生憎数年前の会話の詳細な記憶は無い、既に誰の言葉か曖昧だった。末っ子の言葉は割と記憶しているのだけれど。
霊感少女は実験室を出る間際、意味深長な言葉を残す。部屋の隅に女の子の幽霊が居る。その直後、丁度霊感少女の示した場所で縁板の割れる様な音が響き、ラップ音と断定して廃屋を出た。機械の音と人間達の息差が反響する許りの実験室内で、品隲を要する無意味な発言に怯える麻衣は、私の着る制服の上着の裾を摘み、平静の儘機械の操作法の資料を捲る私を見て、鰾膠も無く断言された、否定派の世間様を憎む様な霊感少女と、霊感少女を突き放す態度の霊能者達の愚痴を言い始めた。
「霊感なんて、目に見えない。幽霊も、普通じゃ見えない。だのに、集まる人達は、目で見て判断出来ない能力を自分にだけ有る様に言って、他人には無いって断言して。……言っている事、嫌っている人達と変わらないじゃん」
「真偽の程は兎も角、如何なる否定の場合も、不可視の能力の肯定を求める人達は傷付くね」
「自分が言われて傷付く事、解っていて他人に言うんだもの」
「その他人も、解っていて、相手に言うんだ。傷付く言葉を平気で言うのは、自傷行為かも知れない」
「何で?」
「他人を傷付ける言葉を言えば、それは他人が自分に対して思っている言葉に思われる。他者が思うと予想される言葉を、他者の機を制して、自分が先に言う。自分の中の他者が言う様なもの、でも、自分自信が口にするから、自傷行為みたいだね」
私が言葉を結んだ直後、身嗜みに変化の無い上司が現れた。
途端、部屋の隅で縁板の割れる様な音が響いて、制服の上着の裾を摘む指を白くし乍ら、麻衣は感情表現に乏しい上司の横顔に言った。
「今の聞こえた?」
「何が?」と無関心な上司は手近な資料の頁を捲って言った。
「ラップ音みたいなの」
口を開く動作も億劫と言う顔で、心霊現象や現代科学に精通する上司は資料を閉じて、感情の起伏すら窺い知れぬ顔に、珍しく感情を滲ませ腕を束ねて心霊現象のラップ音と家鳴りの相違の講釈を始めた。ふと、私は講師上司と受講生麻衣の講義を余所に、数年前の多芸多才な霊能者達の修行風景を想起して、砂塵の舞う中、相対する金髪の少女と南瓜色の頭髪の少女、嬰児を抱えて誘拐と言う他者の復讐劇に巻き込まれた時の、大火事の最中で目撃した青白い影、その他色々、心霊現象と言えば心霊現象に分類される光景を目の当たりにして来た事実を実感する。家鳴り擬きの心霊現象や、心霊現象擬きの家鳴り如き、恐るるに足らず。一度、星の魂の故郷を拝み、足の甲に大穴を空けて黄泉返った徒人の私に死角は無い。私の精神を削る偉業を遂げたいならば、最愛の末っ子を攫う暴挙に出る事を推奨する、その暁には臍で茶を沸かす事も容易な、無様を見せて進ぜよう。
講義は粛々と続き、終了後に霊感少女の証言の真偽を問う様に問うと、上司は寝言と断言した。そうして居並ぶ金属製の棚の一つ、其処へ収まる機械の一つを操作し、機械の意味、夜間起動の意味、幽霊の性格の講義に移った。幽霊の性格の講義内容を聞き、上司は心霊現象の多発する家に他者が介入した場合、心霊現象は鳴りを潜め、徐々に前の活発的活動を再開する、即ち幽霊はシャイである。私は心中で反論した。幽霊が他者の来訪に敏感で、新参者の来訪の際に異常現象の発現を控えて様子を窺うのは、それは羞恥心の為でなく、警戒心、恐怖心の場合もある、真の調査、学問発展を志すならば個々の性格も考慮す可きと愚考する。慎重派で、他者の訪問に警戒する幽霊、臆病者で、他者の訪問に怯える幽霊等、自然界に生きる動物も多種多様な性格を形成するのだから、幽霊を理由に性格を恥ずかしがり屋と断ずるは、それは早計であると日の目を見ぬ卑見を茲に開陳する。音の照合機械の画面を睨みつつ、私は幽霊や精霊を見る目を持たないが、末っ子や糞爺の言葉から推察した持霊達の性格を考えた。
心霊現象の講義を終えて、次に麻衣が曖昧な距離で掛けられる声掛けを問い質し、五十音のア行の最後と上から二番目の音「おい」と言う聞き様に依っては威嚇、脅迫の態度に思われ、無用な誤解を招く語勢と、その言葉から推察される距離の観念を講釈する。機械操作の資料を捲り乍ら、私も新鮮な気持で講義内容に耳を傾け、数年前の日本は東京近海の孤島を騒がした死闘の最中に遭遇した人達を思い返し、特に糞爺の弟さんの言葉遣いを考えた。日本語の訛、方言、勿論地域差があって、他の地域の者が聞けば不愉快な気持になる言葉だが、現地の人達には馴染み深く、日常的言葉だ。私は基本、標準語を使い、音韻も聞き間違い等の記憶違いの場合を除き、標準語の発音で日常会話に用いるが、関西や九州の訛を聞いた事があって、最初はそちらの方の発音を聞き取る事が難しかった。他色々意見はあるが、要するに弟さんの言葉遣いは訛の一種で、聞き慣れぬ発音等の為に苦手意識があった事実は否定出来ない。批判を覚悟の上で言うが、弟さんと最初の対面、会話を果たした時、一瞬むっとしたのは本当だ。話の内容が末っ子の暴力行為の謝罪だったので顔面に出る事を抑えたが彼の喋る様を見聞きしていると、馬鹿にされているのかと腹が立った。そう思ったのは言い逃れの仕様もない事実である。
丁寧な講義に段々納得した様子の麻衣は驚き顔で何度も頷き、阿諛迎合の感は否めないが、講義内容に感心した風情で呼び掛けの言葉と距離の関係、松崎綾子さんの部屋の奥で聞いた人声の正体を尋思し、悉皆諒解して気の所為、空耳、と言う事を受け入れた。機械操作の資料を捲る私も、新鮮な、斬新な角度で物事の不思議の解決を見た気になって、退嬰的思想を護持する糞爺と、傲岸不遜を絵に描いた様な事務所所長が対峙した時の、一触即発の空気を想像して身震いした。私の妄想が実現せぬ事を祈念する。
薄闇の実験室前の廊下を伝わり、表のざわめきに気付いた私達は機械の棚を覗き込んで、玄関前を映す画面を見遣った。巫女装束の松崎綾子さんが祭壇や、何か豪華な物を並べて踏ん張っている。上司は神道式の除霊に興味を示し、資料を置いて、録画の為のカメラや予備のビデオを持って階下へ降りて行った。特段指示の無い私達も、廃屋に響く家鳴りに納得しても調査終了の境の見えぬ、真実、心霊現象か否かも不分明な現場の上階に残る事を不気味がり、荷物を放置して実験室を飛び出した。
予備の録画の準備を整え、自称霊能者一同が玄関前に集い、又調査の確認に来たか、元々呼ばれたか、遠く壇上の影を見覚えた程度の校長も居て、更に同級生の霊感少女も居て、場が物々しくなる。霊感少女の立会を不審がる麻衣の疑問に、私達を贋物の霊能者達の意地の張り合いの場に捨て置く罪悪感に堪え兼ねて立会を申し出たそうだ。心中複雑な面持の親友麻衣の背中を突き、木造建築物の出入り口に設置した祭壇の前で跪く松崎綾子さんの巫女装束を示し、祈祷或いは除霊の開始を教える。思案顔で祭壇と祝詞を上げる松崎綾子さんの背中を見詰め、何と祝詞とは何ぞやと首を傾げるので、只専門家でない私は簡潔な説明が困難で、結局異国人のブラウンさんが他宗教の儀式の祭文について説明する羽目になった。
不意に薄暮の肌寒い風が皮膚の露出箇所、手や脚や項を撫ぜ、砂塵の柔い皮膚への刺激に痒みを覚え、特に酷い項を掻き毟り偶然壁に凭れる風の滝川法生さんの惰眠の瞬間を目撃し、緊張感の無い、ある意味同業者への反骨精神の現れだろうが、効果の有効無効は兎も角、他者の除霊中に夢を見る無礼な姿に呆れた。別段、他者の除霊に刮目して、敬意を表して成功を祈る、と言う大袈裟な対応を望む訳でないが、それでも行儀の悪い見物人に嘆嗟した。霊能力の有無を検覈する機会がある訳でなし、他者の能力の有無の闡明が困難であっても、儀式開始数分後に居眠りされては、それは霊感少女を一刀両断、決め付けた事と変わらない。性根の悪い人達と嘲る可きか、横槍を避けて静観す可きか、どちらにせよ、当時の糞爺はこの心事を嫌うだろう。
放心状態で周囲を見回し、高い位置を流れる薄雲の行方を追い、黄色い太陽の影を薄雲越しに認めて、日没の時間を計算した。途中、意識を目前の除霊から離す事を、糞爺の嫌う行為を思い出して目線を戻すが、非霊能者の私は巫女装束の背中を見詰めても効果の程は解らない。神道式除霊の終了後、校長に事件解決の報告を済まし、祝賀の一席を設ける事を生徒達の眼前で言う校長の隣で、松崎綾子さんは嫣然として、廃屋の表の壁際を歩いた時、倒壊寸前の廃屋が悲鳴を上げる。吃驚した校長を家鳴りの一言で宥め、又歩き出そうとした一足踏み出した瞬間、突然窓硝子が割れて私達の頭上を脅かした。斜陽を反射する硝子の破片が玄関前を舞い、砂塵を巻き上げる寒風に攫われ素肌の脚を襲う。破片の鋭利な箇所で薄皮を傷付けた。痛みは無いので喚く事無く除霊の失敗成功、反発事故を議論する自称霊能者達の会話に聞き入り、霊能力の有無から除霊作業の闊疎を詰り出し、答えの無い議論は紛糾して、終に霊感少女まで呆れた口調で自称霊能者達を面罵した。
自称霊能者達の諍いに当惑した私は、霊感少女と一流霊媒師の会話を聞き逃し、着物の袖で口元を隠し嘲笑する一流霊媒師の、霊感を自称する事は誰でも可能云々、と言う応酬だけ聞いて、霊能者の世界も能力の有無まで相互疑念の晴れぬ事実に奥深い闇を見たと思った。糞爺の煩悶は非霊能者の横暴のみならず、霊能者間の疑懼もあったのだろうか。一目瞭然の能力を有する糞爺一行を疑う事は、自身の真実を疑う事と同義だが、中途半端も生易しい実力の霊能者達は信じるに値するか、相互理解の為の努力を諦める事は無いと断言した手前、二度と再び会う機会が無いと言えど、糞爺の煩悶について考える癖は中々治らない。治す手間を省く為、思考を中断する事無く考え詰める事にして、まず信を置く程の霊能者でない可能性の高い自称霊能者達の行く末を間近で観察させて頂こう。上司の講義の様に、異なった目線で物事を見る機会を得たと、前向きな姿勢で事件解決まで首を突っ込んだ儘で居さして貰おう。
実験室へ一度撤退─語弊はあるが現場を離れる事に間違いはない─して、記録映像の確認を行い、何事も無く硝子の破裂する場面が流れて室内の雰囲気は一層険悪になる。突然松崎綾子さんが身を乗り出して記録映像の程度を呼び掛け、少し巻き戻して再生、祭壇の奥の正面玄関前で二階と一階を繋ぐ階段の踊り場、その壁と手摺越しに白い影が蠢き様子を窺う様に見えた。私は糞爺の手掌で顔を照らす火影を見る様な気持で画面を睨み、私が睨む間に、一行は松崎綾子さんが真っ暗闇の部屋に監禁寸前まで行った場面の確認を始めた。その映像では扉を開けて入室した所で映像が途切れ、上司は機械の故障と断じて取り合わない。一度は幽霊の仕業と騒ぐ人達も、上司の理路整然とした説明、手始めに除霊直前の踊り場の影を解明して、幽霊の仕業と言う騒ぎもあっと言う間に鎮静して見せた。矢張り糞爺とこの上司が相対する日が来ない事を願う。
そうして廃屋の幽霊の有無に疑問の声が上がり、抑も校長の態度が霊能者を信用する様子の無い事を指摘し、霊能者達は次々に、廃屋の除霊は理事長に依頼された旨を告白した。神主等の地鎮祭でなく、拝み屋が除霊を行ったと言う体裁が欲しい、質を重視せず量を重視した、と言い出す始末で、何だか霊能者の廃屋の幽霊に対する除霊完遂の意志が薄れて行く様に思われた。
「夜に人影を見たって噂を聞いた」と挙手して、誰の発言許可を得る事無く麻衣が言う。人間関係の構築は麻衣の得手とする所で、不得手な私が知らぬも道理、しかしいつ知ったのだろう。
「初耳だね。誰から聞いたんだい」
「視聴覚室で怪談をやった時。ほら、歩が終わる迄待ってくれた、雨の日」
「それこそ単なる怪談話でしょう」と嘆息の後、原真砂子さんは言った。
私は自身の人間関係の貧しさに呆れ、麻衣と原真砂子さんの会話を聞き逃した。
その後、よく解らないが、松崎綾子さんが同様の除霊法を用いて、再度除霊を行い、眠れる幽霊を刺激する事を提案され、皆の指示を得て翌日の除霊が決まった。再度除霊の予定の御蔭で、廃屋で修学旅行宜しく雑魚寝と言う、嚏連発の事態の回避に成功した私達は、鼻に埃を詰める心配をせず、自宅アパートの蒲団で伸び伸びと就寝した。朝寝坊の遅刻の危機に陥り乍ら、翌日土曜日、午前の授業を受ける為に着替えて自宅を飛び出した。
透徹した青空は曇天を好む私の腹中の憤懣を突き、抑も何故青空を厭う様になったかと言うに、末っ子と初の邂逅を果たした、快晴の異境の灼熱地獄、色素の薄い地面に陰影を濃くする橙色の太陽、全てが可愛い末っ子と私の記憶で、曇天は記憶の再生を阻む効果がある。幼馴染みの翔子は晴れ女の私の同道を望み、晴れ嫌いの私は雨女の翔子の同道を望み、実際の天気は曇天が多い。雨女晴れ女の実力が真実か否かは霊能者でも科学者でもない私達に判断出来る事でなく、互いに嫌いな天気を把握するから、利害の一致、心情を斟酌して行楽日和には晴れ女が同道した。晴天に陰を齎す薄雲を、大地を踏み締めるその一歩で払う晴れ女事私は、鞄の帯を調節して、背負って通学路を駆ける。近隣の飼い犬の散歩に辛夷並樹の道路が常の道筋の、禿頭の親父さんが来て、遅刻の危機の私を引き止め、立ち話に巻き込むから迚も迷惑した。
携帯電話の時計は一時間目の数学の開始時間十分前を指し、徒歩二十分位の距離に住むので、膝が笑う事も構わず、腕を大きく振って全力疾走した。葉桜間近の桜並樹の下陰を走り抜け、色の薄い若葉の繁る枝先の、風に煽られ摩天楼の最上階が揺れる様に、ゆさりゆさりと大仰に躍り、細枝の折れそうな勢いを心配した。坂道を駆けて平坦な道に出て、無愛想な混凝土校舎の屋上の金網と、建物の最上階の真上に設置される時計の見える頃、予鈴か本鈴か、鈴が鳴り響いて万事休す、鉄柵の閉まった正門を攀じ登り運悪く教師に叱られ、やっと下駄箱の簀子の縁を踏むと、固定の甘い簀子一枚が引っ繰り返って足の親指を痛めた。厄日なのだろう。簀子の位置を直し、上履きに履き替え、背負う鞄を手に携え、意気消沈の体で教室の後部扉を潜った。生憎本鈴に間に合う事はなかったが、優等生であり模範的態度の霊感少女が不在で、開始五分経過した教室に颯爽と登場する私を、麻衣と稲葉寿子さんは寝かした教科書に顔を伏せて笑いを堪えていた。
一時間目の数学の教科書を捲り、頬杖を突いて、決して授業態度が真面目と言う事は無いが、不真面目な態度の生徒は筆箱を枕に昼寝に興じ、及落の瀬戸際を掻い潜って進級するから、油断ならない。箱型の筆箱は硬く、祖父の愛用した陶製枕を髣髴させ、金槌で壊す悪戯を夢見た私は昼寝中の生徒の頭部を預かる筆箱を引っこ抜く悪戯を思い描いた。大嫌いな理数と暗記物と運動の時間の記憶は渺茫として霞がかり、不意に後部扉の開く騒音を聞いて後方を顧みると、黒髪三つ編み規定の制服姿は何処か埃っぽく、草臥れた様子の霊感少女が登校して来て、一時教室内は騒然となった。数学教諭が草臥れ具合を案じるも、模範生霊感少女は数学教諭の心配を黙殺し、早々に着席した。授業再開から滞り無く、授業終了の鈴が鳴る迄私は理解不能な問題の解答を求められる事無く俯き加減で遣り過ごした。
一時間目の後、早速麻衣が霊感少女に遅刻の事由を尋ね、草臥れた様子の霊感少女は登校前に校舎裏の廃屋に寄った事を白状した。危ない事を承知で廃屋の中身を窺う彼女に、私は不快感と憤りを覚えた。本物贋物の究明は兎も角、除霊浄霊を専門に扱い、職業とする仕事人が来て、作業の真っ最中なのに許可無く廃屋に踏み入り、挙句草臥れて登校するなぞ、馬鹿の極みだ。腹の憤懣の暴発を抑え、暴怒の余り青褪めた顔の隣人を案じた稲葉寿子さんの思案顔を見て、漸く嘔吐の感覚を呑み下し、数学の教科書を乱暴な動作で仕舞った。荒々しい物音に、数名の同級生が振り返り、羞恥に赤面する間も無く二時間目の開始を告げる鈴が鳴る。二時間目は英語、私の大嫌いな外国語の授業だった。英語教諭が遣って来て、辞書を手放せぬプリントを一人五枚ずつ配付し、生徒達は絶望の悲鳴を響かせた。
土曜日午前の授業後、労働力提供の契約を継続中の私達は、不審な霊感少女を上司の許へ連れ、録画映像を確認したが、人間三人が横並びになって機械の前で鼻先を突き出すと余程華奢な体躯の人間でない限り、動き回る録画映像を見る事は難しく、弾かれた私は機械の起動音の響き渡る実験室の薄汚い天井板を見上げて黴臭い空気に溜息を吐いた。映像の確認の終わった一同が画面から目線を転じ、互いの顔を見て、怪訝な顔の上司が霊感少女を見遣る。そうして廃屋に蔓延る黴の臭気を厭う様に、袖で鼻の下を擦り、築数十年の木造建築物に潜む幽霊と霊感少女の波長が合う事を認める発言をした。一瞬、目を見開き驚愕した霊感少女は、徐々に目を細めて陶酔する様な顔で、幽霊との波長の合う事を肯定し、悦目の顔に微笑み返す。私は職人気質の自称霊能者達の作業の真っ最中の現場に、無断で踏み入った危険行為の糾弾を忘れて、黙って笑顔を見詰め、後で思い出して機械操作の資料の表紙に頭突きした。
注意喚起の機会を逸し、自称霊能者達が実験室入りして、何やら又幽霊の有無を話し合い、傍観の立場で相済まないが聞き飽きた問答に草臥れた。暴言の応酬こそ無いが、嫌味の応酬の光景が目前に展開して、腹を立てた一流霊媒師原真砂子さんが斜めった機嫌を直す為か、聞き分けのない馬鹿者との応酬に飽いたか、説得不能と判断したか、匙を投げて実験室を出て行った。着物の意匠に使われた金糸の一瞬の煌めきを横目に、私は着物を普段着とする家政婦の少女を思い出し、お茶の継ぎ足しに勤しむ様も思い出し、皆の健康を祈って自称霊能者達と調査員の問答を聞き流した。原真砂子さんの業績に敬意を表して発言に信を置く風の上司は、霊感少女の嫌味を流し、自称霊能者の嫌味も流し、感心した風情の麻衣の横顔に私は笑った。麻衣が気付き、自分の頬を撫ぜる。その仕草が弟さんの成長を喜ぶ糞爺の緩んだ頬を髣髴させて索漠たる気持になった。
その寂寥感は自業自得の為、私は一先ず、糾弾の機会を窺っていた事を思い出して得意顔の霊感少女の隣に立ち、会話の途切れる瞬間を狙い、三つ編みの垂れる背中を叩いた。一寸驚いた顔で振り返った霊感少女は、しかし得意顔に戻って、何事かと首を傾げた。不快に歪められる彼女の顔を想像し乍ら、私は言った。
「此処は職業にする程現場の事に通暁した専門家が集まって作業しているんだ。その作業現場に、依頼した側の生徒が、専門家の許可無く入り込んで、埃塗れになっただけで済んで幸いだけれど、大怪我しても自業自得だぜ」
丁寧な物言いを心掛けて来たが、最早腹の憤懣が爆発寸前なので、口調が乱暴になったのは仕方ない。
霊感少女は目を瞬かし、次いで不満を露にして明後日の方を向いた。返事は無かった。
不穏な雰囲気の加速を感じたブラウンさん、幽霊の有無の議論は止して、建物自体の違和感を論じた。何か眩暈を覚え、妙に落ち着かない。ふと、彼の言葉を反芻すると、階下の真っ暗闇の部屋に監禁されかけた松崎綾子さんの意見が脳裏に閃き、何気無く上司を振り返り、機械を弄り資料を捲る様子は建物の違和感に興味を示していないか、或いは鈍感が過ぎて気付いていないか、風馬牛の会話を聞く様に突っ立って居た。
ブラウンさんの建物の話題に食い付く麻衣は、動物的勘を働かして建物の違和感を感知している事を言い、思案投げ首、会話に介入する気の無い無愛想な親友の私を見遣り、突然同意を求めて来て困った。上司の様に鈍感なのか、繊細な精神神経でないのか、私は眩暈等の違和感に想到する事も無く、首を傾げて自称霊能者達の顔色を窺ったが、彼らも麻衣達同様の反応で頷くので、四面楚歌の私は色を失って意見陳述を峻拒した。後で建物の違和感云々を思い返した時、松崎綾子さん監禁騒動の最中、暗闇の廊下と斜陽の射す廊下を見て、そう言えば自身も違和感を覚えて、一瞬体調不良に陥った事を漸くブラウンさんの建物の違和感と結び付けて、当時の意見陳述を求められた時に言えなかった事が悔やまれた。この後悔を述懐すると、その鈍感さは時に武器であり兇器だ、と言われた。
鈍麻な聴覚が家鳴りを捉え、遠く建物の端で悲鳴が上がり、物々しい雰囲気に身を竦ませて機械の起動音を聞く事で、気を落ち着けて、画面を覗いて何事か確認したブラウンさんが金髪を振り乱して、原真砂子さんが二階の教室か廊下の壁を破って、否、壁が破れて、繊細な体が表の硬い地面に叩き付けられた事を皆に教えた。建物二階からの転落と言う大事に、諍いの絶えぬ自称霊能者達の方が素早い動作で身を翻し、事故現場へ駆け付けた。遅れて私達も駆け付け、迅速な処置を施され、無闇に動かす真似はせず、救急車を呼んで対処する霊能者達の姿を見て、私達は暫く立ち尽くした。
旧校舎編はよくある話(?)な為か、書くのが辛い。
特に語る事がなくて驚いた。