携帯電話の時計で確かめて午前六時半に目覚め、隣の寝床に潜る麻衣を起こすのも可哀想だし、声を立てた瞬間に奥の寝床に寝る霊能者達が目覚める事を杞憂して、寝巻を脱ぎ捨て、普段着に着替えて巾着袋を握り締めて部屋を出る。鬱閉した針葉樹の繁る山腹に、太陽の白い光線が射し込む事は珍しく、広場の様に鬱林の開けた幽霊屋敷の敷地内は、表の天候も相俟って一層陰惨な気配がして、屋敷の天鵞絨の絨毯を敷いた廊下も、貧しい電飾が索漠たる気持を募らせ、廊下を歩く私は早く拠点部屋の人達の顔を見たいと思った。複雑な構造の幽霊屋敷は生活圏内を闊歩する分に不自由は無く、只無闇に増改築を繰り返した構造と維持費、即ち所有者の財力に呆れた。某慈善団体も可能か知れないが、費用の無駄遣いは間違いない。誰か所有者の乱費を叱る者はなかったのか、と思い、煩悶する内に階下の拠点部屋の扉を通り過ぎ、食堂に続く廊下の角で糞爺達の声を聞き、慌てて拠点部屋の見当へ駆け戻って扉を潜った。
拠点部屋に本物の事務所所長と助手が揃い、既に早朝の作業に取り掛かって、記録映像等の確認作業に勤しみ、扉を潜った所の私を認めるなり、壁際の機械に向き合う助手が顔を上げ、矢庭に椅子を蹴倒して、真剣な顔付きで私の拳を見遣った。その視線を縫い留める拳の中に、見覚えのない巾着袋があって、恐る恐る掌を開き、薄桃色の巾着袋を見せ、今朝の状況を概言した。寝惚け頭で見聞きした真夜中の糞爺の訪問は夢現の区別がつけ難く、報告義務が沈黙を選ぶ私の背中を押して、巾着袋を見せる以上の緊張感に、鳩尾の違和感を覚え乍ら声を低くして当時の模様を報告し、助手が巾着袋の口を開けている事に驚駭した。巾着袋の紐を解き、中身の便箋や帳簿の様に罫線の入った薄紙が四つ折りになって仕舞われ、それを取り出し広げた助手は忽ち顔を顰めて唸る。彼の手許を覗くと、薄紙に、松崎綾子さんが書く様な護符の模様に似た模様が描かれ、折り畳んだ際に付いた線が墨色の筆跡を横断縦断し、皺々の紙は端を摘めば破れそうだった。事務所所長が薄紙の効果を尋ね、助手は護符だと即答した。
「よく出来ています。と言うより、非常に書き慣れている」と薄紙に躍る筆勢を見て助手は言った。
上司の厳命で、私は害意は皆無だが出処不詳の護符を持つ事になった。薄桃色の巾着袋の口を締める時、微かに線香の様な、灸の様な、形容し難いが不愉快でない薫香が鼻腔を掠め、助手が伽羅の香と呟いた。香を焚く様な道具も設備も無い、護摩木を焚けば直ぐ様悲鳴が轟き兼ねぬ幽霊屋敷に、後から巾着袋の布地に香気を染み込ます真似は火事の憂鬱が先行して試すなぞ出来ない。事前に用意した巾着袋に護符を仕舞い、無防備な寝室に寝る素人調査員に渡した、と上司は考え、私は鍵の問題がある為糞爺の訪問と断定するは早計だと主張し、この抗論は実態が判然しないので無意味に終わり、巾着袋を直した助手の朝御飯の提案に渋々拠点部屋を出た。糞爺達の声が聞こえた角を曲がり、寝癖の直らぬ麻衣が後頭部の毛髪を押さえ、背後から声を掛けるので驚いた。不審者の様だ、と言うと、麻衣は寝癖の箇所を手放して失笑物の髪型を披露した。
食堂の大扉を潜ると実力の真偽の程は定かでない霊能者達が豪華な朝御飯を認め、長机を囲む霊能者達の中に無愛想な顔や人間臭い笑顔はない。手早く食事を済まし、調査作業の為に拠点部屋へ駆け付け、深夜の記録映像等の確認を行いつつ、寝起きの曖昧な頭を、朝御飯を食べる事で明瞭にした事務所関係者達が集まって、調査活動の内容を合議する。結果は、私は基本拠点部屋で、機械と格闘する助手の助手を務め、原真砂子さんと松崎綾子さんは一緒に屋敷を巡回霊視して、麻衣達は偽物の不遜な助手を除く全員で平面図作成の為の測量と基礎情報の収集に出掛ける。事務所関係者達を廊下まで見送り、屋敷内を駆け回る重労働を免除された無能な調査員を恨む視線を無視して、私は拠点部屋の扉を閉めて、機械と格闘する助手に指示を仰ぐ。調査活動と言っても記録映像等の確認は、私達の就寝中や朝御飯中に殆ど終わり、朝暮機械に向き合い辣腕を揮う助手相手に、指示を仰ぐ事自体が間違っていると思われる。しかし、だからと言って調査現場に居る調査員が拠点部屋に引き籠もって調査活動に勤しむでもなく、只部屋で愚図愚図と愚痴を零しては賃金を頂く程の労働とは言えない。以上を踏まえ、再度助手に指示を仰ぎ、結句結局部屋の長椅子に御輿を据えて護符入り巾着袋を眺める羽目になった。
昼時に麻衣達が戻り、食堂で昼御飯を食べ、又拠点部屋に戻って愚図愚図と巾着袋を観察し、一度睡魔が項を擽る真似をして、襟足を鬱陶しく思い、足手纏いの調査員が居残る位なら帰る方が調査作業も捗る筈、と卓子越しに基礎情報等を纏めた資料を捲る上司に提案するが、某慈善団体の上層部を動かす要の不在は云々、と却下された。そうして所謂間食が食堂の長机に並ぶ時間、麻衣達が戻り、私を伴って茶を戴いた。焼き菓子等の贅沢な菓子類が目先を彩り、齧る顎の運動も楽しくなる。霊視の為に幽霊屋敷を歩き回った原真砂子さん達も食堂に来て、本物の事務所所長と助手を除く関係者達で小憩し、昨日血の臭いを感じた霊能者は未だ異変が無い事を不思議がり、私は味の苦手な紅茶に角砂糖を混ぜ乍ら、食堂の大扉を繁く見て、糞爺達の影も声もない事に少し安堵した。同時に、この巾着袋と護符の礼をいつ言おうかと懊悩し、薄桃色の口が覗く着物の襟を直す。麻衣達に見られるのは面倒臭い。又護符と糞爺事ハオ達との関係を隠す事に、後ろめたさを感じた。
場所は再び拠点部屋に蜻蛉返りして、飢餓感とは無縁らしい心霊調査に精励恪勤する上司達の背中に感動すら覚え、驕奢な長椅子に腰を掛けて胸元に仕舞う巾着袋を引っ張り出し、何気無く縫い目や漂う薫香を嗅ぎ、巾着袋の構造を見て手製と気付く。店頭にある様な既製品の場合、小物用の巾着袋は意外に高級感漂う物で、大抵裏地がある。白い生地が多いだろうか。手許の護符入れを観察すると、縫い目は粗いし手縫いと解る。生地は一枚、薄桃色の着物を着る糞爺を想像し、暖色明色の着物を好む糞爺が、自分の着物の一部を裁断して手縫いの巾着袋を作る様を脳裏に描き、突然行方を眩ました私に殺意満点の笑顔を向ける糞爺の印象が強過ぎて、家庭的糞爺の像は霧散する。自分の丹精を疑う私を知ったら如何思うかと考えた。非常に恐ろしい。出合い頭に殺意を籠めた一撃を食らう自身を想像して、想像で終わる筈の無い自身の未来に、暗澹たる気持を抱く。仕方ない、出合い頭の殺人事件を覚悟して糞爺に護符の謝辞を伝えよう。
巾着袋を仕舞い襟を直し、着物の長袖の袖口で鼻を拭い、感謝の言葉を口中で復唱するが、全文を言い終える事が出来るか知らと不安に思った。前世の記憶の文庫版の漫画と原作小説の概要を手繰るが、霊能者達が星の王様を目指す物語が主軸と許り思って、他の記憶は、家族を除き重視せず、遺忘叶う記憶は異世界の狭間に遺棄する気持で忘れ、星の王様関連と家族の記憶以外、もう無いに等しく、麻衣達の物語を思い出す事が出来ない。幽霊屋敷の話は、抑も心霊現象を調査し解決する物語だから、幽霊屋敷を訪問する事は当然で、訪問の機会がなければ物語は始まらず、登場人物の活躍場面も必要無い。記憶に残る台詞は幾つか発掘して、しかしどんな心霊調査の話か、皆目思い出せないから息苦しく思う。星の王様の物語の登場人物が、麻衣達の物語に登場する筈が無い。つまり、この現象は、末っ子の金環同様、記憶にある物語の顛末と異なる顛末が待っていると言う事だ。
思考が結着しない内に幽霊屋敷の敷地に暮色が迫り、窓外の薄暮の前庭模様を堪能した頃、霊視巡回中の松崎綾子さん達が拠点部屋を訪れ、手持ち無沙汰の私を見付け、夕御飯に御誘い下さる。有難く誘引を受け、天鵞絨の絨毯を踏み締め食堂の大扉を潜り、長机の最奥の一角を占領し、其処に豪華な夕御飯を並べて貰い、測量作業の終わらぬ麻衣達に相済まないが、先に夕御飯を戴く事にした。献立は朝御飯昼御飯と通して洋食許り、夕御飯も洋食で、麵麭は嫌いでないが、御飯も恋しい。素寒貧の懐では用意出来ない御飯の類が並び、折角温かい食事を、食器類の扱いに四苦八苦して少し冷まして、冷めても美味い御飯を認めていると測量作業から戻った麻衣達が食堂に遣って来た。
矢張り本物の事務所所長と助手を除く関係者全員が食堂に集い、夕御飯を認め乍ら、幽霊屋敷で行方不明となった青年達について談義を始め、奥深い山の中腹に建つ屋敷や極寒期に山中を歩く危険性等を鑑みると、行方不明者達が本当に屋敷内で行方不明になったかも怪しく思われる。純粋に事件事故に巻き込まれた可能性も高く、捜索隊もその可能性を考慮して捜索し、結果青年団の一人が居なくなった。何でだろうね、と麻衣が首を傾げた時、麻衣の背後に見知らぬ男性が立って青褪めた顔で言った。
「神隠しですよ」と言った男性は誰かの助手の厚木秀雄さんだ。「ここは諏訪大社のお膝元ですからね。得体の知れない神様を祀る場所なんです。古い神を祀り、その神は生贄を求める。古い神は邪神だから、失踪者達は生贄に取られたんですよ。我々も気を付けないとね」
そんな不気味な事を言い置いて、厚木秀雄さんは麻衣の背後を去った。すると、今度は別の女性が遣って来て、又麻衣の背後に立つ。人気者麻衣は、少し迷惑そうな顔で麵麭を千切った。
彼女、福田三輪さんは霊能者集団を珍しがって、最も気安げな麻衣に言葉を掛ける。麻衣が答える内に、南さん達の進捗具合を尋ねた。
「うちも確実な所は出てないかな。でも、この家の下には大きなエネルギーの塊があるわよ。当然と言えば当然よね。地図で調べたけれど、此処はレイラインの真上だもの」
専門用語が出たが、現場に居る者は霊視能力者や拝み屋等、別業種の者が多く、専門外の用語に不案内の者だっている。因みに私達事素人調査員達は、何も知らない。
「機材は派手だし若いし、もっと話せる人達かと思ったんだけれど、誤解だったようね」
大変な誤解だ。早急に訂正願いたい。
「確か、白石さんと言う人です。あの方、以前は一人でやっておられた霊媒ですわよ。口寄せ専門の。以前とはお名前が違っていましたわ。割と古いタイプの口寄せ霊媒で、先祖の祟りだとか水子の祟りだとかを矢鱈濫発してらっしゃいましたわ」と原真砂子さんが南麗明さん率いる霊能者集団の中の一人について語った。
「怪しげな話って?」
「真偽の程は存じません。けれども、そう言う古いタイプの霊媒と、福田さんは全然傾向が違う、と言う事です」
「ニューエイジとイタコじゃあねえ。心霊現象を説明する為の背景となる思想が別次元にある訳だな」と破戒僧が野菜を突き乍ら言った。
「だと、拙いの?」
「拙かぁないが。二人共南さんの助手をやってる訳だろ、じゃあ、水と油程も違う思想を纏められる南さんの思想的背景は何なんだよ」
麵麭を千切る内に今度は名誉教授の五十嵐先生が偽物の所長に今晩の降霊会参加を呼び掛け、丁度食堂を訪れた本物の所長に参加の有無を尋ね、私達事務所関係者は五十嵐先生主催の降霊会参加が決定した。麵麭の腸を千切って咀嚼し、舌の運動で嚥下すると、運悪く食堂の大扉が開いてハオ達が食堂に現れた。唇に挟む麵麭の腸を噴出寸前で堪え、炭酸水の様な炭酸入りの飲み物を飲む途中の松崎綾子さんが驚いて、器を乱暴に食卓に戻し、身を捩る私の背中を繁く撫ぜた。
私の体調不良と見紛う態度に皆優しい言葉を下さり、御好意に甘える事にして、夕御飯を済ますと事務所関係者達と一緒に食堂を出ようと席を立った。大扉を破戒僧が開け、ブラウンさんが続き、安原修さんが続き、松崎綾子さんと原真砂子さんが続き、麻衣が扉の縁を押さえて最後尾の私を振り返るが、何事か、目を見開き顎を落とす。不審な態度を問い質す為、私が口を開くか開かない、そんな瞬間に利き腕の肘を背後から鷲掴みにされ、強く後方へ引かれた。
「屋敷の奥は複雑だから、一人で動いたら駄目だ。成る可く、リン・コウジョから離れるな」
耳朶に呼気が掛かる。聞き馴染んだハオの声だ。
腕の圧迫感が消えて、慌てて振り返ると尻尾の様な髪束を揺らし乍ら食卓に戻るハオの後ろ姿を認めた。頭髪を頭部の高い位置で纏める髪紐に見覚えがある。暗色の幅広の帯に濃い斑、確か末っ子の涎の跡だ。髪留めの金具は、手紙の封筒に仕舞う時、いつ壊れても可笑しくない状態だった。矢張り壊れたのだろう。ハオは金具からリボンを剥がし、髪紐として使ってくれているらしい。
衝撃から立ち直って食堂を出ると、不細工な笑顔の麻衣が、ハオの事は何も聞かずに拠点部屋へ戻ろうと言って、手を引いてくれた。
真昼の陽光が山腹の間隙を照らすなら、葉叢の青が目に眩しく、山の朗景を一層輝かして幽霊屋敷の騒動なぞ夢物語の様に錯覚するに違いない。生憎幽霊屋敷の騒動は、夜半の山奥の暗闇の如く強烈に山一帯を脅かし、近い道路を徂徠する通行人達の安全も、その分危険性が増して、最後は人気の無い暗い雑木林が残ると思うと、非常に遣る瀬無い気持が胸中を掻き乱す。敷地を囲む鬱林は色濃い憂色に暮色が混ざり、宵闇が迫る中を食堂で夕御飯を認めた私達は、運悪くハオの掣肘を受けて食堂を去るのに踏鞴を踏んだが、無事解放されて素人調査員達は拠点部屋の扉を潜る。霊能者一行に遅れる事数分、厳しい目付きの上司の視線を無視して、私達は驕奢な長椅子の榻背に肘を突いて上司の持つ名簿の様な、資料本と機械に入力された測量結果の披露を待った。
助手の操作で機械に測量結果が映され、朝暮測量に勤しんだ調査員と霊能者達の労苦を反映した平面図が薄紙に印刷される訳だが、結果が怪しく、建物の周囲と建物内の部屋の周囲の数値が合わないらしい。実際、随分隙間が多い。建物の規模から見て当然の事だが、部屋数も多い、百数十室もある。上司之を訝り、測量作業に一日を費やした作業員達を顧みて、不手際を譴責する様に言い、偽物の所長事安原修さんが持論を披露した。測量中も隙間の違和感はあった、妙な隙間は隠し部屋の存在を疑う、と言って、重労働を共にした作業員仲間を見遣り、作業員仲間事破戒僧と麻衣も頷いた。測量結果に不満な様子の上司は不機嫌面で翌日の業務内容を指示し、測量に従事した人員達は明日も屋敷の測量を遣り直すと言う、没義道な役を命ぜられ、測量要員に私も出る事を名乗り出たが、上司の峻厳な眼力に口を噤んだ。松崎綾子さん達が拠点部屋に籠もる私の処遇に異議を唱えるも、矢張り上司が黙殺し、時刻は五十嵐先生指定の午後九時十五分前となった。降霊会を約束した部屋に向かう途中、事務所関係者一行は、就寝前に生活圏を巡邏するハオ達と遭遇し、偽物の所長の説明を聞いて、ハオがついて行くと言い出した。私は胃痛を覚え、只黙って居た。
降霊会の部屋は一階端の部屋で、既に薄暗い屋内を見回し、ふと奥の方で南麗明さん達と五十嵐先生が衝突し、上司の提案で事務所の機械を今度の降霊会に使う事になり、無骨な機械を部屋の壁際に設置中、麻倉家当主名代の梅宮さんが五十嵐先生に降霊会見学を嘆願した。一見無頼漢の彼が慇懃な態度で嘆願するので、見学許可は容易に下り、事務所関係者の間で降霊会の模様を見守るつもりだった私の隣に、寝巻の様な普段着姿のハオが我が物顔で陣取って、隣に立つ気だった麻衣が熟考の後、一行の端に居る原真砂子さんの隣に立ち、私の腕を取って横並びに立った。平素日没から数時間以内に就寝するハオが寝惚け眼を擦る真似も、欠伸を噛み殺す真似もせず、感情を排した顔で部屋の真ん中に設置した卓子を見詰める。幽霊屋敷を徘徊する幽霊達を呼ぶ事が目的の降霊会、本物の陰陽師の目には、今時の霊能者や調査員の行動は如何映るのか知ら、と内心思案投げ首、実際に問う事は怖くて出来なかった。
麻倉関係者達は全員が壁際で見学者と化し、怪訝な顔で破戒僧初め、霊能者達が私の隣の人達を見遣り、居心地の悪さに自然背中を丸めて私は不審な目線から逃れた。部屋の真ん中に居る五十嵐先生と鈴木直子さん、南麗明さんと老紳士、偽物の所長が手を繋いで、蝋燭一本の裸火が卓子を囲み人達の横顔を炙る中、到頭降霊会が始まった。
五十嵐先生が幽霊屋敷の幽霊に呼び掛け、見学者含め、参加者達も一様に沈黙した儘、只管時が経ち、蝋燭の芯が鳴る許りの部屋の静寂に堪え兼ね、耳鳴りがし出した。鬱陶しい耳鳴りは頭痛を伴い、蟀谷を親指の腹で揉み解し、後頭部と首の付け根に、長時間項垂れた為に生じる様な疼痛を覚え、余程酷い疼痛に蟀谷を弄り終わった親指で首筋を撫ぜる。手根の骨の突出箇所を使い、頸骨の脇の筋を解し、それで疼痛が緩和するなら良いが、一寸弄る程度で疼痛を誤魔化す事は出来ず、実は降霊会の間中ずっと首筋が痛かった。
痛いな、と夢中で首筋を摩っていると、突然軋む様な、歯軋りの様な、総毛立つ音が部屋の真ん中に聞こえ、鈴木直子さんの握るペン先が白紙の上を縦横無尽に動き回る様が蝋燭の火影の向うに浮かんだ。自動車の暴走の様に彼女の腕は動き、白紙が一枚二枚、数十枚と卓子を落ちて部屋に舞う。隣の麻衣が顎を落とす瞬間を視界の端に見て、私も首筋を摩る手を止め、頭痛や首の疼痛も忘れて、気違いの様に腕を振り回す鈴木直子さんを凝視した。彼女の腕が動くのか、自動書記と聞くから、握り締める筆が動く事も考えられ、抑も自動書記と言うものの原理を知らぬ私には、眼前の降霊会の模様が理解出来ない。山奥の幽霊屋敷の幽霊達が胸に抱く瞋恚の炎を、文字に表して白紙に書き殴り、怨嗟の悲鳴を上げる様子を想見するが、幽霊を見る人達は幽霊の悲鳴をも聞いているのかと思った時、不意に天井板が鳴った。それを契機に壁が鳴る。大勢が壁を殴る音、或いは蹴飛ばす音、様々の音響が降霊会を催す部屋を席巻して、一音一音を判別する為に聴覚に意識を集中し目を瞬くと、隣に居るハオが私の背中を押した。
何、と不謹慎な暴挙に怒鳴る間も無く、急に肩が重くなって膝が折れる。部屋の真ん中の卓子が、丸で跳躍する様に撓み、着地音と同時に蝋燭一本分の照明が消え、部屋を真の暗闇が支配し、尚幽霊達の殴打は止まず、私は尻餅を搗きそうになって手近の台に縋り付く。隣に立つ麻衣が踏鞴を踏み、蹌踉と場を離れて背後の壁を振り向くのが気配で解る。更に蹌踉めき、麻衣は私の半身に撓垂れ掛かり、無論事故だが互いの頭蓋骨が衝突して酷い眩暈がした。降霊会の心霊現象どころではない。痛い。麻衣も同様に頭部に走る激痛に悶え、部屋の一角は心霊現象に怯える悲鳴でなく、事故に依る負傷に喘ぐ声が響き、被害者達は互いの肩に縋り乍ら、硬質な音の響いた箇所を押さえる。蟀谷近く、耳の上側に鈍痛が脈打ち、今度は震盪が原因の耳鳴りを覚えて、力無く両膝を突いた。
破戒僧の真言が響き渡る。唐突に音響は止み、上司が冷静に部屋の電灯を点け、部屋に飛散する用紙を取り上げて降霊会成功を呟く。彼の摘む用紙には、タスケテ、とあった。
私は両膝を突いた体勢の儘、心霊現象が身辺を脅かす最中に頭突きと言う攻撃的怯え方をした麻衣を睨み、ふと自身の肩に掛かる白い手を認めた。確認する迄も無くハオの手で、真正面には弟さんの持つ日本刀が、細長い袋を脱いだ状態で私の鼻先に揺れていた。
弟さんは降霊会の結果に見向きもせず、背後の私を振り返り、その場に小腰を屈めてハオと密談した。
「来なかったな」「お前や竜が、それだけ殺気立てば来る訳がない」「兄ちゃんの方がピリピリしていたぞ」「五月蠅い」「何だよ、どさくさ紛れに屋敷燃やすとか言った奴が」「建物が無くなれば話は早く済む」「報告書に何て書くのさ。オイラも竜も、書き方解らんのに」「知るか。何で僕が書くんだ。お前達で頭捻って書けよ」「面倒臭いな、こう言う仕事の報告書って」
降霊会の感想を上司が参加者一同に丁寧に尋ね、部屋に機材を設置し直して、本日の作業は終わった。
だが、麻倉関係者達は真夜中に活発化する幽霊達を恐れる必要は無いし、謂れも無い。急遽真夜中の調査活動に向かう為、降霊会を催した部屋を出て、屋敷の奥を彷徨う様に歩き出す。上司が夜の調査活動を懸念して、麻倉関係者達は軽く手を振って、笑って屋敷の探索に向かった。
私は部屋を出て廊下の角を曲がるハオを引き留め、胸元の薄桃色の巾着袋を取り出して言った。「君の事だ、此処の幽霊に負けないと信じるが、暗いから、迷子になったり、怪我の無い様に気を付けて。それから、大事な事、護符を態々有難う」
ハオは莞爾として笑い、軽く手を振って「お休み」と言った。
自身の願望色濃い夢を見た。翌朝起きた時、馬鹿馬鹿しくて気分が重かった。
部屋の畳の縁を踏み、隅に畳みっ放しの煎餅蒲団を敷いて、薄地の掛蒲団を広げて敷蒲団の真ん中寄りの向う側に寝転ぶ末っ子の矮躯に被せ、裏庭の雨模様を遮る窓掛の隙間を直し、電灯を消して自身も寝床に潜る。風呂場で長湯に興ずるハオには、先に就寝の旨を伝え、風呂場の薄明りが漏れる襖の閾を足下に、私達は寝床の暗闇で目を瞑り乍ら小声で歌を歌い、段々睡魔が夢の国から、現の私達を呼び、船を漕ぎ出す末っ子の福々しい額を撫ぜて私も瞑目した。襖の向うの風呂場で寝巻を羽織る衣擦れが聞こえ、異様な物音に目を開け、襖が閾を滑る音と気付き、部屋には寝具一式、私達が寝転ぶ蒲団しかない。ハオの事だから、勝手に潜り込むだろうと思っていると、畳を擦る音がして、寝床の暗闇を掻き分け部屋の薄闇に目を凝らし、寝巻を着込んだハオが畳の上で蹲っているのが見えた。
湯冷めの心配もあるし、私は寝床に半身を起こして、腕を限界まで伸ばしてハオの寝巻の裾を摘み、寝惚け頭を擡げる影を横目に、掛蒲団を捲って寝床の暗闇に誘う。重い体を引き摺る音、畳の縁に寝巻の裾が絡まり、薄闇に朦朧と見える範囲で寝床に潜る事を躊躇する様に思われ、熟睡中の末っ子の睡眠の質を憂慮して、私は早く入りなさいと促した。畳の縁が噛む寝巻の裾を引っ張り、大儀な四肢を蠢かしてハオは敷蒲団の端に膝小僧を乗せ、矢張り一寸躊躇する様に身動きを止め、私が催促すると、観念した様に末っ子を挟む形で蒲団に横たわる。湯船に頭髪を漬ける癖は、到頭治らず、湿った黒髪から彼愛用の洗髪剤の芳香が漂い、頭髪を乾かす暇も無く寝床に誘った事に想到し、彼が寝床に入る事を躊躇った訳を知った。まあ、入ったし、良いや、と呟いて私はハオの肩に掛蒲団を掛け直す。肩が隠れて、首元が寒そうで、顎の下まで蒲団を引っ張った。
急所の鳩尾に縮れ毛の丸い頭部を減り込ませ、末っ子は穏やかな寝息を立て、敷蒲団の皺を深く、又増やして、姉貴分の世話係の鳩尾で安眠の証拠たる寝姿を曝し、四肢の制御が利かずに心臓の真上を、腕を伸ばした拍子に殴る。精確には、投げた腕が心臓の真上を直撃する。寝汚い事も間々あるが、早寝早起きが信条のハオの静穏な寝息が乱れ、人様の呼吸困難と言う苦痛を笑う。ハオは掛蒲団を深く被った儘、肘を突いて半身を起こし、突然の攻撃的寝相に咳き入る私の背中を叩いて摩って、心臓の真上に置く末っ子の拳を胸元から遠ざけた。拳の離れる違和感に、馴染みの感触が遠く離れる寂寥感を覚えて、遮二無二可愛らしい拳を引き留め、拳を取るハオの手を軽く叩き、この儘で良いと哀願した。
「怪我、していない? 降霊会、怖かったろう」
と脈絡無くハオが言うので吃驚したが、煎餅蒲団の感触が消え、寝巻越しにマットレスの感触が蘇る。夜半の部屋の薄闇に、寝床に潜るハオの人間臭い微笑を認め、肩口が掛蒲団の外に出ているので、真夜中の屋敷の気温を思うと寒くて寝られない。蒲団を顎の下まで引っ張って、鳩尾に末っ子の感触が無い事は忘れて頷いた。
「大丈夫、事務所で働く様になって、幽霊も見たよ」
「そう。無理するな、嫌なら……帰ってくれば良い」
現実のハオが言う所を想像し、似合わぬ言葉だと笑った。現実のハオなら大変遅い経験を鼻で笑い、人様の身を案じる様な言葉は掛けず、非霊能者への愚痴を言い兼ねない。だが、彼の心配げな言葉を聞く事は、現実逃避した私には勿体無い。
「そうも行かない。兎に角、オパチョを頼む」
「オパチョは君と居たい。……僕も、歩が一人悩むなぞ、我慢ならない」とハオは私の真実を信じている様に言った。
「申し訳ないと思うんだ」
「何が」
「君は千年間考え事をしている。今、考え事は変わらずとも、一緒に考える人達が居るけれど、私の問題も、君は悩むのだろうね」
「君一人では、打つ手がない。僕なら、恐らく可能だ」
「悩み事を増やすな、後が大変だ」
「歩の事は、僕自身がそうしたいからだ」
ふと千年前、現代日本より一層酷い環境に生まれ育ち、尚独りで魑魅魍魎の跳梁跋扈する街中を歩き回り、生き抜いた頑是無いハオの事を思い出す。劣悪な環境下で生きる事は、善い環境の用意された中で生きる私の想像を絶する苦難が付き纏い、安楽な場所、極楽な環境で人間関係の構築に悩む程度の私は、確かに貧しい奴だと思う。
ハオの言う事は正しい。貧しい私は──。
「情けない」
「何が」
「だって、君も麻衣も、一人で頑張るのに、私は多くの援助があって漸く生きている。千年前、君は酷い環境下で生き抜いた、千年前より余程恵まれた環境にあって、私は周囲の力に甘える。情けない」
「星は、世界は、君を拒むだろう。頼らねば、力無い歩は滅ぼされる。僕は、歩の末路に我慢ならない」
「悪かった。私は君の悩み事を増やしたい訳じゃない。本当に申し訳ない」と私は心底から謝罪した。
「もう、良いよ。僕が自分で選んだんだ」
「思うんだ、私はオパチョを拾い、君と出会い、そうして今がある。でもね、私が居なくとも、君はオパチョを救ったよ」
「拾いはした。でも、オパチョの心を今のオパチョの様に救う事は出来なかっただろう」
ハオの言葉を聞いて、前世の記憶に残る漫画本の中の顛末を思い出すと、そんな事はないと断言出来た。
私の存在は、物語の顛末に欠片も影響しないのだ。金環の有無は末っ子から遊牧民と言う未来を奪い、ハオの星の王様と言う安寧を奪った。それを踏まえれば物語の顛末に関係した事になるが、人類滅亡を回避する未来には、全く影響が無かった。
「そんな事は無い。私が居なくとも、君は人類滅亡を先送りにして、星の王様の儘魂の故郷の最上階で、地上の人達を見守ったと思う。オパチョは、きっと遊牧民になった。私が居なければ、君は地上の地獄で百年も生きる羽目にならなかった。そう思わないかい」
「僕は此処に居る、オパチョも『炎』で待って居る、これは歩の仮定とは大きく違う」
「些細な違いさ、君にとっては大きいけれど。だって、星の王様の儘か、一度人間に戻るか、それは大きな差だろう」
「違うよ。でも、僕は今の方が良い。そして、歩が居る方がもっと良い」とハオは私にとって随分都合の好い事を言った。
「悪かった。本当に、そう思う。私はオパチョに出会わず、あの儘突っ立って、野垂れ死んでいれば良かった。御免よ、ハオ」
「それは嫌だ。君が死んだら、魂は滅ぶ以外に道は無い。絶対嫌だ」
「こんな素直な君は珍しい。明日は槍が降るかな」
「歩、帰って来て」とハオが現代の母の様な事を言って、私は切なくなった。
現実の彼が他者に弱音を吐く事はない。悩み事を打ち明けるのに千年かけた奴だ、簡単に心奥を披瀝する筈がない。
何より、その言葉は、現実逃避した私には、余りにも都合が好過ぎるのだった。
風声鶴唳(ふうせいかくれい)
:要するに、一寸の事でびびる事。
意訳
:本心はどうなんだろう、と自身の夢見に意気消沈。