一、
翌朝は遅く目覚め、握り込んだ儘熟睡して、覚醒時に頭が長い紐を押さえ、手首を締めて鬱血痕の出来た万縷の憂いの根源を懐に仕舞い、普段着姿で私達女部屋一同は階下の食堂に降りて、其処で老爺達の密談風景を遠巻きに見た。霊能業界は経験が物語る事を説いた老爺達は若輩者の登場に蒼惶として食堂を退室し、若輩者事私達は押し黙って朝御飯を認め、拠点部屋に向かう途次屋敷の奥へ続く廊下を歩く糞爺達の後ろ姿を見て、他の霊能者達の所在に首を傾げた。松崎綾子さん曰く、宿泊部屋に引き籠もって除霊作業は二の次らしい。幽霊屋敷を訪ねた当時、確かに居た人間が失踪し、食堂に集う顔もその分減った。経験の積み重ね、経験の豊富を説く前に明日は我が身を煩慮して、他の霊能者達は宿泊部屋で嵐の過ぎる時を待つ。その嵐、憂いを払う役を糞爺達が負う羽目になり、幽霊屋敷の最奥に居るらしい幽霊の除霊は、当然妖怪退治専門の麻倉関係者が請け負うのだろう。拠点部屋の扉が見える頃、何気無く奥の廊下を行く糞爺達を見遣って、黒目の輝く糞爺と目が合った。
拠点部屋の扉を潜り、資料整理の仕事を貰って同僚麻衣と共に卓上に散乱する資料の山を整頓し、不意に機械を弄る助手が私を振り返って首を傾げるから、糞爺の護身術の話を耳打ちした。機械の鍵盤を打つ指頭が額の生え際を撫ぜ、鼻梁を通り、鼻頭から額へ戻って蟀谷迄を擽る。夢現に糞爺がして見せた仕草を助手が真似て、額と鼻梁が熱を帯び、蟀谷に引き攣る様な違和感を覚えて、違和感を助長する様な助手の手を逃れ資料整理に勤しむ同僚麻衣の横に駆け戻る。蟀谷の違和感は額と鼻梁の熱が引くに連れ寛解し、紙の資料を分ける作業に没入して仕分けが終わり、機械で複製した資料等を纏めて雑品置場に仕舞う。資料整理に大分時間を食い、粗方片付いた頃、大橋さん事仕事人間が拠点部屋を訪ねて、丸で覚えの無い予定に困惑する私達は、偽物の所長の機転で部屋に招き、偽物の不遜な助手に後を任せ、そうして話題は屋敷の経歴に及び、結局解った事は屋敷その物が呪われた遺産と言うに相応しい物である事だった。
資料整理の雑事を終え、他の仕事も無いので整理整頓した資料の数枚を手に取って眺め、幽霊屋敷の経歴を鑑みても取り壊す方が賢明に思われる事情に溜息を吐く。富豪の事情は貧乏が普通の一般人には風馬牛の話で、事件頻発の問題がなければ全く憂う必要は無い。その時、機械と格闘する助手が上司を呼び、機械に映す幽霊屋敷を表から撮った画像を見せ、屋敷中央部の様子を指摘した。玄人調査員達の専門的な話を聞くだけでは、建築物の知識が無に等しい私は理解出来なかったが、何か諒解した風情の上司は調査方針が決まった事に発奮して、麻衣達測量班に屋敷の階段の数と蹴上げの数値を記録する事を命じ、又残る松崎綾子さん達や私に零階なる場所への入り口を探す役を与えた。勿論階段の数と蹴上げを測る測量班は悲鳴を上げ、埃の積もり積もった屋敷の最奥での捜索を命じられた松崎綾子さんは非難の声を上げ、作業員達の抗議を黙止した上司は、助手と狼狽気味の私を叱咤して、さっさと拠点部屋を出て行った。頭脳労働を担当する上司に、彼の頭脳が頼りの私達は逆らう術が無い。
麻衣達測量班が屋敷一階の階段の数と蹴上げを測りに出動し、残る人員で零階なる場所、屋敷中央部を探索して、雑品置場に置きっ放しの懐中電灯の薄明りが太陽の様に真っ暗闇を照らす中、複雑な通路を歩き回り、壁や床を調べる。文字通り埃塗れになって、いつぞやの糞爺達の様に塵芥を髪飾りにし乍ら、あっちをうろうろ、こっちをうろうろ、懐中電灯の薄明りが心許無い廊下を調べ、部屋の中に衣装箪笥位の物置や部屋の中に十字路等、摩訶不思議な構造を目の当たりにして心底呆れた。測量班の努力の結晶たる平面図で現在地を確認し、更に屋敷の奥を調べる上司を追い掛け、皆の足音や衣擦れ、呼吸音と言った音響が溢れる廊下を行き、ふと懐中電灯の楕円状の薄明りの端に人の足が掠めた気がした。先頭を譲らぬ上司と随身の助手、事務所関係の霊能者達は各持つ懐中電灯で辺りを探り、つまり私の後ろには、他の霊能者や測量班、職員が居るのでなければ、即ち居るのは幽霊と言う事になる。
途端背筋に粟が生じ、懐中電灯を先頭部隊の進路に向け、最後尾の松崎綾子さんの背中を凝視し、視界の端に幽霊と思しき人影を入れぬ様に留意しつつ、後を追った。最後尾に合流して私が最後尾を務め、零階の探索に努める。無闇に懐中電灯を振り回して薄明りの端に幽霊の影を見る恐怖体験は御免蒙る。無論その体験を厭うなら、抑も事務所で働く事を辞めれば良い訳で、駄賃の良い事を踏まえれば、多少の恐怖体験は我慢出来る。通路の暗闇を懐中電灯で照らし乍ら進み、天鵞絨の絨毯の剥げた床板に膝を突き、隙間を見付けて爪を掛け、しかし微動もしない床板に歯噛みした上司は別の場所を探し始めた。私達も壁や床の目に着く箇所を探すが、隙間風すら無い屋敷の奥の廊下は分厚く積もった塵埃の所為で怪しい箇所を見付ける事自体が困難だった。何度か懐中電灯の薄明りの端に影を見て、私は上司や助手、原真砂子さんに言うけれど、時既に遅く、報告の後に影を目撃した場所を探しても人影は無いし、別段可笑しい箇所も無かった。
その内、屋敷の最奥の廊下に到達し、探す箇所が無くなり、不機嫌面の上司が拠点部屋への撤退を宣言して堂々と先頭を行く。懐中電灯で周囲を確認し乍ら通路を戻ると、道中糞爺達に遭遇して面食った。専門家糞爺達は無防備な探索班の身を案じて、拠点部屋への帰路を随身の様に同道し、機嫌が悪い上司は無言で、助手も事務所関係の霊能者達も口を噤んで、元来饒舌な梅宮さんは重苦しい雰囲気の関係者達の顰みに倣って緘黙する。弟さんも無言の儘、物騒な物を担いで私達の後に続き、私の隣を行く糞爺事ハオは、屋敷の奥を歩き回る調査員に不満があるのか、上司に匹敵する不興顔で黒服の背中を睨み付けた。私は降霊会の際に見聞きした麻倉関係者達の密談を思い出し、密談の内容を上司達に報告す可きか思案したが、結局黙す事を選んだ。只、建物を燃やして事件解決を目論む糞爺の事は警戒している。無能な小娘に最強の霊能者を制止する事は不可能だけれど、大会参加の経験を持つ霊能者の密談を、非霊能者の上司に漏洩して良いかどうか、これでも結構悩んだのだ。
天鵞絨の絨毯の損壊箇所が目立つ屋敷の奥から、玄関近くの拠点部屋の扉が見える所迄、ハオ達は無言で私達を護衛し、不機嫌面の上司が拠点部屋の扉を潜って、折角整理した資料の山を、卓子を叩いた拍子に崩す瞬間を扉越しに見届けて私達から離れた。私は感謝の意味を籠めて見送るつもりで扉の前に居たが、拠点部屋に入る様に言われ、渋々扉を潜ると擦れ違い様に助手が息を呑み、私が半ば閉めた扉を蹴り開け、廊下に居る麻倉関係者達を呼び止めた。霊能者達の会話に無関心な訳でないが、幽霊屋敷を訪ねた事由を思い、専門家の議論を盗み聞きする事は避け、卓子に散らばる資料の山を整頓した。
直に助手が部屋に戻り、機械の前に陣取って、屋敷の奥を闊歩する緊張感と幽霊と思しき影を目撃した事実に、自然強張っていた肩の力が抜けて平生と変わらぬ作業風景に安堵した。大分時間が経過して測量班が拠点部屋に駆け込んで来た。破戒僧が豪奢な額縁を携え、この人選は、頭脳労働の気がある安原修さんや金髪碧眼の一見優男のブラウンさんが運ぶより適当に思われた。額縁には三白眼の癇の強そうな壮齢の男性の肖像画が入っていて、裏側に「浦戸」とある。屋敷の所有者と余程懇意な者なのだろう、と言って、何か閃いた上司が白衣の懐に見付けた旧紙幣を取り上げ、墨の模糊とした文章をなぞり「浦戸」の字を当て嵌めた。
後に安原修さんが閃き、時代背景を顧みて文章を右読みして、旧紙幣の伝言を解読した。曰く、此処に来た者は皆死んでいる、……、逃げよ。
皆一様に口を噤んで言葉を発さず、其処に窓硝子を叩く音が響いて色濃い夜陰の向うに数日間の内に見慣れた女性の顔が浮かび、又招き入れると茶封筒を卓子に置き、報告を始める。失踪者の情報、美山親子の関係、高齢者達の間に伝わる美山鉦幸氏の話題、最後は肖像画の人物が鉦幸氏本人と発覚し、浦戸が彼の雅号と解った。簡単な口頭での報告と封筒に仕舞った資料集を整理して幽霊屋敷の過去を手繰って行くが、旧紙幣の文章が不気味な事以外は余り解らない。その日も日付が変わる前に調査を終え、各宿泊部屋に戻り、女部屋に寝起きする者達は風呂場の順番の関係で直ぐ寝る事が出来ず、着替えを準備して寝台の縁に腰を掛け、旧紙幣の文章や肖像画の話題に終始する。風呂場が空くと寝巻を持ち込み、歯磨き等の就寝前の身支度を整え、洗髪等を手早く済まし、まだ残る人員に風呂場を明け渡す。最も風呂場に近い寝台を使う松崎綾子さんが一番、原真砂子さんが二番、私が三番目で最後に麻衣が風呂場を使い、寝巻を着込んで、寝惚け顔で寝床に潜った。
部屋の電気を消して身辺が真っ暗闇に没し、扉の隙間から漏れる廊下の薄明りが光明の様に思われ、就寝には邪魔な様に思うが、目を瞑れば関係無い。体が分厚い敷物の底に沈む感覚を味わい乍ら、数日使う間に自身の体臭が移った掛蒲団を顎まで引っ張り、肌寒い山奥の夜を寝て過ごす。調査初日から真夜中に糞爺の夢を見る事が多々あったが、当夜は実家に帰省して愛猫達と戯れる夢を見るも、糞爺は一切登場せず、案外な夢見に起床後驚いた程だ。だが、もっと驚いた事が起こった。
深更二時頃、夢最中の私は蟀谷に疼痛を覚えて、護身術の発動かと目を見開いて飛び起きた。額や蟀谷や鼻梁が発熱して、玉の汗が浮かび、寝巻の袖に濃い染みを作り乍ら、ふと隣の寝台に寝る麻衣の様子を窺うと、親友麻衣も玉の汗を滲ませ魘されている。親友の様子に仰天して寝台を降り、胸元を掻き毟る様に呻く寝姿に周章狼狽して、最奥の寝台に寝る松崎綾子さんを叩き起こして泣き付いた。原真砂子さんも異様な雰囲気に目覚め、寝台を飛び降りて麻衣の寝る寝台に駆け寄り言葉を掛けるが、覚醒の気配も無い麻衣は到頭悲鳴を、否絶叫を轟かして寝台の上で暴れた。
松崎綾子さんの素早い頬への一撃で絶叫は止み、意識が覚醒した麻衣は自分の寝顔を覗き込む私達を認めるなり、手近の私に抱き着いて噎び泣いた。熟睡する人達を戦慄させ、又家鳴りを伴う叫喚が近場の男部屋に寝起きする事務所関係者達に届かない訳がなく、女部屋の扉の前に破戒僧の怒号が聞こえ、扉の鍵を開けて部屋に招き入れると手前の寝台で歔欷する麻衣を見て青褪めた。何事か尋ね、すると麻衣は呼吸を整え乍ら夢の内容を語り、恐怖体験が心身に蘇って震え出す。丁度上司が紅茶を持参して女部屋を訪れ、再度夢の内容を語る麻衣は長嘆息の後、寝る気になれないと洟を啜った。翌日の測量作業と言う重労働を思い煩い、無理矢理寝る事を勧め、寝台に押し付けた時、女部屋の開いた儘の扉の向う、薄明りが照らす廊下に昼間でも鬱陶しい足音が響いて糞爺達が飛び込んで来た。
先頭は言う迄も無く糞爺で、後続は弟さん、梅宮さんと駆け込んで来て、糞爺は一切減速する事無く麻衣の寝台に身を乗り出す私の肩を鷲掴みにして、豪速球の様な、弾丸の様な勢いで人様を突き飛ばし、衝突の余勢で私は寝台から落ちて仰向けに床に引っ繰り返った。後頭部は糞爺の華奢な手を緩衝材に、しかし衝突の衝撃を完全に殺す事は出来ず、痺れる様な激痛が脳天から全身を貫く。本当は拠点部屋の経験や過去の体験に基づいて行動したが、糞爺の奇襲に吃驚して、肩関節を庇うつもりで上体を反らしたのだが、他者の体重が考慮の埒外にあって、我慢の限度を超えて転倒した。だから糞爺も吃驚した顔で私の顔を見下ろし、実兄の暴挙に悲鳴を上げる弟さんは、記憶上、最低の防御力を誇る私の全身状態を案じ、人様の胴体に跨る糞爺の後頭部を引っ叩く。携帯に便利な石剣を腰に挟み、馬乗り状態の糞爺を私の上から引き揚げ、自身の使う寝台の縁越しに電灯を見る私の頭部を気遣い、首を支えて起きる動作を助けて下さった。
「兄ちゃん、こればっかは反省してくれ」
「……悪かった」
「さすがのオイラも庇えねえから。アンナには報告な」
糞爺は酷い渋面を作って弟さんを睨んだ。
実兄の殺気の籠もった視線も何のその、弟さんは私を振り返って言った。
「取り敢えず、皆、無事か?」
私は無言で頷き、無言の肯定に安堵した風の糞爺は夢遊病患者の様な足取りで女部屋を出て行く。梅宮さんが後を追い、残った弟さんが頭髪を掻き毟って、乱入した事を詫び、何度も私達に頭を下げてから女部屋を出て行った。
「……矢っ張り、知り合いだったのね」と松崎綾子さんが呟いた。
「熱烈ですねえ、倉田さん。……あ、お兄さんの方ですよ」と安原修さんが苦笑いして言った。
「ええと、麻衣さんもご無事ではった事ですし、明日に備えて、もうそろそろ寝た方が」とブラウンさんがしどろもどろに言った。
「色んな意味で、若干一名が傷を負ったがな」と破戒僧が溜息混じりに言って肩を竦める。
その一言に失笑した原真砂子さんの声を契機に銘々部屋に戻り、私達女部屋に寝起きする者も寝床に返るが、夢を見る事が怖い麻衣は寝るのを嫌がった。麻衣と合議の末、私が一緒に寝床に潜る事で仮眠を取って、翌朝は一寸早目に食堂へ向かった。無論血腥い夢の後に御飯を詰め込む事は苦痛を伴い、食の進まぬ麻衣は、昼御飯迄に腹の虫が無くのを覚悟で御飯を残し、私達の食事が終わると皆で拠点部屋へ移動した。
測量班は荷物を担いで屋敷一階の階段の測量に向かい、残る霊能者達は昨日の記録映像等の確認を手伝い、大分経った頃、血相を変えた破戒僧達が戻って言った。
「このお家の霊は、若いお人が好きなのかも知れませんですって」
そうして上司が腕を束ねて唸り、松崎綾子さんに実力を問い、退魔法程度の実力を信じて、原真砂子さんと一緒に行動する事が決まったが、今度は原真砂子さんが渋る。駄々を捏ねる子供を叱る様に、鋭い口調で上司が反駁し、結局女性の霊能者同士で組む事になった。
次に破戒僧達が安原修さんの護衛に付き、麻衣の護衛に助手が付き、何故か私は退魔法を使えぬ上司と組む事が決まった。茲で私が、退魔の術も霊能力も超能力も持たぬ自身が頭脳労働担当の、調査の要に等しい上司と組む事に反対し、又助手も私の意見を支持して、話は麻倉家の様な泥沼のお家騒動に発展した。原真砂子さんを除く麻衣達は上司の身分を知らぬ為、当然助手の役割を知らない。偶然携帯電話越しに生活支援者兼保護者から事情聴取と報告を受け、知る機会のあった私は、二人の関係を承知している。
助手との応酬に飽いた上司が深く嘆息して言った。
「XーLAWSの上層部は動けそうか?」
「無理。茲最近は連絡無し」
「誰か二人、帰して下さい」と助手が叫んだ。
上司が糞爺達の協力を要請し兼ねぬ空気に、私は上司の黒目を睨んで首を横に振った。
誰が誰を護衛するか、息の詰まる膠着状態に私が根を上げる寸前、安原修さんが離脱を宣言した。諏訪市内に居る森まどかさんを手伝う旁、自分も気に掛かる物事を調べたい、と言う。其処で私も便乗して挙手した。
「私は特別能力を持たない雑用だし、ベースに残る位なら諏訪に残る二人の、手伝える所を手伝います」
話は結着した。
同日、安原修さん事偽物の所長の助手として幽霊屋敷を去る事が決定し、慌てて女部屋に残した荷物を纏め、荷造りの途中、手伝う麻衣に一見量産物の御守りを手渡した。糞爺が手渡す瞬間を目撃している麻衣は、この譲渡を峻拒するが、薄桃色の巾着袋の中身の護符を見せ、霊験灼かな護符を持って幽霊屋敷に居た事実を告白し、量産物の御守りを握らして女部屋を出た。麻衣の随身を兼ねた破戒僧達が扉の横に居て、私達は扉の向い側の壁際に居ると思っていたので、勢いよく扉を開け、破戒僧を扉と壁に挟んでしまった。破戒僧の悲鳴を聞いて扉の裏側を覗き、鼻と額を赤くした破戒僧に睨まれた。
数日分の宿泊用の荷物を背負い、天鵞絨の絨毯を踏んで玄関広間への通路を行く途次、糞爺達が壁に凭れて私の旅装を見遣る。歩み寄った糞爺は一瞬麻衣の、量産物の御守りを仕舞う懐を瞥見して、真っ直ぐ私を見詰めて「またね」と言った。次回が無い様に願う許りだが、手を振って、オパチョを宜しく、と軽く低頭して糞爺達と別れた。
玄関広間の外側、建物の外で待つ偽物の所長の許に駆け寄り、幽霊屋敷に残留する皆を顧みて、大きく腕を振って健闘を祈った。
二、
諏訪市の繁華な家並の真ん中に事務所関係者の森まどかさんが待って居て、其処で自動車を降りた私と偽物の所長事安原修さんは、運転席の職員に一揖して別れ、後で別の自動車で幽霊屋敷に戻って、安原修さんの指示で煙突の本数を数えた。合計十二本、彼は測量中に確認出来た煙突は十一本の筈だと主張を譲らず、本格的なカメラで森まどかさんが十二本目の煙突を撮影し、仕事関係で懇意な現像所に提出して現像を任す。安原修さんは私達が煙突の撮影や現像所を行き来する間に幽霊屋敷の所有者の本邸へ向かい、又近隣に住む高齢者達に聞き込み調査を行って、事件解決の糸口か知らないが、それなりの情報を得て夜に幽霊屋敷の拠点部屋の窓に忍び寄った。
拠点部屋内では屋敷の最奥の空白地帯の壁を破って侵攻する物騒な相談の真っ最中で、其処に私達が来るから皆吃驚した様子で部屋に招き入れた。基本拠点部屋で暇潰しの術に懊悩した私は、煙突の本数の重大性を理解出来ず、言われる儘に本数を数えたが、数える意味を理解する安原修さんの報告に依り事態は進展したらしかった。そうして煙突の撮影や現像所に自動車を走らせる間、高齢者達に聞き込みを行った結果を話し、当時の屋敷の女中や職員が頻繁に変わった旨の報告中、麻衣の様子が一変して女中の幽霊が縋っていた事が解った。又不意に停電したかと思うと悲鳴や陶磁器の割れる音や壁を殴る音が屋敷中に響き渡り、何か騒ぎがあると、電灯が点いて壁一面に血腥い、救いを求める声が躍って戦慄した。そんな惨憺たる有様に屋敷の職員が飛んで来て、慌てて私達は幽霊屋敷から撤退し、仮眠を取った後、又早朝に老人ホーム等の施設を訪ね回り、証言を集めて市内のホテルに戻ると電話に伝言があった。曰く調査終了、本日中に撤収、と言うので情報収集が無駄になった気がして、それでも調査終了と言う嬉しい報に三人揃って安堵した。
森まどかさんの運転する自動車に乗って、舗装道路を疾駆し、獣道が増しな酷い私道を徐行し、乗物酔いに喘ぎ喘ぎ、荒漠たる幽霊屋敷の前庭の手前の鬱林に自動車を停めて拠点部屋の窓に駆け寄り、物々しい雰囲気の屋内の人達に到着を知らした。人目を憚って拠点部屋の窓を攀じ登り、原真砂子さんの居ない室内を見回して、涙顔の麻衣を認めて血の気が引いた。詳細を尋ね、無論尋ねる手間が時間の浪費である事を承知で、否定の言葉を期待し乍ら問い質すが、予想通りの事態に一層狼狽えた。撤収作業中、単独行動に出た原真砂子さんが、物の数分で蜃気楼の様に消えた。単独行動を許した麻衣の迂闊さを上司が窘め、口論の時間も煩わしく、幽霊屋敷の空白地帯を捜す事が決まった。拠点部屋に置く重機の様な機械を担いで屋敷最奥の空白地帯の壁が薄い箇所を探しに歩き回り、作業中に今朝の老人ホームを訪ねた際に収穫した話を報告し、皆でうんうん唸り乍ら首を傾げる。私達の収穫した話は、慈善病院や施設で働く人達が、施設を出る時に夜逃げ同然に出て行った場合の末路だ。私は資料を読んでも事の重大性がよく解らない。──後に判明した事だが、最も重要な情報は、上司の手で遮断されていた。つまり私は蚊帳の外だったのだ。
真っ暗闇の廊下を、絨毯の無い箇所を踏み乍ら、懐中電灯の楕円状の薄明りで進路を照らし、機材を運び、助手が産婦人科で胎児の状態を確認する時に使う様な機械─実際は違うが機械の形は似ていた─で壁を弄る。随分時間が掛かって別の場所に移動し、其処でも同様の手順で壁が薄い箇所を探す。自身の手の開閉も見えぬ程暗い場所から、手の輪郭程度は把握出来る仄暗い場所があり、私は仄暗い場所に突っ立って、崩壊寸前の壁に凭れて助手の言葉を待った。その間に上司の魂胆を考えた。何故私に幽霊屋敷の詳細を教えないのか。事は単純明快、私が詳細を知れば、ハオ達を頼る可能性があった。上司達は雇用契約を結ぶ際、保護者─この場合は某慈善団体の上層部の人達と言って良い─に私の事情を噛み砕いて説明したに違いない。星の王様関連を全て曝露する事は無いと思われるが、多分ハオに接触してはならない様な事は言ったと推測出来る。
そのハオが調査現場に居合した偶然は、彼の家業を思えば当然だけれど、某慈善団体の話を聞くに、彼は国外の仕事場を飛び回っていると、私は想像していた。麻倉家の請け負う仕事は妖怪退治、と破戒僧の言葉を思い返し、事務所の請け負う仕事は心霊調査だが、調査前の段階で妖怪の仕業か否か判断する事は不可能に近い。彼が家業を手伝う話を聞いた時点で、幽霊屋敷に来る事は覚悟す可き、想定す可き事だった。事務所で扱う心霊調査は星の王様の玉座を求めて死闘を繰り広げる人達が請け負う仕事ではない、と楽観的に構えていた事実は否定出来ない。確かに楽観していた。薄桃色の巾着袋を仕舞う胸元を叩き、私は中身の護符の事も考えた。末っ子を置いて現実逃避に走った私を、末っ子を可愛がるハオが憤慨して、勝手気儘に振る舞う私に殺意を抱く様は容易に想像でき、又想定内の事だけれど、実際再会すると護符を渡され御守りを渡され、護身術を懸けられたりと、随分優遇されたものだ。女部屋で見たハオが怨嗟の言葉を吐けば、私は生涯夢寐にも忘れる事無く胸に刻んだと思う。本当に私の願望が反映された夢なら噴飯物だが、現実なら随分私に都合の好い話だ。
巾着袋の中身の護符を信頼し、間接的にハオを信頼する事になるが、別にハオの事は原真砂子さんの捜索には関係無い。壁を弄る助手が壁の薄い箇所を見付け、道具を担ぐ破戒僧達が壁の粉砕に取り掛かり、鼓膜を劈く騒音に耳を塞ぎ乍ら、ふと普通の建物にしては壁の薄い部屋の向う側、通路の事だが、物騒な音響に驚いて駆け付ける足音を聞いた。小指で耳孔を塞ぎ、隙間は無くても音響を消し切れぬ騒音の中、暗い部屋の扉の無い穴から顔を覗かし、通路に響く足音の主を見遣る。
「歩?! 何でお前が此処に居る」といつの間にか人様の名前を呼ぶ弟さんが先頭に立って叫んだ。
弟さんを追い越してハオが暗い部屋に駆け込み、目を剥いて私の顔を見詰める。壁の突貫作業中、塵埃舞う部屋で目を見開く事を心配して、塵が入る、と言ってハオの目元を、埃塗れの手掌に気付いて直接触れる事は止め、隙間を空けて奥に舞う埃を遮る様に翳した。
「原さんが失踪しました。今、捜している最中です」
「原って、……誰だ?」弟さんは虚空を見遣って頷いた。「……あ、和服の人か」
麻衣達が振り返り、不機嫌面で上司がこちらを睨んだ。
「なら、あいつか」とハオが言った。
「屋敷の下だろう。家主の部屋」
「知っていたのか」と私は埃塗れの眼鏡を外して言った。
「だから、初日にとっとと家を燃やせば良かったのに」
「だから、どうやって報告すんだよ。兄ちゃんが言い訳してくれるなら、燃やしても構わん、って言ったけれど」
「何で僕が。早く帰って、オパチョを着包みだらけの遊園地に連れて行かなきゃならないのに、何で無駄な力を」
「着包みって……。家を燃やしたら歩も被害を被るぞ。第一、とっとと終わらせていたら、歩と真面に話せなかったろう」
「燃やさなかった所為で、犠牲者が出たぞ。大体、葉明の奴は家を燃やせって助言したんだろう? 死者が出たのは、従わなかった馬鹿者の所為だ。山火事覚悟で燃やすか、家を解体しろって、爆破でも何でも遣り様はあった筈だ。それが無能な盆暗共を集めて除霊だ? 余計な犠牲を出すって、事前の忠告を無視した馬鹿者や、力量も測れず自滅した無能な盆暗共の存在を、家を燃やして御破算にしようって? 所詮権力者だな。馬鹿者の依頼を受けた、無能な自分を恨めって言って、家は完全に閉鎖して、放置すれば良い。僕は歩を連れて、さっさと帰って、オパチョと遊園地に行く」
「取り敢えず、どっちの事情もどうでもいいって断言出来る程に兄ちゃんの機嫌が最低最悪なのは解った。でもって、歩を連れ帰るとか騒いだ事も、全く諦めていないって解った」
「誰がこんな好機を逃すか。XーLAWSが追い回そうが、だったらオパチョも連れて逃亡生活だ」
「御二方、落ち着いて下せえ。歩の奴を連れ帰るとか、まず、当人と話し合ってからにしやしょうよ」と部屋の入り口に立つ梅宮さんが言った。
壁に穴が空いた。中を覗き込んでも、増改築の際に出来た瓦礫置場の様な空洞で、私達はハオ達を伴って別の部屋に移動した。
表の模様を確かめる術が無く、時刻は連絡の無い携帯電話の時計を見て、捜索が真夜中に及ぶ事に気付いた。別の部屋の壁を破壊して回り、到頭屋敷の最奥の零階周りの壁を探し出し、責任を感じて心身共に疲労困憊の麻衣が転寝した所、零階の処刑部屋なる場所に原真砂子さんが生きて蹲って居る事を呟き、俄然捜索意欲の湧く一同は、漸く壁の薄い箇所を見付けて道具を振り上げる。私は得物を持つ弟さんに戦闘的霊能力で壁を貫通する事が出来ないか尋ね、彼も試したいそうだが、零階の主を刺激する為、やりたくても出来ないと言った。零階の主を無闇に刺激すれば、処刑部屋に蹲る原真砂子さんを害す時間が早まる可能性が高く、時間を遅らせる為に霊能力の類は一切使わず、肉体労働で壁を壊し、泥棒の様に近寄る他無い。険しい顔付きの弟さんは死闘を繰り広げた過去に顔を顰める私を見て、無用な心配を掛けて申し訳ない、と微苦笑を湛えて言った。細長い袋を纏った儘の得物を手渡し、壁の突貫作業に勤しむ破戒僧に交替を申し出た。
鼓膜に疼痛を覚える程の一際大きな騒音の後、機械を挿入して暗闇の中を確認し、丸で普通の一軒家の玄関の様な広場に顔を見合わせ、急ぎ壁の隙間を広げて段差を飛び降りる。玄関扉も道具で破砕し、破片を踏み締め、塵芥が堆積して真っ白の床板を鳴らし乍ら、私達は麻衣の言う暖炉の部屋を探す。幽霊屋敷の中の一軒家は、豪邸の中に建つ豪邸の様な構えで、幽霊屋敷の所有者はこの豪邸を隠匿したいが為に増改築を繰り返した挙句、失踪者を出す場所を生み出してしまった訳だ。無数の部屋の扉を開け閉てして、暖炉を設置する部屋を探すが中々麻衣の言う部屋は見付からない。と思った時、破戒僧の開けた部屋に暖炉を見付け、右脇の衣装箪笥の扉を開けると簾状の遮蔽物が垂れ、其処を潜ると短い通路があった。松崎綾子さんの歓喜の声が響き、上司を先頭に通路を駆け抜け、私は平坦な通路の半ばで足が縺れて転倒しかけて伸びて来たハオの腕に縋り付いた。
通路の先は通気を改善すれば腐葉土が出来そうな、枯葉の積み重なる生垣で、迷路を髣髴させる構造に皆で息を呑んだ。植物が増改築前の様に迷路状態の儘だったら、植物を掻き分け、引き倒して進軍せねばならず、生者の捜索を行う私達は重畳でも、屋敷一階の床下に閉塞され、真っ暗闇に監禁された植物達は業腹だろう。今私達の足に踏み付けられている植物達は、数十年振りの人間の来訪を、歓迎する事は無くとも、どうか怒らないで無視して頂き戴。
植物の死骸を踏み躙って母屋に辿り着き、扉を潜った瞬間、矢庭に麻衣が駆け出して暗闇の向うに消えた。突然の行動に追う事も出来ず立ち往生する私達は、麻衣の足音が遠ざかる事に慌て、足音を追い掛けるが、後ろ姿も足音も見失ってしまった。複数の部屋を確認し、人影が無い事を確認するや否や、私は集団を一足分離れて、別の部屋の扉を開け、又離れて部屋を見て、少し集団と距離が空いた時、ハオが着物の裾を掴んで引き戻した。
助手の開けた部屋に二人の失踪者の御遺体が転がり、鈴木直子さんと厚木秀雄さんと解った。春の山奥故に気温は肌寒い程度、夏場は御遺体も爛壊して、凄絶な腐敗臭に息も吐けぬ惨状が展開されたと思われ、勿論喉笛を裂かれ数日間放置した亡骸が転がっている時点で、悲惨な現場と言う事実は変わらない。──悲鳴が轟いた。咄嗟に身を翻して部屋を飛び出し、誰一人、自身の横を通り過ぎる者もなく、一路悲鳴の響く部屋目指して廊下を駆けると、背後から矢の様な腕が伸びて来て、着物の上から私の腹部に腕を回して制止した。顧みれば、懐中電灯の薄明りに浮かぶ青白い顔を、一層青くしたハオだった。
「麻衣は私の親友だ。友人の身を心配する事の何が悪い」
「駄目だ、行くな」
非霊能者の自身が駆け付けた所で被害拡大が関の山、当然承知している。だが、非霊能者を理由に、纏めて滅ぼされる事を良しとしない気持と同じ、無能と承知していても、無能を理由に友人を見捨てる事は絶対出来ない。
踵でハオの脛を蹴り、呻くハオの一瞬の緩みに腕を振り解き、悲鳴の発信源たる麻衣が居る、扉が開いた儘の部屋に駆け込み、黒い薄靄が眼前に迫って身を捩る麻衣を認めた。両腕を体の脇に垂らし、背筋を伸ばした直立不動の姿勢で壁際に立ち、黒い薄靄が鼻先に迫って、靄が近付く度に悲鳴が高くなる。無能な非霊能者の私は、黒い薄靄が零階の主と思う他無い状況に困惑し、兎に角麻衣と原真砂子さんを幽霊屋敷の外に避難させようと、薄靄との間に腕を捻じ込んで麻衣を庇う。途端、着物越しに触れた薄靄が不気味な洋風の浴槽の見当へ吹き飛び、浴槽に満ちる鮮血を撒き散らし、尚起き上がって私達の方へ這い寄る。慌てて麻衣を壁から離そうとしたが、丸で縫われた様に其処から動かない。背筋を滑る違和感が胸元で爆発し、私は微動もしない親友の腕に恐慌を来して泣き出した。量産物の御守りを渡した筈なのに、何故彼女は助からないのか。
丁度破戒僧と助手が部屋に来て、助手の指笛の後に薄靄が霧散した。序でに何か拾い、それた量産物の御守りだった訳だが、私達を促して処刑部屋を出る。通路を駆ける途中、上司の指示で窓を蹴破って屋敷の外へ脱出した。
東雲の脱出劇の後、脱出口の窓の下に複数人の喘鳴が断続して聞こえ、合間に麻衣と原真砂子さんの遣り取りと、麻衣の幽体離脱と言う新芸披露を賞嘆し、麻衣の無事に滂沱と涙を流す私は新芸の事なぞ何処吹く風、只管親友の無傷の生還を喜んだ。東側の地平線に赤い朝暾が覗き、空が山火事の様に赤味を帯びて、朝風の随に漂う白雲の腹は茹で蛸の様な模様を描いて幽霊屋敷や森の頭上を覆い、雲間に数条の陽光が射して、屋敷の陰で荒い呼吸を整える私達を照らす。私は数時間振りの太陽を仰ぎ乍ら、処刑部屋での出来事を回顧した。護身術か護符か、兎に角助かった。淡い陽光は人々の横顔を明るくし、顔の陰影が明瞭になる頃、硝子片の散らかる窓際に居たハオが御輿を上げ、巾着袋の護符の効果を噛み締める私の着物の裾を引き、怪我の有無を尋ねて来た。私の傷より、原真砂子さんや黒い薄靄が目睫の間に迫っていた麻衣の体調を案ずる方が常識的で、安全圏に居た私に負傷箇所を尋ねるハオの料簡が解らない。
怪我は無い、と胸元に仕舞う薄桃色の袋の紐を見せ、或いは護身術の御蔭か額と鼻梁を指頭で撫ぜ、安堵の溜息を吐く風のハオの着物の裾を引いて縷々謝辞を述べた。量産物の勾玉は助手の掌中に在り、拾得物の勾玉の所有権は助手に移ったのか、後日事務所の応接間で御守りを遺失した旨を謝罪する麻衣を前に、拾得の一部始終を教える可きか悩み、寡黙が常の助手の事務的報告も無しに言う事が憚られ、結局黙って謝罪を聞いた。更に資料室に籠もる助手に拾得物の話を持ち掛け、後学の為と一言拾得の事由を述べた助手は、矢張り常と変わらず機械と格闘する。狡賢い行動を咎める権利が無い私は、危険行為の多い親友麻衣に、護符入りの巾着袋を渡し、閑話が伸びるが、漸く来日した生活支援者兼保護者と慈善団体の幹部の麗人に事後報告の義務を果たして、接触の機縁を作った仕事場を離れる話をした。一、二回の調査の仕事を最後に現場を離れ、日本を離れる話まで出て、それは生活支援者兼保護者が麗人を制して、要再考の意見を貫いた。
話を幽霊屋敷の脱出劇に戻し、巾着袋の所持を確認したハオは頷き、やおら破れた窓を向き直り、金属製の窓枠に残る硝子片を掃除し乍ら、自分が戻る迄屋敷に入るな、と言って窓枠に攀じ登る。麻倉関係者の請け負う仕事は妖怪退治、幽霊屋敷の奥に引き籠もる黒い薄靄は、紛う事無き妖怪だ。庇の様に顔面側に張り出した黒髪を整え、木刀を携えた梅宮さんが御輿を上げ、細長い袋を放り、黒い鞘に収まる得物を担ぐ弟さんも重役の様に重い腰を上げて袋を私に託す。縫い目は丁寧で、一見既製品と見間違える程立派だが、手縫いの袋に違いない。
ハオの尻尾の様な黒髪が屋敷の廊下の薄闇に消え、続く梅宮さんの広い背中も薄闇の奥に没し、屋敷の外に居る弟さんは、十数年間、自分を放置した実兄の背中を見る目付きで薄闇を見遣る。懐に仕舞う無名の御位牌を取り出し、得物の鞘に添える様に持ち、腰に挿す石剣は御位牌と得物を握る手と反対の手に握り、薄桃色の巾着袋が隠れる胸元を一瞥して、溜息を吐いた後に言った。
「歩、お前が色々考えて、しんどくて、だから今を選んだ事は、多分だけれど、一寸だけ解る」
私は無言で弟さんを見上げた。
「でも、も一寸で良い。兄ちゃんの事を、考えてやって欲しい」
私は無言で目線を胸元の三連の石の首飾りに転じた。
「兄ちゃんが、帰って来た理由。オイラやオパチョだけなら、はっきり言って、態々帰って来る事はなかった。今の儘帰って来た訳は、歩が居るから。歩が居なければ、兄ちゃんには、帰って来た理由が無くなっちまう」
「独善的ね。勝手だわ。考えてって、丸で歩の頭がすっからかん見たいな言い方」と突然松崎綾子さんが言って、声を聞いて振り返ると顔を顰めた彼女が腕組みして座って居た。
弟さんは口元を真一文字に引き結び、上下の唇を縫う透明な糸を引き千切る様に、重い口を重く開いた。
「済んません、悪く言うつもりは無いんです。只、歩、兄ちゃんはお前が居て、だからオパチョが居るって思っている。──オパチョが泣くからじゃなくて、お前が理由。だから、頼む」
軽く手を振った弟さんは窓を攀じ登って、屋敷の廊下の薄闇を駆けて行った。
情熱的だなあ、と破戒僧が言って、顔を顰めた儘の松崎綾子さんが乱暴な溜息を吐き、前髪を掻き毟って言った。
「情熱的? 冗談でしょう。あの子、葉王だったか知ら。彼、本当に歩に情があるの? あれじゃあ、念でしょう」
「情念って言うけれど」と破戒僧が言う。
「情と念で、情念よね。執念、妄念、そんなものでしょう。仮に情でも、愛情とか恋情とかじゃないわよ、あれ」
「歩や、一体全体、倉田君と何があったんだ。弥に熱烈だけれど」と松崎綾子さんの抗議に辟易した様子の破戒僧が言った。
「彼の目線では、私が裏切った様なものでしょう」
顔を顰めた破戒僧が苦笑いを隠す様に無理に笑い、頬を掻いて続けた。
「んじゃあ、情でなく念っぽいな。執念か? 豪い執着だよな、あいつ」
「気を付けなさいよ、何かあったら警察、最近警察も信用ならないから、麻衣とか、保護者の人に言うのよ。駄目なら」松崎綾子さんは上司を見遣る。「ナル、あんた被雇用者の事も顧みて、少しは協力的に考えて」
呆れた風情の上司が反駁した。「管轄外では?」
「人情ってもんは無いの、あんたは?」
長嘆息の後、上司も御輿を上げて撤収作業はハオ達が戻ってからと言い、臀部の草葉を払う仕草をする。その時、彼の上着の胸ポケットから、扁平な、高級そうな櫛が滑り落ちた。
素早く松崎綾子さんが指摘し、それからその櫛が原真砂子さんの物と解り、ハオと私の話題は意識の彼方へ吹き飛んで、一同櫛の所持について要らぬ噂を互いの耳に囁いた。
私は上司の指示で撤収作業の真っ最中、事務所所有の自動車の機材安置場でなければ載せ様が無い機械を積み終えた直後、助手の運転で諏訪市内の宿屋に隠れ、破戒僧の自動車で幽霊屋敷を去る上司達と合流して東京まで帰った。私が屋敷を去る時、ハオが拠点部屋の前に居たそうだが、助手の抵抗に会って部屋の様子を窺う事も出来ず、しかし部屋の様子を窺っても、既に自動車の機材安置場で機械の安置に従事していた私は居ない。最後は一度も顔を合わす事無く屋敷を去った訳で、合流した後に話を聞くと、ハオは噛み付く勢いで上司に掴み掛かったそうだ。
そうして前述の通り、保護者達に事後報告して、頭痛の種を増やした私は、保護者の頭痛より、何も聞かずに庇って下さった人達に詳細な事情を未だ話さずにいる自身を恥じた。
離合集散(りごうしゅうさん)
:読んで字の如く。
意訳(?)
:現状。
と言う訳で、書き溜め分終了です。