お前退くまで私消えるまで、共に忘れ得る日まで。   作:赤茄子

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第三話:平和を齎すのは電話口…

 黄色い太陽が中天を越え、東の地平線に暮色を帯びて、肌寒い風が制服の襞を乱して露出箇所を凍えさせ、砂塵の擽る箇所を掻き毟り乍ら、私は松崎綾子さんの医療人然とした対応に感嘆し、救急車の到着を横目に捉えて、混凝土製の校舎の陰を蹌踉と遣って来る顔面蒼白の校長と教職員一同も一緒に視界の端に引っ掛かり、不注意に依る事故を主張する原真砂子さんの意見を聞いて一層青褪める。原真砂子さんの搬送を見届け自動車の薄闇で機材の確認、冷静な顔付きの上司に、他者の負傷に一等気を遣う麻衣は食って掛かるも、鰾膠も無い物言いで突き放され、負傷者と異常事態の続発に狼狽した校長初め、教職員一同は現象調査の調査員たる上司に詰め寄って、異常事態の収束どころか、事態悪化とは何事かと痛罵した。理事長の招請で校舎裏の廃屋の調査に来た人達の仕事振りを鑑みれば、重責を担う校長の心労は、一介の生徒如き、計り知れぬストレスであった事は言う迄もない。

 不承不承、周章狼狽する校長と教職員一同に事故の概要を説明し、納得し兼ねる様子の学校関係者達を帰し、その際、制服姿の生徒を目敏く見付けた数学教諭が私達に下校を厳命して、労働力減少を懸念した上司の擁護で、私と麻衣の帰宅は叶わなかった。上司の擁護の無い霊感少女は憤然たる足取りで校舎裏の陰を出て帰路に就いた。教職員一同も無愛想な校舎に慰撫を求め、制服の懐を弄り携帯電話で時刻を見た私は、職員会議や月曜日の授業の準備に忙しい筈の先生方の心痛を思い、無力無能の非霊能者の自身を恥じた。原真砂子さんの容態を思案する麻衣は、教職員一同の下校命令に何度も上司を振り返り、尿意を我慢する挙動を見せて、現場離脱を嫌がった。この事から、麻衣の精神は真偽の証明も危うい霊能者達の激論飛び交う中、正常な精神を保てる程図太く、又無垢な意見を忘れる事の無い、廉潔な心事と確信した。私はその心の在り方を尊敬する。

 一同実験室へ舞い戻り、録画映像を見返し、不審な態度の松崎綾子さんは原真砂子さんの幽霊不在説に反論して幽霊在宅説を挙げ、発揚して、除霊失敗を認める様な事を言ったり、嫌味な滝川法生さんの揶揄に激昂するなり、足音荒く実験室を出て行った。廃屋で見掛ける普段の服飾は破戒僧なぞ可愛い、僧侶にあるまじき、塵境の穢れの滲む恰好、嫌味を言う前に塵心塗れの服装を直す可きと私は長髪と仕事現場に洋装の破戒僧を見遣った。私の知識で僧侶は袈裟を着るが、無論普段の修行や仕事以外の環境で仕事着を着るとは考えない。しかし、廃屋は仕事現場である。破戒僧も仕事着を着る可きと、仕事着のある職業の常識を考え、非常識な行為でも平気な顔の野郎を睨む。丸で糞爺の様だ。融通の利かぬ糞爺、子供の癇癪を千年間も続けた糞爺、頑固一徹、正に老成の為に理想の凝り固まった糞爺の様だ。奴は其処へ至る事由を披陳したが、ふと、私はこの破戒僧と関わる事で、破戒僧の頑なな理由を知る日が来るかと考え、そんな人間関係に節操の無い事はしたくないと、悩みの増える人間関係に頭を抱えた。

 実験室に残る者達で原真砂子さんの転落事件は、事故か心霊現象か義論し、誰かが事故と言う根拠は無いと言って、皆顔を顰める。抑も松崎綾子さんの除霊に除霊効果があるか無いか、幽霊の有無の前に、他者の能力の議論が再開され、その内除霊と儀式は違うと誰かが言った。私達は顔を見合わし、除霊と儀式の相違を尋ねた。

 儀式は祭事、除霊は殺人、祭事の中に生贄等の殺害も含まれるが、それは後に置いて、腕組みした破戒僧は言った。

「儀式と拝み屋の除霊は別物って事。神主を呼んでお祓いして貰っても消えない、そんな時に拝み屋。抑も、神主や坊主は宗教者で、なるのに祓う能力の有無は問われない」

「そっか。神主になるのに除霊出来るか試験するなんてないか」

「神主のお祓いは宗教的儀式、儀式にも勿論効果はある、先人の知恵ってもんだよな」

 破戒僧の言葉に私達は頷き、続く言葉にも何だか大会参加者達の間で見て来た常識を覆される思いで聞き入った。

 納得顔の麻衣が顎に手を添えて、唸る様に言った。

「弱けりゃ儀式で除霊出来て、強いと見極めて、見合った除霊でなければ効果が無い? 重症だと、病院に行って肺炎とかインフルエンザとか、見極めて貰って、個別に治療しないと駄目なんだ」

「そんな感じ。頭良いなあ」

「え、そう。そうかな、歩、あたし頭良い」

「凄い偉い解り易い」と私は麻衣の笑顔に笑い返した。

 突然、機械の棚の一つに松崎綾子さんの悲鳴の様な声が聞こえ、画面を覗くと顰めっ面の彼女が居て、廃屋の片隅の異常を知らして来た。些細な異常も人命第一を胸に行動する自称霊能者達は、資料の捲る上司の、根の生えた脚を叱咤して、連絡のあった薄暗い廊下へ駆け付けた。

 何事の勃発か、破戒僧の質問に、背後を尾ける足音と答える。資料を機械の棚の横に置いて、漸く駆け付けた上司も連絡内容を聞き、何か閃くと見え、腐敗の進んだ、一寸の体重移動も気を遣う廊下の床板を踏み締めて、奥の暗い部屋の道半ば、後方の麻衣を顧みて最奥の部屋の物の並ぶ棚から一品持ち出すよう言い出した。脈絡の無い指名に非難の悲鳴を上げる麻衣は、一人薄暗い廊下を進むのかと問い返し、無情な上司は端麗な悦目の顔に感情を見せる事無く、再三奥の棚の一品を持ち出す事を命じ、涙声の親友を見兼ねた私が名乗り出た。亀裂の走る壁板や腐敗臭漂う廊下の暗闇は、異境の灼熱地獄の真夜中の、星影が頼りの闇と比べれば、太陽が西の地平線から遠い時間帯は全く怖くない。東の地平線の方が遠いが、直ぐ日没を迎える程西の地平線は近くもなく、微妙な位置にある太陽の光線が廃屋の壁板の間隙を縫って数条の光が黒い廊下を照らす。

 糞爺の火影が唯一の人工照明だった異国の大地、遠近の判然しない記憶に緊褌一番、上司の横を擦り抜け、踏み抜く時の衝撃に緊張する脚を動かし、奥の棚目指して、足場を賑わす荷物の山を避けて行く。荷物を堆積して自身の腰、膝丈の荷物の角で襞を汚し乍ら、野良猫の寝床に最適な物陰を振り返る。現代の実家の愛猫達は、今の季節は出窓の物置き空間に寝転がり、垂れた髭と乾いた鼻面を擽ると、はっと目を剥いたり鬱陶しげに目を細めて尻尾の運動で講義したり忙しい様で惰眠を貪る事の楽しい時間を満喫しているに違いない。私は黒い廊下を覆う荷物の角で、着物の裾を汚して肉体労働に勤しむのに、睡眠と遊戯と飲食が仕事の愛猫達は、小生意気な私の事を忘れて華胥の国に遊び、今も前庭に面した廊下や勝手口前の冷蔵庫の上で寝息を立てているだろう。夢の生活が憎たらしい。

 道中荷物を蹴飛ばす暴挙に出て、真っ直ぐ棚に着き、大小様々な箱や薄汚い布地を仕舞った数段の棚を漁り、手頃な小箱を抱えて、猫の様に光る機能を持たぬ目で暗闇に埋没する荷物の山を睨み、観念して荷物の山を迂回して自称霊能者達の待つ廊下に出る。その時、背後で自身の足音に続く足音を聞く。一足二足踏み出し、矢張り道連れの様に付き纏う音響を聞いて、廊下半ばに待つ没義道な上司を見遣り、背後を指差して目顔で問うと、背後に人影の無い事を断言する。数歩進んで付き纏う音響の音源を捜し、音源の探査を終えた上司が私の横を通り過ぎ、荷物を仕舞う棚を支え、その行動に得心した私は麻衣の許まで闊歩して、音響の正体は腐敗した床板等で棚の接地場所が不安定な為、人の体重移動で浮動する床板の震動に合わせて揺れる、と私が言うと、なあんだと皆脱力した。松崎綾子さんは除霊の顛跌に続き、音響の正体に疲労困憊した様だった。

 再度実験室に戻り、機械の起動音の響く実験室に心身の安寧を求める私達は、荒れ模様の松崎綾子さんの愚痴を聞いて、確かに霊能者の除霊失敗は面目丸潰れ、店を畳む事も、誰一人異議を唱える者のない状況だ。そうして又幽霊の有無に議論は戻って、全く進捗しない除霊作業と幽霊の有無を議論せねば判断出来ぬ自称霊能者達に、何故霊能者を名乗るか少しく疑念を覚えた。私の関係した霊能者達は、皆一様に幽霊を見て、幽霊の能力を引き出し、衝突させて死闘を繰り広げる連中で、迚も廃屋を彷徨う者達の所在を議論する様な、中途半端な実力ではない。松崎綾子さんが当事者云々騒ぎ、私達に詰め寄り意見を求める中、何気無く末っ子の悪霊怨霊への対応と糞爺の対応を想見して、この廃屋で糞爺と遭遇した際の私の行動も考えた。まず、私は逃亡を図る。大会閉幕後、異世界の地元で袂別の挨拶も等閑に末っ子の傍を離れ、勝手な行動に激怒する糞爺の姿も容易に想像出来て、末っ子との遭遇は兎も角、糞爺との遭遇は御免蒙る。私の命はない。

 持ち霊の赤い巨人は白装束集団の総帥を除く最年少の団員に引き取られたろうから、糞爺の現在の持ち霊は想像も出来ないが、属性変化と言う器用な真似で私を焼死に追い遣るなぞ朝飯前、可愛い末っ子を溺愛する糞爺の事だ、生意気な小娘の無責任な行動を罰する手に、寸毫の仮借もない事を私は理解している。霊能者と非霊能者の死生観や能力に対する畏怖等の鴻溝より、育児放棄と言う一般常識でも悍しい行為を実践した私だ。放置を忌む糞爺は放置を実行した私を許す事は無いし、可愛い末っ子も愛想を尽かすに違いない。糞爺一行と行動を共にして態々宣誓した夙志、糞爺への理解を追究する事は永遠に止めない、と言って躬行実践しているが、報告の義務が無いので糞爺に理解の進捗状況を報告する必要は無い。──閑話休題。私の命云々は、廃屋の幽霊の除霊話に関係無い。

 糞爺の事だ。除霊を七面倒臭がって木造建築物を見るなり、手掌に火影を生み出し、真夜中の焚き火宜しく真昼の校舎裏でも目立つ火柱を上げ、一瞬で学校の敷地一帯は灰燼と化し、火勢の衰える頃には海の彼方へ遁走し晩御飯の焼魚を作る算段をしているだろう。非常識な暴挙を糾弾した場合の問答の風景は、既に描き終えた。其処に後顧の憂え有るならば、燃やして無くして仕舞え、と喜色満面の人間臭い笑みを湛え黄金の水平線を見遣る様子が、瞑目すると瞼の裏に明瞭に浮かび、身震いが止まらない。烏有に帰す敷地内を想像し、私は糞爺の居ない事を有難く思った。

 松崎綾子さんの当事者との質疑応答を聞き流していた私は、麻衣の声掛けに意識を現実へ戻し、高等部からの編入組故の現在の学校の怪談話程度しか知らない事実を訴える。私は麻衣の強制労働に関わる迄、生徒間に伝わる怪談話の存在すら知らなかった事実を述べ、可哀想な者を見る視線に曝された。大変遺憾である。

 すると自称霊能者達は怪談話の信憑性や如何と、又々興味深い話題に私の胸は、不謹慎乍ら躍った。

 怪談話は何か色々の要素が攪拌され、くっ付き離れを繰り返し、原形を捜す事が困難な事を知った。例えば宿直室の自殺した男性教師、この男性教師を目撃場所、現象の発生場所と、目撃回避の為の助言がセットになった物が怪談話。学校の七不思議は数の制約の為に複数の怪談がくっ付き離れる。と言う事は、宿直室の自殺した男性教師の怪談は、実は別個の怪談ではないか。私達が驚愕の発想に瞠目する中、上司が資料を片手に学校の歴史を語り始め、教科書を音読すると緊張感の所為か必ず中途で詰まるのに、資料の文章を朗読する冷たい美貌に舌の絡まる気配は無い。

 旧校舎最後の使用時期の三年間は死亡事故等が連続したと言うが、抑も校舎の建設が戦前なので、戦後の食糧事情、他諸々の事情を鑑みると、当時死者が出る事を今の心霊現象の原因と結び付けるなぞ乱暴な仮説である。上司の解説は続き、実は旧校舎の解体が中途半端なのは、当初の予定通りと言う、脱力必至の理由が明らかとなった。彼の結論は、祟りその物が怪談。本当なら自称霊能者達の奮闘は全く無意味で、一流霊媒師原真砂子さんの一貫して主張し続けた、幽霊不在説が現実味を帯びた訳だ。

 間抜けな現実の披露に自称霊能者一同は落胆し、同じく夢の壊れた麻衣も肩を落として、何気無く目線を転じた先の機械の異変に気付き、上司を招き寄せて画質の鮮明な画面を覗き込み、其処は原真砂子さんの転落現場の映像で、厭きる程見直した録画映像では無かった木製の椅子が部屋の真ん中に出ている。不可思議な映像に上司が、事故現場に無断で踏み入った者はと、当然の確認だが、まず自称霊能者達と私達を疑った。無論否定の仕草で首を振る。録画映像を巻き戻し、再生する。自称霊能者達が鼻面を寄せて画像を凝視するので、半身を捻じ込む隙間も無く、私は音声を聞いて、不審な椅子の移動を確認した。椅子の移動音に引き続き、軽快な足音が聞こえ、実験室の腐った様な薄暗い天井を見回し、違和感一つ覚えぬ自身の鈍感さ、又無能加減に呆れ、霊能者を寄せ集めた挙句、異変の解決すら儘ならぬ有様に、爆薬を設置して解体する工事を進言したくなった。

 自称霊能者達が幽霊の仕業と騒ぐ。上司は猜疑の目で録画映像を見据え、サーモグラフィーに温度上昇の箇所が無い事を根拠として、幽霊の仕業を否定した。自称霊能者達と調査員が幽霊の悪戯の分類だの何だの、九項目の内四項目が該当するが、定義でなく飽く迄分類、数項目が種類に当て嵌まる事で、録画映像の向うの現象を幽霊の仕業と断定する事は困難だと言う。私は霊能者と調査員の応酬を聞き、糞爺には心霊現象の分類や定義、世間一般に膾炙する名称等を知る機会、研究する機会はあるか知ら、と考え、千年間の陰陽師生活の合間に又聞きする位なら可能だろうと思い直した。私の接触した頃の糞爺の周囲は、業績は皆無でも、実力は申し分無い霊能者達で固められ、分類も定義も意味を成さぬ連中許り、心霊現象の分別は不要であったに違いない。糞爺に縋る限り、世間一般の心霊現象の名称を知る事は無いし、世間一般の認識を知る事も無い。退嬰的思想は視野を狭めるのだと、今更私は実感した。

 厲声疾呼、滝川法生さんが録画映像の巻き戻しを求め、素早く上司が巻き戻し、再生される映像は椅子の移動音と軽い足音の響く無人の教室で、椅子の崩落場所から離れた教室の扉の天井付近を示し、松崎綾子さんが空中浮遊宜しく天井を駆ける幽霊の足に腕を摩った。幾度も録画映像を巻き戻して再生して、到頭七面倒臭くなった上司は、調査の角度の変更を呟いて、表の自動車へ戻ると言い出した。応答の義務は上司の義務、表の自動車で作業中に用事を思い付いた場合の、呼び出しの仕方を私達に教えて実験室の外の薄暗い廊下へ出て行き、制止の暇も無い敏捷な歩調に、私達は呼び出し用のイカンムを持った儘見送った。幽霊の様に気配の無い上司の足音が遠ざかり、自称霊能者達は幽霊の存在を確信するらしい。

 もうラキストさん達を呼ぼうか知ら。絶対、一瞬で解決する。

 嘆声を漏らし荷物の中の携帯電話を脳裏に描き、最も簡捷な解決法に、それは私が生活支援者兼保護者とその所属先の人達に全幅の信頼を寄せるからで、一流霊媒師と名高い原真砂子さんの幽霊不在説を半信半疑、寝起きの寝惚け頭で聞く様に話半分で聞いている。信頼関係と言うが、心霊現象云々は、発言者と聴衆の信頼関係が成立している場合に限り現実味を帯びるのであって、不信感を募らせ、疑心暗鬼で聞くなら、聴衆には最初から信じる心構えは無い。糞爺や生活支援者兼保護者の発言を信じて幽霊を信じる事は、間接的に幽霊を信じる事、実際に信じたのは発言者の言葉で、幽霊の存在その物を信じた事の証明にはならない。異国の大地で幽霊を信じ、精霊化したママの気配を感じる事無く過ごした日々、私は末っ子や糞爺の言葉を闇雲に信じて、実態は未だ幽霊の有無や心霊現象には否定的なのではないかと愚考する。

 自称霊能者達と麻衣が怪談話の信憑性に話題を戻し、歪んだ情報と言い表し、宿直室の怪談の真偽を議論して、何と、抑も宿直室が取り壊された情報が本物か贋物か、と言い出した。とんだ疑問に皆顔を見合わせ、位置の見当をつけて階下の東側、二階部分の無い物置部屋を漁る事を決めた。弥猛に実験室を飛び出す自称霊能者達を追う前に、麻衣は機材を置く棚の上に転がる極小の懐中電灯を懐に仕舞い、気の利く親友の準備を見届けた私は、一緒に一階東側の端っこ、屋根の上は雨水や枯葉が堆積して腐り、腐葉土の地層の出来た物悲しい物置部屋へ急行した。

 遅れ気味に物置部屋の前に到着すると、男衆の尻を鞭打って働かす松崎綾子さんが荷物の搬入口に屹立し、荷物を転がし、担ぎ上げ、一声掛けて腐敗臭漂う廊下へ投げ出す男衆の繊細とは程遠い作業振りを吟嘯している。可哀想な馬車馬振りに私達も作業を手伝い、大人が横並びに並び、擦れ違える隙間を作って、麻衣持参の懐中電灯で黴臭い室内を照らす。私が鼻面を真っ暗闇に突っ込む前に松崎綾子さんが先を行って、御蔭で部屋の中が混雑して、先に進む事が出来ない。部屋の様子は解らないが、寝床を敷く畳に黒黴が散らかり、血痕は一つも無い。此処が件の宿直室に違いない。宿直室は実在した。一種異様な雰囲気の漂う宿直室は、黴臭さに辟易した様子の麻衣と自称霊能者達が出て来て、結局私が覗く機会は無かった。取り壊しを疑問視した張本人のブラウンさんが念の為と言って、宿直室の除霊を申し出た。少々の問答の末、私達はエクソシストの除霊を画面越しに拝見する機縁を得た。

 暮色蒼然たる校庭の四隅を護る樹木の樹冠を騒がす夕風が、校舎裏の倒壊寸前の木造建築物の一階東の端の物置部屋の隙間に吹き込み、家鳴りと腐敗臭の籠もる中に突っ立つ洋装の異国人は、聖書を広げて祈祷を始める。時間帯で自動的に切り替わる白黒画面を見詰め、突然の画面の変化に上司への報告を忘れぬ麻衣は、祈祷の旨を伝え、そうして滞り無く進む儀式を見守った。すると、儀式終了の間際、正直画面の向う側の変化に無関心な私は、麻衣の悲鳴染みた警告に資料と画面を徂徠させる目を見開き、方向転換して実験室の扉を蹴飛ばし、廊下を駆ける麻衣を追い、運動神経と言う才能を羨み乍ら、物置部屋の扉を蹴り開け、祈祷の最中のブラウンさんに部屋を出るよう警告した。その警告と同時、物置部屋の天井が割れ、金髪の頭上へ降り注いだ。

 ──と言う記憶の整理を終え、日曜日の中々曇天の遣って来ない晴天を、窓掛を引いて溜息を吐き、曠達な晴天は晴れ女の悲劇と諦め、普段着の制服は皺を警戒して壁に掛け、私服に着替えて荷物と、懐に携帯電話を突っ込み勢い任せに部屋を出た。犬の散歩に勤しむ親父さんと擦れ違い、親父さんの散歩に同道する気持の犬の長い鼻面を一撫で、通学路を歩いて、若葉の繁る桜並樹の道路を行って正門前で麻衣と合流した。

 校舎裏の廃屋前の自動車はその儘、実験室へ入って驚いた。機械の起動音のない、森閑とした殺風景に近い風景に、踵を返して表の自動車の薄闇を覗き込むと、自動車の座席に就褥する寝顔も綺麗な上司が寝転がって居て、無理矢理起こすと不機嫌な黒目で睨んで来た。現在時刻は午前十一時過ぎ、徹夜の調査で何事か発覚したのか、撤収作業を始めたものの、睡魔に勝てず自動車の中で寝入って居た所を、運悪く来襲した私達に起こされた上司は、麻衣持参の珈琲を受け取って一息で飲む。継ぎ足すと又飲む。抜群の気遣いは美徳だが、珈琲を愛飲する事の無い私は態々調味料に使う程度の珈琲を持参した麻衣を尊敬し、実験室内の機材の減り具合、稼働中の機械の少なさ、巻いた電気コードの山の訳を尋ねる横顔を見遣り、今度珈琲味の洋菓子作りを頼もうと決めた。

 軈て自称霊能者達も集まり、上司の撤収宣言を聞くなり、驚き顔で事由を尋ね、鬱陶しげに溜息を吐いた上司は廃屋の幽霊騒動の原因は地盤沈下にあると断言した。根拠の解説も、原真砂子さんの転落現場の椅子の移動も建物の変形の所為、幽霊の足は強い斜陽の為に発生した物理現象で、心霊現象でない事を説明して見せ、腐敗臭の原因は水の腐敗臭と当然の顔で言う。幽霊不在説や自称霊能者達の除霊の失敗だのは、全く無意味な騒ぎで、拍子抜けと言うか、間抜けと言うか、自動車の周りに集う霊能者達の除霊したと言う仕事場の後日譚が気になる所だが、無用な労働を避けられたと考え直して良い事にする。睡魔に打ち勝つ為、撤収作業に戻る上司を追い、私達は周辺の確認へ向かった自称霊能者達の意気阻喪した背中を思い出す。欲しい食材の見付からなかった時のハンさんの様だった。

 雑多な機材の運搬に難航する撤収作業、いい加減腰が痛い、と腰を揉み解していると機械の起動音のしない実験室に霊感少女が現れ、顰めっ面で殺風景な部屋を見回した。目顔で間近に立つ私に問うが、機械の片付けだよ、と答えると奥で重量感ある機械を担ごうとする黒服の背中に、鋭い言葉を掛ける。二人の進展の皆無な応酬は聞き流し、親友の労働力提供期間の終わる事を喜ぶ私は、不穏な空気に服の裾を引っ張る麻衣の横顔を見て、奥で見るも聞くも飽きた遣り取りを、飽きる事無く続ける二人に、懐の携帯電話を叩かない様に再度腰を叩いて解す。担ぐ動作に気合の要る機械と向き合い、肩に担ごうと腰を屈めた瞬間、廃屋全体が軋む様な気がした。一瞬、建物の変形に依る違和感、眩暈かと蟀谷を親指の腹で押し、も一度機械を担ぐ為に腰を屈めた時、壁を殴打する様な音が響き、あっと言う間に実験室全体に広がり、地震の様な地鳴り迄聞いて、私は目をぱちくりさせた。

 いつが転落の危機とも知れぬ糞爺の不可視の飛行機に搭乗し、異国の大地や濃紺の海原を渡った頃に比べれば、建物の倒壊は目に見えた変化で今更身震いする事もない。阿呆面の私を見兼ね、いつ実験室へ来たか判然しない松崎綾子さんに引き摺られ、廊下へ転がり出ると、不思議な事に廊下や実験室以外の部屋は森閑として、廃屋の静謐を保っていた。暫く地鳴り轟く実験室を見詰め、何が契機か知らないが、ハムスターが老衰する様に轟音は止み、窓硝子の破片で作った擦過傷や蓬け起った床板で作った擦過傷の数々を確かめ、血餅の出来た極浅い傷口を見て、糞爺やお医者様や慈善団体の総帥の少女なら、皆一瞬で治癒するのだろうなと思った。

 その後、上司は行方不明、私達は霊感少女と一緒に松崎綾子さんの治療を受け、関節運動の具合を確かめて撤収作業に戻る事になった。麻衣は正解不正解は兎も角、地盤沈下の根拠を出した上司を信じると言って、実験室の廊下を通ると、除霊の準備を整えた破戒僧が歩いて来た。着物の裾から覗くジャージの色を見て、スパッツ等を穿き、着物の裾丈を短くしていた善さん良さんの破戒僧振りも再認識した。

 橙色の太陽が西の地平線に半身を沈める頃、湯船が恋しく思われる薄汚い恰好を見下ろし、不意に懐の携帯電話が叫び、引っ張り出して画面に表示される相手の名前を読み上げ、麻衣と合議の結果、急遽私一人帰宅する事になった。荷物を背負って帰り道、坂道を駆け下り、坂の一番下まで着いて、漸く電話に出た。蚊の鳴く様な頼りない声は国際電話の所為かも知れない。

「遅くなって済みません、お久し振りです、ラキストさん」

『いや。実は、日本へ行く日取りを決めたので、教えておこうと』

「大丈夫ですよ、ほら、麻衣も居るし」

『麻衣も居るから心配なんだ。メイデン様も、麻衣にその気があれば、いつでも言って欲しいと仰っている』

「麻衣にその気はありません。限界まで頑張るそうです」

『あの子の限界には不安しかない。──ところで、歩、次に会える日だが、四月の末になりそうだ』

「そうですか。四月の末」

『ああ。リゼルグ・ダイゼルも行く』

「ダイゼルさん。どうかなしったのでしょうか」

『いや、お前と麻衣の様子が気なる様だ。リゼルグ・ダイゼルも、今は孤児だからな』

「成る程。麻衣にも言っておきます」

『頼む。後、オパチョの経過だが……矢張り、夜泣きは治らないらしい』

「ハオの子守唄でも?」

『それは始めの頃に試しているそうだ。今度は就寝前にハオ様や葉様を相手に、お二人が根を上げる迄遊んだ見たいだが、大体同じ時間に泣き出して、ハオ様が一晩中あやしたとか』

「ハオは、まあ、仕事以外は寝て居れば良いし、葉さんは大丈夫ですか?」

『葉様は授業中に居眠りをする回数が増えた。奥様が激怒されていた。……後、歩、お前はハオ様の扱いが雑だぞ。何だ、ハオ様は仕事以外の時間に寝れば良いだなんて。良いか、良い睡眠とは、決まった時間にするものだ、バラバラの時間に寝ては質の最悪な睡眠だ、睡眠とは質なのだ』

「だって、ハオは、存外体が頑丈でないですか?」

『それは健康を維持する余裕のある頃の話だ。今のハオ様に、健康を増進、維持する余裕なぞ無い。全てはオパチョに注がれている』

「頑張っているなあ」

『お前の“遺言”だからな』

「“オパチョをお願いします”の通りにしてくれているんだ」

『その前文の、女を目指せと言う馬鹿馬鹿しい文は実践されていない事は解っているな?』

「折角バレッタをあげたのに」

『何が“ハー子”だ。ハオ様の怒りを知れ』

「出会さない様に頑張ります。頑張り様がありませんけれど、出会したら、出会い頭に殺されそう。絶対怒りましたよね、それ」

『覚悟しておけ』

「出会したら。取り敢えず、四月末頃、正確な日時は又今度ですか」

『ああ。リゼルグ・ダイゼルには学校もあるからな』

「解りました。麻衣にも、きちんと知らして置きます」

『解った』

「有難う御座います。では、又今度」

 携帯電話を懐に仕舞い乍ら、四月末頃までに廃屋の問題は解決しているか知ら、と転校の心配をしつつ、アパートへ帰った。




 旧校舎編、次がラストです。
 そん次はミニーの話ですね。あの話も複雑(?)で大変ですよね。
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