翌朝昧爽、食事の支度と宿題以外、特段する事も無いが、月曜日と言う週始めの記念す可き曜日なので、本鈴間際の登校が常の私も気合充分に予鈴間際に登校し、一時間目の授業の教科書の表紙を見て絶望する。その準備に、朝御飯を卓袱台に並べ、昼御飯を弁当箱に詰め、制服に着替えて御飯を掻き込み、洗い物を済まして荷物を携え部屋を出る。人か犬の散歩か、真相の判然しない一組が辛夷並樹の道端を逍遥して、無駄話を回避した私は通学路を走り、葉桜の並樹道を駆けて正門前を歩く麻衣の背中を押した。平生人様に無礼な行為は控える可きと、対人関係の折に幾度も自身の行動を顧みるが、気心の知れた仲の麻衣相手では箍が外れ、迷惑行為とも言える行為に及んでしまう。葉桜の若葉が桜吹雪の様に繽紛と飛び交い、今朝の天気予報と強風注意報を教えると、洗濯物を干して来たと嘆き、帰宅後に塵埃塗れの洗濯物を取り込む様子を想見して、少し憐れに思った。
昇降口の下駄箱の簀子で靴を脱ぎ、上履きに履き替え、教職員用の手洗いの扉を潜る数学教諭と擦れ違ったが、一流霊媒師の転落事故や廃屋の騒動には一切触れず、早く教室へ行くよう私達を促した。一昨日土曜日の放課後、転落事故の発生直後、校舎裏の廃屋前に集合した教職員一同と校長は、その後陰で文句を垂れるかして、表立って自称霊能者達と調査員を弾劾する事はせず沈黙した。堪え性の問題は事件発生を境に関係無い。生徒を預かる教職員一同、校長は生徒の被害が無い事を祈って、今日も月曜日の授業に取り掛かる。労働力提供の契約があるにしても、一介の生徒達の労働を案じる風の教職員は勿論いて、事ある毎に私達の健康を気遣って下さる。代表は養護教諭の東堂先生で、保健室登校の生徒達の救世主らしい。保健室の閾を跨ぐ機会が皆無に等しい私達は、今度の幽霊騒動なしには養護教諭との接点を得る事は無かったに違いない。時折隣席の稲葉寿子さんが鬱陶しがる位で、学校生活に支障は無い。
数学教諭の催促を受け、私達は教室へ急いだ。後部扉を潜るなり、教室の真ん中の席の霊感少女を囲む生徒達で混雑する中、当の霊感少女が人様を掻き分け、縫う様に集団の輪を抜けて窓際の席に着座する麻衣に体調を案じる様な言葉を掛けた。実験室や私の離脱後の騒動を聞いた友達が駆け寄り、怪我の具合や心身の健康を尋繹して、着物の上から触って確かめる。霊感少女が肩越しに私を顧みて、実験室の窓硝子の破片で作った擦過傷を隠す長袖の下を見る様な目付きが恐ろしく、隣席の稲葉寿子さんが教科書等を重ね、角を揃える為に耳障りな音を立て、気勢を削がれた風の霊感少女は目線を逸らして自分の席へ戻って行った。私が着座すると、思案顔の稲葉寿子さんが笑い、労働契約は自身の意志でも、幾ら幽霊騒動を知り乍ら結んだ労働契約でも、被害を被れば後悔する。災難だったね、と言って教科書等の道具の山を並べ、布製の筆箱に肘を突き、頬杖を突いて私達の登校前の霊感少女の証言を曝露した。
証言の曝露を聞き乍ら、悪い子ではないだろうけれど、好悪の明瞭な子だと、稲葉寿子さんの愚痴を少しく残念に思った。私が人様を判定するなぞ、おこがましいのだけれど。
麻衣の友達が霊感を所持して誕生した場合の人生を華やかと言って羨み、私は時代の異なる糞爺と、年齢の近い花の三人娘の人生を思い、所詮他人事と言う事を身解した。戦慄の時間が人生の大半を占める事の恐怖、生を繋ぐ意義、同種族を嫌悪する事の虚しさ、本当に糞爺が虚無感を覚えたか知らないが、遣る瀬無さは感じたと思う。その遣る瀬無さ、一滴でも糞爺が虐殺した教会の子供達に見せる事は出来なかったのか、と無慈悲の様で無慈悲でない、しかし加減の解らぬ糞爺の胸奥は数十年の人生経験しかない私には到底理解の出来ないものなのだ。麻衣の友達の憧憬は脇に置いて、私は彼女の平穏無事な、退屈に満ちた人生を願う。
更に麻衣の友達が言う。昨晩、事務所所長から電話があって、麻衣と霊感少女と、無用の感は否めないが私の情報を他の生徒から聞き出し、何か企むらしい事を知った。その時、後部扉の開く音が響き、見慣れぬ顔の教員が頭を突っ込み、私達と霊感少女に校長室へ行く様に言った。七面倒臭い用事を承知で、私達は教室を出て校長室へ向かった。道中、訳の解らぬ状況に気後れした麻衣が、校長室の訪問経験が無い事を懸念し、嫌がる素振りを見せ、私と霊感少女で引っ張る様な事になって、普通教室や特別教室の雰囲気とも違う校長室の扉の前に立った。優等生霊感少女の先導で部屋に入り、すると霊媒師の原真砂子さん初め、自称霊能者達が長机を囲み、教職員一同も揃い、何故か部屋の主の様に尊大な態度の上司が居て、嫌な予感をひしひしと感じた。教職員の命に従い、自称霊能者達の隣の席に着き、上司の状況説明を聞き流して、会話を聞き流した所為で表側の窓に暗幕を引く上司の行動に驚いた。
暗闇の前の机に置かれた道具が明滅し、上司の言葉が頭の中を過ぎ行く。眼底に疼痛を覚え、目を瞑って迷惑すると、あっと言う間に終わった。上司が何か言ったけれど、丸で記憶に無い。
上司の無言の退室後、教職員一同の指示を受け、一時間目の授業に戻る事になったが、麻衣が黒い背中を追うので、慌てて私も追い掛けて動転した横顔を見遣って、放課後の約束を取り付けて教室へ戻る。道中廊下の半ばで、真っ赤な顔の麻衣が、日曜日の私の離脱後の騒動で気絶した時に見た悪夢の内容を話し、天上天下唯我独尊の事務所所長に好意を抱いた可能性を訥々と語った。私は生活支援者兼保護者に報告す可き事柄が増えた事実に気を引き締めた。
放課後、自動車の薄闇に半身を乗り出し、音声の録音は麻衣の仕業か尋ねる上司の指示で、私達は改めて機材を運搬して設置して、実験室内を名詮自性の実験場に作り変え、鉄製の棚の組み立ての為にあるらしい工具箱と重い電源を抱えて実験場の中に置く。起動音の響く実験場内を見回し、機材に降り積もる塵芥を防ぐ白い紙を載せ、何処から持ち出した木製の椅子を中央に据え、チョークで印を付ける。金物屋等で調達した強度の不安な薄い板を、校庭側の窓一面に打ち付け、太い黒ペンで板の継ぎ目を跨いで署名した。真っ暗闇の実験場を脱出し、重労働に従事した私達にお疲れの一言で帰宅を命じ、唖然として何処ぞへ消え行く背中を見送る私達を一切回顧する事無く、上司は校舎の方へ消えた。この重労働に何の意味やある。
そうして更に翌日、憤然と登校する私は、麻衣に生活支援者兼保護者と孤児仲間の異国人の来日を告げる事を失念し、来日前日に思い出して告げると言う、余りな失態を演じて項垂れた。
葉桜の若葉舞い散る緑の薄膜の向う、校舎裏の廃屋前の自動車に松葉杖を突く人影を認め、整髪料も無しに綺麗に纏めた風の黒髪が山田さんの奇抜な髪型や後ろ髪も前髪と一緒に纏めて庇の様に顔の前で固めた髪型の包帯男とは違う、真の艶やかな頭髪、癖の無い頭髪の男性が居て、麻衣も既に居る。火曜日は通常授業の日、登校時間は一寸早い御蔭で問題無い。駆け寄って物騒な雰囲気の二人に挨拶し、一触即発の雰囲気は払拭したが、険悪な空気は漂い続け、自称霊能者達の揃う所で実験場へ向かう。松葉杖を突く人の動作が、後方で見ると危なっかしく、糞爺の持ち霊で送迎出来ればと現実逃避した。薄い板の覆いを剥がし、昨日の放課後の風景との差異を探し、椅子の位置の異なる事に首を傾げた。
自称霊能者達と調査員達と霊感少女は録画映像を再生して、椅子の移動を確認し、上司は撤収作業完了後、調査終了を校長に伝えると言い出した。真っ暗闇の実験場を覆う薄い板を全部引っ剥がして表の朝日を取り込み、納得し兼ねる様子の自称霊能者、霊感少女に実験内容を説明し始めた。曰く、ポルターガイストは幽霊の仕業と一概に言い切る事は出来ず、半分はローティーンの人間、これは超能力。犯人と言う言葉は語弊があり、当人は無意識に超能力を駆使して物事を行い、その発端は構って欲しい、注目して欲しいと言う欲求が原因。
「──あたし?」
と霊感少女は自分を指差し、又自称霊能者達も霊感少女を振り返る。
「冗談でしょう? 何で、あたしが」
「ポルターガイストで注目を浴びて得をする者、同情される者、麻衣と大海原さん、黒田さんの三人なら、断然疑わしいのは黒田さんだ」
「いや、この無口な嬢ちゃんも、怪しそうだが」と破戒僧は私を指差して言った。
「確かに、大海原さんは交友関係が狭く、可成り内向的だそうだが、彼女は麻衣同様、高等部からの編入生。しかも、性格上、他者との交流を拒み勝ち、旧校舎の怪談話や霊の噂も、麻衣を通じて、旧校舎に変事があってから知った」
以上の説明を聞いて、一同黙りこくる。
そうして、後味の悪い様な、気の所為の様な幽霊騒動は終わった。
* * *
以上が幽霊騒動に関わった数日間の、私の独断偏見、世間様の言う一般的霊能者達の仕事振りが渾然一体と化し、目出度く事件解決を迎える迄の物語です。七面倒臭いでしょう。一見清灑な内装は欄干等の緻密な装飾許りが絢爛たる事務所階下の喫茶店、最奥の手洗いの扉が廊下の薄明かりに見える席を選び、卓上に並ぶ琥珀色の紅茶は角砂糖を一個投入して飲むが、味蕾を刺激する液体は、緑茶を好む私の舌には味気無く、又一寸鉄っぽくて飲めない。白磁の金縁茶碗を小皿に戻し、携帯電話と書類と土産を鞄に詰めて、体を捻った序でに周囲の馴染みの面影を追って、白装束集団の戦闘部隊の隊員の様な人達を認めたので、何事かと首を傾げた。
事件解決から数日後、親友麻衣の誘引を受け、渋谷は道玄坂、古風な煉瓦の外壁が気障で憎々しいビル二階、袖廊下の奥の喫茶店と見紛う装飾の事務所に働き、事後承諾で事務所バイトの許可を得た私は、本日来日した生活支援者兼保護者と孤児仲間の無言の威圧を受けて疲労困憊した。今は事後承諾の段階で、二度と逢着の機会の無いと油断した幽霊騒動の顛末を語り終え、眉間の皺を深くして、涙を堪える風の保護者を見詰める。真っ黒の外套を榻背に引っ掛け、懐かしい魔法使いの帽子を膝に乗せ、黒い背広を着込む巨躯を縮めて嘆息する。店内に響き渡る金管楽器か木管楽器か弦楽器か判然しない洋楽が、息を殺して私達の応酬を窺う隊員達の神経を削り取り、実は年配のラキストさんの気色を窺う私も閑寂な身辺の空気に気疲れして、鞄に仕舞う動作で衣擦れを生み、無駄な物音を立てて静寂を脱する事を試みたが、呆れた風情のラキストさんは顔を上げない。
桜の爛発する時季は過ぎ、葉桜の増えた桜並樹の道路は物寂しく、春塵が霏々として散る早春の景色を遮光用の窓掛の隙間から見た、幽霊を目視する人達の価値観に浸る日々を渺茫たる記憶の海原へ流した別れの瞬間が懐かしい。厭離穢土と言う言葉を辞書で見付け、価値観の齟齬を厭う事はあっても、塵紙より軽い生死の感覚を持つ人達を、穢れと厭う事はない。抑も、穢れを厭い、関係を放擲するは、それは彼らの方で、私達の様な非霊能者の蔓延る塵世を離れ、精霊王の腹中に退避しようと戦った。私は非霊能者、彼ら霊能者の苦痛を間近に見て、同情出来ても共感は難しく、同情より共感を求める糞爺との関係構築は困難を極め、結句結局、可愛い末っ子の傍を離れて糞爺の怒りに悩む羽目になった。と言うのは私の意志と行動を正当化する為の言い訳で、実際は私の柔弱な精神が直接の原因の逃避行なのだ。末っ子に合わせる顔がない。糞爺の末っ子への父性愛や家族愛を信じて、癇癪持ちの糞爺に末っ子を託し、こうして私はやきもきしている。
喫茶店最奥の手洗いの廊下の薄暗い気配が漂う席に着座し、磨り硝子の遮蔽物の所為で表の模様を眺める事は叶わないが、憂鬱な快晴の景色を見る位なら、建物の薄暗い場所に蹲る事も厭わない。綿の柔らかい椅子に沈む腰部に疼痛を覚え、拳で殴ると幾分楽になる。坂道を登る足腰の関節が軋み、休日と休暇を理由に、土曜日晩七時に就寝して長時間寝転がり、寝疲れて起きた私を責め立て、敷蒲団を畳んで部屋を出たが襲い来る惰眠の通弊の腰背部痛は寸暇を惜しんで坂道登頂を目指す私の歩調を鈍らせた。金縁茶碗を取って一口飲む。大変不味い。高価な紅茶も、飲む相手が和物を好むと不味い物に早変わりする。荷物を抱え、事後承諾の無礼を詫び、上階の事務所で働く許可を求めて頭を下げる。未だ顔を上げる気力の無いラキストさんは、不意に顔を上げると遮蔽物の向うを見遣り、魔法使いの帽子を榻背に掛けて立ち上がった。首を伸ばして遮蔽物の向う側を覗き、黒服の二人組を認め、書類の束を持って迷いの無い足取りでこちらに遣って来る。事務所所長、麻衣から聞いた名前はナル。も一人は麻衣の災難に、一緒に難を被ったリンさん。何故ナルだけ敬称無しと言うに、麻衣の影響である。
所長達は真っ直ぐ私達の食卓へ来て、隣の重い椅子を持ち寄って着席し、書類を卓上に置き、俯き加減の被雇用者の側に一瞥をくれる事も無く、挑む様な目付きで生活支援者兼保護者を睨んで臨戦態勢を取る。綽然たる態度のラキストさんは一揖の後に着席して、先刻の疲労困憊の親爺の雰囲気を拭い、背筋を伸ばして雇用形態、契約内容の確認を行い、又仕事の内容確認にも容喙の隙を与えず、私は当事者抜きで円滑に進む契約に閉口した。印鑑は保護者の印鑑を用い、契約書の署名も保護者が行う。本当に被雇用者側の介入を許さぬ、労働者の意見を顧みぬ所行、大変遺憾であると憤るも、保護者の威圧に負けて一切をお任せした。実は今迄、麻衣は立派なアルバイトだったが、私は未契約で、麻衣の職場で見学と言う立場だった。今日から本物のバイト三昧だと、そう思うと肩が重たい。署名捺印を終え、書類を纏める所長は、助手に書類を任せず自分の膝の上に置く。
又も雰囲気が一変、ラキストさんは言った。
「歩、まず話を聞いて、それから広場の噴水に行け。麻衣とリゼルグ・ダイゼルが居る。東京を案内すると、麻衣が張り切っているからな、呉々も、東京の観光地や路地裏に詳しい事は言うな」
「解りました。それで、お話とは」
「あの事務所、お前の報告を聞いて調べたが、ぞっとしたぞ」
「超能力だからですか」
「いや。あそこは英国で最も古く権威ある心霊調査協会、SPRは其処からだ。事務所所長、分室の室長の名は、オリヴァー・デイヴィス。安心しろ、今日この喫茶店内の店員と客は、全員X–LAWSの団員、皆お前の事に興味は無い」
所長の名前の所で腰を浮かした助手は私の馬鹿面と店内を瞥見し、溜息を吐いて着席した。当の所長は眉宇が翳る事も無く、睫毛一本、口の端も微動だにしない。漆黒の双眸は保護者の彫りの深い顔に据えられ、被雇用者の顔色を確認する様子は微塵も無い。
私は聞き覚えの有る様な、無い様な名前に記憶の木綿糸を手繰るが、途中で縺れて、思い出す事が億劫になり、魚の小骨の様な違和感を忘れる事に集中した。ラキストさんの話は続く。
「お前の来日の理由は知らないし、我々には関係が無い。只、大海原歩の生活、命に危険が無ければ良い。無論、心霊調査に危険が伴う事は承知しているが、その際は私達に報告をお願いしたい。こちらから増援を出す」
ラキストさんは私を睨む様に見詰めて言った。
「オリヴァー・デイヴィスは若くして博士号を取得した、超心理学者だ。論文もある。当人も超能力、念力や透視、千里眼等を得意としている。双子の兄、ユージン・デイヴィスは世界有数の霊媒師。双方世間への露出は少ないが、超心理学や心霊現象に関心ある者には、特に有名な者達だ。歩、一応お前に聞かせたが、この上司の身分は内密に頼む。SPRも何かと面倒な連中だからな」
私が返事する前に、ラキストさんに追い立てられ、広場の中央に設置される噴水の縁に腰掛ける不思議な色の頭髪の少年と親友麻衣の許へ駆け寄った。不思議な色の頭髪の少年がダイゼルさんで、紙袋を携えて、私の方を見遣ると手を振って縁から腰を上げた。
噴水広場から表の穹窿形の庇の様な場所に出て、麻衣の案内の下、東京観光に繰り出すが、距離の関係で近場の百貨店に入り、土産物を購入する事になった。英国土産の紙袋を受け取った私達は、中身を見るのは後刻私の部屋で、余所事に構う時間は、学生ダイゼルさんには無い。百貨店の豪華絢爛たる内装は煩く、白を基調とした壁と天井と照明が、色彩を加える店舗の店員の制服を際立たせ、三階本屋、同階時計屋、四階蒲団屋と畳屋、調理器具を置く店は私達がはしゃぎ、家電の購入を検討するダイゼルさんは白装束集団の総本部に設置する液晶画面を見比べたいと言うので、急遽携帯電話を使い周辺地図で家電量販店を捜す。見付けた手近な店舗に入り、一階の雑多な生活用品を売る広場の横、二階の電気屋に続く階段を登って、音楽関連の物が陳列棚を占める階で、看板を見ると目的の物は五階だった。
照明器具と画面の整列する五階は、情報源に飢える私達の購買意欲を刺激して、大変懐に優しくない、贅沢を嫌い一週間をお結び一個と雑炊で過ごす様な、情報収集に貧窮する者達に厳しい場所を笑顔で回るダイゼルさんを見守り乍ら晩御飯の献立を考える。値段も性能も同断な家電の前で悩む様を見て、母国で買わないのか尋ねると、此処で実物を見て帰国後に同じ家電を捜して再検討すると言う。値段性能を審覈し、帰国後に購入に本腰を入れる姿勢に感嘆した私は、何でも買うのを面倒臭く思って、購入自体を止める自身を恥じた。慈善団体の生活支援の御蔭で物の購入、文字通り生活に不自由は無いが、倹約と言う言葉は魅力的で、乱費を自制して、節約に努め、月初めに振込まれる生活費の中から麻衣や中学時代の友人達と遊ぶお金を捻出する事は、私の一種の趣味と化し、生活は充実している。
家電製品に無関心の麻衣も奥の扇風機売り場に興味を示し、一声掛けて電源の入る可能性の低い、季節外れの扇風機を物色しに行き、焦げ茶色の頭髪が羽を覆う金属製の籠の向うに消えて、回転の気配の無い薄白い五枚羽を凝視する。大小様々な機械が置かれ、暖房器具の値段が暴落する季節は、夏の冷房器具の販売の始まる季節と知った。電気コードの束が金網を攀じり、又は間隙を縫って、棚の陰に、踏み潰し兼ねぬ場所に放置された電源にくっ付き、よく見ると照明の薄明かりが漸く届く範囲に羽の回転する扇風機が数台置いてある。羽に積もる塵芥が風の通り道を舞い、尾籠な話題相済まないが、その細長い埃は末っ子の下痢便を思い出す。
確か異国の大地の休憩場所で、幕屋の見当へ戻るか否か因循し、丁度薄霞の様な薄雲が太陽の沈む地平線上を揺曳して、夜の雨意に御輿を上げる決心のついた私は遠雷の轟きを腹部に感じて、皮膚の薄い箇所に当たると非常に痛い豪雨が来ると思い、休憩場所の樹木の下陰を飛び出したが、再度腹部に遠雷を感じて見遣り、盛大な粗相をやらかす末っ子の涙顔を認めた。腹心手製の貫頭衣擬きを着ていた当時、着替えは幾らでもあるので別段構わないが、何故末っ子が腹を壊したか、それは遊牧民の遊牧地付近で流行る、腹に来る風邪の所為で、最も体の弱い─正直体の頑健さを比べるなら末っ子の方が頑丈に思われるが─末っ子が風邪を引いた。下痢便の臭気なぞ意識の彼方へ吹き飛ぶ程、私と糞爺は腹の唸り声の止まぬ末っ子の涙顔に、慰める術を模索した。
軈て家電を堪能したダイゼルさんが戻られ、未だ戻らぬ麻衣の捜索は後回し、本題らしい話題、糞爺の現状を私に尋ねられるが、勿論私は糞爺の現状を知らない。精々末っ子の夜泣きに試行錯誤を重ね、周囲の人達を巻き込んであやしている事しか解らない。
ダイゼルさんは鉄製の紐、要するに針金の事だが、針金と菱形の水晶の収納される器具を装着した右腕を胸元に翳し、先程までの感情豊かな少年の気配は鳴りを潜めて、大会参加当時の顔付きで言った。右前腕部に彼の持ち霊の精霊が腰を掛ける姿を想像すると、少々間抜けな様に思われ、私は笑わぬ為に精霊の想像を、末っ子の下痢便で払拭した。
「ハオなんだけれど」と暗澹たる目でダイゼルさんは言った。
「彼、麻倉の仕事に出ているんでしょう?」
私は目を瞬かして言った。「解りません。私は、小学生間近のオパチョの夜泣きに寝不足気味と言う事しか、ラキストさんから聞いていません」
「そうなんだ。実は、……ま、ラキストは仕方ないか、……ハオの奴さ、今、持ち霊が居ない状態なんだ」
衝撃の事実に一驚を喫した私は、言葉も無くダイゼルさんを振り返り、儚い印象を一掃し、線の太くなった十六歳の少年霊能者の感情の無い横顔をまじまじと見詰めた。彼が麻衣と最初の邂逅を果たした時から、私と彼の関係も始まり、彼の怨敵糞爺の話題で盛り上がった。私の目線で話す糞爺の普段の有様に、真面目な彼は、意外と人任せな、亭主関白の感のある糞爺に笑い転げていた。その無邪気な様子が一転、麻倉の家業に従事する様子を語る目は、孤児仲間とか、不謹慎な言葉で過去関係した人物から受けた影響を弥縫する私の心奥を看破している気がして、続く言葉を聞くのも嫌になった。無情な彼は真一文字の引き結ぶ口を解き、右前腕部に腰掛ける持ち霊を愛撫する様な仕草を見せ、記憶の底に眠る原作を掘り起こすと、両親を焼殺された現場が脳裏を過って、申し訳なさに掛ける言葉もない。
ダイゼルさんは言った。
「何度か、面倒臭い仕事があった見たいで、持ち霊無しでも、彼は色々な術を使えるから良いけれど、持ち霊が居た方が危険も減るし」
「良いのですか、貴方は」
「酷いなあ、歩。そんな事を言われたら、やっぱ良いや、と思ってしまう」
「構いません、彼はオパチョが居る限り、死にやしません」
「凄い自信だね。矢っ張り、君は、……ハオを選ぶんだね」
「選ぶと言う良い方には、上手い表現は思い付きませんが、何か誤解されている」
「僕も上手い表現が解らない。そうだなあ、ハオを…………うーん、矢っ張り選んでいるよ」
「何か違う」
「まあ、お互い、何か意味合いが違う自覚はあると言う事で」
「そうですね」
「で、僕の考え。僕は歩、君を友達だと思う」
「唐突ですね。しかし、非常に嬉しい。有難う御座います」
「だから、君のバイトの件。ハオがもっと精力的に麻倉の仕事を熟して、日本国内の心霊関連の事件、全部片付ければ良いやって」
「何て事だ、私達は職に困ります」
「まあ、良いよ、その時は相談して。でね、その為には、持ち霊が居た方が良いでしょう」
「そうですね。スピリットオブファイアは、どうなったんでしょう」
「実は僕の所」と言ってダイゼルさんは左手で耳の横の虚空を払った。一見羽虫を払う様な挙動も、話題が持ち霊故に、其処に人魂の様な赤い巨人、否、小人が居ると思うと笑みが零れる。
「どうなさるのですか」
「スピリットオブファイア、ハオに返そうと思うんだ。僕の巫力では、まだ地上でオーバーソウル出来ないし」
そう言った所で扇風機を堪能した麻衣が戻った。
持ち霊譲渡の話は、これでお仕舞い。翌日帰国された二人の外国土産を見ると、日用雑貨は国内の物の方が便利と判断したのか、入っていたのは縫い包みと季節物の洋服だった。洋服の大きさはラキストさんが予想し、着て見ると少々大きい位で、色も模様も私達は大変気に入った。有難く縫い包みと洋服を分け、新しいバイトの日々に思いを馳せて身震いした。これは武者震いである。
思ったのですが、XーⅠ以外の天使隊員は、ハオに死体ごと燃やされていますよね。
最終公式ガイドブックを読むと、一応巫力の上昇が見られますし、蘇生されたと言う事で良いですよね。もう良いや。
誰か出す予定です。