自動車で移動する事約二時間、東京郊外は避暑地を髣髴させる豪邸が点綴する閑静な街並みを抜け、坂道を登り切った高台の端の鬱林の中、煉瓦造りの屋敷に参向して何の音沙汰も無い屋敷内の基礎情報を収集し終えた私達は僅かな休憩時間に肩の凝りを解す。黒い樹皮の貼り付く幹に様々な種類の蝉が縋り、蝉時雨の降り頻る前庭に叢生するは夏の植物、花壇に植わる鮮美な草花は朝の水遣りの水滴がすっかり蒸発して、緑を一層濃くして匂いを深める。青色絵の具の様な濃色の青空を、誰もが厭い忌むならば、皆が雨を請うて生贄制度の盛んな事だろう。生憎世間様は晴天を好み、無闇矢鱈と晴れ間を有難がり、全く天気の良いと言う事は、人様の心事を明るくし、同時に盲目的な迄にお天道様を有難がる。過去、雨乞いと言う儀式が存在し、多く犠牲を伴って催され、誰の心臓を捧げるとか、血潮を捧げるとか、野蛮な事を真剣に考えて実践した。晴天が有難いか曇天が望ましいか、それはその時の世間様の思潮に依ると私は思う。
暑中休暇の初日、厳暑の日盛りの蜃気楼の様な煙の棚引く空を、透明度が高い為に有るか無いか、木製の窓枠を見て硝子の存在に気付き、窓硝子越しに四角く区切って見上げる。屋敷の前の坂道の中途なら、薄雲の泳ぐ青空は無辺際に広がり、自身の視界を超えて、濃紺の海原まで覆って酷く眩しいに違いない。私達の居る屋敷の海抜は、特に高い訳でもなく、苔清水の潺々として真夏の太陽が焦がす大地を潤す水場に恵まれるでもなく、灌漑用と思しき薄汚い水質の溜池が裏手に敷設され、御蔭で微風の吹く都度頬を撫ぜ行く涼気が胸奥の焦燥を煽る。深淵に臨んで薄氷を踏むが如し、と言うが、抑も心霊現象を調査、調査の一環として除霊浄霊を行う事を仕事にする職場だ、依頼の現場に赴く、之既に危険行為である。常識ある者は真似るなぞ以ての外、口を堅く噤み、黙すに限る。
休憩時間を見計らい私達の宿泊部屋へ案内する森下典子さんの後を行き、二階角部屋と隣の部屋、二部屋を私達雑用如きに用意せられ、感謝の念に堪えず、鬱林の枝葉が程良い日陰を作る角部屋を麻衣が、屋敷の裏手の溜池を真正面に望む隣室を私が借りて、懐中の貴重品は身動きを封ずる重石で、着替えを詰めた荷物と纏めて部屋の洋風の寝台に投げる。私の懐を重くするのは、貴重品の携帯電話、他は礼儀の内のハンカチ塵紙で一杯だ。平生馴染みの無い人様には寡黙な私は、末っ子や糞爺と離れる事で、無口に之繞を掛けて根暗な今の私を形成した。寡黙具合は所長助手と良い勝負が出来そうだ。部屋の案内を務めた森下典子さんも、角部屋で荷物整理に勤しむ麻衣の様子を見に行き、この被害妄想も宜しくない自覚はあるが、中々治る兆候が見られず、貴重品の携帯電話で時刻を確認し序でにメールの有無も見る。遥か海を越えてダイゼルさんから羅馬字のメールが届いていた。日本語変換も出来る筈なのに、敢えて羅馬字を使う真意は量り兼ねる。
内容の熟読は仕事の合間に、今は休憩時間と雖も階下の上司の怒号が飛んで来ないとも限らない。懐へ仕舞って隣室の人間模様を盗み見る。麻衣がおやつに誘われ、森下典子さんが私を誘って来ると言ってこちらへ来る所だった。書斎の扉は観音開きだが、二階角部屋と隣の部屋は片開きの扉で、客間らしい。書斎の取っ手の装飾は華美を極め、客間の取っ手は金鍍金、或いは純金製か、別の金属か、屋敷と言う規模の家の扉の装飾事情なぞ知らないので、重い扉の陰から室内の人声を盗み聞きして、真紅の絨毯の毛先を靴の先で遊んだ。私を呼びに行く、と言った森下典子さんが扉に手を掛け、扉の陰で角部屋に踏み入る事を躊躇していた私と鉢合わせした。
森下礼美ちゃんと言う八歳の無口無愛想な子の部屋へ行き、道中、子供の目線で家内の異常現象に遭遇した際の反応を尋ねるが、尋ねた相手は森下典子さん、不思議に思うより異常現象の発現を自然現象の様に受け止め、納得した様子だと言う。子供部屋の扉を潜ると、薄桃色の壁紙や絵画の貴族の屋敷の様な、豪奢な中に可愛らしい印象を与える装飾が施され、部屋の主は色素の薄い癖っ毛を結い上げ、陶製の白い顔の西洋人形を抱え、絵本を読んでいる。私は露台に望む避暑地の景趣に目を奪われ、拙い腹話術で自己紹介する森下礼美ちゃんを、うっかり無視した。途端不機嫌な顔で人形の金髪に鼻面を埋める森下礼美ちゃんに謝罪の言葉を重ね、第一印象の悪い事を残念がり、会話の接ぎ穂に難渋した挙句、仲良くなる事を諦めた。
洋菓子を盆に載せて持参した私達だが、お茶会の誘いを不興顔で峻拒し、又絵本を読み出す森下礼美ちゃんを部屋の中に残して、混凝土の摩天楼の雑鬧から遠い避暑地の景趣を堪能する。私は会話の継続法に難儀して、会話の継続は麻衣に任せ、露台の風光と薄暗い屋内で絵本を読み耽る少女を見遣り、元来人懐こい性格、と言う叔母の評価を聞いて、黒色の縮れ毛の子供と腐臭漂う長い顔の動物を思い出す。末っ子は人懐こいとは違い、天真爛漫、純真無垢、但し人間の好悪の判然した子で、嫌いな人間は敵、両脚を揃えて渾身の力で蹴飛ばしてしまう。男親の糞爺の人間嫌いな部分を受け継いだ様な、多分に影響を受けて育ち、容赦無い蹴飛ばし方に将来を案ずる私は糞爺に改善を求めたりしたが、人間嫌いを改善する事は、つまり人類滅亡と言う千年計画を中断する事であり、絶対無理と糞爺は満面の愛想笑いを湛えて言うので、私は握り締めた拳を叩き込みたいと思った。
露台の欄干越しに青草の生い茂る庭の模様を見て、糞爺の言う呼吸の安楽な土地、生命の息吹き、穢れて澱み窒息寸前の土地、荒野の隅で稲穂を靡かせ動物の御飯になる植物、其処に末っ子の芋掘り風景を思い描いた異国の大地を透かして見た。大厦高楼が軒を連ねる避暑地には自然が豊富で、動植物の息吹きを肌で感じて、私の最初に訪れた異国の村や末っ子の村の、飢餓で死に絶えた村を想見して、この避暑地の緑の半分が飢饉に斃れた村にあれば、と思った所で、植物の育つ環境の絶対的差異を見て取った。気候と言う環境は、人間の領分でない。動植物も、又生まれる土地を選ぶ事は出来ない。平和惚けの環境に生まれ育った私は、飢饉で斃れ、様々の災禍を被り土地を去る災難に見舞われる事も無く、精々異世界の問題の渦中に投げ込まれた程度である。今は生活支援者に恵まれ、なに不自由無く生きている。
間食の時間を終わって書斎の顰めっ面も艶っぽい、糞爺顔負けの不機嫌な上司が長い休憩から戻った私達を譴責し、再度の基礎情報の収集を命じた。碌な情報の無い屋敷に腹が立ち、暢気に洋菓子を摘む雑用係達が憎らしかったと思われる。
計測器を携え屋敷中を徘徊し、基礎情報の収集を終えて書斎に戻ると、贅沢な長椅子に身を委ねる破戒僧と松崎綾子さんが澄ました顔で紅茶を啜っていた。今度は私が先着し、漸く麻衣も帰還して、上司に基礎情報を提出する。麻衣は仕事場の真ん中で太平楽な振る舞いが目に障る大人達に不平を鳴らす。大人達は出番を待っている、と言ってにやにや鬱陶しい笑みを浮かべる。松崎綾子さんは私達の労働を無駄働きと揶揄して、堪能したら仕事に掛かると言う。全く目障りな連中だ。
斜陽が射し込む筈の前庭側の窓を見遣ると、表は薄暮どころか夜の帳が下りて墨汁を撒いた様に真っ黒で、薄地の窓掛を引く為に窓際へ歩み寄って、私の緩慢な動作の起こす風で揺れる布の端を掴み、薄曇りの夜空を見上げ乍ら窓掛を引いた。窓外の景色を遮る窓掛を被って、一人覚束無い月影の照らす前庭を眺める。他意は無いが幽霊でも見えれば良い、と不謹慎な事を思った。透明な硝子窓の向う、屋内の馬鹿に白い照明の届かぬ表の夜空は、丸で真昼の溜池の瀲灔として池畔の草叢を照らす様で、薄雲が月影を遮蔽するけれど、その薄雲の向うでぼんやり輝く真円の月が美しく、又不気味に思われた。昼間は押し潰す様な蝉時雨が皮膚を掠めて産毛を立たせ、夜陰が蔓延る間は蛙の喚声が所構わず響いて、聞き惚れる事は罷り間違っても無い。単調な、間断なく響く鳴き声は屋敷の周囲の静寂を際立たせ、森下邸を本物の幽霊屋敷に仕立て上げる。荒野の猛獣の来襲に怯える真夜中の方が、幾分増しに思われる静けさに、知らず粟立った腕を摩った。
同日午後十時頃、森下香奈さんが書斎の扉を蹴破る勢いで入って来られ、凄まじい剣幕で霊能者と調査員に同行を命じ、きょとんとした麻衣の後頭部を叩いて書斎を出る上司を追った。一瞬反応の遅れた麻衣の抗議を聞き乍ら、その腕を引っ張って、森下香奈さんの先導に従い、上階の子供部屋の前に駆け付けた。
開け放った扉から中を覗くと吃驚した。
中は滅茶苦茶だった。家具が手当たり次第に斜めって、寝台も洋服箪笥も本棚も、中身を仕舞った儘規則正しく斜めっている。誰かが悪戯を指摘するが、上司が屈んで絨毯を捲る。絨毯も裏返しで、しかも絨毯に物が載った儘裏返しになっていた。
物騒な部屋の真ん中で森下礼美ちゃんは自分の悪戯ではない、と何度も涙顔で主張し、懇願する様な眼差しを昼間親睦を深めた麻衣に向けた。更に階下で悲鳴が上がる。一同が駆け付けた場所は居間で、其処の家具は皆裏返しになって、矢張り絨毯も裏返しになっていた。
その後、助手と破戒僧の重労働の甲斐あって、家具を元の位置に直す事が出来た。それは同時に、人間の仕業でない事を私達と屋敷の住人達に思い知らせた。
上階の子供部屋と階下の居間に機材を設置して、録画録音の準備も万端整い、窓掛に月影を遮られ、屋内の暗闇は白い蛍光灯の為に一層闇を深く感じさせる。屋外の夜陰の方が感覚的に明るく思われ、又書斎の扉も窓も密閉して、通気の悪い構造になっているから、空気の澱み具合も胸先を気持悪くした。就寝時間は払暁になる事を覚悟で、画質の粗い、精確には暗視状態に切り替わって画面が見え難く感じるモニターを睨み、鉄製の棚の上段下段に積み上げた機械の画面を順繰りに看視して、初日の閑静を破る霊能者達の地霊地縛霊談義を聞き流した。子供部屋の昼間の薄桃色の壁紙が、黒く得体の知れないものに変わる様を見て、人の覚える印象とは、ここ迄見る物聞く物の感じ方を変えるのかと、素直に感動する。昼と夜の印象が異なる風景は、異国の大地の最初に逗留した遊牧地、疎林の向うの荒野を眺めた時に、往時を振り返る事で感慨深く思われた。
花組の南瓜頭の魔女と決裂し、意思疎通の不便さを痛感した荒野に吹く熱風、腐臭が安堵を誘う羊のママに縋って噎び泣いた瞬間は、今世紀最悪の恥辱であり、又理不尽な人生を再認識するに肝要だった。避暑地の溽暑の夜半、幽霊屋敷の片隅で私は中途半端な霊能者達と共に悪霊怨霊の退治の為の調査に没頭して、幽霊を見通す事を苦もなくやって退ける糞爺一行の優秀さを実感する。旧校舎の幽霊騒動の折も糞爺がいたら、と考え、糞爺の解決法を想像して戦慄した。まさか学校の校舎裏の火事の鎮火だけに消防車を要請し、放水の様子を腹を抱えて、臍で茶を沸かし乍ら観覧する訳にいかない。今度の幽霊屋敷の解決法も、糞爺の場合は、火事で灰燼と帰す事を奨めて笑顔で促すに違いない。野郎の不在は私達の心の安寧にも役に立つ。一瞬目を離した隙に火事を惹起して糞爺の事だ、遁走して、火事の原因を詰問するなり、御免燃えちゃった、と無邪気な愛想笑いを湛え邪気を纏って答える様が、容易に想像出来た。
殺意の芽生える悪意満点の笑顔だ。憎らしい。数年前、幕屋で寝起きを共にしていた頃、朝食か昼食の準備が出来たので、未だ寝入る末っ子と糞爺の覚醒を催促するよう言われ、最初に可愛い末っ子を起こして、寝汚い糞爺の肩まで被る掛蒲団を悪戯心は無いが悪意も他意も無く引っ剥がす事を思い付き、実際掛蒲団を引っ剥がした。自慢の大層長い黒髪が背中と肩を覆い、布地の粗い為に鷲掴みしただけでは気付き難い掛蒲団を、黒髪の束を鷲掴みにした儘引っ張って、頭皮を剥ぐ勢いの激痛に過激な催促を被った糞爺が飛び起きた。耳を劈く悲鳴に私も驚いた。黒髪の整髪中、末っ子が痛む箇所を撫で回し、頭髪が縺れて酷い髪型になり、糞爺は頭髪を乱された事に憤って笑顔で私達を叱責した。あの笑顔を真面に見てでも、烏の濡れ羽色の頭髪を掻き毟って報復したい。
松崎綾子さんが書斎を退出する扉の開閉の音で意識が書斎に戻る。避暑地の溽暑の夜の模様を荒野の真夜中の風景に重ねた所から、意識は糞爺の悪意満点の笑顔とその殺意へ変わり、暗視状態の所為で画質が粗く、暗く見える明るい壁紙の子供部屋の映る機械を、見ている様で見ていない。無力無能、肉体労働の内機材運搬は出来ても除霊等の労働の際は邪魔なだけの、才能の皆無な私が機械の向うの風景を注視しても、現場慣れした上司の観察眼に勝るものはない。機械の時計を確かめて、真夜中の子供部屋を映す画面に向き直る。欠伸を堪え乍ら無愛想な幽霊の部屋を見詰める。居間や子供部屋の家具を裏返したり、大仰な反応を見せたくせに、機材を設置した途端鳴りを潜めて私達が歯噛みする様を嘲笑う様で、甚だ面白くない。基礎情報の各部屋の気温差は皆無に等しい、特別高い場所低い場所もなく、況んや霊能者の集う書斎の温度が人口密度の違いで上下する以外、何の不可思議な点も無い。無論何事も穏やかに解決出来れば霊能者や調査員なぞは必要ない、穏和が一番、しかし不穏当な連中の擡頭に依り、調査員が派遣され霊能者が集い、幽霊屋敷の一角で寝ずの看視を行う。
上司が私達に床を這う電気コードを束ねるよう指示を出す。雑用係は迅速に行動を開始して、懐中のビニールテープと鋏を持って、書斎の真紅の絨毯を這う電気コードを集める。不意に麻衣がテープが無いと言い出し、何処だ、何処だ、と手掌で眼鏡の置き場所を探る様に探す。ふと、顔を上げて物の紛失の多い事、屋敷内で頻発する異常現象に想到し、頭髪を掻き毟る様に苦く笑い、機械に接続済みの鋼鉄製の綱、要するにケーブルを引っ張ると予想外の手応えの無さを訝った。
「床下に借り暮らしの妖精が居たりして」と破戒僧が言った。
「あ。あった」と麻衣が紛失した許りのテープが三個、綺麗に積まれて尻の横にあった。
「麻衣、面倒臭いけれど、毎度ポケットに入れ乍ら作業するしかない。鋏は刃の部分に気を付けて」
膝許に転がる鋏を拾い、作業を再開した麻衣に手渡す。今度からウェストポーチを持って来ようか、と冗談か本気か知らない事を言って、麻衣はケーブルを束ねた。
「反応が早いな」と上司は不機嫌面で画質の悪い画面を睨んだ。
「妖精の悪戯なら、今度は攫われて、何十年後に見付かると言う事でも起きそうだね」
「うわあ、物の紛失から人の誘拐。規模が大きくなる」
「そうして、大捜索。そうして、行方不明者が大勢出るんだ。新聞に載る程の大事件の気配だぜ」
「名探偵を呼ばなきゃ」
「どちらが良い、見た目は子供頭脳は大人か、もう少し年嵩の、それにしても私立探偵許りだね。警察は意味無いかな」
「浪漫でしょ、警察より一般人が活躍する事は」
「非現実的だ。つまり、それだけ現実の警察が優秀と言う事か」
「新聞やテレビで観る限り、断言は出来ないねえ」
「ダイゼルさんの事もある。私立探偵の方が、現実でも優秀な可能性は高い」
「警察は頑張らなきゃ」
「全くだ」
「麻衣、歩、さっさとケーブルを束ねろ」
はああい、と仲良く揃って不機嫌面の所長に応えた。
書いて思ったのは、ナルはリゼルグの事を知っているか知ら、と言う事。
何せダウジングで有名な家の子ですから。しかも、両親が…。