それではどうぞ。
いきなりだけど、春っていいよねっ。一年生も入ってくるし、桜も見れるし、何より暖かくて気持ちいい! でも、あまりにも気持ちよくてついつい寝ちゃうのが春の悪いところかな。え? 穂乃果は春じゃなくてもいつでも寝てるだって? もうっ、そんなことないよぉ。それは偶々春みたいに暖かかっただけなんだからぁ。勘違いしないでよねっ。
だけど、今日の朝急遽執り行われた体育館での朝礼の最中、そんな春の気持ちいい日差しにまどろんで私は夢の世界へと誘われていた。夢の内容までは覚えていないけど、とにかくすごくいい気分でいたことは覚えている。だけど、そんな私を呼び起こす声が三つほど聞こえてきたの。
『──のか……ほの──……穂乃果!』
「……んん……」
まず最初に聞こえたのはキョウくんの声だった。私の肩を叩きながら、どこか焦るような声で呼びかけてくる彼によって、私は夢の世界から引きずり出される。そこでようやく今が朝礼中である事を思い出して完全に目が覚めた。
「(あれ? なんだろう? なんだか周りがざわざわしてる……?)」
それと同時に、私は体育館中の生徒がざわついていることにも気が付いた。みんなあちこちを見回して、どこか不安そうな表情を浮かべている。中には泣きそうになっている子もいた。というより、この中で何食わぬ表情を浮かべているのは私だけだった。
──一体何があったんだろう?
「穂乃果ちゃん!」
「穂乃果っ、聞いてましたか今の話?」
「はぇ……? 話って……何?」
私がそう言うと、キョウくん含めた幼馴染み達は揃って困ったよな顔を浮かべて溜息をつく。というより呆れていた。
一体何があったのかさっぱり分からず頭を傾げていた私だけど、その時、前に立っていた理事長の声で私はようやく事態の全体像を知る事になった。
「──ですので、今回の音ノ木坂の統廃合という──」
……え……?
統廃合……?
つまり……?
『廃校、だってさ。ここ……』
……え?
「学校……無くなっちゃうんだって……穂乃果ちゃん……」
……え?
「この、音ノ木坂が……」
えっ?
……え、えっ?
えええええええええええええええええ!!?
──────────────────────
『ってことは希さんも今日知ったんですか?』
「うん、いきなりやからビックリしたんよ。でもまさか、ことりちゃんも知らんとはねぇ」
「ことりちゃんもすごく驚いてました」
『とさか立ってたもんな』
「ふふっ」
時と場所は変わって屋上。俺と穂乃果は生徒会の副会長である希さんを連れて秘密のゴースト会議(穂乃果命名)を開いていた。本来なら神田明神でも話は出来たのだろうが、生憎こんな状況のため、生徒会──というより生徒会長が学校存続のために動きだしたため、彼女もまた忙しくなって学校から離れられないというわけだ。
『そっちも大変そうですね。会長さんに振り回されて』
「そんな事無いよ。絵里ちは真剣にこの学校を残したいと思ってる。そんな親友だからこそ、一緒にいるウチ楽しいし、だからウチも見守ってるんよ。でも、まぁ……」
「? どうしました?」
「ううん。こっちの話」
独り何かに想いを馳せるかのように、遠くを見つめるような目を浮かべる希さん。言いかけた言葉の先は、一体何であったのだろうか? 恐らく生徒会長さんの事なのだろうけど……。
とはいえ、俺たちに出来ることなんて何もない。先ほども俺たちは、ことりと海未とで何か手は無いかと──廃校を妨げる手段はないかと校内を散策していた。音ノ木坂が統廃合になる理由はズバリ入学する生徒数の減少だ。次の入学希望者が定員を下回った場合、廃校にせざるを得ない……と。ならば単純な話、来年度の入学希望者数を増やすことが出来れば廃校を阻止できるかもしれないということだ。
しかし現状、この音ノ木坂で特にアピールできる点なんて存在しない。精々、歴史がある、校舎が綺麗など、どの学校にでもありそうなものくらいしかなかった。設備は他の学校に比べて十分に整っているが……"アレ"があるからなぁ……この近辺には……。ここよりも更に設備の整った学校が。
音ノ木坂だけのいいところ……あとは……アルパカを飼育していることくらいか。何故アルパカかは謎のままだが……。
『じゃあ行こっか穂乃果。これ以上待たせるのも悪いし』
「うん、そうだね。じゃあ希先輩、また明日。頑張ってください」
「うん、気を付けてな」
希さんとあまり会話は出来ていないが、ことりと海未が穂乃果を待ってる。今日のところはここまでにして俺たちは屋上を後にした。
「生徒会もいろいろ動いてるんだね」
『つってもなぁ……学生の身じゃ出来ることなんて精々限られてるっしょ』
「そうかも知れないけど……」
階段を下りながらそう呟く穂乃果は、ずっと納得できないといった表情でいた。穂乃果だって学校が無くなるのは嫌だ。それは分かるし何とかしたいという気持ちも分からないでもない。しかしどう考えたって、俺には一学生が廃校を阻止できる力を持てるとは思えなかった。生徒会の努力だって無駄になる可能性が高い。
……なんて冷めた事を言えるのはここが俺の母校ではないからだろう。そもそも、あくまで部外者である俺がとやかく言える問題ではないのかもしれない。
『(本当にそうか……?)』
しかし隣で未だ「うーん」と悩んでいる穂乃果を見ていると、こうしてすぐさま結論を出してしまう自分が情けなく思えてしまう。そもそもまだ廃校が決まったわけではない。その時が訪れるまでは、未来はまだ決まっていないというのに、半ば諦めた気持ちでいるのは穂乃果たちにも失礼だろう。
『ま、一応俺も何か手はないか考えてみるか』
「本当っ?」
『約束したからな。俺はお前の味方だって』
そう、俺は決めたのだから。何があっても自分は穂乃果の味方でいると。彼女を裏切らない、彼女のやることを否定しないと、そう穂乃果に誓ったのだから。
だから彼女が諦めない限りは、俺もそれに従うことにしよう。
「うっふふ~ありがとぉっ!」
『まだ学校だから静かにな』
「はーいっ」
『分かってんのか本当に……』
しかし俺が味方に付くと知ればこれだ。ひとりでに騒ぎ立てる女というレッテルが張られる前にさっさとことりと海未の元に戻ろう。
『……あれ?』
「……」
穂乃果が階段を下りようとしたその時、穂乃果の背後を過ぎ去り、音楽室の扉を開けようとする赤毛の少女の姿が俺の目に入った。ふわふわにカールのかかったセミロングの赤髪と、そして気の強そうなつり目をした少女。十人の男がいれば二十人が振り向きそうなほどの美少女……とは言え、顔のいい女子なら幸運にも見慣れている。だからその寂しそうな顔をした少女、普段なら気にする事もなかったのだが……。
「どうしたの? キョウくん」
『いや……別に(今の子どっかで……)』
記憶が定かではないが、どこかで見覚えがあるような気がするのだ。同じように赤毛でつり目の少女……会ったことがあると思うのだが、如何せん思い出せない。確かに見た記憶はあるが……一体いつであっただろうか……。
「……キョウくん?」
『さ、行こっか。二人とも待ってるしさ』
「ぅぇ? ……う、うん……?」
自身のあやふやな記憶、そしてどこか満たされていない彼女の表情が気になって仕方ないが、思い出せない以上ここで考えていても無駄だろう。非常に残念だが。
『(まぁ、いつか思い出すか)』
心の中の霧が晴れることは無かったが、いつかは分かる日が来ると楽観視することにして、俺は穂乃果を扇動して二人の幼馴染みのもとへと急がせた。
──────────────────────
「ねぇ~キョウくん聞いてよーっ」
『さっきも聞いた。っていうか一緒に聞いてたろ』
「で~も~……むぅ……」
ベッドの上でゴロゴロと転がりながらキョウくんに愚痴をこぼし続ける。私の心を支配するこのもやもやは、ふかふかのベッドに自分の身を委ねさせないと収まりそうになかった。
『でも雪穂ちゃんの気持ちも分かるでしょ?』
「それはそう……だけど……ぅわぁ~ん! でもなんかもやもやする~っ!」
『あはは……』
なんでこんなに悩んでいるかっていうと、私の妹──
私の家は、私もお母さん、そしておばあちゃんも、みんな音ノ木坂学院に通っていた。古くからあるだけに、この付近に住んでる女の人からすればこの学校は由緒正しき学院で、ある種の憧れをも抱かせる存在だった。通ってる身からすればちょっとした自慢にもなるもんっ、えへへっ。そしてもちろん、私もお母さんもおばあちゃんも、みんな音ノ木坂が大好きだった。だから音ノ木坂とは、私たち家族がずっとお世話になってきた場所であって、これからも決して離せない関係にある場所なの……と私は思っていた。思いこんでいたから、私は雪穂もまた音ノ木坂学院に進学するものだと考えていたの。私たち皆がそうしてきたように。
でも雪穂はそう考えてはいなかった。彼女は知っていた、音ノ木坂が廃校になることを。私でさえ今日知った情報が一体どこから広まったのかは分からないけど、既にその情報は雪穂の耳にも入っていた。なくなる学校を受験しても仕方がない、って……そんな言い方はあんまりだよ……。
でも私たちだって考えてるもん! 音ノ木坂がなくならない方法を! だけど雪穂にはそんな私たちの行動を非現実呼ばわりされちゃった。私たちがどうにかできる問題じゃないって……うぐぐ……っ。
「うぁ~! 言い返したいけど何にも言えないよー!」
『雪穂ちゃんは割とリアリストだもんね。穂乃果と違って』
「一言多いよ~!」
しかも音ノ木坂が好きなはずのお母さんもそんな雪穂に対して不満を垂れるわけでもなく、好きな別の高校に行けばいいと自由にさせている状態。音ノ木坂が好きじゃなかったのっ? むっ~っ。
そんな訳でどこへ向けたらいいか分からないむず痒さをキョウくんに向けて吐きだすしかなかった。しょうがないよ、もやもやが頭の中を覆い尽くして、申し訳ない気持ちなんてまるで起こらなかったもん……。
「でもことりちゃんのお母さんも……」
さっきことりちゃんにも電話したの。音ノ木坂学院の理事長って実はことりちゃんのお母さんなんだ。だから理事長が統廃合について何か言ってなかったか、家に帰ったことりちゃんから聞き出そうとしたんだけど……。
「明るく振る舞ってるなんてそんなの……」
『やせ我慢……だよな』
「うん……」
理事長はまるで廃校の事なんて口に出さず、いつも以上に明るい調子で遊びに行こうか、なんて言ってたみたい。でも、こんな時に『どこに旅行行こうかなぁ』なんて、あの人が本心から言えるはずないよ。理事長──ことりちゃんのお母さんと何度も会った私たちならそれくらい分かる。私たちの母校であり憧れでもある場所が無くなってしまうんだもん。きっとことりちゃんのお母さんは今、誰よりも責任を感じて、そして悩んでると思う。
「私たちにできること……ないのかなぁ……」
『……』
私は何をすればいいのか……いや、そもそも何のためにやればいいのか……その原動力が今の私には足りていなかった。手足を放り投げて脱力し、半ば無心で呟く。キョウくんは何も答えてくれない。
「……お風呂行く」
『あいよ』
──私の味方って言ってくれたならもっといいこと言ってくれたっていいのに。
なんて、こんな時に他人に頼ろうとしてしまうのは虫がよすぎるのかも知れない。音ノ木坂の問題は私たちの問題。やっぱり私が頑張らないと……とは言うけど、廃校阻止なんて途方も無い目標はやはり大きすぎて、とてもじゃないけどなかなか身に力が入る気がしなかった。さっきの雪穂の現実的な言葉や、ことりちゃんのお母さんの話もあって、いまいち……う〜ん、何て言うんだろう……ファイト? が足りていなかったんだと思う。
──私は……学校のために何もできないのかな……?
「おかあさん」
意気消沈としたまま階段を降りた私は、部屋で静かに腰を下ろしてぼんやりとしているお母さんが目に入った。お母さんはまだお風呂には入っていないと思うから、一応先に入ることを報告しようと思ったの。だけど机に向かったまま、まるで夢見心地のように静かに何かを見つめているお母さん。
「……」
「?」
私の呼びかけが届いていないのか、お母さんは全く体勢を崩すことなく机に向かったままだった。何を見てるんだろう?
「おかーさんっ」
「えっ? あ、何よ急に?」
「さっきからいたよ。お風呂先いい?」
今度は少し大きめに呼びかける。するとようやく私に気付き、先にお風呂に入りなさいと告げた後、ゆっくりとそれを──大きな本のようなものを閉じた。そのままその冊子を片づけることなく部屋を後にするお母さん。多分また新商品考えてるお父さんの手伝いにいったのかな?
「でも、なんだろうこれ?」
勝手に見るのは悪いと思いつつ、つい気になってしまい、知識欲に負けてその大きく頑丈な冊子を開いた。
「これって……」
『卒業アルバム……だな』
「お母さんの……」
私が開いたアルバムに散りばめられていたのは、若かりし頃のお母さんの姿と、そして──
『昔の音ノ木坂だ』
「……」
『……穂乃果?』
アルバムを見るのに夢中だった私は、キョウくんの言葉が耳に入っていなかった。引き込まれてしまっていたんだ、お母さんが通っていた在りし日の音ノ木坂に。今よりも生徒も多く、活気が溢れ、輝きに満ちていた。その当時の空気が写真越しにでも伝わってきそうなほど、私の眼には当時の活動的な情景が鮮明に映った。
みんなで撮った集合写真、卒業に喜ぶ少女たち、今と変わりのない弓道場や校舎、授業中の何気ないワンシーン、誰もが真剣勝負の体育祭、心を一つにした合唱、それに──
「ぁ……」
全校生徒の前で勇ましく声を立てているであろう少女の姿。今よりも少し若いけど間違いない。紛れもないお母さんだった。そっか……お母さん、この学校の生徒会長だったんだ……。
そして私は感じた。お母さんがどれだけ音ノ木坂を好きだったかを。さっきは好きじゃないのだなんて言ったけどとんでもない。お母さんは今でも音ノ木坂が大好きだった。私が見てきた写真、そこにあったのは毎日が大事で、楽しく輝かしい学院生活。今でも想いを馳せてしまうほどまで焦がれていた時間。
このアルバムは正にお母さんの記憶の宝石箱だった。
音ノ木坂は私だけじゃなく、お母さんにとってもかけがえのない思い出の場所だったんだ。
「キョウくん」
長い時間アルバムに目を奪われ、その情景に静かに身を焦がし、沈黙を保っていた私の口がようやく動いた。今の気持ちを、ようやく再確認できた今の気持ちを、まず傍にいるキョウくんに伝えたかったから……。
「私、やっぱり音ノ木坂を失くしたくない」
それは単に自分の学校がなくなるのが嫌って理由だけじゃない。知ってしまったもん。どれだけの人が音ノ木坂を大切に思っているか。あの学校がどれだけ価値のある場所なのかを。今までも音ノ木坂は好きだったけど、今ではそれ以上に強い思いが私の心を埋め尽くしていた。
「みんなが好きだったこの場所を、守りたい。絶対に……っ」
私が、みんなが愛した学校を守りたいという願い。私だけじゃ到底叶えられない夢物語かもしれない。でも例えどんなに無謀な事だとしても、少しでも可能性を感じたなら、私はそれに賭けてみたい。それが音ノ木坂を失いたくないという私の心からの願いだったから。
「だからキョウくん……改めて手伝って」
顔を上げ、真っ直ぐな目で彼を見つめる。
「私、音ノ木坂の廃校を阻止するために……まだ何ができるか分からないけど、それでも絶対に何とかするっ。無謀でも何でもいい、でもそんな現実に負けたくないの。学校を残したいのっ。だからキョウくん……私たちのことを助けて」
そして募った想いを目の前の少年にぶつけた。そんな私にキョウくんは……。
『もちろん。穂乃果ならそう言ってくれるって信じてた』
「キョウくん……っ」
キョウくんは全く迷いもせず、気持ちいいほどあっさりと笑顔で頷いてくれた。
『俺にどこまで手伝えるか分からないけど、やれる限りはやるさ。なんせ俺は──』
「穂乃果の味方……でしょ?」
『──っはは、その通り!』
「っわ!?」
私の返答に満足したのか、満面の笑みで私の頭を撫でてくるキョウくん。いつもより少し強めに、私の髪がくしゃくしゃになるくらいの力だったからちょっと驚いちゃった。でも頭にかかる重みから、私は彼が喜んでいるんだと感じることができた。その手を伝って彼の嬉々とした感情が直に流れ込んでくるようだった。
多分キョウくんは私がやる気になるのを待っていたんだと思う。もし仮に私が廃校なんてどうでもいいと言ってしまっていても、彼はきっと何も言わずにその言葉を受け入れていたんだろう。何故ならキョウくんは穂乃果の味方だから。でも、それは彼の望みじゃない。キョウくんは私が立ちあがるって信じていた。私が廃校を阻止しようと決意することを信じていた。その想いを裏切らなかったからこそ、今この頭から伝わる感情はこんなにも嬉しそうなんだ。
やがてキョウくんは私を解放してゆっくりと離れる。私が笑えば、彼もまた無言で笑い返してくれた。
そして──
「よぉーっし! じゃあ早速明日、雪穂の言ってた学校に偵察だぁぁ!!」
『は、早ぇなぁ……アハハ』
心のもやもやはもう晴れた。あとは行動あるのみだ! 苦笑を隠しきれないキョウくんを尻目に、私は揚々とした気分でお風呂場へと向かっていった。
──────────────────────
流石の俺も穂乃果の行動力を読み切れず、その思い付きのよさに苦笑してしまう。まさかいきなり明日他校へ行こうとするなんてな。でもそこがまた穂乃果らしくていい。見ていてすがすがしいくらいだ。
『(ともかく穂乃果がやる気になってくれてよかった。あとは……)』
俺は自分自身の手を見やる。この、穂乃果を触ること以外のことが出来ない手を。
『俺にできること……か』
やれることの少ない自分へ対する不満というものはここ数日ずっと感じていた。穂乃果以外に触れることも、一部を除いてコミュニケーションも取ることもできない、文字通り口だけの存在。口先でしか何も出来ない自分は果たして本当に役に立つのか。そう考えるようになってしまい、穂乃果の味方をすると決めた覚悟が曇ってしまっていた。
だけど穂乃果は俺の目を見て確かに言った。必ずやる、と。そして「助けて」とも。穂乃果が動くなら、そして彼女が俺の助けを必要としている以上、俺が悩む理由なんてなかった。俺も一緒に動かないと……穂乃果と共に、果たさなければ!
『ぅおっ!?』
そんな風に独り意気込んでいた時、不意に身体が強引に引っ張られた。扉をすり抜けて脱衣所の中へ引きずり込まれた俺は何が起こったかを理解する。衣服を脱ぎ終わった穂乃果がせっせと浴場へ入っていったため、背後霊故に行動範囲の限られている俺は強制的に彼女に引っ張られる形で脱衣所まで引き寄せられたのだ。どうやらやる気をだしてからまだ意気揚々としているのか、俺の事なんかまるで忘れて風呂場へ飛びこんだようだ。
『穂乃果ぁ! 動くんなら先に何か言ってくれよ……急に引っ張られるの結構キツイんだからさ』
「ご、ごめぇん……」
『ったく、出る時は言えよ』
「はぁ~い」
少し声を荒げて叱りつけると、仔犬のようにしょんぼりした声が帰ってくる。可愛いものだと思いつつも、仕方がないのでこのまま脱衣所の中で彼女の入浴が終わるのを待つことにした。ちなみにシャワー中の穂乃果と接触してしまったあの一件以来、俺は穂乃果の入浴中は家の外でも壁の中でもなく、穂乃果の声の届くこの場所でじっと待つことにしていた。どうせ何も触れないし、やましいものを見ようとも思わないし、とりあえずはこれでいいだろうという判断だ。ちゃんと穂乃果とも会話できるしな。
シャワーの流れる音を背景に相変わらず暇を持て余していると、脱衣かごのふもとに何かが落ちているのが目に入った。
『って、靴下ちゃんと入れろっての穂乃果のやつ……』
正体は穂乃果の靴下だ。気分がよかったのか、片方の靴下だけ脱衣かごに入らなかったことにも気付かなかったのだろう。独り言のように愚痴を言いつつも、俺はどうもその雑な光景が気に触ってしまい、つい掴もうとしてしまった。ゴミ箱のすぐ隣にゴミが落ちていたら拾って捨てたくなる、それと同じ心理だと思ってくれればいい。まあ、ほぼ無意識的に俺はその靴下に手を伸ばしてしまったわけだ。自分がモノに触れられないことも忘れて、な。
『……え……?』
その時、俺は初めて幽霊になった日の穂乃果の言葉を思い出した。
──もしキョウくんが幽霊に慣れたら、いつかモノが持てたり……。
『嘘……』
俺の右手に伝わるのは、柔らかいウールの感触。
──キョウくんも成長するのかなぁ? って……。
でもまさか、そんな穂乃果の何気ない一言が本当になるだなんて思いもしなかった。
しかし現実では、俺の右手は確実にそれを──穂乃果の靴下を掴んでいた。
俺の右手の中の柔らかいウールの感触は、確かに存在していた。
『マジで……?』
脱衣所のなかでひとりでに浮かぶ片足の靴下は、その日結局誰の目にも止まる事はなかった。
アニメの第一話にあたる話が始まりました。
突然の廃校の知らせ、決意する穂乃果、そして響介の身にも変化が……?
果たしてどうなってしまうのか?
次回もご期待ください。