もう一つの究極の翼もまた、恐怖に絡め取られて潰える。
全ての希望が絶望に塗りつぶされ、宇宙の全てが終わろうとしている。
終わり行く世界のその全てを抱えて、ついに彼女の最後の戦いが始まろうとしていた。
何故、どうして。理解不能な状況に対して、ひたすらにこみ上げるのは疑念。
よくもこんなことを、今まで、ずっと私達を欺いてきたのか。あまりにも手酷い裏切りには、ただひたすらに沸きあがる憎悪。
そして。
「……ここで、死ぬのかな。私」
スゥの心をじわじわと蝕んでいたのは、絶望。
ラストダンサーは、ふらふらとおぼつかない足取りでフォースの隙間をすり抜けている。その軌道はあまりにも頼りなく、今にも打ち落とされてしまいそうなほどに危うい。それでもまだ、スゥは必死の抵抗を続けていた。
だが、その胸中を絶望が埋めていく。いくら粘ったところでどうなるというのだ。もはや、攻撃に転じる余裕は欠片も存在しない。バイドを倒す手段は全て失われ、今していることはただの悪あがきに過ぎない。
――やめろ、考えるな。
まどかは奴の、インキュベーターの手に落ちた。何をするつもりかは知らないが、今の自分に助ける手立ては、ない。
誰かが彼女を助けてくれるだろうか。誰かがインキュベーターの企みを打ち砕いてくれるのだろうか。
それは、あまりにも望み薄な希望。
――認めてしまえば、動けなくなる。
人類の命運は、既に決した。今していることは、ただ決まりきった運命を先延ばしにしようとしているだけなのではないか。
そこに意味はあるのか。これ以上、戦い続ける理由はあるのか。
――諦めるな、諦めないで。諦めさせないで……。
「もう、いいや」
その言葉を口にした途端。まるで重い枷から解き放たれたかのようにスゥの身体は軽くなった。そして、ラストダンサーは。人類の最後の希望は、その動きを止めた。絶望に沈み、戦う意思を見失ったスゥの魂はついに、最後の希望を手放してしまったのだ。
諦めてしまった。絶望を、受け入れてしまった。スゥを苦しめ続けた、重く苦しいラストダンサーという名の希望と重責。その重すぎる役目から、スゥは逃げ出した。
最早スゥを縛るものは何も無かった。
重苦しい機体から、希望から、責務から。彼女は解放されたのだった。
だが、誰が彼女を責められるだろう。その生まれさえ自ら選ぶことを許されず、生まれた時から戦いの定めを強制され。実験動物として扱われ、唯一自由への可能性を信じて戦い、果て。
そうして一度まっさらになった心に、全てを与えてくれたのがまどか。それすらも失って、戦う意味も、帰る理由も失って。どうしてこれ以上戦えるというのだろう。誰も、彼女を責められない。責められようはずがない。
ラストダンサーが、人類の希望が押し寄せるフォースの波に飲まれる。そしてそのまま、小規模な爆発と共に墜落していく。その機体が、液面に飲まれ、消えた。
――人類の希望は、潰えた。
ラストダンサーからの信号の消失により、全太陽系に伝えられていたその映像も掻き消えた。希望の消失、すぐさま絶望へと転じる未来を、全人類へと投げつけたまま。
それは、運命に弄ばれ続けたスゥにとっては、全人類のための生贄とされた彼女にとっては、自らの痛みを分け与えようという、一種の意趣返しのようなものだったのかもしれない。
「英雄が、負けた……」
最後の映像を見届け、自然と彼女の足は止まっていた。
呆然と、力なく声を漏らした。英雄の敗北。それが一体何を意味しているのか。彼女は一瞬理解することができなかった。それでも数秒の後。彼女はそれを理解した。
「負けた。負けちゃった。もう終わりだ。私達も、人類も、みんなっ!」
ずきりと胸が疼いた。
いいや、この疼きは今に始まったことではない。ずっと前から、この疼きは感じ続けていたのだ。それはこの戦いが激化し始めた頃から。
それを、誰かは穢れと呼んでいた。その穢れが限界にまで溜まりきったとき、魔法少女は死を迎えるのだという。世界を、自らを呪い。それを振りまく存在
――魔女へとその姿を変えて。
今この時自らに訪れるであろうその定めを、彼女は――マコトは、自覚した。
「……隊長」
見れば、周りの機体達も同じように動きを止めていた。きっと皆、同じく衝撃に打ちのめされているのだろう。
「ええ、どうやら英雄は失敗したようね。……でも、まだ私達は負けてはいないわ」
あの映像を見ても尚、彼女は希望を失ってはいないのだろうか。その強さが羨ましいと思った。けれど同時に哀れだとも思った。既に運命は決しているというのに、抗い続ければ、それだけ傷つくだけだというのに。
「こうなった以上、バイドが活動を停止するまで待つなんてことはできないわ。現在地球連合軍とグランゼーラ革命軍が、火星周辺宙域でバイドを食い止めているはず。急いでこれに加勢しましょう。地球さえ守れれば、まだ望みは……」
今だからこそ分かる。彼女は、私達がいるからこそ頑張っているのだと。隊長という立場の自分を誇っているからこそ、そういう自分であろうとしているからこそこれほどまでに強く、気高くあれるのだろうと。
でも、その姿はあまりにも痛々しい。これ以上、見ていたくはなかった。
「隊長。……もう、諦めましょう。そんなに頑張らなくたって、いいじゃないですか」
だから、言ってあげなくちゃいけない。もう、頑張らなくていいのだと。無駄に傷つく必要なんてないのだと。
「マコト?……貴女、何を言っているの?」
「負けたんですよ、あたしたちは。人類はバイドに負けた。どれだけ頑張ったって、苦しいのが長引くだけだ。……もう、諦めましょうよ。そして、諦めて楽になりましょうよ、隊長」
誰かが私と同じく言葉を告げた。きっとここにいるほとんどの魔法少女達も、考えていることは同じなのだろう。誰もが自分の、そして人類の未来を悟って諦めた。絶望した。
そしてきっと、そんな彼女達は皆遠からず魔女になる。せめてまだ、自分が人でいられる内に。
――今のうちに、死んでおくべきなんだ。
「ここでどれだけ戦ったって、どうせ押し寄せてくるバイドにやられるだけですよ。……いえ、もしかしたらきっと、私達が生み出した魔女によって滅ぼされる方が早いんじゃないでしょうか」
「マコト。貴女……知っていたの?」
知らないとでも思っていたのだろうか、この人は。まるで自分一人が全てを知っているかのような口ぶりで。
誰にも知らせず、その重荷を分かち合おうともせずに。きっとこのまま戦い続けることができたとしてもこの人は、その重荷に押し潰されるまで戦い続けるのだろう。仲間達に囲まれて、たった一人で戦い続けるのだ。本当に心から分かち合おうともせずに。
「知っていましたよ。全部。もしバイドを倒したとして、私達がどういう扱いをされるだろうかということも。……それでも、私はここまでついてきたんですよ。それがどういう意味か、分からないわけじゃないでしょう?」
それはあまりにも重過ぎる事実だから。きっと受け止められないだろうと思っていたのだろう。知らせないほうがいいと、そう思っていたのだろう。どうして信じてくれなかったのだろう。
それが、悲しい。きっと私が絶望する本当の理由は、それなのだろう。結局彼女は、ゲルヒルデは。あの時やってきた少女が、マミと呼んでいた女性は。最後まで、私を信じてはくれなかったのだ。認めてはくれなかったのだ。
――仲間として。
「貴女が全てを打ち明けてくれていたら、こんな結末にはならなかった。尊敬する貴女を、私の手にかけることにはならなかったのに」
認めてしまった。否定してしまった。仲間という、命を預けて戦いあう、この最悪の戦場で、唯一信じられるものを。縋れるものなんて、何もなくなってしまった。もう、耐えられない。
「何を……マコト。貴女、まさかっ!?」
わたシは、たダ。
「あなタに、ミトめてホしかッただけ、ナノに」
そして、絶望と滅亡に瀕する宇宙に、新たな魔女が、顕現した。
Morgana eine Wustenfata
背信の魔女。その性質は“終わらぬ戦い”。
望まぬ戦いに巻き込まれ、いつしかその戦いが日常と化した。
戦いの中で得た、かけがえのない仲間と心地よい信頼。
けれど彼女は絶望に膝をつき、自らそれを手放してしまう。
彼女は手放した仲間を、信頼を取り戻すため、幾度も戦いを繰り広げる。
この結界の中では、誰も死ぬことはできない。絶望することもできない。
ただただ、彼女の望むままに戦い続けるしかないのだ。
そこは、変わらず宇宙の只中。
けれど違うものはある。彼方を覗けば、そこに見える見慣れた光景。
あれは……。
「グリトニル……だよね」
誰かがそう呟いた。そう、それは魔法少女隊にとっては最早家も同じ存在。
彼女達の体が眠っている場所、彼女達の帰るべき場所。そしてバイドの奇襲によって失われたはずのその場所が、変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
「グリトニル……バイドにやられたんじゃなかったの?」
少女達の中に、戸惑いと動揺が走る。けれどそれは、淡い期待に取って代わる。
「っていうことは、あそこにはまだあたしらの身体があるってことじゃないのか!」
「そうだよ!グリトニルに帰れば、元の身体に戻れるんだ!」
少女達の声に希望が宿る。けれど、マミはそれが偽者であることを悟っていた。
「皆落ち着いて。グリトニルはもう陥落したのよ、それにここは冥王星宙域じゃないわ。これは魔女の作った結界よ、惑わされないで、ここから脱出を……」
けれど、その必死の呼びかけを遮って、声が。
「こちらグリトニル・コントロール。魔法少女隊、応答せよっ!グリトニルは現在、バイドの攻撃を受けている。魔法少女隊は至急帰投し、バイドを迎撃せよ!」
それは、グリトニルのオペレーター。魔法少女達にとっては、聞きなれた声色をしていた。そしてそれは、魔法少女達を更に駆り立てた。
「皆、私達の手でグリトニルを守ろう!」
「よっしゃぁ!今度こそ守って見せるよ、バイドになんてやらせるもんかっ!」
「私達の身体を、帰るべき場所を、皆で守りませんとね!」
魔女の作り出す、終わらぬ戦いという名の劇場へと。迫り来るバイドの形をした使い魔の群れへ、次々に魔法少女達は立ち向かっていく。誰しもがその表情に希望を宿して、いつしか修復されていた機体に力を漲らせて。死ぬことも、絶望して果てることもない、永遠の戦いへと。
絶望に染まる宇宙で、彼女達だけが希望を抱いて戦っていた。それが、偽りの希望だとも知らずに。
「皆を止めないと。このままじゃあ、永遠にここで戦い続ける羽目になるわ。……どうにか、しないと」
唯一、その状況を理解していたマミの元へとそれは現れた。
「何してるんですか、隊長!バイドはすぐそこまで来てるんですよ。私達も、早く出撃しましょうっ!」
その機体はガルーダ。通信が伝えるその声は、その姿は。
「……そん、な。貴女は……マコト?」
「そうですよ、なに人を幽霊でも見るかのように見てるんですか。敵はすぐそこです。さあ、ご命令を」
魔女と化したはずのマコトが、そこにいた。マミの記憶の中のマコトと、まったく変わらぬ姿と声で。
一体何が現実なのか、何が虚実なのか。その境界が、確かに揺らぎ始めた。
大事な仲間が、マコトが失われてしまったという現実。自分が彼女を信じられなかったから、失われてしまったのだという現実。
そして、マコトが今ここにいる事実。グリトニルという帰るべき場所があって、そこを守るために戦えるという事実。
守るためには戦い続けなければならない。例えそんな世界でも、バイドのについ終わりゆく世界よりは、ずっといいのではないだろうか。この戦いが永遠に続くとしても。
「……そうね、バイドが来るなら迎え撃たなければいけないわ。マコト、私はバックスに回るから、フォワードは貴女がお願いね」
だとしたら、何を迷うことがあるだろう。
「わかりました。……それじゃあ先に行ってますね、隊長」
ここが、マミにとっての現実となった。戦い続ける世界でも、大切な仲間と共に、こうして生きていられるだけで。それだけでいいと、マミは願ってしまった。
「……隊長」
「何かしら、マコト?」
「私、隊長と一緒に戦えてよかったです。辛いことも嫌なことも一杯あったけど。それでも、隊長と一緒に戦えてよかったです。これからも、一緒に戦っていきたいです」
「……そうね。私もそう思うわ、マコト。このままずっと一緒に戦っていきましょう。いつか、バイドがいなくなる日までね。さあ、魔法少女隊、出撃よっ!」
そして偽りの宇宙(ソラ)に、魔法少女達が、舞う。
「ずっとこっちに繋がってた映像が切れた。マミさんとも連絡が取れなくなった。……何が起こったんだろ、一体。何か、すごく嫌な予感がする」
さやかの駆るカーテンコールは、尚もまどかの元へと急いでいた。けれど、それがたどり着くまでには後幾許かの時を必要とすることだろう。その時の過ぎる間に英雄は果て、魔法少女達は偽りの希望に沈んだ。
希望は失われた。それでも、それを知らず、さやかはただ宇宙を駆ける。
「待っててよ、まどか。……まあ、行って何をするって訳でもないんだけどさ。やっぱり、無事なとこ見ないと気が済まないし。ちゃんと謝りたいし。これって、自己満足だよね。分かってる、分かってるんだけどさ……それでも、これだけは譲れないんだ」
そう、最後にさやかが見たまどかの姿は赤い血にまみれた姿。自分の失敗によって、酷く傷つけられてしまったまどかの姿。それはさやかが背負った罪。今尚心に刺さった棘。
それを引き抜くために、その痛みを乗り越えるために。そしてただ、無事なまどかの姿が見たくて。さやかは、駆けていた。
だが、絶望の魔の手はそこにも訪れる。
「バイド反応?こんなとこにもまだいたなんてね」
本隊を離れて行動していたバイド群。その索敵範囲に、カーテンコールは突入していた。バイド反応の接近を示す警告が鳴り響き、知れずさやかは操縦桿を握りこんでいた。
「カーテンコールの性能なら、まともにやりあわないで逃げることもできそうだけど」
どうやら敵の足は遅い。となれば、振り切ることはできるかもしれない。今は一刻も早くまどかのところへ向かわなければならないのだから、それもいいかと考えた。
「……でも、ここでこいつらを倒さなかったら、こいつらはあたしを追ってくる。 うしたら、まどかのとこに来ちゃうかもしれないってことだよね」
恐怖は、さやかの心の中に当然のように存在した。究極と呼ばれる機体を持ってしても、その恐怖は拭えない。魔法少女ではないからなのだろうかと、震えるその手に聞いてみた。
答えは帰ってこない。けれどこれだけは分かる。
逃走は、逃げたいと思うその気持ちは、きっと恐怖の表れだから。
「だとしたら……逃げて、たまるかっ!!あんたらは絶対に、まどかのとこには行かせないよっ!」
立ち向かうんだ。人の身でも戦えるのだと証明するんだ。その意思に呼応して、カーテンコールの速度が上がる。間もなく、交戦圏内へと突入する。
カーテンコールは、ロールアウト直後の状態のまま発進している。それゆえに、装備は最低限のものしか装備されていなかった。
それでも、あらゆる武装に対応したコンダクターユニットを有するカーテンコールは、魔法少女隊の機体から、ディフェンシヴ・フォース改を借り受けていた。フォース自体の性能としてはそこまで高いわけではないが、それでも通常のバイドを相手取るには十分な性能である。
ディフェンシヴ・フォース改に加えてスタンダード波動砲とレールガンを携え、ひとまずカーテンコールは、最低限バイドと戦いうる性能となっていた。
「かかって来なさいっての、バイドどもっ!!」
波動砲のチャージを済ませ、ついにカーテンコールは、迫り来るバイドを迎え撃つ。キャノピー越しに見る宇宙。珍しさすら感じるその光景の中に、幾つかの光点が混ざる。
敵は小型ばかり。形状はさまざまだが、恐らくリボーの群れだろう。R戦闘機にとっては、恐れるに足らない相手ではある。
もちろんそれは、乗り手がそれなりの乗り手であればこそなのだが。
「へへっ、なんだよ。ただのリボーじゃない。あ、あんなの……怖くなんかないよ。楽勝じゃん、今まで何回戦ってきたと思ってるんだ。……怖くなんて、ないっ」
戦いが始まる。今まで何度と無く経験してきたはずのことなのに、身体が震えた。もしかしたら今までもずっと震えていたのかもしれない。さやかはそう思う。ただ今までは、震える身体がなかっただけで。
怖い、怖い。怖くて仕方が無い。死ぬかもしれない、上手くよけられなかったら、すごく痛いのかも知れない。
「魔法少女じゃなくなるって、こういうことなんだね。……どうして、どうしてこんなに怖いのよ。っ、きゃぁっ!?」
リボーから放たれた弾丸を、思い切り大げさに飛びのくようにして避けた。まるで自分のそれだとは思えないほどに、大げさで隙のある動きだった。
「しっかりしなさいよ、あたし。まどかの所に行くんでしょ。こんなところで、あんな奴らに負けてられないんだよ…うあぁぁっ」
立て続けに放たれる弾丸を、逃げるように大きく弧を描いて交わす。カーテンコールの機動性は、敵のそれを完全に上回っている。肉体に負荷がかからないレベルの機動でさえ、敵は全くついてくることができない。
負ける要素など、どこにもないはずなのに。
「くそ……ぉ、どうして、どうしてこんなに……っ。お前らなんかに、お前らなんかにぃぃッ!!」
機首を翻し、狙いも定めずツインレーザーWを放つ。落ち着いて照準を定める余裕すらもなく放たれたレーザーは、リボーの群れから離れたところを通り過ぎていった。
「何で、何で当たらないのよっ!……やっぱりダメなの?魔法少女じゃないから。魔法少女じゃなくなったら、あたしはもう戦えないのかな。……こんなんじゃ、杏子に笑われちゃうよ」
思い出すのは戦友の顔。大切な仲間のために戦い続け、その身を燃やし尽くして果てた戦友の姿。同じくらいの歳の少女でありながら、魔法少女としてではなく、自らの力で戦いぬいた少女。
「よく考えたら、当然なんだよね。杏子が戦う力を手に入れるのに、どれだけ時間がかかったか。あたしはそれを、一気に追い越しちゃってたんだ。……魔法少女になって」
その操縦技術が、戦う力が、一体どれだけの時間をかけて培われてきたものなのか。それを、さやかはよく知っていた。そして自分が魔法少女だからこそ、それと同等以上に渡り合えたのだということを知った。
「うあぁッ……そりゃ、当然だよね。いきなりなんて、戦えるわけないっての。……やっぱり、調子乗りすぎてたかなぁ、あたし」
リボーの群れは、じわじわと包囲を狭めながら弾幕を展開してくる。性能では圧倒的に勝っていても、戦う術を持たないさやかは、次第に追い詰められていく。
「情けないよね、あれだけ啖呵切って出てきてさ。このざまだよ。……でも、やっぱりダメだったよ。ごめんなさい、マミさん。まどか。……杏子」
そしてついに、カーテンコールは完全にリボーの群れに取り囲まれた。もう、逃げ場はどこにも、ない。
「覚悟はできたかい、鹿目まどか」
「………ねぇ、キュゥべえ。一つだけ聞いてもいいかな」
英雄が尽き果て、その映像も途絶え。ついにまどかにも、最後の時が訪れようとしていた。
どこかサディスティックにも取れる笑みを浮かべて、キュゥべえはまどかに問いかけた。その声に、絶望に沈んだままの暗い声で、まどかは答えた。
「いいだろう。ボクもそこまで急ぐわけじゃない。これで人類の顔も見納めだ。最後に一つ位話を聞いてあげるよ」
その言葉に、まどかは一つ静かに頷いて。
「キュゥべえは、仲間をバイドにやられて……バイドのことが憎いって思ったんだよね」
暗く沈んだ調子の声で、淡々と言葉を告いだ。
「そうだよ、何度も言っているじゃないか。……ボクはボクらの文明を破壊したバイドを許さない。それを生み出した、キミ達人類も許しはしない。それがボクの答えだ」
「……だとしたら、今のキュゥべえには、感情があるんだよね」
「そうだね。酷く不本意だが、今のボクは感情という精神疾患に冒されているよ。それも酷く重度だ。感情に自分の行動を左右されてしまう恐れさえある、最悪の気分だよ」
吐き捨てるかのようにキュゥべえは言う。その言葉には、そんな自分自身への隠しきれない嫌悪感がありありと滲み出ていた。
「……そうなんだね。でも、キュゥべえは私達とずっと一緒に戦ってきたんだよね。ずっと、バイドと一緒に戦ってくれてたんだよね。……仲間だって、思ってくれなかったの?私は、キュゥべえのこと、一緒にバイドと戦う仲間だって思ってたよ。きっとさやかちゃんもマミさんも、ほむらちゃんも杏子ちゃんだって、そう思ってたはずだよ」
絶望に沈んだまどかの瞳に、静かな感情の色が揺らぐ。それは悲しみ。ただただ悲しいのだ。今までずっと仲間だと思っていたのに、それが全て嘘だったなんて。
「みんながどれだけ必死にバイドと戦ってきたか。その為に、どれだけの犠牲を払ってきたのか。キュゥべえは全部見てたんだよね。それなのに、あなたは何も感じなかったの?それを全部、無駄にしてしまうつもりなの?ねえ、キュゥべえ」
けれど、心のどこかにまだ信じたいと思う気持ちが残っていた。バイドを憎み、それに抗おうとする思いが同じなら、分かり合えるはずなのだと信じたかった。
「……わかっているさ。人類が、どれだけ必死にバイドと抗ってきたのかくらい」
何かを押し殺したような声で、キュゥべえは答えた。
「ボクだって、バイドと戦うために魔法少女の力を人類に提供した。それを実戦に活かせるようにさまざまな技術開発に協力もしたし、キミ達と共にバイドとも直接戦った」
その声は、かすかに震えていた。
「ボク達の開発した兵器が、バイドを次々に駆逐していった。魔法少女も驚くべき成果をあげた。……あの時感じた感情は、きっと嬉しさだとか喜びだとか、そういう類のものだったんだ。そして、それを分かち合うことのできる相手がいた。……きっと、それも嬉しかったんだろうね」
背を向けていたキュゥべえが振り向くと、その瞳は複雑な感情を湛えて揺れていた。その瞳の赤は、躊躇いと戸惑いを孕んだ色で。
「だったら、一緒に戦えるはずだよ。人類を全部滅ぼすなんて、そんなことする必要なんてないよ。キュゥべえ。まだ間に合うよ、今ならまだ、皆を助けられるはずだよっ」
「それでバイドを倒したとして、ボクはどうしたらいいんだい?」
身を乗り出そうとして、その身を縛る拘束具に止められて。それでも必死に叫ぶまどかに、冷たくキュゥべえは言い放つ。
「キミ達人類は、腹立たしいほどに優秀だったよ。ボクがもたらした技術も、そのほとんどが既に解析されてしまっている。バイドとの戦いが終われば、もうボクには実験動物としての利用価値くらいしかないだろうね」
「そんなことしないよ。だって、キュゥべえは一緒に戦ってきた仲間なんだよ!」
「……彼らはそうは思っていないさ。それに、どうやって生きていけって言うんだい。こんな宇宙の片隅で、使命を果たすこともできずにただ生きていけというのかい。孤独や無為な時間が辛いものであるということくらい、ボクも学習しているんだ」
キュゥべえの声に、苛立ちの色が混じった。
「聞きたかったのはそれだけかい。……じゃあ、もうこの話は終わりだね」
「信じてたんだよ、キュゥべえのこと。仲間だって信じてたんだ。きっとさやかちゃんやマミさんも、ほむらちゃんや杏子ちゃんもそう思ってたはずだよ。……キュゥべえは、そう思ってはくれなかったの?」
ついに死が目前に迫って、絶望に打ちひしがれながら。嘆きと共に、まどかは静かに言葉を告げた。
「……っ」
息を呑む、小さな音が聞こえた。
「ボクの仲間はもういない。キミ達は、ボクの仲間じゃない」
押し殺したような声。その声はもう、人間のそれと変わらない。
「種族が違ったって、分かり合うことはできるよ。だから、キュゥべえと私達だって……」
「五月蝿いんだよ、キミはっ!!」
怒鳴り声が響いて、そして続いて機械の作動音が、一つ。
「あぐッ……」
まどかの身体を、重い衝撃が貫いた。拘束されている椅子から突き出したのだろう、鋭く太い鉄の針が、まどかの腹部を貫いていた。
痛みと衝撃、そしてどくどくと流れ出る、赤い血液。
「ぁぎ、ッ。きゅ、べ……ぇ」
逃れようのない痛みに、身体がびくびくと震えた。見開かれた目からは、ぽろぽろと涙が零れた。ぽっかりと開いた口からは、掠れ気味の嗚咽が、そしてそれはすぐに。
「っ、ぅぁ、やぁぁぁぁぁァッ!!」
絶叫に、変わった。
「キミに、一体ボクの何が分かるっていうんだ。全てを失ったあの苦しみを、絶望を。一体どうして理解できるっていうんだ。ボクは躊躇わない。ボクは必ず、全てを取り戻してみせるんだ」
続けざまに、いくつも鉄の針が飛び出していく。その度にびくびくとまどかの身体が震え、それすらも弱弱しくなっていく。
「だから、キミはここで死ぬんだ。鹿目まどか」
――そしてついに、まどかの生命活動は……停止した。
「鹿目まどかは死んだ。そして今、その死の恐怖と絶望が、太陽系にばら撒かれる。希望が絶望に完全に塗り替えられたその瞬間……そのエネルギーを使って、宇宙を作り変える」
椅子に拘束されたまどかの身体は、最早動くことはない。ただ時折、まだ残る肉体の反射がひく、とその指先を震わせていただけで。
流れ出る血液はまだ収まることはなく、床一面にその赤を広げていた。その赤の只中に、ちゃぷ、とキュゥべえはその足を浸して。
「……やはり、キミも所詮は人間だったんだね。肉体の生命活動が停止すれば、その魂も消失する。もうじき、キミの全てが消えてなくなるんだ。お別れだね、鹿目まどか」
キュゥべえが言葉を告げると同時に、アーク内部で死に向かう10万人が抱いた苦痛と絶望が、そしてその絶望を束ね、鹿目まどかのそれによって累乗された絶望の精神波が。まどかの亡骸を中心として、太陽系全土へ向けて発信された。
物質の法則によらないそれは、光さえも遥かに越えた速度で、即座に全ての人類へと伝えられていく。伝播される感情は、恐怖と絶望。それは強制的にその意識を染めてしまうほどに強力だった。
希望を抱いた宇宙は、大いなる絶望に塗り替えられる。
けれど、その絶望は大いなる救いへと変わるだろう。
傷つき、穢れた世界を癒すため。
失われた世界を取り戻すため。
絶望に塗りつぶされた世界は、やがてあるべき姿を取り戻すだろう。
だが、その前に。
――全ての世界が、死ぬ。
それは、等しく全ての人類に降り注ぐ。
あるいは、娘の帰りを待つ家族。
「……ママ。今のは」
「そんな……信じられるわけないだろ。なのに、何で……何で」
我が身を抱きしめ、顔を蒼白に染めて震える詢子を同じ様に震える手で、隣に佇む知久が必死に支えていた。
「っく、ひくっ……ぇぅ、まろか……まろかぁ」
そんな二人のズボンの裾をぎゅっと掴んで、タツヤが泣いていた。
「……まどかが、あたしたちの娘が。死んじまった」
突然に心の中を吹き荒れた、訳も分からぬ恐怖と絶望。けれど彼女は、その中に違うものを感じ取っていた。それは、とても大切なものを失ってしまったのだという、喪失感。
その喪失感に打ちのめされて、詢子の足から力が抜けた。支えようとした知久にも力はなく、共に崩れ落ちるように倒れこみ。
「どうして、どうしてあの時……あの子を連れて行かなかったんだ。引っ張ってでも連れて行ってやればよかったのに。……ぁぁ」
詢子は強い女性だった。常に強くあろうとして、誰にも弱みを見せないような。そんな彼女が、声を殺して泣いている。胸が張り裂けそうなほどの悲しみに、完全に打ちのめされていた。
そんな詢子を支え続けた知久も、決して弱い人間ではない。それでも押し寄せる絶望は、喪失の悲しみは、あまりにも大きく辛すぎた。あまりに暗く、黒く。その心は染め上げられていった。
あるいは、守るものを背負い戦う者達。
「ひっ、ひぁあぁぁぁっ!?!」
火星宙域。地球連合軍とグランゼーラ革命軍による混成部隊が、押し寄せるバイドを相手に必死の抵抗を続けている。そこで戦い続ける兵士達の元へも、その底知れない恐怖と絶望は押し寄せていた。
その強烈な感情の波は、一瞬で戦う意味と理由を押し流した。バイドを撃滅せんとする意思と、その為に力を振るう覚悟を奪い去っていった。
「もう駄目だ。俺達はこのまま死んじまうんだぁっ!」
「い、イヤだ……死にたくない、死にたくない死にたくないっ。俺は、俺はぁぁぁッ!」
有り体に言えば、それは恐慌という奴だろうか。誰しもが恐怖に怯え、絶望に立ち尽くし。戦う力を失っていた。そして、その隙に容赦なくバイドは喰らいついてくる。
一切の抵抗を失った人類の部隊が迫るバイドの群れに押し潰されるのも、時間の問題であった。
「し、司令っ!バイドが、バイドが、とにかく沢山来ますっ!どうにか、どうにかしないと……」
それでも必死に自らの使命を見失わず、地球軍のオペレーターが告げた。
「……ひひ、ッく、クヒヒっ。終わりさ。奴らが来る。絶望の化身が、災厄の死者が。もう終わりさ、人類に、逃げ場なんてどこにもないんだ」
けれど、それを受け取り司令を出すべきその男は。すでに、絶望の生み出す狂気に飲まれ、狂っていた。
そして、蹂躙は始まった。
あるいは、偽りの希望に縋り続ける少女。
「隊長、グリトニルに接近していたバイド群は撤退を始めました。追撃しますか?……隊長?」
コンサートマスターに寄り添って飛んでいた、ガルーダが。その中に存在するマコトの姿をした何かが、マミに問いかけた。けれど、マミはそれには答えない。答えられない。
「……今のは、なんで、どうして」
マミはただ、静かに。そして茫然自失としたまま呟いた。この結界に絶望は存在しない。与えられるのは、永遠の戦いと偽りの希望。
だからこそ魔法少女達は皆それに飲まれ、取り込まれ。永遠に終わらぬ戦いを構成する、一つの部品となってしまっていた。その戦いは何も生み出しはしない。
どれだけバイドを討ち果たしても、それは全てただの使い魔。いずれまた姿形を取り戻し、再び迫る。そんな世界だからこそ、魔法少女達は絶望に飲まれることはなかった。
ただ何かが失われてしまったような、そんな不思議な感じがしただけで。その失われてしまったものが、マミにとってはとても大切なものだった。ただ、それだけのことなのだ。
「まどか……何故、どうして?」
胸を締め付けるような、痛くて苦しいこの感情。あまりにも大きな喪失感。何故そんなものを感じてしまうのか、それがマミには分からない。
けれど、その喪失感の意味はとても重要なのではないかと、そう思ってしまう。
「貴女はもう、いなくなってしまったと言うの……まどか、まどか?」
終わらぬ戦いだけが繰り広げられるこの世界。いつしか、それを疑問に思う心すらも失われてしまう世界。そんな世界の只中で、まどかを失った心の痛みは、同時に自分の本当にしなければならないことを思い出させていた。
それがマミの脳裏で、明確な形を描き出そうとしていた。
「隊長っ!バイドはすぐそこなんですよ、何をぼーっとしてるんですか!急がないと、逃げられてしまいますよ!」
けれど、彼女はそれを許そうとはしない。叩きつけられた厳しい声が、気付き始めていたマミの心を再び縛る。
その声の主は、常にマミの側にあるマコト。その姿をした魔女。“終結なき戦争の指揮者”モルガナ。
「ぁ……ええ、そうだったわね。……ごめんなさい、マコト。すぐに追撃を始めましょう。他のみんなにもそう伝えて」
魔女の言葉を受けて、我に返ったかのように。けれど、その実まるで真逆のように。
マミは再び戦いの世界へと囚われた。
この戦場に果てはない。この戦いに終わりはない。
この戦いが終わるより先に、全ての世界が終わるのだろう。
そうなれば、魔法少女達も、そして魔女も、全てが消え去るのだ。
あるいは、かつて戦士であった少女。
「嘘、でしょ。……まどか」
宇宙の只中、まどかの待つアークを間近にして一人。無数のリボーに取り囲まれ、終わりの時を待つばかりだったさやかの心を絶望と共に、まどかの死という事実が貫いた。
「間に合わなかった。また、何もできなかった。あたしは……あたしは……ぁぁ」
絶望が、そして後悔が。一度振り払ったはずの恐ろしいほどの無力感が。再び、さやかの身体を捕らえる。どうしようもないほどの衝撃が、視界を真白に染め上げる。
カーテンコールを取り囲んだリボーが、一斉に弾幕を展開した。それは違わず、カーテンコールを貫く。そのはずだった。だが、カーテンコールは即座にその身を翻す。一斉射撃の僅かな隙間を縫って、弾幕の雨をすり抜ける。
そして放たれるレーザーは、今度こそリボーを打ち砕く。その動きは今までの恐怖に震えて怯えるさやかのそれとは、あまりにも違う。まるでそれは、彼女が魔法少女であったときと変わらぬほどに、見事な機動だった。
「まどか……まどか、まどか。あたしは、あたしが……無力だったから」
嘆きの言葉は口から零れ、とめどなくその目からは涙が零れる。食いしばった唇は破れ、唇の端から血が垂れる。
それでもその腕は、まるで精密な機械であるかのように動き、敵弾をすり抜け、的確にリボーの殲滅を遂行していく。その機動には、一切の情もなく。
そう、真っ白になってしまったのだ。さやかは。恐怖に張り詰めていた、いっぱいいっぱいの心に叩きつけられた、親友の死。その事実は、彼女の心の容量をあっさりと飛び越えた。
そして、心は身体と切り離された。深く悲しみ絶望し、後悔に打ち震える心はそのままに。ただその表情の幾つかを支配するだけで。その身体は、身体にそして魂に染み付いた、戦士としての習性を淀みなく発揮していた。
それは、バイドと戦う戦士としての。R戦闘機の乗り手としての業。皮肉なことに、世界を終わらせる絶望こそが、さやかの命を救ったのだった。
「なんで、あたしだけが生きてるんだ。ほむらが死んだのに。杏子が死んだのに。……まどかが死んだのに。なんで、あたしは生きてるんだ。だめだよね、あたしだけが、生きてちゃあ。うん、そうだよね。……あたしも、一緒に行かなくちゃ。――いなくならなくちゃ、あたしも」
最早動くことも叶わぬほどに粉砕されたリボー達。その残骸を背に、さやかは真っ白な心で呟いた。
戦いの時が過ぎ、戦士であった自分が消えて。後に残っていたのはやはりか弱い少女。その心は、あまりにも大きすぎる喪失に耐えられず、自ら命を絶つことを選んだ。けれど、その場所くらいは選びたい。
そう思うのは、最期に残った心の気まぐれ。
「……まどか。あたしも、そっちに行くね。まどかがいなくなった場所に、あたしも行くよ。そこで、あたしも……みんなと、一緒に」
呆然と、虚ろに言葉が漏れ出した。その言葉をどこか他人の声のように聞きながら、さやかの手はカーテンコールを動かしていた。向かう先は、まどかの命の果てた場所。アーク。
幾千幾万を飛び越して、幾億もの絶望が宇宙に咲いては散っていく。
人々の心が絶望に堕ち、引きずられるようにその命が消えていく。
嘆きの色に染まる宇宙。絶望に染まる世界。その全てを、一つ残らずその全てを、彼女は見つめていた。
誰かが涙を流す時、彼女の心もその悲しみに胸を痛めた。
誰かが嘆く声を聞くと、彼女は優しい慰めの言葉を捜した。
誰かの心が絶望に沈む時、彼女はそれを救おうとした。
だけど、彼女には何もできない。
彼女には、涙を流す瞳はない。
彼女には、言葉をかける唇はない。
彼女には、救いを差し伸べる手はない。
だからといって、彼女は何もせずにただ見ていたのだろうか。己の無力さに打ちひしがれ、同じく絶望したのだろうか。
そんなことはありえない。決して、そんなことはありえない。
数え切れないほどの苦痛を、絶望を、嘆きを、悲しみを受け止めて。
――彼女は、決意した。
――大丈夫だよ。
それは声ではなく、心に直接伝わる何か。死に瀕した誰かの側に、悲しみに暮れる誰かの側に、絶望に打ちひしがれる誰かの側に。彼女は、全てそこにいた。
そして、伝えた。
――あなた達のこれまでは、決して無駄じゃない。無駄になんかさせない。
それは恐怖と絶望の波と共に、太陽系全土に拡散されたもの。肉体という枷から開放された、全にして一なる彼女の精神。
――希望は、まだ途切れてなんかいない。
彼女は――。
――私が、みんなの希望になるから。
鹿目まどかは、それを告げた。
「太陽系には、順調に絶望が満ちてきているようだね。もうじき、完全にこの星系は絶望に沈むだろう。……それで、全て終わりだ」
数多の希望が絶望に塗りつぶされていく。それが生み出す感情エネルギーの唸り。常人では気付くことのできないその力強さに、キュゥべえは僅かに顔を歪めながらもそう言った。
その表情に浮かんでいたのは、確かな歓喜。
「けれど、たった200億の知的生命体の感情エネルギーだけで宇宙一つを新生させるほどのエネルギーになるなんてね。もっとも、これだけの数の知的生命体に一度に希望を抱かせ、そして絶望させるなんてこと、そうそうできることじゃない」
だが、と思考は巡る。もしも新しく作り出した宇宙で、これと同じ状況を再現することができたなら。人為的に知的生命体が繁栄した宇宙を作り出し、そこに大いなる外敵を与え、抗わせ。最期の最期、勝敗が決するその瞬間に介入する。
そしてそこに生息する全ての知的生命体の、その生命の断末魔の叫びを、絶望をエネルギーに変換する。
確かに準備には、恐ろしいほどの時間と労力を費やすことになるだろう。だが、折角宇宙を思いのままに新生することができるのだ。宇宙の熱的死だけは避け得ないとしても、それをないものとするシステムは構築することができるはずなのだ。
「……試してみようか。宇宙の開闢から介入を始めれば、十分過ぎる程に時間はあるはずだ」
そう、時間はありすぎるのだ。宇宙の開闢から現在まで、概算でも46億年程度。感情を得てしまったキュゥべえにとって、その長すぎる時は、長すぎる孤独は間違いなく苦痛。
だとすれば、それを紛らわすための何かが必要だった。どれだけ遠大で、どれだけ途方もなくとも、時間だけはうんざりするほどに存在しているのだから。
「このシステムが完成すれば、もう次の宇宙では魔法少女なんていう不確かなものに頼る必要は無い。そうだね、試してみることにしよう。……早く始まらないかな」
はち切れそうなほどに膨れ上がったその感情エネルギー。ついにその余波は、宇宙を揺るがしこのアークにまで到達していた。
それはまだ、この次元へとシフトしていない。人類が知覚し得るより遥かに遠い異層次元の彼方で、激しく荒れ狂っている。太陽系全域を覆うソウルジェム、それを介してその高次次元へとアクセスし、そのエネルギーを我が物とする。
そして、それをもって宇宙を再生する。もうすぐ、もうすぐ。それが為されようとしている。人類とバイドの戦いの、その結末さえも待つことはなく。これまでの余りに凄惨な戦いの歴史。その全てを嘲笑うかのように、無慈悲な再生が降り注ぐのだ。
それは、全人類の意思の、そして今まで生きてきた、戦い抜いてきた意味への、絶対的な否定。
全ての生を、その希望と絶望を見届けた彼女には、それは到底許しえるものではなかった。
だから。
――そうはさせないよ、キュゥべえ。
「っ!?何だ、これは……まさか、キミなのか!?」
そう、そんな無慈悲で身勝手な振る舞いを。
「――鹿目、まどか」
鹿目まどかは、許しはしない。
「何故だい。キミの精神は肉体の死と同時に喪失したはずだ。それがこうしてボクに接触している。そんなことが、できるはずがないじゃないかっ!キミは一体何をしたんだ、鹿目まどかっ!!」
死したはずの者。その声が聞こえる。それは恐らく、全く異なる倫理観を持つ異星人にとっても、恐怖し驚愕すべきことだったのだろう。その表情は、まさにその二色に染め上げられていた。
――私は、全部見てきたんだ。キュゥべえ。あなたがみんなに振りまいた絶望と一緒に。
――みんながどれだけ必死に戦ってきたか、そして、どれだけ必死に生きているかを。
「まさか、そんなことできるわけがない。そんなことができるのだとしたら、キミの精神は……」
やはりそれは、インキュベーターをしても信じることのできない事実。もしもまどかの言うことが真実で、あの絶望と恐怖の精神波の拡散と同時に、まどかがその精神を太陽系全土に拡散させていたのだとしたら。
それはすなわち、まどかの精神自体が、太陽系全土を覆い尽くすほどの広大な領域を持つということになる。
群体として、多くの個を集約して拡大させた精神であればいざしらず、それほど広大な精神領域を一個の個体が持ちうることなど、インキュベーターが今まで見てきたありとあらゆる歴史の中にも、一切存在しないことだった。
「ありえないよ。そんなことは、あってはいけないことだ。あっていい訳がないんだよ!」
認められるわけがなかった。それを認めてしまうということはすなわち、鹿目まどかという一個体が、インキュベーターという種よりも更に進化した、より高次な能力を持つ個体となってしまったことに他ならないのだから。
それはインキュベーターという種であることに、その崇高な使命に、大きな誇りと自負を持つようになっていたキュゥべえには、耐えられるものではなかった。
――何が起こっているのかなんて、私には分からない。でも、私のやらなきゃいけないことはわかる。だから。
「今更、キミに何ができるっていうんだ。キミにはもう、この世界に干渉するための器はない。今ここにあるのは、キミの魂だけだ。どれほど拡散しようがそれだけなんだよ」
そう、例えまどかの魂が、その精神がどれだけ進化を遂げたとしても。結局今のまどかは魂だけの存在でしかない。それは虚に限りなく近い存在。今この太陽系という、圧倒的な現実に干渉するための器を彼女は有していないのだ。
――方法なら、あるよ。私の魂は今、ここにある。だとしたら、まだ方法はあるんだよ。
キュゥべえは気付く。太陽系全土を覆うほどに広大なそのまどかの精神が、今のまどかの存在が。その全てが自分を取り囲んでいることを。
だからその声という名の精神波は、まるで四方から投げかけられるかのように反響していた。
――契約するよ、キュゥべえ。私を、魔法少女にして。
今まで幾度か告げようとして、そしてその度に誰かが、何かがそれを押し留めてきた。今なら分かる。それは、今この瞬間の為にあったのだと。
絶望と滅亡、それは迫り来る条理。それを覆すことが、この期に及んで全てをひっくり返すことができるものは。それはきっと、魔法少女の願いに他ならないのだから。
「確かに、魂があるならソウルジェムは生まれる。キミほどの能力を持つ少女ならば、かなりの力を持つ魔法少女になれるだろう。その願いも、大きな力を生み出すだろう」
けれど、キュゥべえの表情は平静を取り戻していた。その答えが、予想していた通りだったからである。
たとえまどかがここで契約し、その願いを持ってこの状況を改善することを願ったとしても、それは叶えられることはない。まどかが背負った因果では、それを覆すほどの願いは叶わない。
それどころか、大きすぎる願いの代償で、魔女と化すのが関の山である。確信と共に、キュゥべえは告げる。
「いいだろう、鹿目まどか。キミの最期の抵抗。ボクはそれをねじ伏せて宇宙を新生させる。さあ、言ってごらん。キミの願いを。太陽系を救うことかい?それともバイドを駆逐することかい?それとも、スゥを助けることかい?」
最初のそれは叶わない。間違いなくまどかの因果は不足している。そして二つ目は叶うかもしれない。少なくとも、太陽系内のバイドを駆逐することはできるかもしれない。けれど、絶望は消えない。絶望が生み出すエネルギーも消えはしない。
そして三つ目、これは叶うだろう。けれど今更バイドが死滅したところで何が変わるというのか。結局、何を願ったところで世界の命運は変わらない。
――私の、願いは。
――みんなの絶望が生み出した力。それを、みんなに返してあげて。
――そして、戦う事を願う全ての人に、もう一度立ち上がり、戦うための力を与えて。
――それが私の願い。私が見つけた、最後の希望だよ。
「何を考えているんだ、キミはっ!!」
その願いは、とても受け入れられるものではなかった。そんなものが叶うはずがない。叶えられるはずがない。
「そんなことをして一体なにになるんだ!絶望に沈んだ人類がもう一度戦えるはずがない。宇宙も救われない、人類も滅ぶ。キミは自分のわがままで宇宙と心中するつもりなのかい!?」
正気を疑う。信じられない。だから問う。言葉を放つ。その行為の無意味さを知らしめるために、願いを反故にさせるために。
――違うよ。私は見てきたんだ。みんなの希望と絶望を。
それでもまどかは退かず、怯まず、凛とした声で突き返す。
――みんなが希望を抱いていたのは、未来を信じていたから。
戦いの終結を信じて、未来を信じて。バイドなき、正しい宇宙を信じて。
――みんなが絶望に沈んだのは、最後まで生きたいと望んでいたから。それを諦めなくちゃいけなかったから。
ありとあらゆる力を、狂気を。それらをつぎ込み、抗い続けたその理由。それはただ、ただ。生きようともがきあがき続けた結果。その結果に他ならない。
――だから、きっと立ち上がれるはずなんだ。もう一度力を手に入れることができれば。
――もう一度、生きるために戦うことができれば。
「それでどうなる。例えそれで今バイドを退けたとしても、スゥは敗れた。もう死んだ!人類がバイドを根絶する見込みはない、滅亡を先送りにするだけじゃないか。無駄なことはやめるんだ、鹿目まどか!」
インキュベーターからすれば、それは狂信、妄信としか受け取れない。死の淵に沈み、絶望に堕ちたものがもう一度立ち上がれるだろうか。そんなことはありえない。
彼らの歴史が知る限り、それはありえないことだった。その条理に、真正面からまどかは挑もうとしていたのだ。弱く脆く、短い命と不完全な心しか持たない人類を、信じて。その為に、この最大の宇宙再生の機会をふいにしようというのだ。
――違うよ、キュゥべえ。スゥちゃんはまだ死んでない。きっと生きてる。
「何故言い切れるんだい。今のキミに、26次元の彼方を知覚できるとでも言うのかい?」
――キュゥべえが言ったことだよ。私達は出会うべくして出会ったって。
――それが運命だなんて言うんだったらきっと、スゥちゃんがいなくなっちゃったら分かると思う。
――きっと、胸が張り裂けそうなくらい辛くなる。だから、まだ……大丈夫。
それは余りに不条理、そして弱弱しすぎる根拠。誰一人肯定できない、鹿目まどかだけの論理。誰もそれを肯定できない。けれど、誰もそれを否定することもできなかった。
それほどにまどかがスゥに寄せた信頼は厚く、強く、堅い。
「何故、何故なんだい。ボクはただ失ったものを取り戻そうとしているだけなんだ。なのに、どうしてキミはボクの邪魔をするんだい。訳が分からないよ。本当に、本当に訳が分からないよ!」
――失いたくないから。その為に、できる精一杯のことをしてるんだ。みんなが。
――だから、私もそうする。ただ、私には普通の人よりちょっとできることが多かった。それだけなんだよ。
その意志は固く、揺るがない。そしてキュゥべえは、インキュベーターという種は、魔法少女となる少女が契約を望むなら、それを拒むことはできない。
どれほどの感情が、憎悪が、悪意がその性質を歪めても、根本に根付いたそれだけは、決して揺らぐことはなかったのだった。
だから。
――さあ、叶えてよ!インキュベーター!!!
その言葉が、引き金だった。突如としてその空間に光の渦が巻き起こる。余りにも広大、余りにも壮大な光が渦を巻き、一点に収束する。そしてそれが、小さな種のような形にまで収束したその瞬間に。
光は、弾けた。
弾けた無数の光には、比類するものないほどに大きな力が宿る。宇宙再生を行うプログラム。それを遂行するためのエネルギー。それが別の形に変換させたもの。その力が、太陽系全土へと放出されていく。
無数の光と化して、遍く宇宙へ。戦う人々の元へ。
それは一体、人類に、宇宙に何をもたらすのだろう。
それは、全人類がその身をもって知ることとなる。