されど地獄の残滓は、悪夢の記憶は少女に尚も追いすがる。
一人では乗り越えられない、だから少女は共に往く。
身を寄せ、心を寄せ合って。
「う……ぅ、ぅあぁぁぁっ!」
そこは地獄だった。
見渡す限りに広がるのは、まるでこの世に存在するありとあらゆる苦痛をその一身に受け、その身と魂を焼き尽くされて朽ち果てた、亡骸の群れ。
彼らの無残にも歪められたその表情は、まさに正視に堪えぬほどの惨状であり、あるいは歪みあるいは崩れ、そしてあるいは焼け爛れたその口から漏れる声は、断末魔の声と身の毛もよだつほどのおぞましい怨嗟の声だけであった。
さやかは、じっとその光景を見つめていた。目を逸らすことはできなかった。そして例え目を逸らそうとも、おぞましきその声は容赦なく彼女の鼓膜をすり抜け、その体の奥底に存在するであろう精神を傷つけ続けていたのである。
それは間違いなく夢だと、さやかは知っていた。なぜならその光景は、彼女にとっては忘れようもない光景であったのだから。
それはかつてのアークにおいて、希望が転じて絶望となり、多くの人間の死を孕んだ箱舟となった場所において。単身まどかを助けるために乗り込んださやかを待ち受けていた、まさしくこの世の地獄のような光景だったのだから。
そう、それは既に起こってしまった過去の出来事。けれどその時心に深く刻まれたその傷は、約半年の時を経た今でも、さやかを苦しめ続けていたのだった。
彼らは望まぬ死を押し付けられたその表情で、口々に怨嗟の声を漏らす。けれどその声は、確かな意味のある言葉としてさやかの元へは届かなかった。
それも当然と言うもの、彼女は彼らの声などまるで知らぬ。彼女がアークを訪れたとき、彼らのほとんどは既に事切れてしまっていたのだから。だとすればその声は一体何なのか、そんなことは誰にも分かりはしなかった。
それでもその声ならぬ声は、ひしひしと耳に心に響くその感情は、否応なくさやかを追い詰めた。亡者の一人が起き上がる。それにつられるようにまた一人、そしてまた一人。
「ひ……ぃっ」
それはあまりに恐ろしい光景で。恐怖に縮こまったさやかの喉は引き攣れ、震える声を一つ漏らすだけであった。けれどその間にも、亡者達は次々に起き上がりさやかへと迫ってくる。
逃げ出そうとして始めて、さやかは自分が床に座り込んでいることに気がついた。立ち上がって逃げようにも、恐怖は完全にその四肢から力を奪い去っている。何よりも腰がすっかりと抜けてしまっている。
仕方なく手足を動かし、必死に這うようにして後ずさる。けれどすぐにその背は壁へとぶつかった。
もう逃げ場などどこにもない、亡者達の手はすぐそこにまで迫っていた。彼らの手に囚われれば、一体どうなってしまうのか。その生をこれでもかと言うほどに啜られ、さやかもまた同じく亡者の仲間入りとなってしまうのか。
それともその生を激しく憎む亡者達の手によって、到底筆舌に尽くしがたいほどの陵辱の憂き目を見てしまうのか。いずれにせよその未来は決して明るくはない。
そしてついに伸ばされた亡者の手が、さやかの身体を掴み上げ――
「さやかっ!おい、しっかりしろ、さやかっ!」
力強く身体を揺さぶる手、そして自分の名を呼ぶ声。飛び起きたさやかの意識が最初に感じたのはその二つだった。
そして目を開けると、そこには。
「……杏子?」
そこには、必死の形相でさやかに呼びかける杏子の姿があった。
それは丁度杏子が忌まわしき場所からの帰還を遂げ、リリシアンへの戻った日の夜である。杏子がようやく我が家へと戻ることができた時には、時刻はもう既に深夜であった。当然さやかも寝ているだろうと、杏子は密かに帰宅を果たすのだった。
いつ戻るとも知らせずに飛び出してきたのだ、明日の朝にでも起こしてやって驚かせてやろう。そしてそれから謝ろうと、そんな殊勝かつ諧謔なことを考えていたのだが、それは唐突に打ち切られることとなる。
自室へと戻る前に、少しだけさやかの部屋を覗き込んだ杏子が見たものは、まるで目に見えない何かに怯えるかのように身を丸め、全身に汗をびっしりと浮かべながら、苦悶の表情とそれに負けぬほど苦しげな声を上げるさやかの姿だった。
当然杏子はそれを放っておけない。思わずその身を抱き起こし、身体を揺さぶり声をかけた。恐らくそれがさやかを悪夢の淵から引きずり起こしたのだろう。かくしてさやかの悪夢の幕は閉じられたのである。
「あんた……一体今までどこほっつき歩いてたってのさ!勝手にいなくなったりしてっ!」
途端に飛んできたのは怒声である。土星に近しいこのリリシアンにおいても、その怒声はやはり変わることなく杏子の鼓膜を振るわせた。何故だかはわからないが、その声が杏子にはなにやら愛おしく感じられた。
込み上げるその感情はあるいは感慨、あるいは思慕のようでもあったりして。それに駆られるように、杏子はさやかの手をとって。そしてじっとさやかの顔を見つめて。
「それは……ほんとに悪いと思ってる。でも、おかげで問題は解決した。もう大丈夫だ、どこにも行かない。……ほんとごめん、さやか」
どうやらさやかのたった一言で、杏子の胸中の諧謔たる思いは一片に消し飛んでしまったらしい。珍しく素直に自分の非を詫び、頭を下げる杏子の姿に、逆に困惑してしまうさやかでもあった。
「……ったくもう。そんな風に言われたら怒るに怒れないでしょうが。それで、本当にもう大丈夫なんでしょうね。だったら、ちゃんと事情を聞かせなさいよ」
「分かってる。……ちょっと衝撃的な話かも知れないけどさ、とりあえず最後まで聞いてくれよな」
真夜中深夜、うなされているところを叩き起こして。話しているのはそれとは全く関係のないことである。けれどそうして話をしている間に、蒼白とでも表現できそうなさやかの表情には僅かに赤みが戻ってきていて、全身にびっしょりと浮かんでいた汗も、幾分かは引いたようだった。
「まあ、そういうわけらしくてさ。……要するに、今のあたしはいつ死んでもおかしくないんだってさ」
ようやく全てを語り終えると、当然のようにばつが悪そうに杏子は佇んでいた。結ばれた手と手は、なんとなく別れる機を逸したかのように今でも繋がったままである。
「……それで、杏子はどうするのさ」
最悪の夢に続いての衝撃の告白。それにどうにも心のどこかが完全に麻痺してしまったらしく、さやかは完全に据わった目つきで杏子に問いかけた。
「まあ、色々考えたんだけどな」
一つ息を吐き出して、杏子はさやかの問いに答える。そんな杏子を、さやかは相変わらず据わったままの目つきで睨みつけているのである。
「どうもしないことにした。別にそれが分かったからって、生き急いだり死に急いだりはしねぇよ。あたしは今まで通り普通に生きる。いつか死ぬかも知れないのだって誰だってそうだろ。変わりゃしないさ」
そして驚いたように目を見開いたさやかの手を引いて、自分の元へと引き寄せて。
「だから、さ。さやかも一緒にいてくれ。先に行っちまうかもしれないってのは心苦しいけどさ。それでもあたしは、限られた時間だからこそあんたと一緒に居たいんだ。……ダメ、かな」
今度こそ杏子から、さやかの身体を抱きとめて。その耳元に囁くように、そんな思いを打ち明けた。
「なーんか……さ。それって、プロポーズみたいじゃない?」
照れくさそうにはにかみながら、少しだけ困ったようにさやかは答えた。杏子もどこか恥ずかしげにそっぽを向いて、それでも。
「好きでも大切でもない奴を、こんな土星くんだりまで連れて来るわけねーだろ、ばか」
確かに、そう答えたのだった。
そんな言葉に、さやかは一つ大きく溜息を吐き出して、そして。
「……あたしの答えはもう伝えてあるはずでしょ。あたしはあんたと一緒に生きていきたい。だから、一緒に行くってさ。……あんなに泣きながら喜んでた癖して、またそんなこと尋ねますかねこいつは」
親指を中に、柔らかく握りこんだその拳でこつんと、杏子の胸を打つのだった。
「なっ、泣いてねーだろうがっ!勝手なこと言うな、バカっ!」
「はいはい、過ぎた話はいいからまずは今流れてる涙をどうにかしなさいな、杏子」
「っ!?……だ、だから泣いてなんか、ねぇって」
恐らくその光景を誰かが見ていたのなら、その反応は二つくらいに大別されていたことだろう。素晴らしい、と頬を緩めて見つめるものと、ご馳走様、と顔を歪めて目を背けるものにだ。
「ほんとは、ちょっと怖かったんだ。……いつまで生きられるか分からないからそんな自分とは一緒にいられないって言って、そのまま居なくなっちゃうんじゃないかって」
柔らかに打ち付けた拳さえ、引き寄せられて投げ出した身体さえ、杏子の身体に受け止められて。そのまま杏子の顔を見上げて、そこからぽたぽたと垂れる雨を受け止めながらさやかは囁いた。
「ばーか。だったらそもそもここに帰って来たりなんかしねぇよ」
「……それもそっか。でも、もし勝手にいなくなってたりしたらどんな手を使ったってあんたを探し出してたと思うよ、あたしはさ」
見詰め合っている二人。不意に杏子がひょいと身を屈め、顔を突き出した。その意するところを察して、さやかも僅かに背を逸らして顔を突き出し、目を伏せた。
小さな灯りだけが照らす部屋の中、二つの顔はゆっくりと近づいていく。部屋の灯りに映し出された曖昧な影も、浮かび上がった二つが一つになろうとしていた。
ごくりと、どちらともなく小さく喉が鳴った。
尚も止まらず静かに二つの顔は距離を詰めていく。
震える唇同士が、静かに重なろうとしていたその時に。
部屋の壁に埋め込まれた端末が、けたたましい音を鳴らし始めるのだった。
これはたまらぬと目を開くさやか、すると目前には杏子の顔があって。最高潮にまで高まっていたその羞恥やらなんやらが、一気にぱちんと弾けてしまった。
まさしく弾かれるかのように仰け反り、そのままベッドから転げ落ちてしまったのである。
「あ……さや、か」
「痛……つつ、なんなのよ、こんな時間にっ」
どうにもならない衝撃に、呆然と立ち尽くす杏子。どうやらしたたかに床に打ち付けてしまったらしく、しくしくと痛むお尻を押さえてさやか。
そしていまだに鳴り響く端末である。
「ったく!時間を考えやがれ、馬鹿野郎がっ!」
いいところに水を差され、この調子では続きどころでもない。苛立ち紛れに端末の側へと駆け寄り、起動ボタンに指を叩きつける杏子であった。
「ああ、やっと繋がったわ。って、キョーコじゃない!?貴女いつの間に戻ってきてたのよ?」
その端末が映し出した顔は、杏子の良く知る顔だった。彼女は杏子と同じくリリシアン自警団で戦う兵士であり、ひょんなことからさやかとも交友を持っていた人物であった。
「ついさっきだよ。っつーか何だよ、何の用があったらこんな時間に連絡して来るんだっての」
非常にいいところを邪魔された苛立ちを、まるで隠そうともせず杏子はその女性に向けて吐き出した。なんとなく不味いことをしたかなというの察して、彼女はとにかく口早に用件だけを伝えてしまうのだった。
「それについては明日にでも、隊長もカンカンっていうよりマジ心配してるから、後でちゃんと弁解しておくこと。それはそうとあんた達、今すぐテレビをつけてみなさい。凄いのやってるから。じゃ、またねー」
言いたいことだけ言ってしまって、ぷつりと通信は途切れてしまったのであった。
「……なんだってんだよ。ったく、はた迷惑な奴だ」
果てしない脱力感に苛まれながら、杏子も端末から視線を背け、振り返った。そこにはどうにか起き上がったさやかの姿。先ほどよりも随分と距離を置いて、再び見つめ合う二人。
けれどどちらともなく漏れたのは、なんとも言えない疲労感たっぷりのため息だった。
「なんか……白けちゃったね」
「……ああ、ほんとにな」
本格的に続きなどと言える空気ではない。どうしようもない脱力感と徒労感が、二人を苛んでいた。
「っと、それよりテレビだよ。何かやってるらしいけど」
「まあ、見るだけ見てみるか。これでまた下らない通販番組だったら、後でブン殴ってやる」
何はさておき二人は居間へ。灯りをつけて、早速テレビを眺めてみると。そこに現れた光景は、随分と衝撃的なものだった。二人にとっては尚のことである。
「現時刻を持って、私達は魔法少女隊として地球連合軍の非人道的行為に対して反抗を開始するわ」
それは、ルナベース6襲撃に対する対応に追われる地球連合軍の間隙を縫って放送されたものであり、魔法少女と言う地球連合軍が抱えた闇を知らしめると同時に、魔法少女隊による地球連合軍への宣戦布告でもあった。
その声の主は、やはり二人にとってもよく知った声。まさしくマミのそれであった。
「マミ……さん」
「こりゃあ……随分派手にやらかしたな、マミの奴」
二人は呆然と、その画面を眺めていた。呆然と見つめている二人の目の前で、テレビの画面が唐突に砂嵐へと変わった。
浮き足立ってていたとはいえ、いつまでもこのような電波ジャックを許しておけるほど地球連合軍も甘くはなかった。それでもその放送は広く太陽系全土へと流され、少なからぬ時差を経た後に二人の下へも届けられることとなったのである。
「そっか、マミさん……まだ戦ってるんだ、他の魔法少女達も」
その胸中に湧き上がる感情はいかなるものだろうか。こうして今尚戦い続ける魔法少女達を尻目に、自分達はこうして一応自由な生活を過ごしている。魔法少女と言う運命からも、いち早く抜け出してしまっている。
彼女達が今の自分たちと同じように生きられるようになるまでには、一体どれほどの困難があるのだろう。現実問題として、それは可能なのだろうか。
戦いはまだ終わっていないことは知っていた。そしてそれが人間同士の戦いであることも分かっていた。けれどまさかその渦中で、魔法少女達は今も戦い続けていただなんて。
その事実は二人の心を打ちのめした。
「この分だとあいつら、本気で地球連合軍に喧嘩を売るつもりなんだろうな。……いくらなんでも馬鹿げてるぜ。勝てるもんかよ」
地球連合軍という組織の巨大さを、かつてそこに所属していた杏子は良く知っていた。確かに魔法少女達は皆歴戦の猛者揃いなのだろう。
けれども地球連合軍が総力を挙げて叩き潰そうと思えば、それこそまるで羽虫か何かのように容易く叩き潰されてしまうことだろう。
「あたしは、もうマミさんにも他の魔法少女達にも死んで欲しくない。……でもあれじゃあ、きっと戦わなくちゃ生き残れないんだよね、魔法少女達は」
砂嵐の画面をじっと見つめて、さやかは呻くようにして呟いた。その心に渦巻いていたのは、恐らく義憤と呼ばれるものだったのだろう。
もとより自分が魔法少女であったこともある。これから苦境に立たされることとなる少女達は、もしかしたら自分がなっていたかもしれない未来なのである。その未来が理不尽にも奪われそうになっている。
許せるはずがなかった。
「……お前の考えてること、当ててやろうか?何かできることはないか、何か助けられることはないかってそう考えてるんだろ」
杏子の言葉に、さやかは静かに頷いた。
「やめとけよ。今更言うけどさ……お前はやっぱり戦うのは向いてないと思う。相手がバイドだから何とかやれてたってだけだ。今度戦わなくちゃいけない敵は、同じ人間なんだぞ」
続く言葉に、さやかは何も答えない。答えられない。
「もうあれから半年になるってのに、未だにあんな風にうなされてるんだ。人間相手に殺し合いをするなんて、お前にゃ無理だよ……さやか。あたしは、お前の死ぬところなんて見たくないんだ」
きっとここで止めなければ、さやかは再び戦いに臨んでしまう。バイドと戦うことすらあれほど恐れたさやかが、今更人間同士の殺し合いに耐えられるとは思えなかった。
例え身を挺してでも、止めなければならないと考えていた。
「……ごめん、杏子。でもやっぱり、あたしは行かなきゃいけないんだ。マミさんは私の大切な仲間だし、今戦ってる魔法少女達は……もしかしたら私がなってたかもしれない私なんだ。何かできることがあるなら、助けてあげたいって思うんだ」
杏子の言葉をしっかりと受け止めて、それでもやはりさやかの意思は固かった。そしてそんなさやかの言葉は、杏子にも同じく降りかかってくる。
杏子にとってもマミは大切な仲間で、魔法少女達はもしかしたら自分がなっていたかもしれない姿なのだ。
「それにさ、うなされてたのだって別に戦うのが怖いとかそういうんじゃないんだ。……多分あれは、まだ私の中でけじめがついてないだけだと思うから。そのためにも、この戦いは終わらせなくちゃいけないんだ。……だから、行くんだ」
そう、夜毎さやかを苛むあの夢。それを生み出していたのはさやか自身の自責の念でもあったのだ。救えなかった、何もできなかったという無力感や、そんな自分への自罰的な意識。
それが今尚自分を苛んでいるのだと、さやかはそれを自覚していた。恐らくそれはこれから長い時間をかけて向き合っていくものなのだろうと、そう考えていた
けれど今、本当の意味での魔法少女の戦いが終わっていないことを知った。だとすれば今こそが、そんな自分の過去の負債を取り払うときだとさやかは感じていた。
そして杏子は、こうなったさやかを止めるのはまず無理だということを良く知っていた。
「……ったく、相変わらずだな。最近ちっとは大人しくなったかと思えばこれだ。まともに戦えもしねぇくせに、口ばっかりは達者でさ」
「戦い方は覚えてるんだ。身体にも、魂にも。だからきっとやれるよ。だから、さ。杏子も協力してくれないかな」
どうにも困った。と今更ながらに杏子は顔を歪めた。本当に、こういう風に頼まれると弱いのである。
「ったく、本当に言い出したら聞かねぇんだもんな、お前は。……とりあえず明日、自警団の方に話をつけてくるさ」
仕方ないといった感じで、けれどどこか悪しからず思いながら杏子は答え、そしてそのままベッドに潜り込んだ。
「そうと決まれば、今日はさっさと寝ようぜ。明日から忙しくなるんだからさ」
「……いや、ここあたしの部屋なんだけど」
「またあんな風にうめかれたら寝覚めが悪いだろ。だから、ほら……朝まで、一緒にいてやるよ」
「………っ」
さやかは酷く赤面した。そして、静かにベッドに潜り込むのだった。
今度は、悪夢は見なかった。