失ってしまったものの大きさに打ちひしがれ、暗澹とした日々を過ごす彼らに、英雄が残した贈り物。
それは、小さな希望。
「ママ、もうその位にしておいたほうがいいんじゃないかな」
時刻は既に夜。小さな灯りが灯るだけのリビングで。テーブルを囲んで座る男女の姿。
そこは鹿目家。座っていたのは当然詢子と知久で。心配そうに言葉をかけた知久に、項垂れながら詢子は答えた。
「……そうだね。どうせいくら呑んだって酔えもしないんだ」
そして、琥珀色の液体の溜まったグラスをテーブルに置いた。
からんと、氷の揺れる音がした。
バイドとの戦いが終わって半年。時間としては決して短くはない。けれどそれは、家族を失ってしまった悲しみを癒すには、余りにも短すぎる時間だった。それもその最期を見届けることができたわけでもなく、ただその死という事実を、疑いようもない感覚として押し付けられただけなのだから、その悲しみは尚のこと大きい。
「もう寝たほうがいいんじゃないかな。明日も仕事、あるんだろう?」
バイド戦役においてすら、さほどの被害を受けることのなかった地球では、既に人々は以前と変わらぬ暮らしを取り戻していた。それ故に、詢子の暮らしも今までと変わらぬように流れていた。
けれど、詢子は変わってしまった。忙しいながらも、それでもいっそ楽しむほどに精力的に取り組んでいた仕事が、どうにも苦痛でならなくなった。それでも一見すれば変わらぬように過ごせていたのは、やはり彼女が有能であることの証明なのだろう。
けれど、家に帰れば酒に浸る日々だった。
それで少しでも酔えたのなら、彼女も救われたのかもしれないが、どれほどの酒精をその身に収めても尚、彼女の心はそれに酔い、逃げ込むことは許されなかった。
そして、夜もあまり眠れていない。どうにかごまかせてはいるが、目に見えてやつれ、体重も減った。常に近くでそれを見ている知久には、彼女が限界に近づいていることがわかっていた。
「タツヤは、もう寝てるのかい?」
「うん、よく寝てるよ。だけど……」
「またまどかの部屋で寝てるのか。まったくあの子はもう」
もうすぐ五歳になるってのに、と詢子は小さく苦笑した。
まどかの死というイメージは、幼いタツヤにも容赦なく降り注いだ。
幼い彼がその意味を正確に理解できていたのかはわからない。それでもまどかの名前を口にするたび、ほんの僅かでも切なげに顔を歪める両親の姿を見続けて、今ではまどかの名を口にすることもなくなっていた。
その代わりなのだろうか、タツヤはまどかの部屋で眠るようになった。毎日掃除は欠かしていない。部屋の中はほとんど変わっていない。だからこそ些か少女趣味が過ぎるその部屋の中で、彼は毎日寝起きをしていた。
きっとそれは、まどかのことを忘れたくないという思いの表れだったのだろう。
「ねえ、ママ。余計なことかもしれないけど、少し仕事を休んだほうがいいんじゃないかな。僕は家でのママの姿しか知らないけど、もう……限界だと思うんだ」
眼鏡の奥に複雑な光を湛えて、知久は静かに言葉を投げかけた。その言葉に詢子は弾かれたように顔を上げて、目を見開いた。
「はは……参ったな。パパにまでそんなに心配されちまうなんてさ。でも、ごめん。今頑張るのをやめたら、あたしは本当に駄目になっちまいそうなんだ。じっとしてたら、まどかのことばっかり考えちまう。どうしてあたしは、あの時まどかを一緒に連れて行かなかったんだろう。そうでなけりゃあ、どうしてまどかと一緒に行ってやれなかったんだろうってさ」
だん、とテーブルに拳を打ち付けて。肩を震わせながら言う。拭いきれない後悔の念が、今でも詢子を苛んでいた。その後悔は、知久も同じく感じていたもので。
同じ思いに身を焼かれ、何も言えずに知久は詢子の肩を抱くのだった。
そんな時、一つ響いた呼び鈴の音。来客の訪れを告げる音。
「誰だろう、こんな時間に」
知久はそう言って、壁に備え付けられたインターフォンに目をやった。するとそこには、どこか落ち着かない仕草で佇む、一人の少女の姿があった。
「あの子は……確か」
その少女の姿を、詢子は知っていた。
巨大戦艦の襲撃の後、入院していた詢子のところにまどかが見舞いに来たときにまどかに付き添い、共に病院を訪れていた少女だったと記憶していた。直接言葉を交わしたことはなかったが、まどかと親しげに話していたことは知っていた。
「こんな遅くにやってくるって言うのは、何か事情があるんだろうね。とにかく、中に入ってもらおうか」
「そうだね、一体何をしに来たのかはわからないけどさ。話を聞いてみようじゃないか」
やり場のない指を這わせていたグラスを押し退け、詢子も立ち上がった。そして二人で、玄関へと向かう。扉を開けばやはりそこには、見覚えのある少女の姿があった。
その少女――スゥは、家の扉が開かれるのを固唾を呑んで見つめていた。この場所に住んでいるであろう人々のことは、既にデータでは知っていた。そして開かれた扉の奥から出てきた二人の人物は、やはり映像で見たとおりの姿をしていた。
ただ、少しだけ女性の方はやつれているような印象を受けた。
「あの……私、私。スゥって言います」
けれど、そのどこか物憂げな女性の表情は、不意にスゥの脳裏にかつて自らの境遇を嘆き、苦しんでいた頃のまどかの表情を想起させた。
胸が、締め付けられるほどに苦しくなった。それでも苦しむ胸を押さえて、零れそうになる涙をぐっと堪えて、スゥは静かに言葉を紡いだ。
「私、貴方達に話さなくちゃいけないことがあるんです。謝りたいことも、お願いしたいことも。いっぱい、いっぱいあって。……だから」
ただ言葉を放つだけなのに、それだけでまるで身が切られるような痛みがスゥを襲っていた。スゥは、全てを話すつもりで鹿目家を訪れていた。けれどこんな現実離れした話が、どれだけ理解されるだろう。
拒絶されるのが怖くて、それでも今伝えなければ、もう伝える機会などないのだから。だからスゥは身を震わせながら、ぎゅっと目を閉ざしながら言葉を紡いでいた。
そんなスゥの頭に、ふわりと優しい手が触れた。
「ぁ……」
「事情は良く分からないけどさ、大事な話がしたいってことは分かった。ほら、こんなとこで立ち話もなんだろ?……中で話そう。ね、スゥ」
ゆっくりと瞳を開いたスゥの前には、疲れた顔にも優しい笑みを浮かべた詢子の姿があった。その手はそっと、スゥの頭に触れていた。
「何か暖かいものでも用意するよ。そんなに固くなっていたら、話したいことも話せないだろうからね」
「……ありがとう、ございます」
先ほど詢子と知久が向かい合っていたテーブルで、今度はスゥと詢子が向かいあう。
こと、と小さな音を立てて差し出されたカップには、ほかほかと湯気の立ち上るココアが入れられていた。
「遠慮しなくていいから、まずは飲むといいよ」
「はい。……頂きます」
静かに息を吹きかけて、一口。まだ少し熱いけれど、それでも柔らかな甘さが口の中に滑り込んできた。強張っていた身体が、確かにどこか解れていくような気がした。
表情自体もいくらか強張りも取れ、青ざめているようにも見えた表情にも、いくらか赤みが差して見えた。
静かに息を吹きかけながら、ゆっくりとココアに口をつける。ただその音だけが静かに響いて、誰も何も言わなかった。知久は向かい合う二人の間に座り、詢子は静かにスゥの姿を見つめていた。
いい具合に冷めたココアが、掌の中で温かな熱を放つようになった頃。その温もりがまるで大事なものであるかのように掌に握ったまま、スゥは静かに顔を上げた。
「……話せるように、なったかい?」
詢子の問いに、スゥは躊躇いながらも頷いた。
「信じてもらえないと思います。……貴方達にしてみれば、何を馬鹿なことをって思うかもしれません。でも、どうか最後まで聞いてください。そして、できたら信じてください」
一体どう説明すればいいのだろう。言葉はいくらでも考えてきたはずなのに、こうしていざ話すとなると、言葉が上手く出てこない。
バイドとの戦いの時ですら、ここまで身体が強張ることはなかったのに、恐れることもなかったのに。それでも、その恐れを乗り越えるための力はスゥの中に確かに存在していた。
やらなければならないことなのだと、自らを納得させた。そして。
「……鹿目まどかは、まだ生きています」
確たる決意を込めて、スゥはその言葉を放った。
長い時間が過ぎていた。これほどの長い時間、誰かと言葉を交わしたのは、まどかと一緒に病院にいた頃以来だとスゥは思った。
夜は更に深まり、日付もいよいよ変わって久しく。それだけの長い時間、スゥは静かに言葉を紡ぎ続けていた。
まどかとの出会い、そして離別。
英雄の複製品として作られた自分が、背負うこととなった戦いの定め。
まどかの死と、太陽系を救った奇跡。そしてその果てに、最後の戦いの場における再会。
そして、再びの離別。
一つ一つの思い出を、白地の多い記憶のキャンパスに、何より鮮やかに刻まれた記憶の一つ一つを振り返りながら、静かにスゥは語った。
それを聞いていた二人は時折顔を顰めたり、何かを言いたげにしていたが、それでもその話が終わるまでは口を閉ざして、ただただ耳を傾けていた。
「……それで、私だけが地球に戻ってきたんです。でも、まどかはまだ宇宙の彼方で生きているはずなんです。どこかも分からないくらい、ずっとずっと遠いところで。……信じられないですよね、こんなこと」
そして最後の言葉を告げて、スゥはすっかり冷めたココアを飲み干した。冷めていてもそれでも甘いココアは、話し疲れた喉を癒してくれた。
「……それが本当なら、あんたは世界を救った英雄ってことになるんだな。あの時戦ってたのは、あんただってことなんだね」
そう、彼の英雄がバイドの中枢と戦ったあの姿は、全ての人類の知るところとなっている。だがそれも、インキュベーターの裏切りにより、一度敗北の憂き目を見たその時までだけで。
「そっか。まどかは……本当に世界を救ったんだな。すごいや、本当に」
「本当だね。まどかは間違ってなかったんだ。すごいな、僕達の子供は」
そう言って、詢子も知久もどこかはにかんだように、弱弱しく笑った。
「信じて……くれるんですか?」
こんな信じられないような言葉を事実であるかのように受け止めている。そんな姿は、かえってスゥには信じがたかった。
「普通だったら、信じられることじゃないだろうね。……でも、あの時確かに僕達の理解を超えることが起きていたのは事実なんだ。だとしたら、君が言っているようなことも、起こってもおかしくはない。僕はそう思った」
「それに、あんたは嘘をついてるようには見えない。嘘をつくにしたって、あたしらを騙す理由なんてないだろ。……なんて、格好つけて言ってるけどさ。本当は信じたいだけなんだよね、まどかが生きてるって」
「そうだね、僕も結局はそうなのかもしれない」
二人は顔を見合わせて、小さく笑みを浮かべた。
結局のところ、二人はどこまでもまどかの親だったのだ。まどかが生きていると聞けば、それがどれほど途方もない話であれ、信じたくなってしまうほどに。それほどまでにまどかを愛していた。だからこそ、こんな話を信じてくれたのだろう。
そんな思いが胸の中に染みこんできて、思わずスゥは目の奥が熱くなるのを感じた。けれど同時に、そんな家族が自分にはいないことが、少し寂しくも思っていた。
「ありがとうございます。……信じてくれるなら、私も思い残すことなく行けます」
「……まどかの所に、かい?」
スゥは、小さく頷いた。
「行くって言っても、今のまどかは宇宙の遥か彼方にいるんだろ。迎えに行く方法なんてあるのか?」
「はい。……来てくれますか?」
スゥは立ち上がり、足早に部屋を後にした。そのまま玄関を抜け、扉を開いて外へ出た。そんなスゥを見送って、二人は一度顔を見合わせ。そして連れ立ってスゥの後を追った。
そこには、信じられないような光景が広がっていた。
市街地である。何の変哲もない市街地の上空に、一機のR戦闘機が佇んでいる。リモートコントロールによって呼び寄せられたグランドフィナーレが、搭乗者たるスゥの元へと駆けつけたのだ。
「これはグランドフィナーレ。人類の科学と、まどかの願いが生んだ最後の希望です。私はこの力で、まどかを助けに行きます。必ずつれて帰ります」
機体を前にしただけで、自信なさげに佇んでいた少女は英雄へと変わった。凛然とした表情で、恐らく初めて間近で見ることとなったであろうR戦闘機の威容に圧倒された二人に振り向いて。
「あんた……本当に」
その姿は、英雄という現実味のない言葉に圧倒的な現実感を与えるほどの力強さを持っていて、それに気圧されたように詢子が口を開く。
「英雄……なんだね」
そんな詢子を支えて立って、知久もまた呟いた。
グランドフィナーレは音もなく佇んでいて、夜の静けさは相変わらずだった。けれど、人々も気付くだろう。そうなれば騒ぎが起こる。時間は、あまり残されてはいない。
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
だから最後に、スゥはその願いを伝えようとした。
「私はまどかをつれて帰ります。だから、もし帰ってこられたら……」
冷たい氷のような表情が、何故だかたちまちのうちに溶けてしまう。この言葉を紡ぐのは、あまりにも多くの精神の力をスゥに必要とさせた。
けれど、今言わなければ絶対に言えないことだから、スゥは言い放つ。
「その時は、まどかを私にくださいっ!」
叫びにも似た大きな声が、夜の市街地に響いた。
「……そりゃあ、一体どういうことなのさ」
「好きなんです。まどかのことが、この世の誰よりも大好きなんです。だから、もしも私がまどかと一緒に帰ってきたら……まどかを、私にください」
あまりにもあけすけな愛の告白である。それも本人のいないところで成し遂げられて、受け止めたのはまどかの両親である。
この年代では、同性愛に対しての意識は大きく変わったといってもいい。手術によって擬似的な生殖機能を持たせ、それによって本当に同姓同士で結ばれるという事例も少なからず存在する。
けれど、それが当たり前にありえることだと受け入れられるまでには至らない。だからこそ詢子も知久も、思わず呆然としてしまっていた。
「ったく、いつの間にこんなにモテモテになってたんだか、まどかは。……でも、あんたはまどかを幸せにできるのかい?まどかは、あんたを好いてるのかい?そこが問題だ」
いち早くその衝撃から立ち直った詢子は、スゥに向けてそう言った。けれどすぐに、その唇の端に不敵な笑みを浮かべて。
「でもまあ、それだけの問題さ。自身もって大丈夫だって言えるなら、あたしは認めてやるよ」
「……まどかは、私のことを好きだって言ってくれました。これだけは、自惚れてもいいと思ってます。そしてまどかを不幸にする人がいるのなら、誰が相手だって私は容赦しません。この命を懸けて、まどかを助けます。守って見せます」
一歩も引かず、真っ直ぐに視線を向けてスゥは答えた。刹那、どこか張り詰めたような雰囲気が流れ、そしてそれはすぐに弾けとんだ。
「なら、何の問題もないさ。でもあんたらはまだ未成年だ。ちゃんと成人するまでは家に来な」
「ちょっと驚いたけど、僕もそれがいいと思うな。それに君がまどかと添い遂げるなら、君も僕達の家族の一員だ。君さえよければ、ずっと家にいてくれてもいいと思う」
がつん、と。胸の奥を揺さぶられたような衝撃だった。信じてもらえないと思っていたのに、馬鹿なことを言うなと罵られるかもしれなかったのに。二人は全てを受け入れた。その上で、スゥのことさえも受け入れてしまっていた。
それがあまりにも嬉しくて、暖かくて。胸の奥から溢れるものを堪えきれなくなった。
「っ……っぐ、ぁ。ありがとう……ござい、ます。信じてくれて。こんな私を、認めてくれて……本当に、本当に……っ」
そこから先は、もう声にもならなかった。静かに嗚咽を漏らすスゥは、詢子は静かに抱きしめて。
「信じてやる、いくらだって受け入れてやる。だから、絶対に帰って来るんだぞ。まどかと一緒に、ちゃんと元気な顔を見せてくれよ」
「はい……っ、えぐ。はい……っ!」
それはきっと幸せな時間。スゥは家族の暖かみを知った。二人は希望を取り戻した。
けれど、幸せな時間はやはり長くも続かない。
「どうやら近くの人たちが気付き始めたみたいだ。急いだほうがいいかもしれないね。見られたらきっと困るだろうし、君は早く行ったほうがいい」
嗚咽に混じって、人の声やどうにも騒がしい気配が近づいてきた。
「しばしの別れ、だな。あたしはこっちで頑張るから、あんたも頑張ってくれよ。……まどかを頼んだよ、スゥ」
最後にもう一度スゥを抱きしめて、詢子はその身を離した。頷き、スゥは涙を払って手を上げた。それに応えてグランドフィナーレが更に接近する。キャノピーが開き、まるで機体から湧き出るかのように生じたタラップに、スゥは身を躍らせた。
たちまちの内にその身はキャノピーの中に吸い込まれ、そして、グランドフィナーレは飛び立っていく。鋭い光の尾を引いて、その姿はたちまち空の彼方へと消えていった。
「……行っちまったね」
「そうだね、ママ。……なんだか楽しそうだね。久しぶりに見た気がする、そんなママの顔」
確かに知久が見た詢子の横顔は、力強くそして不敵な笑みを浮かべていた。それはあの日まどかと別れて以来、一度として見ることのない表情だった。
「そりゃ笑いたくもなるさ。まどかはきっと帰ってくる。そうしたら家族が増えるんだ。まったく、これはあたしも頑張らなくちゃいけないね。新しい家族に、みっともないとこ見せられないだろう?」
その胸に宿った僅かな希望。それは僅かでも力強く、詢子の中で輝いていた。そこにはもう、絶望に日々蝕まれ続けるだけの女性の姿はなかった。
「さあて、うるさいのが来る前にさっさと退散しよう。そして、ゆっくり寝よう。今日はゆっくり寝られる気がするよ。……それとも、一緒に寝ようか、知久」
思わずぞくりとするほど艶のある声で、詢子は知久の名を呼んだ。まどかが物心つくようになって以来、そんな風に呼ぶことは滅多になかったのだが。
「参ったな。まどかが帰ってくるころには、もう一人家族が増えることになるかもしれない。……行こうか、詢子さん」
そして二人は連れ添って、押し寄せようとする人並みより早く家へと滑り込んだ。
以降の鹿目家の家庭事情については、恐らく特筆すべき事項ではないだろう。