剣がすべてを斬り裂くのは間違っているだろうか 作:REDOX
次はたぶん年明けか年内ぎりぎりの投降になると思います。なので、一応良いお年をと言っておきます。
皆さん良いお年を。
リュティが感じたのは僅かな変化だった。その場は既に完全に彼女の支配下にあったからこそ、感じ取れた異常。腐ってもレベル3という実力まで至った冒険者だからこそ感じ取ることができた危機。圧倒的優位に立っていたリュティが身構えた。目の前にいるのは、勝機などないはずの一人の冒険者だ。そう誰もが思っていた。
ゆらりと、リューが立ち上がった。腕はだらりと力なく降ろされ、もう少しで手に持っていた身の丈ほどある木刀を取りこぼしそうだ。顔の下半分を覆面で隠していて表情は読み取りづらいが、目からは光が失われ顔からは感情が欠けていた。
リューが思いついた幻惑魔法に対する打開策は、上書きという力技だった。敵の《魔法》によって心が操られてしまったのなら、その上からまた違う方法で心を刺激し呼び覚ませば良い。本来、そんなに都合良く相手を惑わす魔法の使い手などいないのだが、リューの横にはアゼルがいた。
アゼルに宿ったホトトギスという怪異の能力には血の摂取による超回復、そしてその副作用として相手を意のままに操る催眠能力がある。アゼルは一度それでリューの動きを封じたことがある。あの時はリューが反発したことによって、未だ自分の力を完全に把握していなかったアゼルの能力は破られ結果としてリューはアゼルを殴った。
しかし、もしリューがそれを受け入れたならば?
例えばアゼルが何かを強く命じながら血を吸い催眠をかけたらどうなるだろうか。
確証があったわけではなかったが、何度目かの挑戦でなんとかものにすることができた。繰り返し繰り返し催眠状態に陥ることにより、ある行動が引き金として彼女は自己暗示のようにその時の状態になることが可能となった。とは言え、まだまだ未完成な技術だ。持続時間は未だ不明、準備時間も必要な上確実性に欠ける。
あれは、アゼルが近くにいなければ到底試みることもできないようなことだった。
自分が自分でなくなるという、五年前味わった感覚と酷似していた。
――戦え
脳裏に再生する、愛する剣士の声だった。
――戦え
脳裏に思い浮かべる、愛する剣士の赤く染まった瞳。
――戦え
脳裏に蘇る、首筋を噛まれた甘い痺れ。
――戦え
呼び起こされるのはかつて忌み嫌っていた自分。自分の中に破壊衝動などないとリューはずっと思っていた。しかし、そんなわけがない。復讐鬼と成り果てた彼女には、確かに何かを破壊したいという感情があった。
意識が、心が、願望が、自分の中のすべてが赤く染まり、血に飢える。
――目に映るすべてを壊せ
――目に映るすべてを殺せ
――目に映るすべてを刻め
――彼等の血をもって、天蓋へと至れ
薄れていた自意識が、底からひっくり返され呼び覚まされる。理性と本能が逆転、目の前の敵を打ち倒せと心が叫ぶ。そこに理由などない、そこに意味などない。ただ彼女がそう望んだからそうする。それが、破壊衝動。
そして、破壊する。体力が尽きるまで視界の中で動くすべてを壊すために身体を動かす。アゼルは、それにただ付き合ってくれた。レベル4の冒険者としての技量に狂化を経て限界を越えた肉体で殺しに来るリューを真正面から迎え討ち、そして丸一日戦い続けた。
リューの体力が尽きれば
破壊衝動は、それを抱えた本人すら破壊の対象とする。通常、肉体は自身を壊さないように制限をかけている。その制限を超え、限界を超えた肉体の酷使はその身体を破壊し、狂気に染まった精神は徐々に摩耗していく。特に、リューにとっては五年前の再現のようなものだ。二度三度と繰り返す内に、もう無理だと思いそうになっていた。四度五度繰り返す内に、心が泣き叫びそうになった。
それでも、アゼルに血を吸われれば抗うこともできず破壊を繰り返した。
六度目、リューにとうとう限界がきた。もう無理だと、アゼルに言ってしまった。赤く染まった記憶が蘇り、そしてその根底へと辿り着く。木刀を振るう度に死んでいった仲間達が脳裏を掠めていく。まるで自分が彼等を殺したかのように錯覚するほどまでに追い込まれた。それは、地獄のようだった。あの悲しみから立ち直ったとは言っても、何度も何度も見せられれば狂うことは必定。
だが、アゼルはリューが狂うことを許さなかった。
――私はリューさんの空色の瞳が好きですよ
今まで再生されていた声より、優しく柔らかい声色だった。逆転していた意識が再び傾く。
――私に染まらないでくださいリューさん
それは、アゼルが打ち込んだ一つの楔。ホトトギスという狂気に飲み込まれていくリュー・リオンを繋ぎ止める一つの願い。
「戦え」
戦え、内なる自分と。人とは理性でもって本能を飼いならす獣の総称だ。正義とは本能には根付かない。考える脳に、感じる心に、誰かを想う感情にこそ正義は芽生える。正義を持って産まれた存在などいない。リュー・リオンという正義は、正しくあろうとする彼女の心そのものだ。
それを失くすことなど言語道断。どれだけ狂っても、どれだけ愛しても、どれだけ溺れても、その正義をもう二度と見失わないと彼女は誓った。
「私は」
ねじ伏せろ、その抗い難い衝動を。ねじ伏せた先には辛い現実と、苦しい未来しかないかもしれない。愛する男に剣を向けるという螺子曲がった関係しかないかもしれない。しかし、それを乗り越えた先に自分の望む未来がある。辿り着けるかも分からない、そんな不確かな未来がそこにある。
「貴方を救ってみせる」
だから――戦え。
リュー・リオンという存在の核、正義を願い誰かを救いたいと想う彼女の心が破壊衝動に飲み込まれようとされかけていた。だが、振り払う。愛した男の狂気は、身を焼くような痛みを伴って彼女を侵した。だが、どこか心地よい、どこか温かい。
それは、間違った願いだったのかもしれない。すべてを斬り裂く刃を打つこと、それは人の手に余る願いだったのかもしれない。しかし、切なる願いは人の温もりを宿す。愚かしくも愛おしい、一途過ぎるくらい一途な剣士もまたその願いを継いだ。
脈々と受け継がれていく、剣士達の目指す頂きこそが彼等の狂気。それは彼等にとって常人が幸せを願うのと同じくらい当たり前のこと。剣を握ったならば頂点に、剣を振るうに最も相応しい者になろうという純粋な想い。
彼等の抱いた願いとリュー・リオンが信じる正義に一体何の違いがあるのだろうか。
違いなどない。
どちらも等しく人が願った夢。
であるならば、彼女に勝てない道理はない。確かに、比べ物にならない時間を彼等の願いは生きてきた。確かに、比べ物にならない執念を彼等の願いは抱えてきた。しかし、それがどうしたというのか。自分の想いがそれらに劣るとは、リュー・リオンは思わない、思いたくない。
歯を食いしばれと彼女は自分に言った。自分は、何時かアゼルという剣士を殺すのだ。その
だから、せめて今度こそ狂気や復讐心のない――
「私の正義もまた狂気か」
心を蝕んでいた狂気が抑え込まれる。本能と理性のせめぎ合いが終わり、静止する。五分五分の勝負だった、瀬戸際の戦いだった。ともすれば、気を抜いてしまえば彼女の理性は本能に飲み込まれ、破壊を求めるだけの獣になっていただろう。
身体だけが、ホトトギスの狂気に侵され殺戮を求める。だが、心には理性が残っていた。
「それでもいい。それで、貴方が救えるのなら」
力が必要だった。真正面からアゼルと斬り合って勝てるだけの力がリューには必要だ。技量では到底敵わない、冒険者としての強さもすぐ追い抜かれるかもしれない。ならば、それ以外に何かが必要だった。
その答えが、倒さなければならないアゼルから貰ったものだということは皮肉に感じられた。しかし、形振り構ってはいられない。
「私は狂わない。貴方がいる限りは――狂えない」
何故なら、リューにアゼルが必要なように、その逆もまた真実なのだから。アゼルにとってリューは自分を人に繋ぎ止める鎖。身体は怪異のそれとなってしまったが、アゼルの心は未だに人だ。感じ、気遣い、苦しむことができる人の心だ。
アゼルにはまだその心が必要だ。だから、リュー・リオンという鎖を必要としている。なればこそ、その鎖が勝手に捻じれ自壊することなどあってはならない。
リュー・リオンはアゼル・バーナムの剣を否定するが故に、その狂気に染まらない。
「貴方も私がいる限りは狂わない」
だから、強くあれとリューは自分を励ました。アゼルは約束を破るようなことはしない。だから、自分が彼を愛している限り彼もまた人でいてくれる。茨の道だ、修羅の道だ、しかし希望がないわけではない。自分が足を止めなければ、自分が光を諦めなければ、活路は必ずある。
それが分かっていれば、足は踏み出せる、その道を歩める。
「さあ、行きますよ」
そこにいない誰かに宣戦布告。最早、人を死へと誘う花など眼中になかった。
森の妖精と喩えられるエルフがその身に宿る力を暴走させ、《
彼女もまた深淵へと瞳を向けた。その奥から見上げる誰かにその色が見えたならばと願い。
気が付けば、そんな言葉すら生易しい。
「――――」
突風が通り過ぎた。リュティは目に埃が入りそうになり思わず目を細めてしまった。それが、決定的な隙になったというわけではない。しかし、僅かに霞んだ視界の中リュー・リオンの姿は消えていた。強すぎた踏み込みで陥没した大地だけが、彼女がそこにいたことを示していた。
そして、突風に次ぐ暴風が轟音を響かせながら大地を砕いた。
「まだ、慣れていないせいか」
「――ッシ!!」
横を向かずともそこにいることは確かだった。リュティは目を向けずに身体を回転させて声の方向をナイフで斬りつけた。そして風を斬り裂いた。残像すら残さない、動き出したら捉えることのできない風の如き速さ。
「少し狙いが付けにくい」
リュティはリューが外した攻撃の跡を見た。大地がまるで巨人の一撃でも受けたかのように抉り取られていた。それは何だとリュティは顔を引き攣らせた。どんな力で振り抜けば木刀で大地を砕くことができる。
冒険者とはそもそも人知を超えた膂力を持ち合わせた連中だ。その冒険者の中でもレベル3にまで至ったリュティからしてもその威力は異常。レベルが一つ違うだけでここまで違いが出るのかと、彼女は思ってしまった。
「だが、薙ぎ払えば当たる」
「貴女、一体っ――」
言葉は続かなかった。横薙ぎに振るわれた木刀の音すら捉えられず、当然ながら目視も叶わず。振り返りナイフを振り抜いた姿勢のまま動くことも許されず、リューの木刀はリュティの胴を捉えた。
おおよそ人間が移動する速度より遥かに速い速度を出し、リュティは地面に一度も付かずに城壁へと激突。勢いは殺しきれず壁の向こう側にまで飛ばされ、漸く彼女は地面に倒れた。勿論、意識は木刀が胴を捉えた時点でなくなっていた。痛みを感じていないことだけが今の彼女の救いなのかもしれない。
「なんとか手加減、できましたね」
この発言を、ベルやリリが聞いていれば大いに否定しただろう。人を木刀で殴り飛ばし分厚い城壁をぶち破るほどの威力を出しておいて手加減とは言わないだろうと。しかし、下手をしていれば、例えば一撃目の威力をそのままリュティにぶつけていれば木刀であってもリュティの胴は斬り裂かれていただろう。
リューは自分の手に入れた力を持て余す。この時、彼女はレベル4の【ステイタス】で少なくとも力と俊敏ではレベル5の冒険者以上の能力を発揮していた。
「はあああぁぁぁ……」
深く息を吸って吐く。僅かに血を流す首元に自分で触れ、そこにアゼルがいないこと、血を吸われていないこと、流血は自分で斬ったから起こっているということを自分の血に触れて自覚していく。そうすると、自己暗示は解かれていく。
そうしなければ解けないのも、まだ慣れていない証拠だろう。戦闘で使いたいのなら発動も解除もノータイムでできなければ意味がない。
「ぁ、ぐっ」
狂化による限界突破の代償は大きい。限界を超えて動いていた身体がたった二度の斬撃で悲鳴をあげた。未だ出力の調節ができないリューは無駄な力を身体にいれてしまっていた。
「私も、まだまだですね」
もっと細かい調節ができるようにならなければ、せっかく手に入れた力に意味がない。だが訓練もそう気軽にできたものではない。何せ発動するたびに激痛を味わうことになる上、暴れられる場所など限られてくる。
それでも、やらなければとリューは決心する。
痛む身体を引っ張るのは彼女の心だ。アゼルを一人にしたくないという愛情を抱いた彼女の心が、痛みを捻じ伏せ、狂気を跳ね除け、そして今輝きを取り戻す。もう二度と折れない、二度と燃え尽きない、夜空に輝く星の如くアゼルのために強くなろうと。
「ええ、待っていてください」
歩く、愛しい人のために。その剣に正義を灯し、何時の日か誰かを救うために振るって欲しいと切に願いながら。それを彼自身の心が望めば最高だ。しかし、すぐには無理だろう。自分のためだけに生きていると思っている剣士には理解し難いことかもしれない。
だから、その日が来るまでは彼の隣で自分が――彼の正義であろうとリュー・リオンは剣を執った。
■■■■
体内に宿ること二週間弱、鈴音の身体能力と精神力は把握していた。一般人には見えない思念体を見ることができる少女は、霊媒としては最適。だが鈴音はホトトギスを封じた一族の血を継ぎ、その《魔法》も継承している。迂闊に支配しようとすれば再び封じられる可能性が高い。
だから、鈴音がホトトギスという力を欲するのを待った。幸いそれはすぐやってきたが、ホトトギスとしては何年でも待つ覚悟があったので若干拍子抜けだった。鈴音は傷付き、血を流し、戦いに負けた。そして、もう一度立ち上がるための力を欲した。
すべて順調だった。抵抗なくその身を委ねさせるために鈴音の愛する男の声と口調まで模倣した。
敗因を挙げるとすれば、ホトトギスという怪異は鈴音という少女を侮っていたことだろう。
――ち……が、う
「ん?」
僅かな違和、身体の一部が思い通り動かなくなった
――ちがう
最高の刃を打つ、その妄執に取り憑かれた彼等は気付けない。それ以外の願いを抱くことができない。それは生前も、そして亡霊となった今も変わらない。だからこそ、忍穂鈴音という少女の狂気を知らない。
――貴方じゃない
そもそも、忍穂鈴音に最高の刃を打つという願望はない。目指すは最も相応しい刃、愛する剣士が最高を望むのであれば彼女は最高を目指すだろう。しかし、そうではない。アゼルが望むのは、忍穂鈴音が打った刀――忍穂鈴音の情熱が注がれた刀だ。
――すべてを斬り裂くのは
必要なのは剣に対する妄執ではなく、剣士に対する
――貴方じゃない
それは、考えてみれば当然の帰結だった。
アゼルを愛しているが故に、忍穂鈴音はアゼルと同じ存在にはなり得ない。彼女の願望がアゼルの願望と完全に一致してはならない。そこに違いがあるからこそ、忍穂鈴音はアゼルを愛している。自分では叶わない願いをアゼルが叶えているわけではないのだ。自分の願いをアゼルに託したわけではないのだ。
鈴音はただアゼルの剣を見ていたい、この世で最も美しい斬撃が世界を刻むその様を見ていたい。それだけだ。
彼女の打った刃は何時の日かすべてを斬り裂くだろう。しかし、刃単体でそれを成してはならない。アゼルという存在があって、その剣士が剣を振るうことで完成する。忍穂鈴音の願いは、それなのだ。
――だから、貴方は邪魔
確かに、彼女は斬る者ではなく打つ者。すべてを斬り裂くという願いを叶えるならば、戦闘ではなく鍛冶だ。
しかし、彼女はそんなことのために槌は握らない。その槌も、腕も、心臓も、血も、魂の一片までもが彼女のために存在しない。
――【彼岸の者、見えざる意志、亡き誰かの残滓、我が声を聞け】
「やれやれ、困ったものだ」
内から聞こえる声を聞き、
――【我は忍穂、人在らざる汝を封じる退魔が血。我は忍穂、終わりなき汝を終わらせる退魔が血】
それは昔ホトトギスを封じた《魔法》。忍穂の血族が先天的に獲得する、退魔の法。
――【死して尚生に縋り付く者よ、現し世に縛り付けられた哀れなる者よ】
「飲み込んだと思ったんですが、逆に飲み込まれるとは」
その詠唱を聞いただけで
忍穂鈴音はもう狂えない、既に狂っているから。
――【集え、閉ざせ、満たせ。塞ぎ、縛り、封ぜよ】
それこそが忍穂を忍穂足らしめる術。目に見えない思念を捕らえ、そして結晶に封じる封印魔法。
――【怨み辛み、苦悩悔恨、嘆き叫びの果てに石となれ】
「でも、会いたい時は遠慮なく呼んでくださいね」
愛とは、きっとどんな感情よりも強いのだ。
忍穂鈴音はアゼル・バーナムの剣を肯定するが故に、その狂気に染まらない。
――【封印結晶】
「――」
聞く耳持たない、覚悟の決まった鈴音を止めることなどできるわけがなかった。呆気なく、鈴音を支配していた思念が手に持っていた刃へと吸い込まれ、そして封じられた。
「そんな時はこない」
身体の支配を脱した鈴音は静かに答えた。もうそこにはいない怪異に対する彼女の答えが紡がれる。永い時を生きた亡霊の願いにすら負けない、彼女が抱いた狂おしいまでの愛情。
「私はアゼルの
例え、すべてを斬り裂く刃を打つことがすべての刀鍛冶の目指すべき頂きだったのだとしても、忍穂鈴音はそれに見向きもしないだろう。何故なら、彼女はすべてを斬るに最も相応しい剣士を知っている。それが自分の目指すべき頂きではないと知っている。
「でも、ありがとう。貴方の力は、確かにここに」
そう言って鈴音は紅い刃を地面に突き刺して歩き出す。突き刺さった刃は砂となって消え行く。封じられた依代を失い、忍穂鈴音に巣食っていたホトトギスはその終焉を迎えた。
足を向けた方向にはダフネが立っていた。勝手に一人で喋り始め、一人で叫び始め、そしてまたもや変貌した鈴音に対して警戒を怠っていない。だが、雰囲気の軟化した鈴音に対して今が好機と感じ攻撃へと転じる。
「今度こそ――」
【ラウミュール】により加速していた彼女は目に見えぬ速さで鈴音へと接近する。
「【
「くっ」
詠唱と共に鈴音を囲うように炎の壁が昇る。そしてダフネはすぐにその炎に異常を感じた。つい先程までと火力が桁違いだった。壁の一部は更に高温になり色を橙色から青白く変色していた。《魔法》の威力は冒険者の【ステイタス】の魔力の値が高ければ高いほど上がるので、更新をしなければ上がることはない。
流石にその炎の壁に突っ込むわけにもいかずダフネは後退した。それに合わせるようにして炎の壁が外側へと爆散、熱風を撒き散らしながらダフネの視界を数秒間奪った。
「しまっ――」
「お返し」
その数秒の間、ダフネが警戒を怠ったわけではなかった。熱風で視界が悪くとも、何か動きがないか注意していた。それでも、鈴音はその上を行った。
炎を纏いながら横から強襲してきた鈴音に対してダフネは即座に反応して回し蹴りを放つ。だが、軽々とまではいかないがなんの支障なくその放たれた脚は鈴音の腕で受け止められた。
「なっ」
「やぁっ!!」
受け止めた腕とは反対の腕を振り抜く。炎を纏った拳がダフネの胴に突き刺さり、そして弾き飛ばす。その拳は今までにない速度を出し、そして今までにない重さを伴ってダフネの意識を揺さぶった。何度目の驚愕だろうかと痛みで思考が纏まらないダフネは思った。
信じられない何かへの執念を見せ、起き上がれるはずのない状態から起き上がり、人が変わったかのように不思議な力を行使し、そして今はつい先程と比べて明らかに向上した身体能力を行使している。
(ありえないっ)
人間の身体能力も冒険者の【ステイタス】も急激に成長することはない。ベルやアゼルという一ヶ月弱でランクアップを果たす異例があるが、流石に数分の間に成長するのは理解不能だ。しかも更新もしていない。
導き出される答えは、人としての成長でも冒険者としての成長でもないということ。しかし、それが一番ありえない。というよりダフネには何も思いつかなかった。
「何なんだ、何なんだよアンタはぁっ!?」
怒りのまま我武者羅にダフネは拳を振り抜く。先程まで反応できていなかった鈴音が今はしっかりと拳を捉えて弾いている。なんなんだその成長は、とダフネは心の中で叫んだ。何故こんな少女までもが不可能を可能に変えるような力を宿している。
何故、自分にはそれがなかったのかと嘆いた。
「私は、アゼルの
一歩、大きく踏み込んで鈴音はダフネの懐に入った。至近距離で鈴音の拳を見て、ダフネは一つの変化に気が付いた。
「だから、これはアゼルの力」
迫る右拳を避け、通り過ぎる時にその甲を一瞬見た。そこに描かれていたのは花の紋様。六枚の花弁は輪状に咲き、長い雌しべと雄しべが伸びている。それは不吉の象徴、屍者の国の花、死を匂わせる彼岸の赤。
それが今血のように赤く鈴音の手の甲に描かれ、そして淡く発光していた。その光にダフネは見覚えがあった。
(それはっ、それこそありえないっ)
「これは、私とアゼルの絆」
武神タケミカヅチはアゼルを剣の精霊と称し、ヘスティアもヘルメスもそれに同意した。であれば、一つの可能性を考慮すべきであった。遥か太古、精霊達が人間達にもたらした奇跡。今となっては誰もそれを授かってはいないであろう、忘れ去られた神秘。
人々に祝福を与える、精霊の加護。神々が与える【ステイタス】とは少し違った、人を強くする力がかつて存在した。
「それは【ステ――」
右から襲う鈴音の左拳を弾きながら、ダフネは叫ばずにはいられなかった。だが、その暇は与えられなかった。弾いた左手がダフネの右手を掴み、そして勢い良く引っ張った。
「ごふっ」
そして突き出された右の掌底が胸にめり込む。心臓へと打ち込まれる重い一撃、肺の中から空気が強制的に吐き出され、意識が一瞬飛んだ。そして、鈴音は追い打ちをかける。
「【
灼熱の如き痛みを鈴音に与えながら右手の甲に描かれた花の紋様が更に光を灯し、そしてダフネを巻き込みながら炎を打ち出す。掌底の威力、そして炎の弾丸に吹き飛ばされダフネは何度か地面を転がり、最終的に十
痛みに支配された身体を起き上がらせようとダフネは試みるが、無理だった。肋骨が折れ肺に刺さっているのか、呼吸をする度に気絶しそうだった。そして、何より心が折れていた。
何故自分はこんなにも踏みにじられなければならないのかという絶望、そして理不尽を跳ね除ける力があった鈴音への羨望。
もしここに親友がいれば、そうであったなら勝てたのだろうかと想像してしまった。ありえない過程、戦いに近付けたくない彼女と共に戦う、守るべき彼女に守られる。
でも、そんなことがあってもいいのかもしれないと想像しながら、ダフネ・ラウロスの意識は途絶えた。
「はぁっ――」
肩で呼吸をしながら鈴音は地面にへたり込んだ。そもそも身体は限界を迎えていたのだが、身体が支配された辺りから身体の調子が良くなっていた。踏み出す一歩には以前より力が入り、身体を動かす速度は明らかに上がり、見えなかった相手の動きも見えるようになっていた。
そう、それはまるで【ステイタス】が一気に向上したような感覚だった。
「やったっ」
それは、勝利に対する喜びだったのか、それともその手の甲に浮かび上がった紋様に対する喜びだったのか。どちらにしろ鈴音は戦っていた時の雰囲気とはかけ離れた年相応の少女のように喜んだ。身体が本調子なら飛び上がっていたかもしれない。
「私は勝ったよ、アゼル」
自分の右手の甲の紋章を眺めた。花としては歪な形、毒もあり屍者に咲くとも言われる不吉な花。しかし、今の鈴音にとっては何よりも大切なものだ。既に痛みも引き輝きも収まったそれを鈴音は優しく撫でた。それが、何であるか定かではない。しかし、それがアゼルから貰った力であることは間違いない。
それは、アゼルと鈴音が深く繋がったことによって花開いた――死を匂わせる一輪の花。
「へへ」
少し照れながら鈴音は手の甲を唇で触れた。軽く、愛するアゼルに口付けをするように感謝と愛情を伝える。自分でしたことに恥じらいを感じながらも、心と身体を満たす充実感がそれを吹き飛ばす。疼きが、止まらない。
「――鈴音」
「っひゃい!」
突然名前を呼ばれて鈴音は驚き変な声で返事をしてしまった。戦闘が終了した戦場でへたり込みながら自分の手の甲にキスをしているのを見られたと思うと、それが誰であっても顔が合わせづらい。しかし、振り向かなければそれはそれでおかしい。意を決して鈴音は名前を呼んだ声の主を見た。
そこにいたのは緑のマントと顔の下半分を覆面で姿を隠したエルフだった。露出している脚や腕には所々傷があったがそれ以外の怪我が見当たらなかった。
「そちらも終わりましたか」
「……リューさん、よかった」
「よかった?」
「何んでもないですっ」
相手がリューであれば、そこまで恥を感じることはない。何せリューにも人には言えないようなアゼルに関わる恥ずかしい行動が色々とあるのだ。手の甲にキスしていたくらいでは比べ物にならない。
鈴音はこの時自分がアゼルの指を舐めて血を吸ったことなど頭になかった。そんなことよりも、訓練と称してアゼルに何度か血を吸わせていたリューが少し妬ましかった。
「まあ、無事で何より。立てますか?」
「た、立てます」
「はぁ……何を意地を張っているんですか。ほら」
「うっ」
立ち上がれそうにない鈴音を見かねてリューは手を差し出す。一度断っておいて素直にその手を取ることができない鈴音に業を煮やしてリューは強引にその手を掴んで起き上がらせ肩を貸して立たせた。その時、やはり目立ったのは手に描かれた彼岸花だった。
「それは?」
昨日まではそんなものなかったので疑問に思ったリューは質問した。それ以外にも、どうやって辺りに転がっている冒険者達を倒したのかも疑問ではあったが、それは後々アゼルを交えて聞けば良いと思った。
「秘密です」
「私の訓練方法を聞いておいて、それは些か不公平ではないですかね」
「ふーんだ」
「これからアゼルのところに行こうと思っていましたが。そうですか、では置いていくとします」
「別に、一人でも行けます」
リューは鈴音から身体を離し、数秒間様子を見た。案の定体勢を保てない鈴音は倒れそうになったので、再び肩を貸して歩き始める。
「後で話してくださいね」
「くっ、こんなの卑怯です。了承してません、私」
「一人で走った方が早く追いつけそうですね」
「うぅぅぅ…………後で、話します」
「期待してます」
恋する二人は隣を歩く。道は違えど求めるのは同じ剣士、過程は違えど触れたのは同じ狂気、語らずとも何故かそれは分かってしまう。境遇を羨みもするし、技術に妬みもする、強さに憧れもある。しかし肩を貸して歩く二人の姿はどこか仲の良い友人のように仲睦まじく見えた。
「あ、あっちです」
「……何で分かるんですか?」
「ひ、ひみ……後で話します」
鈴音は思わずにやけてしまった。己の中から感じる、確かな感覚。それが指し示す方向に、アゼルがいるという確信が彼女にあった。以前よりも遥かに近く、遥かに強く、アゼルという存在を感じることができる、それが彼女にとっては何よりも嬉しかった。
閲覧ありがとうございます。
感想や指摘等あったら気軽に言ってください。
限界突破、大好きです。それだけで浪漫がある気がします。
そして、鈴音は皆の思っている通りな感じなので詳しい説明は今後、たぶん次の章ですると思います。と言っても、そこまで詳しく説明することもないですが。