剣がすべてを斬り裂くのは間違っているだろうか   作:REDOX

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斯くして、新たな風が吹く

「行くのかい?」

「はい」

 

 日が昇りまだそれ程時間は経っていない。平時の『豊穣の女主人亭』であれば、従業員総出で店支度に勤しんでいる時間帯なのだが、今日は少し違った。

 女将であるミアは今店ではなく従業員が住んでいる離れへと来ていた。その一室、リュー・リオンに与えられた部屋で彼女はその部屋の主と向き合う。彼女は普段着ている仕事着、若葉色の給仕服ではなく冒険者としての装いをしていた。

 

「アンタがシルに連れられてここに転がり込んできてから五年、漸く一端の給仕係になってきたと思っていたんだが、まったく」

「すみません」

「ふん、謝るくらいなら最初から出ていくんじゃないよ」

「それは、できません。私は再び、戦う理由を得たのですから」

 

 空色の瞳がミア・グランドを射抜く。その目に迷いなど皆無、覚悟を決めた戦士の目だ。例え、この場でミアが力づくで止めると言っても、リューは止まらないだろう。

 

「迷いは、ないんだね?」

「はい」

「あの坊主がどれほど危険な輩か、分かっているんだね?」

「はい」

「そうかい、ならアタシから言うことは何もないさね」

 

 ミアのその一言で部屋の中の空気が軽くなったようにリューは感じた。やれやれと、今は呆れているミアだったがつい先程まではリューの覚悟を試すために威圧していたのだ。決断したリューには然程効果はなかったが。

 

「ま、アンタの借金五〇〇〇万ヴァリスはまだまだ残ってるんだ。次からは客として金を落としていきな。なんならあの坊主に全額払ってもらっても良い」

「ふふ、そういえば、そんな理由もありましたね」

 

 それはリューがシルに拾われてからすぐのこと。傷付いていたリューが起きたのでミアが食事を摂らせたのだが、全部食べきった後に食事代五〇〇〇万ヴァリスを請求した。勿論無一文だったリューにそんな額支払えるわけもなく、借金という形になり従業員として働いていくことで返済することとなった。

 今となっては、そんなことを忘れてしまうほど自然と仕事をしていた。

 

「今までありがとうございました、ミア母さん。何もお返しができずに出ていく親不孝者をどうか許して欲しい」

「何いってんだい、アンタは。娘の門出だよ、祝ってやるに決まってるだろう」

 

 力強い腕がリューを抱きしめた。男勝りで、力もそんじょそこらの冒険者より何倍も強く、ガサツな口調のミアの抱擁は、柔らかく、温かく、自分が愛されていたことをリューに伝えた。リューも抱擁を返す。今までの従業員として色々な苦労があった。

 そもそもエルフであるリューには接客が向いていなかったが、それまでずっと荒事にしか関わってこなかったリューには買い出しすら困難だった。それを厳しく叱りつつも迎え入れてくれたミアに対する感謝はどれほど言葉にしても足りない。

 

「自由に生きなリュー、アンタにはそれが合ってる。【疾風】リュー・リオンは死んだかもしれない、こっからはただのリュー・リオンとして生きていくんだ」

「はい」

「正義だけじゃなく、アンタ自身が望んだことを叶えるために戦いな」

「誓って」

「……アンタの綺麗な髪、染めちまって悪かったね」

 

 腕を解いたミアはその大きな手でリューを撫でた。元々は綺麗な金髪だったのだが、姿を隠すためにミアが染めさせたのだ。申し訳なさそうにするミアにリューは首を振った。

 

「気にしないでくださいミア母さん。髪の毛など関係ない、美醜など関係ない、この心がある限り、私はリュー・リオンに違いないのですから」

「――はっ、言うようになったねえ!」

 

 リューの言葉で笑顔になったミアは彼女の背中を叩いた。痛かったがリューはそれを感じることもこれが最後になるのかもしれないと思うと、泣きそうになった。

 ミアは叩き終わると一歩横に動き、ドアへの道を空けた。

 

「忘れんじゃないよ。アタシはいつだってアンタの味方さ。あの坊主に何か酷いことでもされたならアタシに言いな、一発拳骨でもおみまいしてやるさ」

「ありがとうミア母さん。でも、大丈夫です。その時は私自身が一撃入れるので」

「はっはっはっ! その調子なら大丈夫そうだね!」

 

 ドアに向かって歩くリューにミアは笑いかけた。最後は湿っぽくしたくないというミアらしい態度だった。

 リューがドアノブに手をかけた。そして、振り向かずに『豊穣の女主人亭』の給仕としての最後の挨拶を交わす。

 

「行ってきます、母さん」

「行ってきな、バカ娘」

 

 どこか寂しそうな最後の声がリュー・リオンを激励する。去っていく彼女を止めることなどもう誰にもできないのだ。ただ流れるそよ風でさえ人には止められないというのに、嵐の如く強く鋭く走る彼女を誰が止められると言うのか。

 

「はぁ……こりゃ、ちぃとばかし寂しくなるねえ」

 

 誰もいなくなった部屋でミア・グランドが小さくこぼした。

 

 

 

 

 果たして自分はどのような顔で彼女達に別れを告げればいいのかリューは分からなかった。いや、別れという表現自体少し間違っている。何も二度と会えなくなるわけではないし、その気になれば毎日だって会いに来れるだろう。

 だが、五年間共に働いてきた仲間達と袂を分かつことは確かなのだ。

 

 別れを告げずに出ていくという選択肢は彼女にはない。それはあまりにも恩知らずな行為だ。この店はただ彼女の職場というだけではないのだ。故郷とでも言うべきか、それほどまでに彼女にとっては大切な場所になっていた。

 しかし、いざ別れとなるとなんと言っていいのか全く分からなくなってしまった。

 

 そのままだと何時間も離れと店の間で悩んでいることになっただろう。そうならなかったのは、相手の方から来てくれたからだ。

 

「ほらニャ、ミャーの言った通りうだうだ悩んでたニャ!」

「そう言ったのはオミャーじゃなくてミャーだニャ!」

「ニャンだとぅ!?」

「うっさいわよ馬鹿猫ども」

「「脳筋ヒューマンは黙ってろニャ!」」

「あぁん、やんのか?」

「もうっ、三人共煩い!」

 

 果たして、リューが悩んでいることを言い当てたのは誰だったのかはリューには分からない。だが、同僚達が来てくれたことが嬉しかった。そして、いつも通りの彼女達を見て微笑む。

 三つ巴の喧嘩にヒートアップしかけていたアーニャ、クロエ、ルノアの三人はシルに叱られて当初の目的に戻る。

 

「む、オミャーのせいで怒られたニャ」

「ニャンだとっ、オミャーのせいだろニャ!」

「二人共?」

 

 新たな火種が発生しようとしていたのでシルが釘を刺す。笑顔なものの目が全く笑っていないシルを見て猫人(キャットピープル)の二人は黙った。職場の力関係が分かる場面だ。

 

「ふふ、ごめんねリュー。二人共リューと別れるのが寂しいだけなの」

「「ニャッ!?」」

 

 驚きの声を上げながらアーニャとクロエは赤面した。シルの言ったことは図星だった。

 

「ニャ、ニャんのことかニャ? このアーニャ様が寂しい? 冗談は休みまくって言えニャ」

「シ、シルもジョークが上手くなったニャア、ニャハッハッ!!」

 

 慌てて取り繕おうとする二人だったが、演技とも言えない演技に誰も騙されはしなかった。

 

「アーニャ、それを言うなら『冗談も休み休み言え』だよ」

「ニャウ!?」

「クロエ、笑うならもう少し楽しそうな顔した方がいいよ」

「ニャァ……」

 

 シルの指摘にアーニャは衝撃の真実を知り、クロエは項垂れた。そんな二人と見て、リューは笑ってしまった。今まで何となしに二人のやりとりを見聞きしてきた。その度にやれやれと呆れながら仲裁したり、後片付けをしていたものだ。だが、これからはそんなこともないと思うと寂しく思えた。

 

「いつもの二人でいようとしてくれてありがとう、アーニャ、クロエ」

「べ、べっつにそんニャンじゃニャいニャア」

「そうニャそうニャ、誰がこんな駄猫と漫才みたいなことを進んでするニャ」

「オミャーの部屋には鏡もねえのかニャ?」

「ニャンだと?」

「………」

 

 シルからの無言の圧力で二人の言い合いは止まった。ルノアはもしや二人は猫ではなく鳥なのではないかと思い始めていた。

 

「ふっふふ」

「ニャー……オミャーのせいでリューにまで笑われてるニャ」

「だから、これはオミャーのせいニャ……」

「いえ、すみません。私は案外他愛もない言い争いをしている二人が好きだったようです」

 

 普段のリューであれば決してそんな直接的な言い方はしなかっただろう。否、いつもの彼女であればそんな感想すら抱かなかったのかもしれない。だって、それは彼女の日常だったのだ。

 

「アーニャ、私は時々貴女の明るさが羨ましかった。根拠のない貴女の励ましに救われたこともあった、悩みを吹き飛ばすような明るい声に後押しされることもあった。だから、ありがとうアーニャ」

「ま、まあ、ミャーにかかればそれくらい朝飯みたいなもんニャ」

 

 真っ直ぐなリューの言葉にアーニャは照れて顔を逸らした。自分が馬鹿であることに自覚がある彼女は、実のところ褒められることに慣れていない。

 素直になれないアーニャにリューは抱擁をする。リューからは想像できないそんな行動にアーニャは固まったが、ゆっくりと抱擁を返した。

 

「その、ニャンだ。ミャーが仕事を増やしておくから、いつでも戻ってきていいニャ」

「ふふ、ありがとう。でも、私は戻ってはこないでしょう」

「ニャー……じゃあ、剣バカと仲良くニャ」

「ええ、貴女も兄と仲良く」

「無理な注文だニャ!」

 

 そう言ってアーニャはリューの頼みなら目を合わせるくらいは譲歩してもいいか、などと考えながら最後に強くリューを抱きしめた。リューにそれに応えてアーニャの背中を撫でた。年相応に小さな背中だ、だがきっとその背中に皆が何かを背負っている。

 それを感じさせない能天気さがアーニャ・フローメルという猫人の魅力なのかもしれない。

 

 回した腕に柔らかな尻尾が巻き付く。数秒すると尻尾は離れ、そしてアーニャも抱擁を解いた。そのまま急ぎ足で店内へと戻っていった。

 

「次はミャーかニャ?」

「クロエ」

「ミャーに対する感謝を早く聞かせるニャ、ん? ん?」

「はぁ……貴女という人は」

 

 感謝を催促する図々しさは見習うべきなのかそうするべきでないのか。だが、そんな性格も彼女らしいといえばそうだ。クロエ・ロロ、オラリオの暗黒期に活動していた凄腕の暗殺者【黒猫】は金次第でどんな依頼でもこなしたという。

 

「クロエはそうですね……暗殺者稼業から足を洗ったことは良かったのですが、それとは別に青少年を襲って犯罪を犯さないか少し心配でした」

「んニャ!? ここにきてダメ出しとかリューも鬼畜ニャー!」

 

 そう言いながらもクロエは笑顔だった。言ってはなんだがリューが軽口を叩くことなどあまりなかったのだ。たしなめる役か、それとも実力行使で黙らせる役か、そんなものだ。

 

「これからはもう少し男性の臀部以外にも目を向けてみてはどうか」

 

 オラリオで恐怖の代名詞とも言われるほど名を轟かせた暗殺者であるクロエだったが、彼女の趣味は男に成りきれていない少年の尻が好きという変態だった。因みに今のお気に入りはベルの尻であると公言している。恐らくシルに次いでベルの来店を待っている人物だ。

 

「自分が恋したからって急に偉そうニャ!」

「い、いえ、私は貴女を思って」

「大体、あんな面倒くさい男に惚れたリューに男の趣味をとやかく言われたくはないのニャ!」

 

 リューは何も反論できなかった。

 

「ニャー、でもあの剣馬鹿は何故かモテモテらしいし、浮気でもされたらミャーに言うニャ。親友料金で格安にしておいてやるニャ」

「アゼルはそんな人じゃありませんよ。だが、私を親友と言ってくれたことはとても嬉しい」

「ニャッ……ミャーだって、こんなミャーをリューが嫌わないでくれて、嬉しかったニャ」

 

 本来であれば相反する二人だ。正義を志していたリューと悪を以て悪を制してきたクロエ。しかも、クロエはリューの暗殺を請け負っていたという過去がある。

 それでも、二人が何の禍根もなく付き合ってこれたのはクロエの性格故だろう。

 

 アーニャの時と同じように抱擁を交わす。

 

「元気でニャ。もう暗殺者ニャんかに狙われないようにニャ」

「元暗殺者に言われると不思議な気分ですね」

「まあ、あの剣馬鹿と一緒にいるニャら大丈夫ニャ。ミャーだったら絶対に相手にしたくニャいニャ」

「ふふ、賢明な判断だ」

「……ズビッ」

 

 小さく鼻をすする音がした。リューは今まで一度も見たことはないのだが、クロエの素の性格は泣き虫で怖がりなのだ。

 

「じゃ、じゃあミャーも行くニャ。仕事しないとミア母さんにどやされるニャ」

 

 目尻に涙を溜めてクロエはリューに背を向けて店へと消えていく。中からお互いを馬鹿にするような声は聞こえなかった。

 

「はぁ、まったくあの二人はしんみりしたくないのかしんみりしたいのか、よく分からないわね」

「そう言ってあげないでください。私とて気を抜けば泣いてしまいそうだ」

「へえ、そうなの。昔の貴女からは想像できないね」

「ルノアこそ、昔からは想像できない姿ですよ」

「それもそうねえ。気をつかってくれる亭主を捕まえて狭い家でゴロゴロしているはずが、何の因果か今は酒場の給仕係。本当に、どこで間違えたのかな?」

 

 そう苦言を呈したルノアは発言に対して笑顔だった。今の生活も言うほど嫌ってはいないのだろう。むしろ、居心地が良いとさえ感じているのかもしれない。リューがそう感じていたように、同僚がいて、母親がいて、まるで家族のような居場所だったのだ。

 

「私の暗殺を請け負ったことじゃないですか?」

「あー、やっぱしそうなのかな? まあ、でもそれはアンタに会えたからちゃらってことで。あの時店を壊したのが悪かったのかな」

「あの時のミア母さんは怖かったですね」

「殺されるかと思ったわ」

 

 五年前、リューがシルに拾われて豊穣の女主人亭に匿われた時、クロエとルノアが同時にリューの暗殺を請け負っていた。それがそもそも依頼人がリュー、クロエ、ルノアの三人を一網打尽にするために練った罠だったのだ。

 勿論その罠は失敗、三人に加えアーニャまで参戦して店の中で大暴れ。その結果店は半壊、ミアの怒りの拳骨によって全員沈められた。

 

「まあ、今生の別れってわけでもないし、ほどほどに頑張りなさい」

「ええ、ありがとうございます」

「でも、いいなあ。アゼルは稼ぎは良いし、気障ったらしい時もあるけど気も利くし」

「ゴロゴロはさせてくれませんよ、きっと」

「分からないわよ、ああいう奴に限って惚れた女に弱かったりするのよ。私は御免だけど」

 

 ルノアはリューと短い抱擁を交わし、じゃねって挨拶をしてから戻ろうとした。途中で一度振り返って。

 

「私の拳もまだ死んじゃいないから、必要な時は言ってね」

 

 そんな言葉を置いて去っていった。

 

 残ったのはシルとリューの二人だけ。二人は去っていくルノアの背中を見て苦笑いを洩らした。

 

「もうっ、皆物騒なんだから」

「それだけ心配してくれている、ということでしょう。全部アゼルに関してのことなのが少し釈然としませんが」

「心配なのは分かるけどね。何も暴力で解決しなくたっていいじゃない。アゼルさんだって話し合えば分かってくれるのに」

 

 自分の親友の想い人をまるで猛獣のように思っている同僚達に対して若干の怒りを覚えながらシルは文句を言った。だが、リューはあながち彼女達の言ったことは間違っていないと思っている。話し合えば分かってくれる、それは確かにそうだ。

 だが、リューが触れようとしているのは、変えようとしているのは話し合いではどうにもならない部分なのだ。アゼル・バーナムという人間の根幹に関わる、彼の曲げられない部分なのだ。

 だから、最後は実力で押し通すしかない。

 

「あのね、リュー。私ね、寂しいけど、凄く嬉しいの。私があの時リューを助けたことが無駄じゃなかったって分かった。今のリューを見て、あの時手を差し伸べて本当に良かったって、思えてる」

「それは、私の台詞だシル。あの時貴女が手を差し伸べてくれたことに、私はどれだけ感謝してもし切れない。だから、謝らせて欲しい。貴女に救われたこの命を、私は私のために使い、危機へと追いやり、無駄にしてしまうかもしれない」

 

 シルがいなければリューは死んでいただろう。その命をシルのために使うという考えはそれほどおかしな考えではない。そこまで思ってはいなかったが、それでも可能な限りシルのために何かしようとリューは思ってきた。

 だが、これからはそんな余裕はないかもしれない。

 

 剣士の背中を追いかける、それは修羅道に他ならない。

 剣士の隣で戦場に立つ、それは死の淵に違いない。

 剣士と向き合い剣を交える、それは死合と決まっている。

 リューがこれから歩もうとしている道は死で満ちている。道半ばで死んでしまう可能性など有り触れている。

 

「リュー、私の願いはたった一つ。リューがリューとして生きること。私の大好きなリューが、自分の思うままに生きること。それはとても危険な道かもしれない、それはとても無謀な選択かもしれない、それはとても辛い未来かもしれない――でも、私はいつだってリューの味方」

 

 シルはリューの首に手を回し抱きついた。

 

「だから、リューは大丈夫。貴女は死なない」

「……シル、一つお願いをしていいですか?」

「いいよ、何?」

 

 リューはシルの肩を押して向き合うだけの距離を空けた。鈍色の瞳と空色の瞳が絡み合う。

 

「おまじないを、してくれますか」

「――もうっ、仕方ないなぁ」

 

 どんなお願いをされるのかと僅かに身構えていたシルは、リューの言葉を聞いて笑顔を咲かせた。それは、二人が出会ったばかりのこと。目覚めたばかりのリューを笑顔にしようとシルは「元気になるおまじない」をリューにしてあげたのだ。結果は惨敗、全く効果がなかった。何をしているんだこの少女は、と少し危険な人を見るような目で見られる結果に終わった。

 だが、今回は彼女からそれをしてくれとの要望だ。

 

「じゃ、ちょっと屈んでね」

 

 シルに言われた通り、リューは屈んで顔を近付けた。出会ったばかりの頃から何故か逆らえない少女、自分のしてきたことが少なくとも誰かにとっては正しかったのだと教えてくれた少女、何にも代えがたい親友。

 決別ではない、だがリュー・リオンは選択した。シルと共に豊穣の女主人亭で働いていくか、それともアゼルと共に歩んでいくか。

 

「リューさんは、元気になーる、元気になぁーるー」

 

 リューの目と鼻の先でシルは人差し指で円を描いていく。懐かしい、シルがリューのことをさん付けで呼んでいたのはもしかするとあのおまじないの時だけだったかもしれない。つい昨日のように思い出せる少女の奇行。あの時は精神攻撃か何かと思っていたが、今はその優しい声に耳を傾ける。

 

「リューさんは、笑顔になぁーるー」

 

 円を描く指は止まらない。おまじないに意味などない、効果などなくともいい。リューはただシルとの思い出を、二人だけの思い出を大切にしたかった。

 おまじないの最後はその指が相手の鼻をつついて終わりだ。その時をリューは待ち構えた。

 

「ふふ――えいっ」

 

 鼻が押される感覚――はなかった。その変わりに額に柔らかい何かが押し当てられる。少し湿っていて、温かい。リューの視界を占めるのはシルの給仕服の胸元だった。

 

「決して立ち止まらないと、誓えますか?」

 

 シルは両手でリューの頭を包み、額に口付けをした。そしてそのままリューの頭を胸に抱く。優しくも厳かな声がリューの耳に届く。

 

「――はい」

「決して諦めないと、誓えますか?」

「――はい」

「決して後悔しないと、誓えますか?」

「――はい」

「その想いが正しいと、誓えますか?」

「――この存在に懸けて」

 

 短い言葉のやり取りだった。その質問だけ済ませると、シルはリューを離した。

 

「なら、私は貴女を笑顔で送り出せます」

「ありがとう、シル」

「貴女の時は動き出し、吹き始めた風は誰にも止められはしない。だから、どこまででも貴女に宿った翼は羽ばたいていけるでしょう」

 

 普段のシルとは違う、幻想的な雰囲気、神秘的な姿。目が離せない、可愛らしい少女だったはずなのに、今やその美しさは美の女神の如くリューを惹きつけた。

 

「一度折れてしまった貴女の正義の剣が果たして何を守れるのか、私は見守りましょう」

「ええ、見ていてください。もう二度と、私は失わない。失うことが運命だと言うのなら、それすら越えてみせましょう」

 

 リューはシルの額に唇を宛てがった。それは誓い。

 道半ばで死んでしまうかもしれない、でもその死ぬ瞬間まで諦めはしない。誰に何と言われようと、愛した人に剣を向けようと、己の想いが正しいのだと信じ続ける。

 それを少女に、そして自分に誓った。

 

「行ってきます、シル」

「うん、行ってらっしゃいリュー。次会う時はお客さんだね」

「そうなるでしょう。その時はアゼルも、クラネルさんも連れてきます」

「ふふ、ご来店お待ちしています」

 

 それは別れ、それはけじめ。シルはお辞儀をしてリューを送り出した。リュー・リオンはその場から、自分が家だと思える建物から、自分が家族だと信じている関係から、躊躇うことなく駆け出した。

 

「私は、ずっと貴女の味方だからね、リュー」

 

 そうして少女も己にそう誓った。その誓いは何を反故にしようとも、決して破れない。

 

 

■■■■

 

 

 朝日が昇り、村人の大部分が農業で生計を立てているその村では既に多くの人間が外へと出て畑仕事を始めていた。そんな彼等を、一人の女性が眺めていた。柔らかな陽の光を受けた艶やかな金髪が穏やかな風になびく。赤い瞳は人々を眺め、そしてやがてある方向へと向けられる。かつて自分がアストレアと呼ばれ、眷属達と共に暮らしていた迷宮都市オラリオ。

 その視線の遥か彼方、未だ自分が血を与えた眷属の存在を感じ取る。

 

 会わなければ。だが、どのような顔をして会えば良い、どのような話をすれば良い。そもそもリューは自分に会いたくなんてないかもしれない。だって、自分は彼女を見捨ててしまったのだ、家族だと受け入れたのに置いてきてしまったのだ。

 彼女の心を占めるのは焦燥感と罪悪感の葛藤だった。

 

「私は、どうすれば――」

 

 否、問うべきはその問いではないと彼女は分かっていた。何をすべきか、ではなく彼女がどうしたいのかを問うべきなのだ。

 だが、その問いに対する答えはもう出ている。出ているが、最後の一歩が踏み出せない。最後に見た少女の涙が未だに彼女の中に焼き付いていた。その記憶は心を締め付け、後悔に押し潰されそうになる。

 

「私はなんて……なんて弱い」

 

 彼女を救えるのは自分だけだなんてアストレアは思っているわけではない。数日前に見たリューの姿は昔のように一本芯の通った姿だった。自分の信じる何かのために戦う、正義を志していた昔日のリュー・リオンの姿だった。

 だから、彼女はきっと誰かに救われたのだ。救われたからこそ、再び剣を執り戦っている。

 

 今更自分が行って何になる、放り捨ててしまった自分に何ができる。違う、それは違う。分かっているのだ、何にならなくとも、何もできなくとも、自分は行かないといけないのだ。あの時置いてきてしまったからこそ、今戻らなければならないのだ。

 そう、分かっていても心のどこかで彼女は考えてしまう。もしリューに責められたら、何故もっと早く帰ってきてくれなかったのかと言われたら、彼女はきっと耐えられない。

 

「ユティさんっ」

「どうかしました、テネリタ?」

「はあっ、はあっ。えっと、ユティさんに会いたいって人が来てて」

「私に?」

「は、はい。あ、でも、最初は()()()()()()って人に会わせろって。誰も知らないって言ったら、金髪で紅い瞳の綺麗な女性だって」

「――ッ」

 

 その名前で呼ばれてアストレアは心臓を鷲掴みにされた気分だった。だって、それはこの村では誰も知らない彼女の名前だ。隠してきたわけではない、だが誰にも聞かれたことはないし、聞かれるはずがなかった。

 だが、できればこの村では最後まで、ユティという名前でいたかった。

 

「その方はどこに?」

「えっと、今は広場にいます。ここまで()()()()()って言って、凄く疲れてたので休んでます」

 

 その走ってきたというのが、どこから走ってきたのかアストレアは考えた。テネリタはせいぜい一番近い村からだろうと思っていたが、アストレアは違った。

 そもそも、この辺境の村に来てアストレアの名前を口にする人物など限られる。この村までアストレアを送り届けた【ヘルメス・ファミリア】の団員しかいないのだ。だから、恐らくオラリオからこの村まで走ってきた、ということだろう。

 

「案内をお願いします」

「はい」

 

 テネリタに連れられ、アストレアは村の広場へと足を運び、そこで疲れ果てて地面に座っていた犬人(シアンスローブ)の女性を見つけた。

 

「あ! アストレア様! よかったぁっ!」

「貴女は」

 

 褐色の肌に少しぼさっとした髪の毛。琥珀色の大きな瞳に赤いスカーフが目立つ。その姿をアストレアは少しだけ覚えていた。この村に来る時、送り届けてくれた【ヘルメス・ファミリア】の一団の中にいた覚えがあった。

 苦労人の多いあの【ファミリア】の中での一層こき使われていた印象が強かった犬人の女性。

 

「あ、私【ヘルメス・ファミリア】所属のルルネ・ルーイって言います!」

 

 跳ね上がるように立ち上がりルルネはお辞儀をした。そんな彼女を見てアストレアはとうとうその時が来たのだと悟った。

 

「お迎えに上がるよう、ヘルメス様に言われて来ました!」

 

 止まっていた時は今軋みながらも――再び動き出す。




閲覧ありがとうございます。
感想や指摘等あったら気軽に言って下さい。

というわけで、ええ、原作とはがっつり変わった立ち位置にリューさんがなるということになりました。前々から匂わせていた展開なので、まあ読者の皆さんも予想できていましたよね。これからも頑張って変化した彼等を書いていきたいと思います。
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