クロエ・クロニクルは同情する
クロエ・クロニクルは目覚めた後、いつもの様に苦手過ぎる料理を作るため、ラボの居住区へ向かった。
しかし、そこではまるでまだ夢から覚めていないのかと錯覚するような光景が広がっていた。
クロエの仕える篠ノ之束、天才科学者が居住するそこは、当代最高峰の技術で作られた機械仕掛けの科学の園である――はず、なのだが。
「るんるんりるん、るんるんらるん♪」
お花畑になっていた。
比喩でもなければホログラムでもなく、当然今の束の脳内を婉曲に表現した訳でもない。
密閉された部屋にむせ返るような土と草と花の香り。見れば何処で捕まえてきたのか、白と黄色の蝶まで辺りを羽ばたいている。全自動の空調が時折爽やかな風を送り、花を揺らしていた。
余りにも異常な光景に数秒間静止したクロエだったが、思えばこれも何らおかしくはないのだ、と思い直し、平常心を取り戻した。
考えてみればこのラボは、篠ノ之束の分身のようなもの。ラボの状態に彼女の精神の様子が反映されるなど、いつものことではないか。
篠ノ之箒がIS学園への入学を決めた時は、IS学園の制服を来た束に言われるまま、クロエまでランドセルと、何故か幼稚園児風のスモックを一緒に着せられたことさえあるのだ。
その時の不思議な気恥ずかしさに比べれば大丈夫。なんらおかしいことはない。クロエは戸惑いを振り切るために首を振る。三つ編みの銀髪が揺れた。
そして、花畑の真ん中にあるピンク色のドレッサーに座り、何やらいそいそと手を動かしている束に挨拶した。
「おはようございます、束さま」
「おはようくーちゃん! おはようおはようおはよう!」
一枚のコインを差し出したら、おつりでトランク一つ分の札束が帰ってくるようなテンション。だがクロエは動じず、更に話を続ける。束がここまで浮ついている理由など、十中八九『あの男』に関することなのだから。
「織斑一夏に関して、なにかあったのですか」
「もー、相変わらず堅いねくーちゃん。そうじゃなくて……ん、ふふふ」
クロエの冷たい口調を窘める束の声は、内容を言い切る前に鼻孔から吹き出す笑いによって中断された。その気持ち悪さは、クロエの心の中にある束への神聖不可侵かつ絶対的な忠誠心をフィルターにして通しても、気持ち悪い、としか思えない程酷いものだった。
常日頃の束の思考は天才の名に恥じぬ広壮さで、クロエごときではとても追い切れないものだ。しかし、今の束の考えくらいなら、ほぼ完全に読み切れる自信が彼女にはあった。
要は、こう言いたいのだろう。
“パパ”と呼んでいいよ、と。
「……申し訳ありませんが、私は束さまの娘ではありませんし――つまりそれは、織斑一夏の娘でも無いということになります」
「えー、そうかな? 束さんはくーちゃんのママなんだから……ママなんだからつまり……くふ、くひひひひぃ」
一々自分の言葉で笑うくらいなら最後まで言い切って欲しい、という言葉が喉から出かけたことを、クロエは内心で猛省した。
だが、織斑一夏に対して“パパ”と呼ぶことは、流石に少し難しいとも思っていた。
確かに、束はクロエを拾った時から、彼女のことを自分の娘だと位置づけて扱っている。それはいい。クロエもクロエで、もう少し自分が生真面目でなく、12歳の平均より少しだけ甘えん坊だったら。束のことを遠慮なく、ママと呼んで憚らなかっただろう。
だが、その関係に一体、織斑一夏がどう関わるのだろうか。確かに束は一夏に恋焦がれているが、クロエとしては会ったこともない男性のことを父親と呼ぶ事は出来なかった。
「……では、一夏さま、と。これで束さまと平等でしょう」
「うん、そうだねっ、平等だねっ♪ 私といっくんは平等、同じ、一緒!」
その挙句の妥協案に少々都合のいい言説をくっつけただけであっさりそれに同調する辺り、今の束はその優秀な頭脳の0.01%程度も動かしていないのだろうとクロエは推測し、内心深く落ち込んだ。
つまりはこの主、すっかりきっかりはっきり、致命的なまでに色呆けしているのである。
「それで、束さま。一体どうしたのですか? 何やら楽しそうなご様子ですが」
「おー、聞いてくれるかいくーちゃん! 実は今週のIS学園一年生は、全員臨海学校なのだよ!」
「はぁ」
「そして、我が愛すべき妹の箒ちゃんが! ちょっと前に電話で自分の専用機をおねだりして来たの! ね、ね、どういうことだか分かるかなくーちゃん? ねぇ?」
「……つまり、束さまは『紅椿』の引き渡しを大義名分にして、一夏さまに会いに行くと」
「だいせいかぁーい!」
ぴっちり閉じた瞼の奥で、微かな痛みを感じるクロエだった。
なんですか、それは。もしかして、そういう副次的な理由を付けないと、織斑一夏に会いに行くことすら出来ないのですか。
その他様々な諫言がクロエの脳内で浮かんでいく。しかし彼女はおくびにも出さず、
「それは、よろしいことですね」
と言ったのだから、何とも賞賛されるべき忠誠心の持ち主である。
だが、そんな健気な努力も虚しく、束の妄言は更に加速する。
「そうでしょ! あはぁ、十年ぶりのいっくん、生いっくんだよぉ」
「失礼ですが、束さまは以前、学内のロッカーに忍び込んで一夏さまを監……覗き……いえ、ご覧になっていたと思いますが」
「いやいや違うんだなぁこれが。静止衛星で観測する、ISのセンサーでコンディションを端から端まで舐めるように記憶する、束さん特性スニーキング全身黒タイツでこっそーりお着替えを除くその他エトセトラエトセトラ。どれも全部魅力たっぷりなんだけどね」
尽く倫理に反している点である種天才地味た発言の後、束は結論をぶち上げた。
「いっくんに面と向かって『束さん』って呼んでもらうの! それもいっくんが驚くサプライズを仕込んで、ちょっとおどおどさせて『お、お久しぶりです束さん』って呼んでもらうんだ! あぁぁ、それに勝る幸せはないね!」
「――長年疎遠だった妹さまが束さまを頼って、漸くおねだりをしてくれたことに比べてもですか」
「もちのろんろん! 箒ちゃんは可愛い妹だけど恋敵だから、もう暫くは意地っ張りでいてもらわないとね☆」
そう言い切った後すぐドレッサーに向き合い、中断していた化粧(恐らくは数年振り)の続きを始める束の意識に、もはやクロエは存在しない。それどころか、すぐ脇に転がっている『紅椿』の最終調整をすることなんて考えもしていないだろう。
まだ見ぬ父親に対しては何も感じないクロエだが、まだ見ぬ叔母に対してなら、可哀想だ、と思う気持ちを心の底から抱けるのであった。
うちのクロエさんはこういうキャラです。
かっとんでる主人公の身近には、主人公寄りだけど常識的目線も出来るツッコミキャラが必要なのです。