* * *
生徒会役員選挙の時とは似ているようで違う、張り詰めた空気。それぞれの胸中が目顔や声に表れ、閉じられた空間の中で複雑に絡まり合っている。
「……とりあえず、座ったら?」
立ちっぱなしのままだったわたしとせんぱいを見かねてか、雪ノ下先輩が促してきた。
「そうだな……」
言葉を受け、せんぱいが椅子を準備し始めたのでわたしも倣う。そうして雪ノ下先輩の前にはせんぱいが、結衣先輩の前にはわたしが位置を取り、二人横並びで腰を下ろす。
直後、潤みを帯びて切なげに揺れる瞳とぶつかった。表情にはっきりと陰りが見えるのに、どこか穏やかにも感じ取れて。だからそんな結衣先輩が、優しいはずの人が、この時ばかりは少しだけ怖く見えた。
「……では、聞かせてもらえるかしら」
仄暗さが交ざった声で雪ノ下先輩が口火を切った。その声に結衣先輩は上下の唇を固く結び、わたしは瞳を右へと動かす。
「ああ」
間を空けずに、せんぱいがふーっと息を吐く。わたしも今まで再三やってきた、覚悟する時のせんぱいの癖。それはきっと、物語が次の章へと進む瞬間。
二月の、雪が降った入試の日から回ることのなかった歯車が、わたしという不純物を加えぎぎぎと音を立てながら、今、廻り始める。
「最後まで話を聞いてくれ。――それが、俺の依頼だ」
そして、止まっていた奉仕部の時間が、ようやく動き出した。
「……あのさ、ヒッキー」
閉じていた口を開き、結衣先輩が問いかけるような視線を投げかける。
「話って……あたしたちのこと、だよね……?」
そのまま発せられた言葉は、終わりへ向かうにつれてか細くなっていった。これ以上聞きたくない、けど聞かなきゃいけない、そんな心境が表情や声の端々から見て取れる。
「……そうだ」
「そっか……」
せんぱいが肯定すると、結衣先輩は力なく俯いてしまう。それもそうだ、面と向かって自身の願いを二回も否定されてしまうのは、わたしだってつらい。もし立場が違ったら……と考えれば、目を背けたくなってしまう。
「一つだけ、聞かせて」
ゆっくりと顔を上げ、結衣先輩が尋ねた。確かな意思を含んだ視線の先にあるのは、同じ種類の意志が灯った瞳。
「なんだ」
「これから言うことが、ちゃんとしたヒッキーの答えなんだよね?」
「もちろんだ」
結衣先輩の問いかけに、せんぱいは力強く頷く。
「……わかった、じゃあ聞く」
「由比ヶ浜さん……」
「大丈夫」
静観していた雪ノ下先輩が憂いを含ませた声を漏らすと、結衣先輩はかぶりを振って応えた。そのどこにでもあるありふれたやりとり自体は対して珍しいものじゃないけど、二人の間に交わされた言葉や仕草以上のものはちっともありふれたものじゃない。それがわかるのは、わたしがひねた価値観を持っていたからこそだろう。
友情や愛情なんて、かっこつけた上辺でかっこ悪い本音を隠して綺麗に見せかけるためだけに存在するもの。だから薄っぺらいし、嘘くさい。そんな凝り固まった考えをほぐしてくれたのは、奉仕部のこの二人で。
やっぱり、眩しいな……。目の前の友情と呼ぶに相応しい確かな“本物”を眺めながら、一人心の中で呟く。
「比企谷くん」
結衣先輩から視線を戻し、雪ノ下先輩が中断していた本来の目的を話すよう呼びかけた。
「……これから話すことは、俺の自分勝手な願望をただ押しつけるだけに過ぎない。でも、いくら考えたところでそれ以外の答えは結局浮かばなかった。だから、決めることができた」
その言葉を皮切りにして、ぽつりぽつりとせんぱいが語り始める。
「まず、雪ノ下の依頼。これに関しては、俺個人としてではなく奉仕部としてならできる限り協力するつもりだ」
「そう……」
前に結衣先輩から聞いた、雪ノ下先輩の『自身を見つけることに協力する』という依頼。他の人からすれば何を意味しているのかわからないだろうけど、わたしにはよくわかる。だって、指し示しているのはわたしにも当てはまってしまう欠点のことだから。
「次に、由比ヶ浜。……その、お前の気持ち的なもんには、薄々気づいてた。自分でも最低だとは思うが……悪い、受け取れない」
「……そっか」
結衣先輩の表情が、くしゃっと歪む。それはわたしも経験したことのある、独特の悲壮感が漂う雰囲気。
遠まわしではあったが、結衣先輩の想いは届かなかった。ステータスを求めて追いかけていたわたしと違って、結衣先輩は最初から本気だった分より重く、痛い。その傷を想像しただけで胸が張り裂けそうになり、思わず顔をしかめる。
「最後に、一色」
「……はい」
真摯な眼差しと声音に、スカートの上で手をぎゅっと握り締めて居住まいを正す。最後まで一言一句逃さず聞き届けるために。
「俺がこうして踏み出せたのは他でもない、お前のおかげだ」
わたしは何もしてません、という言葉は飲み込み、代わりに簡素な相槌だけを打つ。
「……あの時からずっと迷い続けていた俺の背中を押し続けてくれたのも、ふらふらしていた俺を支えようとしてくれたのも、いつもお前だった」
視線はそのままに、せんぱいがふっと口元を緩める。儚げに微笑む姿は、壊れていく関係を惜しみつつも先へ進もうとする決意が込められている気がした。
「俺なんかのためにプライドも体裁も捨てて、馬鹿正直に感情をぶつけてくれた。俺なんかと真剣に向き合ってくれた」
そんなこと、言わないでほしい。俺なんか、なんて、卑下しないでほしい。
「強引でむちゃくちゃなくせに、ひたむきでまっすぐで。俺を知ろうと、理解しようとそばにいてくれた。だから俺も、こいつのことをもっと知りたくなった。理解したくなった」
紡がれていくにつれ、目頭の熱と共に視界の霞みも増していく。
バカ正直に憧れたのも、追いかけ続けたのも、好きになったのも、知りたくなったのも、理解したくなったのも、真剣に向き合えてきたのも、もっと大好きになれたのも、全部、全部、せんぱいだから、せんぱいだったから、わたしは……。
「そして、いつしか一色に惹かれている自分に気づいた」
せんぱい以外、未だ誰も口を開かない。わたしへの想いを乗せた言の葉だけが、凍りついていた時間の中に溶けていく。
やがて、手の甲に滴がぽたぽたと落ち始めてしまった。わたしにとっては“約束”の再確認でしかないはずなのに、心が打たれて涙が止まらない。
そこで先輩はわたしから二人へ視線を戻し、小さく頭を下げた。
「散々待たせた挙句こんな答えで、雪ノ下と由比ヶ浜には申し訳ないと思ってる。でもそれがちゃんと考えて、苦しんで、悩んで出した俺の答えなんだ」
今のわたしの顔は普段から想像もつかないくらいぐちゃぐちゃで、みっともないことになっているだろう。けどそんなのはお構いなしに、もっと深く話に浸かり込む。
大切なもののために大切なものを傷つけて、大切なものから傷つけられるこの瞬間を、忘れないように、忘れられないように、記憶の奥底まで刻み込みたいから。
「三人とも俺にとって大切な存在に変わりはない。優劣なんかをつけたことはないし、つけたくもない。ただ、大切に思う気持ちのベクトルが変わっただけなんだ。それはわかってほしい」
「…………」
「…………」
「でも、それでも、お前らが納得できないと言うのなら、俺は……。俺、は……」
「ヒッキー」
不意に結衣先輩が遮り、せんぱいの言葉を閉じさせた。まるでその先を言わせてはいけないとばかりに。
「もう、いいの」
「……そうね」
瞳の端にうっすらと涙をたたえ、結衣先輩が大きくかぶりを振る。それを見た雪ノ下先輩は、苦笑にも似た微笑みをせんぱいへ向けた。
「……あの時以来かしら。あなたが、そんな顔をするのは」
はっとして袖口で目元を拭い視界を綺麗にすると、せんぱいの瞳にも感情の結露が浮かび上がっていたことに気づく。
わたしは慌ててポケットからハンカチを取り出し、優しく添えた。
「あ、悪い……」
拭うことができなかった反対側の目元を自身で拭いつつ、せんぱいが申し訳なさそうに吐息交じりで漏らす。わたしにはこんなことしかできないけど、ちょっとでもせんぱいの痛みを拭ってあげたかったから。
「……ヒッキー。あたしも、伝えたいことがあるの」
その光景を見て、結衣先輩が呟いた。
「由比ヶ浜さん、それは……」
「ゆきのん、言わせて。ううん、言わなきゃだめなの。だって、ヒッキーはちゃんと言ってくれたのにあたしが何も言わないままなのは、やっぱりずるいって思うから……」
「…………」
雪ノ下先輩は押し留めようとしたものの、結衣先輩に拒まれ閉口してしまう。
「ね、ヒッキー」
慣れ親しんだ、けど、誰よりも特別なあだ名で呼びかけた。その声音は優しく、力強い。
「……あたしは、ヒッキーが好き」
たった一言に、どれほどの想いを込めたのだろう。わたしなんかよりも遥かに長い時間をかけて育んだ、異性としての好意。もし、わたしが今も意図的に作られた偶像に憧れ追いかけ続けていたとしたら、実を結んでいたかもしれない愛情。
「知ってる。だが、さっきも言ったとおりだ。……すまん」
でも、解は出てしまった。だからもう、届くことはなくて。
「……うん、いいの。わかってる、からっ……!」
雪ノ下先輩がそっと抱き寄せると、結衣先輩は顔を押しつけ泣きじゃくる。寄り添い合い、支え合う二人の姿は痛ましいのに、やっぱり眩しくて、酷く綺麗で。
そんな時、視界の隅に空席の椅子が映り込んだ。所在なく置かれたままのそれは、時間と共に移り変わってしまった人間関係を物語るように、ただただ、悲しげに佇んでいた――。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!