皆が会議で盛り上がっていた頃、間桐桜の意識は、かろうじて現世にとどめている状態であった。
自室のベッドの中で夢現にまどろむは昨日の記憶。
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部屋で寝ているはずなのに、気がついたら何故か壮麗な城の中。影を二つ捕まえた。一人は目前で消えちゃったけど、大きいほうは離さない。
その影と私が触れ合うととても馴染む。自分が自分でなくなる感じ、心の穴に何かが埋まる感じ。
――――どろどろに溶けましょう。
誰もいなくなってさびしいので、夜の街へ繰り出す。風景はぼやけ声も途切れ途切れ。体は勝手に動き彷徨う。
ビルの立ち並ぶ中の公園。なにやら声をかけてくる影。さっきより小さい、まるで虫けら。だけど、うるさい、こわい、逃げ出したい。
逃げ出すと影は追ってきた。響く声が煩わしい。
――――くうくうお腹がなきました。
すると、影は先ほどとはうって変わって離れていく。声は甲高く裏返る。
――――虫を潰した。
影はすべて消えてしまった。
――――足りない、もっと、もっと、ごうごう、ごうごう。
建物を探す。影を見つける。声がうるさいので潰す。何度繰り返したのか数えるのも面倒になった時にそれは現れた。
「――精が出るな。目覚めたばかりだから腹が減ったか」
金髪赤目の美青年。それは何日か前家の前で一度だけであった人物。
『今のうちに死んでおけよ娘。早く死なないと。馴染んでしまえば死ぬこともできなくなるぞ』
そのときに自殺しろと忠告した黄金のサーヴァント。今出会ったら必ず殺される、怖い、怖い、怖い、逃げ―――
「言ったはずだぞ娘、死ぬことすらできなくなるとな。そして、人を裁く権利があるのは
でも逃がしてくれない。その男に何度も何度も何かを打ち込まれる。
――――痛い。痛い。痛い。痛い。助けて。助けて。助けて。先輩。先輩。先輩。
体は崩れ、ちぎれ、穴が開き、命が削れられ死にいたる、でも死にたくない、先輩と一緒にいたい、私が消えて姉さんと先輩が一緒になるなんて い や !
「きさま! よもやそこま―――」
夢はサーヴァントの断末魔の声で途切れた。
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桜が現実に引き戻されると、そこには銀髪の少女が立っていた。
桜は瞬時に理解した。彼女こそが本物の聖杯、金色の
「はじめましてマキリの聖杯さん。
私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。イリヤでいいわ。
まだ自分は残っている、サクラ?」
貴族の娘を思わせる丁寧なお辞儀をするイリヤに対して、桜は弱弱しく微笑むだけであった。
「ランサー、アサシン、バーサーカー。
この三つだけならよかったのに。何でそんな
それに、あなた調整も中途半端じゃない。まるで数日前に急遽方針を変えた感じ。
それじゃ今のままでも耐えられない……決断するのなら今日か明日のうちよ。
これから自分がどうなるかわかっている?」
その問いに桜は急速に冷静になっていく。
「――――知りません。どうなるんですか、わたし」
イリヤは自らと同じ運命を告げる。
「――――死ぬわ。絶対に、助からない」
銀髪の少女は金髪の青年と正反対のことを告知する。だが、これはまったく同じ意味なのであろうと桜は確信している。
◆
冬の昼は短い、まだ6時にならないのに薄暗くなっている。
その薄暗闇の中、桜は間桐邸の前に立っていた。
ほんの数日来なかっただけなのに、もう何年もここにいなかったような感じを桜は覚える。
体はあまり言うことが利かない、ライダーに支えてもらって、なんとかここまでこれることができた。
閑静な住宅地とはいえ、人の影は全く見当たらない。みんな、大量失踪騒ぎで外出を控えるようになっている。
もっとも、間桐邸自体もともと余り人が訪れない屋敷なのだが。
衛宮邸を抜け出すのはそう難しいことではなかった。
外からの襲撃には警戒しているが、中からの脱出には思考の範囲外だ。
唯一、イリヤスフィーィルだけが知っていたが、同じ立場としての共感か桜の意思を尊重してくれた。
だが、この行動を起こしたからには、家の住民が知ることになるであろう。そして、イリヤは衛宮士郎に桜の正体を告げるだろう。
それでも桜は感謝する。最後に人として死ねる権利をくれたのだから。
桜は家に入り居間を抜け秘密の扉を通り蟲倉へ降り立つ。
肉の腐臭とずるずると這いよる音が混ざった場所。その淀んだ空気だけで常人なら一分と居られない場所。
そう桜が十年以上ここで魔術の鍛錬を行ってきた忌まわしい、だが決して無視することはできない場所だ。
「桜よ。そろそろ来るころだと思ったわ」
陰湿で重厚な声が響く。奥にはいつの間にかこの館の主――間桐臓硯が佇んでいた。
腐敗の主は、口元をゆがめ嘲る。それは桜に対してか。自分自身に対してか。
「なるほどなるほど……小僧と縁が深くなる前に聖杯が満たされるとは。
目論見では衛宮の小僧への支配欲に合わせる算段であったが、こうも聖杯戦争が早く仕舞いになるとわな」
本来なら聖杯戦争に敗れ自暴自棄になっている慎二をぶつけ、桜に自らの意思で実の兄を殺させ絶望させる予定であった。
だがその慎二もこの家から出て行った上に、魔術の鍛錬で聖杯戦争どころではない様子だ。
「ことごとく
妖怪は不意に口を開き呵呵呵と笑う。
何度も桜を縛ってきたその笑い。だが、桜は今回は動じない。いや、動じてはいけない。もうこれが桜に残された唯一の手段、最初で最後の反抗だ。
「ライダーお願い」
「はい……」
この蟲倉の蟲をすべて殺して、臓硯と本体を潰せばいい。
だが、本体を潰したら桜も死ぬ。そういう場所に本体があるのだ。
それでも桜は惑わない。先輩を
ライダーが蟲を殺す。潰す。切り裂く。
ライダーの攻撃は慎二がマスターのときよりも、はるかに苛烈を極める。蟲をすべて動かぬ汚物と化すには、あくび程度の時間があればよい。
あとは最大の汚物――臓硯だ。
ライダーが釘剣を最後の目標に向けたその時――
「なにやっているんだよ桜! 早くこっちにも……」
――桜の兄。間桐慎二が階段上から現れる。
「兄さん……」
桜は狼狽した。この屋敷にはいないと聞いていたから乗り込んだのに……士郎、凛についで今の自分を見られたくない存在。
絶対に兄さんは私を罵倒し、詰り、殴る。兄のすべてを奪ってしまったあの日以来、それは決まりきったことなのだ。
狼狽し露になった弱い心が、押さえつけていた奥底の闇を解放する。
その瞬間信じられない――心の奥底では当然だと思っていた――ことが起こった。桜から影がのび、桜の意思とは関係なく人の目に留まらぬ速さで慎二に向かい、胴体に突き刺さる。
口から血を吐き兄の体が崩れ落ちる。その眼は驚きに満ちていたが、今までのように怒りや憎しみは一片もなかった。
だが、完全に混乱している桜には気づき様がない僅かな差異だった。
「――――あ……わ、たしが兄さんをころ……し――――」
この大きな隙を見逃さない妖怪ではなかった。
間桐は強制の魔術を得意としていた。だが事単一の効果については、ミーシャの呪文に及ばざるところもある。
支配の魔術は優れた魔術回路を持つものに抵抗されやすい。ましてや桜ほどに調整された魔術回路ならなおさらだ。
だが、彼女の呪文は違う、
臓硯はそこに着目し長年の研究の末、ミーシャの使用していたひとつの呪文を習得できていた。
――《
その研究に使った呪文書を慎二に見られていて、そのおかげで慎二は素早くミーシャの魔術を習得できていたのだが、それは臓硯の知る由ではない。
桜の精神が硬直していく、臓硯の意志が流れ込み全てを支配される。もう逆らうことができない。
ならばせめてと、桜は最後の力を振り絞りライダーに命令を行う。
「ライダー! 令呪を使います。逃げて!」
だが一瞬遅かった。ライダーがその言葉に反応する前に、大量に影によって出口が覆われる。
ライダーが桜を守るように前方にいたため、阻む形となってしまったのだ。
桜を倒すのならライダーは難なく逃げれたであろう。
だが、ライダーは桜を傷つけることが出来ない。ライダーにとって桜は全てなのだから。
逃げ場のない閉ざされた部屋に大量の影、しかもその影はサーヴァントにとって致命的、ライダーは桜を傷つけられない。
絶体絶命の中、戦いは開始された。
いや、単なる一方的な嬲り殺しだ。さらに無慈悲な命令がライダーを襲う。
「令呪によって命じる。動くな」
勝負は一瞬でついた。
間桐臓硯に思念により桜の口から最後の令呪が使用され、動かぬライダーの胸に影が突き刺ささる。
霊核は壊さない、このまま吸収して自らのものにし使役するためだ。
動かぬライダーの周りを影が取り巻くが、突如桜の体が一瞬にして前方に数メートル吹き飛ばされる。
それに引きずられるかのように影も吹き飛ばされ、ライダーから離れる。
吹き飛ばされた桜は、ダメージを受けているかも伺えない無表情のまま、壁に叩きこまれ孔を作る。
桜の後ろにいたのは神父服をまとった長身の男――言峰綺礼であった。
意外な人物に、臓硯は訝しげに問いただす。臓硯の知る綺礼ではありえない行動だと思っていたからだ。
「なぜじゃ? おぬしはこれの誕生を願っているのではないか?」
「ああ、願っている。だからこそだ」
綺礼は詠唱を唱える。執行者が得意とする聖句、洗礼詠唱だ。
そして、人食いを重ねに重ね
【私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。わが手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬものは一人もいない】
綺礼は臓硯との間合い10メートルほどを人にあらざる瞬発力で、一瞬で詰める。
【打ち砕かれよ。
敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。
休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる】
臓硯はなすすべもなく言峰に頭を鷲掴みにされ、そしてそのまま壁に叩きつけられる。
【装うなかれ。
許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生ある者には暗い死を】
この世とも思えぬ呪いの声をあげる臓硯を意に介さず、綺礼は祈りを続ける。
【休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう
永遠の命は、死の中でこそ与えられる。
――――許しはここに。受肉した私が誓う
――――"
最後の聖句とともに臓硯は、朝日を浴びた幻のように光に溶け込み。そして静かに消失した。
完全に浄化されたことを確認すると、綺礼はこのまま衛宮士郎に返すのも一興かと思案しながら桜のほうに目を向ける。
そこで、綺礼は目を見張る。桜が動き出す、そこの目には光がない。
神父という職業柄、人物観察を得意とする綺礼はいまだ桜は操られているままだと即座に判断する。
つまり、臓硯は死んでいない。
この場にいては危険だと判断した綺礼は、桜に向けて黒鍵を投げつける、だが、さも当然のように影が伸び事もなく弾く。
「さすがは五百年の怨念といったところか。容易に消せぬものよ」
そしてその隙に、ライダーと慎二を軽々と抱え人とは思えぬ速さで、綺礼は蟲倉から姿を消した。
それを見ても桜は追うこともせずに動かない。そして、その口から臓硯の言葉が漏れる。
「さあ、すべてを終わりにしようぞ」
―――かくして終末時計は動き出す―――